お月様にお願い! バレンタイン番外編

恋の赤ずきんちゃん

 突然、動きが止まった。血色がひどく悪い。
「シェリー、どうした? 大丈夫?」
 笑みが消える。シェリーは今にも泣き出しそうだった。顔をくしゃくしゃにする。
「大丈夫……じゃないです」
「えっ?」
「うつむいたら、急に目の前に紫の星がぐるぐる……」
 両手を口へと持ってゆく。顔色がみるみる土気色に変わった。
「うううう……」
「ちょ、も、もしかして!」
「……超気持ち悪いです……」
「えええええッ!?」
「……う……うう……吐きそ……ごめんなさ……」
「大変だっ!」
 呑気に襲われている場合ではない。ルロイは飛び起きた。焦って周囲を見回す。取るものも取りあえず、手近にあったタオルを掴んでシェリーの口元へ押し当てる。
「大丈夫? 気持ち悪い? うえってなる?」
 背中をさすってやりながら、力づけの声を掛ける。
「大丈夫だよ。無理しなくていいから、心配しなくてもいいから、すぐに水持ってきてあげるから。気にしなくて良いよ、ちょっと羽目を外しすぎただけだから、な?」
 シェリーは身体を震わせた。涙声でかぶりを振る。
「ううん……ごめんなさい……気持ち悪い……」
 激しく動揺した眼が、すがりつくようにルロイを見上げていた。よほど苦しいのか。眼に涙があふれんばかりに溜まっている。
「やっぱり、ご迷惑を、おかけして……」
 胸を突かれる。
 氷の手に心臓を掴まれたようだった。
 シェリーが、具合を悪くしている、と思っただけで。
 胸の奥にある大きなふいごが、激しく押し動かされたみたいにばたついた。息をつくたびに、胸が痛む。
「背中さすっていただいたおかげで……ずいぶん楽に……」
 シェリーは、魂の抜けたような吐息をついた。力なく眼を閉じる。
 脱ぎ捨てられた衣服のようだった。正体もなく倒れ込んでくる。
「シェリー!」
 とっさに手を伸ばして抱き止めた。
 シェリーはぐったりとルロイの身体にもたれかかった。金の髪の束がほつれ、頬に降りかかる。
 ルロイはあわててシェリーの様子を確かめた。
「大丈夫? 苦しい? 気持ち悪い?」
 背中をさすってやりながら何度も気つけの声を掛ける。シェリーは長々と息をついた。くちびるが息苦しげに半開きになった。胸が上下している。
「……ルロイ……さん……」
 シェリーの手が、だらりとすべり落ちた。振り子のように揺れる。
「シェリー!」
 ルロイは思わず息を止めた。焦って寄せた耳元に、すぴー、すぴー、と無邪気な寝息が聞こえた。眼をみはる。
「びっくりした……寝てんのかよ……!」
 どっと全身の緊張がほぐれた。力が抜ける。ルロイは情けない声を上げて笑った。
「……まったく、心配させてくれるよ」
 ほっと胸をなで下ろす。ルロイはおもむろに身を起こした。苦笑いを浮かべ、シェリーの身体の下に腕を差し入れる。
 よいしょ、とかけ声を上げて抱き上げる。
「……あやうくマジで発情しちまうところだったじゃねえかよ」
 軽々と抱いて、隣の寝室へと連れて行く。
 陽に干してふんわりさせたマットレスに、下着姿のままのシェリーの身体を横たえる。シェリーはくしゃくしゃの金髪を寝乱れさせて、くすくす肩を揺らして笑った。どうやら良い感じの夢を見ているらしい。
 枕を整えてやり、シーツを伸ばし、毛布をシェリーの肩の上にまで引っ張り上げる。
 ルロイはベッドの端に腰を下ろした。シェリーは、子どものように身体を丸めて眠っている。
 いじらしい寝顔を見下ろす。
「俺にわざと酒を飲ませようとしたりして。いったい何を企んでたんだ? 君は?」
 目元にかかった前髪をかきあげてやるついでに、つん、と指先でほっぺたをつつく。シェリーの赤くなったほっぺたが、ルロイがつつくたびに、やわらかく形を変えた。
「ああん……ルロイさん……」
 シェリーは寝返りを打ち、こてん、と横向きに手を伸ばす。鼻にかかったおぼつかない声がむにゃむにゃと甘くからみついた。
「くああ、やっぱ可愛いな、シェリーは! ぞくぞくする!」
 誰もいないのに、きょろきょろと周りを見回す。
「くっそ、マジでやっちまいたい……!」
 毛布がはだける。
 白い素肌が眼に飛び込んだ。
 下着の肩の紐がほどけて、しどけなくゆるんでいる。
 なだらかな起伏を描くおなか。フリルのついたかぼちゃぱんつ。無防備な内もも。やわやわとした、満月みたいな胸の丸みがふたつ重なって、むにゅぅと重力で押しつぶされ……
 ルロイは熱い息をついた。いらいらと手をこすり合わせる。
「まったく……不用心にも程が……」
 乾いた下唇を何度も舐める。狼の瞳が、燃えさかるような荒々しい野性の光を帯びた。
 ゆっくりと忍び寄るように、シェリーを組み敷く。
 近づこうとして、鼻をくんとうごめかせる。ルロイは顔をそむけた。首筋のうぶ毛がちりちりと逆立つ。
「……くそっ、やっぱり、まだ人間のオスの臭いがする」
 鼻に皺を寄せ、息を止めて首筋に唇を押し当てる。喉の奥から唸り声が洩れた。
「ああ、くそ、邪魔だ! いらいらする! シェリーが俺以外の男の臭いをつけてくるなんて、そんなの、絶対に、その、何だ……つ、つ、付き合ってる身としては許せないぞ! 今日だけは仕方ないから仕方なく許してやるけど、その、次からは絶対に、手を出したヤツはガツンと殺ってやるからな! シェリーは、俺のなんだからな」
 眠るシェリーの身体を、熱気でくるみ込むようにして抱きすくめる。
「二度とそういうことされないようにしるしでも付けとくか……? 首筋に噛みついて、舐め回して、いっぱいキスマークつける、とか? ああ、駄目だ、そんなことしたらあざになっちまう……」
 優しく髪を撫で、指で梳かして、うっとりと頬を手挟む。
「ああ……やべえ……想像してたらマジでムラムラしてきた……! くそ、めちゃくちゃヤリたい……!」
 ルロイはぞくぞくと濡れた犬のように全身を振るわせた。首筋の根本の毛が、ざわざわと逆立つ。喉の奥から、欲望の唸りが洩れた。
「ヤバイ、挿れたい……止まんねえ……あああ、勃つな、馬鹿!」
 ぶるっ、と震えるなり、自分で自分の頬を力いっぱい平手打ちする。
「痛えっ! 駄目に決まってるだろ! シェリーの具合が悪くなったらどーすんだよ! 馬鹿じゃねえの!? 我慢するって決めたんだから我慢しろ、俺! オスは据え膳食わねど高楊枝だ!」
 言いながら、両手で何度も顔をひっぱたく。
「駄目、駄目だって、目を覚ませ、俺! マジで駄目だってば! 今発情しちまったら守れなくなる……」
 ルロイはシェリーの身体を抱き寄せた。首筋に唇を押し当て、力を入れずに噛む。
 傷一つつけぬように、ほんのわずかだけ、牙を食い込ませる。
「でも、俺のものだっていう、印……全身に……痕をつけたら……めちゃくちゃ興奮するよな……?」
 黒い瞳に、悶えるような欲望が走った。金色の欲情がゆらめく。
「ううん……?」
 ルロイの声に反応したのか、くすぐったそうにシェリーは身をよじった。
 なまめかしい肌の色が、ちらり、ちらり、眼を射る。
 生唾を飲む。ごくりと喉が上下した。
「んー……」
 シェリーは、とろんと鼻にかかった声を上げた。睦言まじりの微笑みを浮かべ、ルロイに寄りそう。
「うふふ……やりました……計画はだいせいこうです……ふふふ……?」
 腕を首にからめて、うっとりと寝言をつぶやく。
「明日は……二人にとって大切な……はじめての記念日ですもの……何とかして……うまくむにゃむにゃ……」
「記念日?」
 ルロイは、のしかかった体勢のまま顔をこわばらせた。ぎょっとした表情で身を退く。
「大切な……? 何だ? 誕生日か? いや、違う、出会った記念日とか? それも違う。え、ちょっ……待って、いったい何の記念日だ? ……まさかのエロ解禁記念日とか? あああ、んな馬鹿な! 俺じゃあるまいし」
 ベッドに正座し、思い当たることすべてを一つ一つ口に出して、指折り数えてみる。
「うわ、やべぇ、マジ分かんねえ……!」
 ぐしゃぐしゃ頭をかきむしって、ない頭を必死に絞る。
「やっべぇ……まるで俺が最低な男みたいじゃないか! あああ、マジで最低だ! そっ、そうだ、何とかバレねえように適当に相づち打って話を合わせ……って! うわあ! もっと最低じゃん!」
 頭を抱え、ごろごろと身悶える。
「そう言えば……」
 気落ちしたまなざしを眠るシェリーへと向ける。
「さっき、俺に喜んでもらいたいからいろいろ用意してたとか……言ってたよな」
 かすかに青ざめる。
「もし、明日が何の記念日なのか全っ然覚えてない、ってバレたら……」