お月様にお願い! バレンタイン番外編

恋の赤ずきんちゃん

 キッチンへ目を向ける。戸棚の前で汗を掻いてあたふたしていたシェリーのことが思い出された。
「……悲しむだろうな」
 ルロイが部屋に入ったとたん、戸棚をあわてて閉めて、あわただしく話をそらして、何かを隠そうとして。
 本音を言うと、戸棚に隠そうとしたものが何であれ、それが無害であることは分かっていた。実際、部屋に残っていたのは食べ物や香水、新聞のインクや薬といった雑多な匂いばかりであり、事細かにあげつらって問いつめたり、秘密を暴き立てる必要はどこにもなかったのだ。
 なのに。
 シェリーの寝顔を見下ろす。表情が陰影に秘め隠された。
「あの野郎のことが気になって……変に嫉妬したりしたから、だよな。シェリーは何の関係もないのに」
 やりきれないため息がもれる。せっかく、あれこれ楽しみにして準備してくれていたのだろうに、きっと、そのせいで、本当のことを言えなくなってしまったに違いない。
 ルロイは声を落とした。
「記念日、か」
 ぼんやりと目線を彷徨わせる。明るいダイニングの壁に、手作りのカレンダーが見えた。丸い輪の形に結んだ花で飾られた、何かの予定を表す印。
 ルロイはいらいらと耳の後ろを掻いた。苦々しい表情を浮かべて指の背中側を噛む。
「ああ、くそ、やっぱ分かんねえ! いったい何の記念日なんだ? いや、待てよ……記念日?」
 はっと顔を上げる。
 赤い花の飾り。
 ハートのしるし。
 突如、いい考えが閃いた。
「そうだ、それがいい! あいつらならもしかしたら知ってるかもしれないしな。うん、きっと知ってる」
 あわただしく周囲を見回す。
「えっと、間に合うか? 今何時ぐらいだ? くそ、月がねえから時間が分かんねえ! 急げば何とかなるか?」
 善は急げ、とばかりに、キッチンへすっ飛んでゆこうとする。
「……でも」
 ルロイはその場でつんのめった。立ち止まる。
 耳を立て、用心深く周囲の音を探る。
 山から吹き下ろしてくる冷たい風が、波飛沫のような雪を降らせていた。どうどうと荒れ狂う音が包み込んでいる。家全体があおられて、揺れ動いて、今にも飛ばされそうだった。
 ルロイは無意識に窓の外を見た。首に掛けたチョーカーをまさぐる。
「今、外に出て……大丈夫か?」
「んふふふふ……明日は……一年で一番がんばっちゃう♪ 特別な日……♪」
 シェリーはむにゃむにゃと寝返りを打った。ほっぺたにほつれた髪がくっついている。
「寝言でまで歌ってるとか、どんだけ楽しみにしてたんだよ」
 ルロイは苦笑いした。きびすを返し、ゆっくりと歩き戻ってきて、シェリーの枕元に屈み込む。
 手を伸ばし、寝乱れた髪を直してやる。
「こんなにニコニコして。よっぽど待ちかねてたんだな。ごめんな、俺、何の日か分かってなくて。でもさ、シェリー」

 幼い頃の、苦い情景が思い浮かんだ。
 首に焼き付けられた血みどろの印。動物として。家畜として、奴隷として──飼われていた。
 自分が何者であるかも教えられなかった。ろくに言葉も分からず、文字も読めず、ことある事に鞭打たれ、血まみれになるまで殴られた。檻の向こうの世界は、腫れ上がったまぶたの向こうにしかなくて、いつも斜めにゆがんでいて、すさみきった赤錆の色をしていた。
 そんな、憎たらしい鉛色の世界に。
(……ねえ、あなた、そこで、なにしてるの?)
 突然、陽の光が差し込んだ。すべてが命の色を、喜びの息吹を取り戻して、きらきら輝き始めたみたいだった。真っ青な空が、真っ白な雲がどこまでも続いているのが見渡せるようになった。
(あたし、シェリーっていうの! あなたのなまえは?)
 その少女が、手を差し伸べ、微笑んでくれた、あの日から。

 そんな過去の面影と、現代のシェリーの寝顔とが、淡い明かりのもとで重なる。
「”人間”を憎んでた俺の前に、あの日、君が現れてくれたことも、今の君がこうやって俺と一緒にいてくれるのも全部……俺にとっては本物の奇跡なんだ。あの日から続く毎日がずっと、”君と巡り逢った記念日”なんだよ」
 ルロイはかすかに微笑んだ。赤く染まったシェリーの頬に触れ、そろりと撫でる。
「……やっぱ行かないとな。俺は毎日が幸せ回路全開だからいいけど、シェリーにとっては明日こそがいちばん大切な”記念日”なんだもんな……守らなきゃ、な」
 抵抗のない小指に、自分の小指を絡めて指切りする。
「大丈夫だよ、すぐ戻ってくる。明日の朝までには必ず。二人で一緒に、最高の記念日を迎えようぜ?」
 金のチョーカーをはずし、ぎごちない手つきで眠れる王女の首につける。
「……誰にも邪魔はさせない」
 音をさせないようにそっと後じさって離れる。
 ルロイは寝室の戸を閉めた。立ち去る。
 明かりが届かなくなった。
 寝室は暗がりに包まれる。三日月の形をした光がシェリーの胸元でまたたいた。
 シェリーはひとり、すやすやと眠っている。
「うふふ、今のうちです……」
 寝言をつぶやく。
「ルロイさんが寝てる間に……ぁぁん……やだぁ、えっち……そんなところ……ぁぁんっはずかしいです……きゃっ……?」