お月様にお願い! 番外編 恋の赤ずきんちゃん

月の民の王ロード・ネメド

 ロダール伯トラア・クレイドは、木立に包まれた屋敷へと戻ってきた。襟の奥に押し込んだ白いマフラーが露に濡れている。金の巻き毛が風にさらわれ、強くなびいた。
「ずいぶんと風が強くなってきたな」
 近づいてきた主馬頭に愛馬の手綱を手渡し、軽快な靴の音をさせて灰色の石階段を上がって行く。玄関前に出迎えの家令が佇立していた。
「おかえりなさいませ、旦那様」
 クレイドは羽付の帽子を無造作に投げやった。白髪の家令は、飛んできた帽子を事も無げに受け止めた。慇懃に頭を下げる。
「遅くなって済まない、ヨアン」
 クレイドは空を振り仰いだ。
「さきほど捕らえた若者はどうした?」
 空はすでに夜の色に塗り込められている。月は見えない。森から吹き下ろしてくる風はみぞれを含んで、凍り付いたように重かった。足元の石段も黒く冷たく濡れている。家令は無表情に答えた。
「旦那様のお戻りを待つよう申しつけて、屋敷内にとどめ置いております」
「罪人といえど我が領民だ。ひどい扱いをしていないだろうな」
「そのことなのですが」
 クレイドは家令の開けたドアをくぐった。
 大胆に広間を突っ切り、部屋へと向かう。家令は顔色一つ変えず付き従った。
「その者の素性につきまして、少々、お耳にいれたきことが」
 クレイドは冷たく濡れた手袋をはずした。一歩歩くたびに魔法の手がするすると伸びてきて、濡れた上着を暖かく乾いた快適な室内着へと着替えさせてゆく。
「聞かせてもらおう」
 クレイドは玄関ホールを抜けた。シャンデリアの下がった天井を横目に、赤いカーペットを敷きつめた階段を上がってゆく。磨き抜かれた手すりがつややかな光を反射する。
 ふと、眼を止める。画廊の彫像におずおずと隠れるようにして、メイドが一人立ちつくしていた。涙でくしゃくしゃの顔をあげる。
旦那さまミ・ロード
 クレイドの姿を認めるや、身体を震わせて声を呑む。
「申し訳ございません、弟が──カイルが、馬鹿な真似をいたしまして」
 両手を揉みしぼり、ひざまずいて頭を下げる。
「娘、そなたは名を何という」
「エマと申します、旦那様……本当に申し訳ございません」
「弟だと?」
 クレイドは怪訝なまなざしを家令へと向ける。家令が仏頂面で後を引き取った。
「村でよろず屋を営んでいる寡婦フーヴェルの息子だそうでございます。この娘はその姉で、エマと。よく働く真面目な娘です」
「そうか。さぞや心配であったろうな」
 クレイドは悠然と微笑みかけた。手を取って立ち上がらせる。エマの胸元には質素な革ひもの首飾りが下がっていた。
「弟のことは私に任せたまえ。事が成就した暁にはきっと無事に帰れるはずだ。そなたの働き次第では、だがな」
 手慣れた仕草で娘の手を両手で包み、揉み込むようにして握りしめる。クレイドの笑みは、純朴な娘には破滅的とも言える優しさだった。
「……旦那様」
 エマはにたじろいだ。若く美しい領主に手を握られて平気な庶民の娘などいようはずもない。言葉を忘れ、涙に濡れた頬を赤く染め、あわててうつむく。
「どうか、お慈悲を賜りますよう」
 声が震えている。
「案ずることはない。簡単なことだ。母親にひとこと伝えるだけで良い」
 まるで他愛のないゲームを思いつきでもしたかのようだった。冗談めかしてさらりと口にする。
「もし、次に”あの娘”が村を訪れたときは即座に知らせを寄こせ。そうすればカイルは無事に帰してやる。だが、もし命令に背き、”あの娘”を取り逃がすようなことがあれば……」
 クレイドは舌打ちした。エマは言外の意味に気付いて蒼白になった。声も出ない。
「私に命令されたことは誰にも口外してはならぬ。弟本人にも、だ。お前に命じたことをカイルが知れば、逆にどうなるか分かっていような」
「はい」
「そなたの為すべき事を、声に出して言ってみろ」
「わたし……の……」
 言いかけて絶句する。エマは唇を噛んだ。
「申し上げられません」
 震える拳をかたく握りしめる。
「私の命令でもか」
 指先にエマの首飾りを引っかけてもてあそびながら、クレイドは残酷に念を押す。エマは涙をためた眼で深々とお辞儀をした。
「それがご命令です」
 クレイドは声を上げて笑った。エマの肩を抱き寄せる。
「もっと近くへ寄るがいい」
 胸元に手を差し入れる。
 エマは冷たい手にびくりと身体を震わせた。恐怖に顔を凍り付かせる。
 クレイドは娘の膝が震えるのを面白そうに眺めた。
「それで良い。そなたは家族思いの賢い女だ」
 革ひもの首飾りを平然と引きちぎる。
「外はひどい嵐だ。代わりにこれを巻いてゆくといい」
 巻いていた白いマフラーをほどいて、エマの首に掛けてやる。残酷な柔らかさが首にまとわりついた。真綿のように首を絞め上げてゆく。
「行け、エマ・フーヴェル。行って、そなたの為すべき事を為すのだ、我がしもべとしてのつとめをな」
 クレイドはこの上もなく優しく微笑みかけた。震える背中を、強引に任務へと押しやる。
 エマはつんのめるようにきびすを返した。ふらつく。その顔は仮面のように青白かった。
 走り去ってゆく後ろ姿を、家令が見送った。苦々しくかぶりを振る。
「心にもないことを」
 クレイドは乳房の感触が残る手をこすった。狡猾な笑みで応える。
「……見目よし形よし触り心地よし。見たか、あの顔? 今にも泣き出しそうだった」
「おたわむれを」
「長年、とげとげとした宮廷暮らしで窮屈な思いをしてきたせいか、性根までがひねくれてしまったようだ」
 クレイドは鼻の先で笑った。きびすを返し、歩き出す。
「……うるわしの女王をいただく栄光の都。だが華やかであったのは往年の話。今は見る影もなく打ち萎れている。宮廷に蔓延るのは権力に媚び、利権に群がる亡者ばかり。美しく飾られた花壇と思って眺めても、ひとたび掘り返してみれば作物を荒らすなめくじの巣窟そのものだ」
 画廊を通り過ぎて行く。
 飾られた絵画は、美しい乙女を描いた肖像画が大半だった。膝に手を置き、たおやかに微笑む金髪の少女。乙女に抱かれた赤子。緑萌えいずる草花。白、赤、金。百花繚乱の百合が壁一面の絵画に咲き乱れている。
「”あの事件”のせいで、女王を支持する【白百合ブラネ派】は皆、閑職へ追いやられ、次はいつ、誰が罪に問われるかとおびえ、ちぢこまるばかり。今や絢爛たる王国の人心を支配するのは王弟妃ユヴァンジェリンの【黒百合ノワレ派】。女王位の正統なる継承者である王女が行方不明となった今、【黒】の勢力はますますいや増し、一族にあらずんば人にあらずといった勢い」
 無礼な家令の物言いをとがめるでもなく、クレイドは冷淡な表情を向けた。口の端がひそやかに吊り上がる。
「その通り。だが、ユヴァンジェリンは勝利を急ぐあまり致命的な失敗を犯した」
 家令がうやうやしく頭を垂れ、クレイドの自室の戸を開ける。クレイドは部屋に入った。
「カイルを呼んでくれ」
 家令はうなずき、姿を消す。クレイドは窓辺に近づいた。カーテンを開け、白くくもったガラスを指でぬぐう。
「……夜半には雪になるな。積もらなければいいが」
 執務机に新聞がきちんと折りたたまれて重ねられている。家令がわざわざ取り寄せたものだろう。クレイドは一番上の一紙を取った。音をさせて大きく広げ、眼を走らせる。
「”バルバロの反乱”、”強攻策をとるも歯止め効かず”、”要人誘拐相次ぐ”、”王女ご不例か? 民の前に姿現さず” ”暗殺計画発覚!”、”黒百合派、戦争も辞さずと主張”」
 次の新聞も、その次の新聞も勇ましい見出しが躍っている。
「アドルファーめ」
 怜悧な微笑みがガラスに映った。
「……好き放題やってくれる」
 家令が罪人を連れて戻ってくる。クレイドはガラスに映った若者を注意深く観察した。カイル・フーヴェル。先ほどのエマの弟だという青年だ。村で評判のパン屋だが、今は──
 両手を後ろに縛られ、口に猿ぐつわを付けられて、がたがた震えていた。
「う……!」
 恐怖に血走った目がクレイドの背中を見つめている。
「そんなに怖がることはないよ、カイル。我々は仲間同士になれる。腹を割って話そう。君に折り入って頼みたいことがある」
 にこやかに声を掛ける。読みかけの新聞を折りたたみ、机へと投げて戻す。
「この屋敷に君の姉上……エマと言ったかな? 彼女が奉公に上がっているのは知っているね?」
 強い風が窓にぶつかった。外はみぞれの吹き荒れる嵐だ。
 コートを着込んだ娘が、カンテラを手に、屋敷を飛び出してゆくのが見えた。
 突風に揺すぶられ、がたがたと窓枠が揺れ動く。
「美人で、可愛い姉さんだ。ところで彼女には将来を約束した恋人はいるのかな?」
 低く笑う。
「もちろん、いるだろうね。いったいどこの誰かな、そんな羨ましい男は。だが、君が”あの娘”の後をつけ回し、あわよくば手込めに──強姦しようとしたのと同じように」
 クレイドは、冷ややかなあてつけの声をガラスに反射させた。
「メイドとして自分に仕える美しい娘の抱き心地を確かめもせず、みすみす他の男へくれてやる主人がいると思うか?」
 カイルは恐怖に全身をわななかせ、うめいた。弁解の言葉もない。ただ、何度も首を振る。
「いや……”他の人間”にくれてやるならまだしも、と言うべきかな」
 クレイドは謎めいた薄笑いを浮かべ、振り返った。