お月様にお願い! 番外編 恋の赤ずきんちゃん

月の民の王ロード・ネメド

「やれやれ、すげぇ雪だな。前ぜんぜん見えねえ」
 渦巻く吹雪が暗闇に白く浮かび上がった。木々が呻きを上げ、枝葉をよじれさせる。山全体が底光る深い雪のとどろきに飲み込まれたかのようだった。
 ルロイは膝まで雪に埋もれながら山道を登っていた。人間なら一晩で凍り付いてしまうであろうこの寒さも、強靱な肉体を持つバルバロにとってはさほどの障害ではない。
 バルバロの村はルロイたちが住む元の村よりずっと山奥にある。人間との争いから逃れ、森の奥へ奥へと生活の場を求めていった結果だ。
 切り立った絶壁をジグザグに跳ね飛んで頂上へ上がる。崖の懐にへばり付くようにして、いくつもの丸太小屋が立ち並んでいた。
「おーい、起きてるか、グリーズ」
 ルロイはとある一軒の家の前に立った。雪に埋もれたドアをノックする。軒先にぶ厚く積もった雪が、風にあおられて、どさりと地面に落ちた。時間が時間だけに、返事はない。
 と思いきや。家の中から鼻にかかった甘い喘ぎ声が聞こえた。
「丸聞こえじゃねえか、あの野郎」
 気まずさにぴしゃんと額を叩く。ルロイはかまわずに入り口の戸を押し開けた。ずかずかと突き進む。
「おい、グリーズ! 生きてるか?」
 片っ端から部屋の戸を開け、声を掛ける。
「たすけて……」
 奥の寝室から弱々しい声が返ってくる。
「ああん、だめよ、グリーズリー。ちゃんとこっち見て」
「駄目だって、もう、これ以上ヤったら死ぬ……!」
「嫌。もっと優しくキスしてくれなくっちゃ。さもないと、二度とここから出してあげないんだから」
「あっ……やめろよ、もう、アルマ……ああ、気持ち良すぎて、あ、うっ……それ以上しごかれたら、潰れる、う、うあああああ、あ、あ、もう出ないって言ってるだろ、無理だって……ひいっ……あああ出ちゃうよ……うっ!!」
「うふふ……? グリーズのうそつき。ほら、見て? まだ、こぉんなにたっぷり、濃いミルク出ちゃってるじゃない……?」
「違うよアルマ……それはミルクじゃなくて血だって……げふっ!」
「……まったく何やってんだか」
 真っ暗闇の部屋へとルロイは平然と踏み込んだ。暗闇の中で、丸くふくらんだ巨大な影が上下に動いていた。
「ちょっと来い、グリーズ。話がある」
「何よルロイ。何か用? わたしたち今いいところなの」
 甘ったるい猫撫で声にも構わず、ルロイはアルマの股の間に手を伸ばした。ひからびたグリーズリーを探り当てる。
「ぁぁ……ルロイ……たすけてくれ、これ以上ヤったら俺は死ぬ……!」
 グリーズリーは半死半生でよろよろとすがった。
「ずたぼろだな」
 力任せに引きずり出す。
「ねえ、ちょっと、連れて行かれちゃったら困るんだけど。それとも、あんたが代わりにあたしを抱いてくれるの?」
 煽情的な香りを漂わせたアルマが近づいてくる。たっぷん、たっぷん、水の揺れるような音が聞こえた。濃密なメスの匂いが立ちこめている。
「悪いけど俺にはシェリーがいるから」
 ルロイは平然と断った。アルマは婉然と微笑む。
「ふうん、無理しちゃって。明日、何の日だと思ってんの?」
 アルマは寝乱れた髪を耳元から掻き上げた。眼を伏せ、甘ったるい吐息をもらす。
「あんた、満月前だからって馬鹿みたいに興奮しすぎて、シェリーちゃんに交尾断られたんでしょ。もう、馬鹿ねえ」
「逆だよ。こっちにも事情があるんだ」
 ルロイはかついできた獲物を、テーブルの上に下ろした。アルマが目を輝かせる。
「あら、おいしそうね。戴いちゃっていいのかしら」
 舌なめずりしている。どうやら気を引くことに成功したようだ。その隙にルロイはグリーズリーを肩に担ぎ、後ずさった。
「よし、今のうち。こいつはちょっと借りるぜ」

「こんなこともあろうかと、こっちに来るついでに狩りしてきて良かった」
「悪い。恩に着る」
 ふりしきる雪の下。
 グリーズリーは裸の身体に毛皮の胴着を直接羽織っただけの格好でぐったりと座り込んだ。
 哀れにも頬はげっそりとこけ、皮膚は涸れ、眼はどんよりと黄色い。まさに土気色だ。
「まあ、どうせそんなところだろうと思ってたけど」
 ルロイは肩をすくめた。
 グリーズリーは返す言葉もない。
「いいからちょっとそこで待ってろ」
 ルロイはかろうじて雪を遮る程度の屋根しかない屋外の調理場を借りて、慣れた仕草で獲物をさばいた。切り分けた肉の塊を直接、焼き串にぶっ刺して、たき火のかまどに差し渡す。
「わあ、おいしそう!」
「食べたーーい!」
「良いにおーい!」
 匂いに誘われたのか、どこからともなく歓声が沸き上がった。年の頃もてんでばらばらなバルバロの子どもたちが駆け寄ってくる。
 皆一様に鼻をくんくんさせ、つまみ食いしたそうなうずうずした笑顔でルロイを見上げている。
「何やってんだ、お前ら。今何時だと思ってる」
「朝ー!」
「夜ー!」
「ごはんの時間ー!」
 鈴なりになってルロイの足元にじゃれつく。
「……要するにいつだって腹空かしてんだな」
「こいつらのぶんはいいよ。ロギばあさんちで飯は食わせてもらってるからな。足りないぶんは後で俺が自分で狩りに行く」
 グリーズリーは骨と皮だけの顔をげっそりさせて言った。普段のグリーズリーは、バルバロにしては優形の気弱な青年だが、今は見る影もない。
「つまんねえ遠慮すんなよ。ガキは飯を腹いっぱい食うのが仕事、親はてめえのガキを腹いっぱい食わすのが仕事だ」
 ルロイは笑って肉を指さした。
「あいつらにもありったけを食わしてやるから、気にせずてめえも食えよ、グリーズ」
 骨付きの肉を押しつけるように手渡す。グリーズリーは無意識に舌で唇を舐めた。餓えた眼がぞくりと輝く。
「でも、そこまでお前に世話になるわけには……」
 無意識に身を乗り出したのに気付いたのか、気後れしたように再び座り込む。ルロイは首を振った。どんと背中を叩く。
「いいからガキどものために黙って食え」
 グリーズリーの黒い目が光った。喉仏が上下する。
「すまん、ルロイ」
 眼にも止まらぬ速度でルロイの手から肉を引ったくる。よほど腹が空いていたらしい。がつがつと貪るように食い始めたグリーズリーを横目に、ルロイはあきれた声を上げた。
「凄え食いっぷりだな、グリーズ。お前いつから飯食ってねえんだよ」
 グリーズリーは答える時間も惜しいのか、何も言わないままエールをジョッキ一杯、一気に飲み干した。ぷはあっと息をついて口の端に付いた泡を拳の背で拭う。
「一週間」
「はあ? マジかよ!?」
 ルロイは眼を丸くした。
「ルロイ兄ちゃん、にくー!」
「にくくれにくー!」
「食わせてくれないといたずらするぞ!」
 子どもたちが待ちきれずにぶうぶうと不満を漏らし始める。雪玉までが雨あられと飛んでくる始末だ。ルロイは手を振って雪玉攻撃を払い落とした。
「うるせえ! 分かった。おいガキども。整列しろ。前から順に番号と欲しい量を自己申告。これは本当はてめえらの父ちゃんに精を付けさすための肉だからな、ちょっとは遠慮しろよ」
「いやもう精はこりごり……」
「一列縦隊、集まれ!」
「アイ、サー!」
 子どもたちは押し合いへし合いしながらも順序よく結集し、きりっと並んだ。全員が既にお皿を手にしている。ルロイはその様子を微笑ましく見守った。
「よし、点呼始め!」
「一番、オルレウス! にく山盛りください!」
「二番、アデリナ! にくデカ盛りください!」
「三番、ジャンニ! にく特盛りください!」
「……あえて聞く意味なしかよ」
 塊の肉を炎の上に直接かざし、表面をじゅうじゅうと炙ってからそぎ落として取り分ける。子どもたちは山盛りになった焼き肉の配給を受けると、嬉しそうにロギばあさんの家へと戻っていった。
「それにしても一週間飲まず食わずで交尾って」
 ルロイは苦笑いした。グリーズリーはしょげた顔で頭を掻く。
「いやあ、ついうっかりして」
「うっかりにも程があるだろ。いい加減学習しろ」
「そう言うなよ。俺だって馬鹿じゃねえ」
 グリーズリーは肉を平らげた後の骨を、名残惜しそうにしゃぶった。
「今月だって、少しは理性を保とうと努力したんだぜ? アルマの尻を見ないですむようにな。なのに、ちょっと油断した隙に、いきなり後ろから襲われて押しつぶされて部屋に閉じこめられて、いつもの勢いでガンガン迫られてさ」
「少しは抵抗しろよ」
「五分持たなかった……」
「……相変わらず無駄に強烈なフェロモン振りまいてんのな」
 ルロイは遠い目でつぶやいた。アルマは決して器量よしではないし、スタイルもかなり豊満すぎるタイプだけれど、交尾がとにかく好きで好きでたまらない、らしい。満月ちかくになると、強烈なフェロモンを発散しながらグリーズリーを襲いに来るのである。
 グリーズリーはどんよりして膝を抱えた。暗い顔を埋める。
「無駄って言うなよ……あれはもう魔術みたいなもんだよ。ふらふらってなって、気が付いたら夢中でやっちまってんだ」
「一週間監禁されて交尾させられまくってたくせに、真顔でのろけてんじゃねえよ」
「そうは言うけど、アルマに力ずくで押さえ込まれたらお前だって抵抗できないから。上に乗られた時は、マジできんたま潰されるかと思って血の気引いたし」
「お前の場合は、貞操帯より何よりまずきんたまを守るための鉄パンツを履いた方がよさそうだな」」
 グリーズリーは顔を引きつらせた。アルマの体重はたぶんグリーズリーの三倍はある。
「鉄おむつか……究極の羞恥プレイだな」
 グリーズリーは肉の油が残った指を舐めた。
「鍛冶屋に注文しておいてやろうか」
 ルロイは苦笑いしながら慰めとも励ましともつかぬ言葉を掛ける。
「いいよ、逆にもっとひどいことになる予感しかしない」
 グリーズリーはうんざりと首を振る。
「あーあ、シェリーちゃんかあ。いいなあ……同じ押しかけ女房でも全然違うよなあ。人間なのは問題だけど。俺にもあんな可愛い子が押しかけてくれたらいいのに」
「何言ってんだアルマじゃあるまいし、シェリーはそんな、別に、無理やり押しかけて来てるわけじゃねえよ。帰ろうと思えばいつだって人間の世界に帰っ……」
 言いかけて、ルロイはぎくりとした。

 そういえば、そうだ。
 シェリーと過ごす毎日があまりにも幸せすぎて──日々満ち足りていたせいで、何も考えていなかった。
 シェリーはいつまで、自分のそばにいてくれるのだろう……?

 グリーズリーは膝に肘をつき、顎を乗せて、盛大にためいきをついた。
「いいこと考えた。交換しねえ? シェリーちゃんだったら、一週間だろうが一ヶ月だろうが、満足するまでヤってヤってヤりまくってやるよ」
 鼻の下をだらしなく伸ばして、しまりのない表情をつくる。ルロイははっとした。グリーズリーの胸ぐらを掴んで引きずり寄せる。
「おい、こら、今やらしいこと想像しただろ! ふざけんな! 想像でもそんないやらしいことしたらマジでぶちのめすぞ。シェリーは俺のだ!」
「わっ!? ほ、本気にするなよ。言ってみただけだよ。想像するぐらい別にいいだろ。俺の身にもなれよ。お前だってアルマ以外だったら、このさい誰でもいい、って気持ちになるだろ!?」
「なるか! 俺はシェリーだけだっ!」
「まったく、お前ってやつは。単純な」
 グリーズリーはぷっと吹きだした。笑顔が戻っている。腹いっぱいになって、やっと人心地がついたらしい。もういつものグリーズリーだ。
「それはそうとしてルロイ、お前、いったい何しにきたんだ? よりによってこんな時にさ」