お月様にお願い! 番外編 恋の赤ずきんちゃん

月の民の王ロード・ネメド

「できるわけがないでしょ」
 エマの眼の奥にはぞくりと冷えた光が宿っていた。
「見て、このマフラー」
 エマは首に巻いた白いマフラーをほどいた。恐ろしいほどに手触りが良く、柔らかい。
「高そうでしょ。これだけで私の給金の何十倍もするの。貴族の方たちが買うものは、みんなそう。指輪とか、宝石とか──私なんかが奴隷になっても買えないものを、いくつもいくつも、タンスからあふれるぐらい持ってる」
 涙があふれた。マフラーに点々としずくがこぼれ落ちる。
「そんなひとに、ただの侍女が逆らえるわけがないじゃない。余計なことを言おうものならカイルは本当に殺されてしまう」
「だからって……」
「じゃあどうしろと言うの」
 エマはマフラーを母親に投げつけた。
「お屋敷に戻って、カイルに伝えればいいの? ”お前を助けるようにママに伝えたけど、ママはどうしようもないから放っておけって言うの”って。そんな恐ろしいことを私に言わせておいて、なのにママは自分だけ、どこかよその子の前でいい人ぶろうっていうの? 卑怯なのはママの方だわ!」
「エマ」
 フーヴェルおばさんは愕然とした。絶句する。エマは暗がりで顔をそむけた。目頭の涙を拭う。
「……ごめんなさい、ママ。言い過ぎた……」
「エマ、こっちへおいで」
 フーヴェルおばさんはマフラーを拾い上げた。手を伸ばし、震える娘の身体を抱き寄せる。
「一緒に火に当たろうか」
 足を引きずり、重苦しく暖炉の前のソファへ移動する。燃え残りの薪がくずれて、くすんだ灰を巻き上げた。熾火が散る。
 揺れる瞳に暖炉の火が赤く映り込む。エマの眼には涙が浮かんでいた。
 二人は抱き合ったまま、ソファに腰を下ろした。
「エマ」
 フーヴェルおばさんは優しくささやいた。そっと娘の髪を撫でる。
「気が付かなかったよ。いつの間にかもう朝になってるじゃないか。お前まで伯爵さまに叱られるといけない。早くお屋敷へお帰り」
「いやよ。あのお屋敷にはもう帰りたくない」
 エマは母親にすがりついた。
「きっとあれこれ聞かれるわ。そして、また別の命令をされる。それが終わったら次の命令。……もっと、恐ろしいことをさせられるようになる。そうしたら二度と逃げられなくなるわ。あの方には決して逆らえないのよ」
 エマは総毛立った青白い顔をゆがませた。
「私ね、お屋敷でぞっとするような噂を聞いたの。王女さまはご病気で宮殿にこもっていらっしゃるんじゃない、本当は”行方不明”なんだって。クレイドさまが【黒】の」
 エマは、恐ろしさに耐え難くなって口をつぐんだ。
「怖い。もう、無理。ママ、私、怖いの……!」
 エマは泣き崩れた。フーヴェルおばさんは静かに微笑んだ。涙に濡れた娘の頬を優しく手挟む。
「安心おし。お前はよく働く良い子だもの。神様はすべてを見ておいでさ。後のことはもう、何も気にしなくてもいいよ。クレイドさまには、そうお伝えしておくれ」
 娘の涙を拭ってやる。フーヴェルおばさんは手の中のマフラーを、指が白くなるほど強く握りしめた。ぎごちなく立ち上がって、窓辺へと移動する。
 窓の鍵をはずして鎧戸を開け放つ。まぶしい雪景色が眼に映った。
「おお、寒。冷えるねえ。この歳になると、いっそう朝の寒さがこたえるよ」
 ぶるりと震い、マフラーを首に巻きつける。
「でも、いい天気だ。いつの間に止んだのかねえ。さっきまでひどい雪で、本当に怖くて、一刻も早く夜が明けないかとそればかり祈ってたっていうのに。まぶしすぎて逆に怖いぐらい」
 振り返った顔が逆光に飲み込まれる。蝋を塗ったような、荒れたくちびるが震えた。
「朝なんて来なければよかったのに」
 暗い瞳が燃え朽ちた暖炉を見つめていた。

「ああああああーーー朝ーーーーっっ?」
 奇声まじりの悲鳴が響き渡る。
 シェリーは飛び起きた。毛布が吹っ飛んでゆく。
「どうしましょう朝です大変です準備何もできてないですっ!」
 ベッドから転がり落ちる。
 頭を抱え、床の毛布にはっとした眼をやって、あたふたと拾い上げて、畳んで、それから窓の外を見やる。
 窓ガラスについた霜が凍り付いていた。朝の日の光を受け、きらきらと白く光っている。
「あれっ、雪……止んでる?」
 かたかた震えながら服を急いで着て、膝まであるモスリンの長靴下を二枚重ねて履いて、いつの間にかきちんとそろえられていた靴を、それと気付くことなくつっかけて、よろめきつつ寝室をまろび出る。
「ルロイさん?」
 食台の上は綺麗に片づけられている。昨夜食べきれなかったパンとチーズのお皿だけが、虫除けネットを上からかぶせられ、そのまま置いてあった。
「……いらっしゃいません……?」
 シェリーは息を吸い込み、手で口を押さえた。気まずすぎて、またおなかがキリキリと痛くなってくる。
「うう、まだおなかが痛いです……」
 いったい何がどうなったのだろう?
 確か、昨夜の食事の最中、とつぜん気を失ったような……
 気が付いたらぽつねんとベッドの中にいて。ルロイはもう姿が見えなくて。ぬくもりだけが頬に残っていて。
「……そういえば」
 おぼろげな記憶が戻ってくる。
 確か、コップを取り違えてしまったような気がする。お酒が入ったルロイのコップと、自分のコップを間違えて中身を飲んでしまった……そうしたら、なぜかいきなり記憶が飛んで……現在に至る。
「ああん、何たること。大失敗です」
 シェリーは自分の額をぺちんと叩いた。
「まあ、やっちゃったものは仕方ありませんよね」
 青い顔で、しょんぼりとつぶやく。
 正直言うと、あんまり気分はよくない。きっと昨夜、酔っぱらってしまったせいで二日酔いをしているのだろう。おなかの具合は相変わらず良くないし、わずかに吐き気が残っている。ルロイの言うとおりだ。食欲がないのは、やっぱり風邪を引きかけているせいなのかも知れない。
 シェリーはかぼそいためいきをついた。
「こんなことではいつまでたっても良妻賢母になれません……って、きゃぁんっ、やだあ、そんな良妻だなんて! もう滅相もないったら」
 ほっぺたを真っ赤にして手で押さえ、部屋の真ん中でもじもじとはにかむ。
「とうていおこがましゅうございます……でも」
 ふと、冷たくなった手をこすり合わせる。
「ずっと一緒に暮らしているのですもの。そろそろ、正式にお嫁さん、ということにしていただいても……?」
 何の飾りもはめられていない、ほっそりと痩せた指。ちらりと思い詰めた表情を浮かべる。
 だがすぐに気を取り直す。細腕の袖をめくりあげて、ふんっ、と鼻息も荒く、貧弱な力こぶをつくってみせる。
「いえいえ、まだまだです。こんなお寝坊さんをしているようではルロイさんのおうちのお留守を預かる者としての自覚と修行が足りませんっ」
 さっとカーテンを引き払い、窓を元気よく押し開ける。シェリーは身を乗り出した。ぶるっと朝方の冷気を振り払う。
「うわあ、雪です! いっぱい積もってます!」
 外の寒さに歓声を上げ、眼を細めて、まぶしい雪景色を見つめる。
 軒先に下がったつららがきらきら反射する。窓から頭を突き出すと、雪解けの水がぽたんと首筋に滴り落ちた。
「きゃっ!?」
 爽快な光景に、落ち込んでいた気分まで晴れ上がってゆくような気がした。
 まばゆさにつられて、思わず声をたてて笑う。
「いつの間に止んだんでしょう? 昨日はほんとにひどい雪で、怖くて、早く夜が明けないかとそればかり祈ってたっていうのに。ふふっ、嵐さえ止めばこっちのものです。まずはお掃除して、それからお片づけ開始ですね」
 相好を崩し、ほがらかにうなずく。
「朝が来てくれて、ほんとに良かった!」