お月様にお願い! 番外編 恋の赤ずきんちゃん

月の民の王ロード・ネメド

 黒ずくめのルロイはそっけなくシェリーを押しやった。
「水辺まで歩けるか」
 問われてシェリーは周りを見渡した。尖った岩の転がる河原の先に、おずおずとした目を向ける。
 逆巻く急流から水しぶきがあがっているのが見えた。川の中央の岩場に、うず高く堆積した流木が恐ろしい音を立ててひしめいている。白く上がる飛沫がまるで荒波を切る舳先のようだ。何か余計な衝撃が加えられでもしたら、あんな急造の堰など、もろくも決壊してしまうだろう。
 思わず、握りしめた手を胸元へ押し当てる。
 普段の川遊び程度なら、これぐらいの岩場などどうということはない。多少足元が悪かろうが、ルロイに手を取ってもらいさえすれば何とでもなる。だが、今は、ふらつかずまっすぐ歩く自信すらなかった。
「……」
 答えられずにいると、黒ずくめのルロイは苛立たしげに話を打ち切った。
「そこに座れ」
 傲然と傍らの岩を指し示す。シェリーは命じられるがまま、腰を下ろした。
「待っていろ」
 おもむろにその場を離れてゆく。
「ルロイさん……?」
 黒ずくめのルロイは岩から岩へ、沢づたいに飛んで水辺へと向かった。岩場で腰をかがめ、急流へ身を乗り出すようにして両手を水に浸している。いったい何をしようというのか。揺れる思いを押し殺して見守る。
 すぐに立ち上がり、戻って来る。
「手水だ。使え」
 黒ずくめのルロイが目の前に突っ立った。椀の形にした手から水が滴り落ちている。
 シェリーは眼をまたたかせた。一瞬、どうすれば良いのか分からない。唖然として見上げる。
「でも……」
 まごまごしているうちに、憎々しい声が飛んでくる。
「さっさとうがいしろ。せっかく汲んで来てやったのだ」
「は、はい……」
 シェリーは丸めたルロイの手に唇を添え、そっと口を付けた。
「こぼすな。濡れるぞ」
「はい」
 水を口に含み、うがいをする。きんと冷たい。身体の中が洗われてゆくように思った。
 ルロイは再び水を汲みに行く。シェリーはその後ろ姿を見送った。苔にぬめる岩から岩へ、ルロイは無言で飛び移ってゆく。雪と、はじける水しぶきと、朝日がまぶしかった。何度も眼を瞬かせる。
 それから数回、黒ずくめのルロイは水を運んできた。何度もうがいをさせてもらって、ようやく人心地が付く。
「もう大丈夫です。すっきりしました。本当にありがとうございます……ルロイさんが来てくださらなかったら、どうしようかと思いました」
 最後のうがいのあと、シェリーは礼を言った。黒ずくめのルロイはわざと目をそらした。濡れた手を払い、用心深く表情を秘め隠す。
「懦弱だな。人間は。すぐ病気になる」
 肩をそびやかせ、吐き捨てる。
「すみません。きっと何かへんてこなものを食べておなかを壊しちゃったに違いないです……だってくしゃみもでてないし、お鼻もぐずぐず言わないし。ほらね、お熱も……」
 シェリーは何気なく黒ずくめのルロイの手を取った。その手を自分のおでこに押しつける。
 雪解け水を汲んでくれたルロイの指先は、かじかんで冷え切り、まるで氷のようだった。目が覚めるような冷たさだ。一瞬、どきりとする。
「こんなに冷たくなって……」
 シェリーは、はっとして黒ずくめのルロイを見上げた。河原からここまで、手に汲んだ水をこぼさないように移動するのは生半可なことではない。岩から岩へ飛び移るうちに、半分以上がこぼれただろう。一度にうがいできる量はたかが知れている。それを、何度も何度も往復して、冷たい水をすくって……持ってきてくれた……?
「ルロイさん」
 シェリーはルロイの手をそっと握った。
 胸が痛くなる。濡れた手の冷たさは、むしろルロイのぬくもりそのものであるように思えた。そうまでしてくれる優しさに気づきもせず、乱暴な声と冷たい態度に気を取られ、臆するばかりで、”怖い”──とすら思ってしまったなんて。
 思わず、頬がゆるんだ。
 もらったぬくもりのせめてものお返しにと、かじかんだ手をそっと自分の頬を寄り沿わせる。触れた手のひらは身がすくむぐらい、ひやりと冷たかった。
 黒ずくめのルロイが表情を変えた。
「何をする、貴様」
「あ、ごめんなさい。驚かせて……」
「余計なことをするな」
 邪険に突き放される。
「その、手がすごく冷たかったので」
「触るな!」
「は、はい、ごめんなさい」
 苛立ったルロイの口調に、あたふたとして口ごもる。見上げた途端、また眼があった。
「じろじろ見るな」
「はい」
「何をへらへらと笑っている!」
「笑ってませんっ」
「……態度に気をつけろ」
 黒ずくめのルロイは、居心地悪そうに低く唸り、顔をそむけた。その横顔をシェリーはうっとりと見つめる。
(……普段とは違う、こんなそっけないルロイさんも案外素敵かも、です)
 視線に気付いたのか、黒ずくめのルロイがちらりと横目で盗み見るようにシェリーを睨んだ。また目が合う。
(わたしを見てくれました!)
 シェリーは嬉しくなって頬をぽうっと染めた。黒ずくめのルロイは舌打ちした。憎々しげに表情をゆがめ、あからさまに目をそらす。
 だがもうそんなことは気にもならない。こみ上げる笑みが抑えきれない。
(でも……そんなこと言ったらまた怒られちゃいますっ)
「何をじろじろ見ている」
 黒ずくめのルロイは、咎めるように口を開いた。
「な、な、何でもありませんよ?」
「何が言いたい!」
 シェリーはますます顔がかぁっと火照るのを、手で覆って隠した。あわててぶるんぶるんしてかぶりを振る。
「えっと、ルロイさんが、あんまりその、怖い顔をなさってるから、もしかしたら別の……違う人かと思ったけど……やっぱり、あの」
「別人?」
 弱みにつけ込んだような笑みが浮かぶ。
「い、い、いいえ違います何でもありませんごめんなさいっ!」
 シェリーはぎゅっと目を瞑った。声を裏返らせる。
「やっぱり、ルロイさんはルロイさんなんだあって思って……優しいんだなあって……うふふ……はっ!? きゃぁぁ面と向かって言っちゃいました! わたしったら一人でおしゃべりですみません、はしたなくってホントにああんもうっ! ばかばかすみませんわたしのばか! 恥ずかしいったら!」
 真っ赤なほっぺたを両手で挟んで、一人であせあせとはにかむ。
「ああんっどうしましょう! また言わなくてもいいことを! ルロイさんのことを好きすぎるのがいけないのです。この口が! このおしゃべりな口が勝手にぺらぺらと思いのたけを暴露してしまうなんてーーーっ!」
 あっ。
 シェリーはみるみる顔を真っ赤にした。
「今のは心の中の声のはずだったのに……思いっきり声に出して言ってしまいました……!」
 って、また声に出して言っちゃった……!
 シェリーはじたばたと身もだえしたい気持ちでいっぱいになりながら、ぴしゃんと叩くように両手で顔を覆った。穴があったら入りたいとはこのことだ。
 黒ずくめのルロイは、無言でシェリーを見下ろした。用心深い、腹の底を探るようなまなざしで、うつむくシェリーを見やる。ふと、表情がゆるんだ。
 ポケットに手を突っ込み、くしゃくしゃになった赤ずきんを引きずり出す。
「これは、お前のだろう。返してやる」
 シェリーは、どきりとして顔を上げた。目の前に突き出された赤ずきんに、まじまじと見入る。
「これは……」
 間違いない。フーヴェルおばさんからもらった赤ずきんだ。確か、逃げる際に身代わりの術として骨に結びつけて来たはずだが……
「はい、そうです。ありがとうございます……わざわざ持ってきてくださったのですか?」
 お辞儀して、すっかり茹で上がったほっぺたと同じ色の赤ずきんを受け取る。黒ずくめのルロイは何気ない仕草で首を横に振った。冷ややかに笑っている。
「気分はどうだ」
「はい、もう大丈夫です。ずいぶん良くなりました……」
「ならば、いささか乱暴にしても大丈夫だな」
 黒い影がふっと背後に回った。
「えっ……」
 足元に影がくろぐろと広がる。思わず振り返った。視界が影に覆われる。重みが被さってきた。両肘を後ろから掴まれる。
「お前を抱く」
 声に嘲弄が混じった。腕がぐいと巻き付いた。煽るように抱き寄せられる。
 シェリーはもがくのも忘れて眼をぱちくりとさせた。半ば羽交い締めのような形で押さえ込まれる。
「ぁ、えっ……あの、ルロイさん?」
「動くな。じっとしていろ」
 手がぴたりと背後から口を塞ぐ。シェリーは息苦しくなって、わずかにもがいた。
「ん……う、ううん、苦しいです、ルロイさん……」
「すぐに楽になる」
 からかうようなささやきが耳に吹き込まれる。
 狼の手がワンピースドレスの背中をすばやくまさぐった。手慣れた仕草がうなじで止めたホックを弾いてはずす。
「……あっ……?」
 背中の留め金がはずされて、はだけられる。淡いレースに縁取られた下着があらわになった。真っ白な肌が透けて見える。
 黒ずくめの狼は、シェリーの首にかけられた金のチョーカーに目を留めた。押し殺した冷たい笑いが浮かぶ。
「これはどうした?」
「えっ……ええと? あれっ、いつの間に同じものが?」
 シェリーはきょとんとした。黒ずくめのルロイの首にも、今シェリーがつけているものと全く同じチョーカーが掛かっている。
「えっと、ああ、もしかして……分かりました! おそろいですね?」
 シェリーはこぼれんばかりに笑みをたたえ、うきうきと無邪気に喜んだ。同じチョーカーをつけた黒ずくめのルロイに寄り添い、甘えた仕草で胸に頭をもたせかける。
 だが、自分がいったい”誰のチョーカー”を身につけていたのか、シェリーは全く気付いていなかった。
「おそろい、か」
 黒ずくめのルロイは爪先でシェリーのチョーカーをまさぐった。
「淫婦め」
 表情が豹変した。冷たい笑みが見る間に激情へとゆがんでゆく。
 シェリーは黒ずくめのルロイの変化に気付かない。キスとも愛撫とも異なる欲望の舌が、いきなり激しく首筋をつたった。強い力で抱きすくめられる。動けない。吐息が熱く掛かった。牙が首筋に食い込む。
 強く噛まれる。
「ぁ……っ!」
 チョーカーの紐が食いちぎられる。
 金属とも石ともつかぬ冴え冴えとした石琴の音が河原に跳ねる。金色の軌跡が水切り石のように跳ねるのが見えた。あっという間に、ちぎれたチョーカーは岩と岩の隙間に入り込んで見えなくなる。
 手が下着の紐をまさぐる。手がキャミソールの下に潜り込んだ。乳房を掴み出される。
 シェリーは普段と違いすぎる荒々しい行為に息を詰まらせた。胸の形がゆがむほど強い力で揉みしだかれる。
「ぁ、あっ……痛い……!」
 シェリーは乳房に伝わる痛みに身をよじった。鷲掴みされ、ちぎれそうなほど揺さぶられる。
「……人の眼には、我らバルバロは、おぞましい野獣にしか見えぬはずだ」
 眼を開けていられないほどの荒々しさだった。涙がにじむ。
 それでも唇を噛んで、かろうじて痛みに耐える。
「う、んっ……!」
 胸が潰される。肌に爪を立てられる。身体じゅうに牙の痕がつけられる。赤く、傷になるほど、強く。
「ぁ、あ、……痛い……」
 うまれたてのひなを手のひらに包むかのような、いつものやさしい抱き方とはまるで違っていた。痛みと、性の道具のように扱われるおそろしさに、思わず涙をこぼしそうになる。身体がこわばった。恐怖が喉の奥からこみあげる。
 悲鳴に近い嗚咽。
 怖い──
 シェリーは泣き声を噛み殺した。いつものルロイとは全然違う……!
「どうした。足が震えているぞ」
 金色に揺らめく邪悪の瞳が近づいた。
 ぞくりと息を呑む。
「俺が怖いなら正直に言え。そうすれば逃がしてやる」
「ルロイさん……!」
 耳朶を、ぎりっと噛まれる。思わず呻きを上げそうになって、シェリーは身をよじらせた。涙をうかべ、もがく。
「乱暴、しないで……ぁ……っ!」
「”ヒト”と”バルバロ”とはもともと相容れぬ天敵同士だ。人間どもが火薬を手に入れるまで、我らは互いに生態系の支配者たらんとして競い合い、憎み合い、忌み嫌い、殺し合ってきた」
 悪魔の声が残忍にうそぶく。耳障りに渦巻く蠅の羽音のようだった。
 怖いか……?
 怖いだろう……?
 うわごとが聞こえ続ける。正直に言ってみろ、本当はバルバロになど抱かれたくはないと、それは獣とつがうも同然の恥だと、半獣人に陵辱され、犯され、子を孕むなど、死よりもおぞましい罰だと、それがお前の本心なのだ、と……!