「何じゃこりゃあ!」
グリーズリーと別れて家に戻ってきたルロイは、目の前の光景に愕然とした。
きちんと片づけられていたはずのものが、見るに堪えない状態で床に散乱している。引き出しは開けっ放し。納戸の中身は奥から掻き出されて、無惨になだれ落ちている。キッチンのテーブルには作りかけのお菓子の材料が散らばり、床には丸めて捨てられた新聞紙。砂糖の壺は蓋がはずれ、横倒しになっている。散々たる様子に呆然と立ちつくすほかはない。
「シェリー……?」
虚けた顔で、家の中を見回す。
壁のカレンダーが傾いていた。
今日の日付のところに留められていた、ドライフラワーのちいさな花輪が床に落ちている。ルロイは無意識に花輪を拾い上げた。
気が付いたら何かとまめまめしく掃除をし始めるシェリーが、この状態を放っておく訳が──
はっとする。
「シェリー!」
肝心の姿がない。つい今し方までお菓子を作ろうとして、突然、押し入った何者かに連れ去られたかのようだった。後頭部を雷に打たれたような衝撃が流れ下る。
ルロイは寝室へ飛び込んだ。
「いるのか、シェリー?」
白いカーテンがそよそよとはためいていた。頬を撫でる風に、なぜか、ぞくりとする。
透き通る半透明の影が、水面を通したかのように、ゆらゆらと透けて床に落ちていた。
人気はない。
シーツやパジャマなども、きれいにたたみ直した形跡が残っていた。窓辺にはピンクと黄色の混じった花の植木鉢。花びらや葉っぱの上に、きらきらの水滴がちょこんと丸い珠を結んでいる。
なのに、いかにもその普段通りといった印象が今はひどくぎごちなく、よそよそしく、ちぐはぐで。
現実からかけ離れていて。
不実な愛想笑いを浮かべる他人のように見えた。
「いったい、どうなってんだ……? 冬眠から覚めた熊の仕業か……?」
呆然と息をついて、キッチンへと戻る。
くしゃくしゃに丸められた新聞が床に投げ捨てられてあった。戸棚がなげやりに開け放たれている。
記憶がよみがえる。あの戸棚は確か昨日、シェリーが何かを隠そうとしていた場所だ。普段ならそんなことで決して声を荒らげたりするはずもないのに、やたらとむきになって立ちふさがろうとしていた……。
手を伸ばし、新聞を拾い上げる。黒く躍る文字が見えた。
「……人間と、バルバロが戦争?」
眉をひそめる。
「これを俺に見せたくなくて、それで」
人間とバルバロが戦争を始めるかもしれない──そんなふうにあえて敵意を煽り立てる新聞を読めば、シェリーでなくともひどく胸を痛めるに違いない。だとすれば、昨夜の不審な態度にも得心がいく。だが、当のシェリー本人はいったいどこに?
「ん? これは?」
紙面の一部が切り取られている。
「何だ? いったい……」
ルロイはあわただしくテーブルの上に切れ端を並べ、皺を圧し伸べた。一字一句も読み落とすまいと、食い入るように眼を近づける。
「ええと、行方不明の……王女……」
ここ数ヶ月公式行事に姿を見せていない第一王女の安否を疑問視する記事だった。添えられた似顔絵の顔部分が半分、切り取られている。残された愛らしい笑顔は、だが、まぎれもなくシェリーのものだった。
ルロイは苦虫をかみつぶした顔で唸り声を上げた。普段使い慣れない脳みそを必死に走らせて考える。
「ええと、何だ、こりゃ、どういうことだ? ちょっと待てよ、わけ分かんねえ。誰かがこの記事のシェリーに気が付いて、切り取ったってことだよな? たぶん? で、それで……何だ? そんなことして何の意味があるんだ?」
ぞっとする考えが脳裏に浮かんだ。
「まさかこの新聞を見た奴に、シェリーが王女だってことを密告……?」
そのとき、すっ、と。
音もなく背後のドアが開いた。
黒い手が、餓えた牙のように裸をまさぐる。
「乱暴はやめてください、ぁ、あっ……痛……いっ……!」
シェリーは喘いだ。
「ルロイさ……ん……おねがい……!」
形の良い、やわらかな乳房がちぎれんばかりに握りつぶされ、ゆがめられ、揉みしだかれる。
「んっ……ううん、痛い……!」
優しいから。ずっとこの日まで我慢していてくれた。
優しいから。ずっとこの日を待っていてくれた。
面白いこと、優しいことをいっぱい言って、シェリーの身体が一番だから無理はさせない、と何度も言い聞かせるように言ってくれて、わがままを言っても笑って聞き流してくれて。
満月の夜が来るのを、ずっと待っていてくれた。
だから。
(少しぐらい……乱暴にされても……)
揉みしだかれる痛みに息を詰まらせる。
(が……我慢しなくちゃ……ぁっ!)
耐えきれずに声を上げる。
「痛……あっ、あ……!」
「いい声だ」
もがく獲物の喉に食らいつくかのように、黒ずくめのルロイはますます高ぶった吐息をついてシェリーを貪った。
「……ぞくぞくさせられる」
「ぁ、うっ……んん……っ!」
苦悶の脂汗が流れ落ちる。
普段のルロイとはまるで別人だ。いつものルロイなら、絶対にこんなことはしない。でも、だからこそ──
(ルロイさんだってずっと我慢しててくれたんだから……わたしだって)
シェリーは痛みに耐え、喘いだ。涙のにじんだ目をかたく瞑る。
(こんなのどうってことない……それぐらい強く愛されてるんだって思えば……平気なんだから……ぁ、痛っ……ううんっ……!)
スカートをめくり上げられ、下着越しに触れられる。内股をまさぐる力は痛みそのものだった。
(……ぁ、あっ……!)
本当は、狼の本能を押さえるのが苦しかったに違いない。
バルバロは人間とは違う。人が平地を好み、土着して農耕を営む性質があるのに対して、バルバロは広大な山野を、深い森を好み、孤独を愛し、己が爪と牙で狩りをして生きる。人同士が身を寄せ合い、家族を作るのに対して、バルバロは月の欲望が満ちるにまかせてその夜につがう一日限りの伴侶を求める。それは種としての本能であり、理性とか欲望とかいう社会的な言葉では決して片づけられない。命の衝動とでも言うべきものだ。
満月の夜にバルバロは発情期の頂点を迎える。
発情したルロイは……それこそ別人だった。あっけらかんとした普段のルロイとは全然違っていて、ふつふつと蠢く欲望を隠そうともしない。快楽を追求することに大胆で、意地悪で、それでいて無尽蔵に愛をくれる。
でも、そんな意地悪なルロイの望むままに翻弄されるのも。
いつもは口に出すのもはばかられるような行為を交わすのも。
ルロイがくれる感覚だからこそ、その全部が好きだった。
抱きしめられて、キスされて、愛されて──ひとつになる。
シェリーは手で半分口をふさがれたまま、かろうじて首を後ろ向きにねじった。背後から迫るルロイを見上げる。
なめずるまなざしが欲情にくるめいていた。黒い炎のようだった。ぞくっとする。
「……どうして、そんなに乱暴に……なさるのですか……?」
息苦しく訴える。いつもならとろけるほど心を通わせ合える行為が、触れられれば触れられるほど逆に思いを引き離されてゆくように思えた。黒い瞳が暗く輝く。
「優しくしろと?」
投げやりな笑みが浮かんだ。その間も、荒々しい愛撫の手は止まない。
「……だって、いつもは……もっと……あの……」
もじもじとして、口ごもる。
「そういうことか」
乳房をきつく揉み潰す手が止まった。強引な律動がゆるやかな愛撫に変わってゆく。シェリーはたまらずに声をあげた。
ゆっくりと、静かに、くすぐられる。とろけそうだった。
「それは、お前の身体が今すぐに欲しいからだ」
「ぁ、あの……でも……!」
裸にされた胸を両手で後ろから包まれる。丸見えだ。頬が真っ赤に火照った。
「こんなところじゃ……ルロイさん、あの……はずかしい……!」
乳房全体をそっと持ち上げられ、揺すられる。声が震えた。敏感になった桜色の乳首にかるく触れられただけで、膝の力が抜け、腰が痺れそうになる。
「ぁ、あ……んっ……!」
息が上がる。
「俺の名を呼べ」
「は、はい……ルロイさん……」
心なしかルロイの口元がにやりと悪辣に吊り上がった、ように思えた。
「いつものやり方、と言ったな。では答えろ。いつもの”俺”と、何がどう違う」
「そんなこと仰っても……困ります……う、んっ……」
手が肌の上を滑る。明白な欲望を伴って、乳房を離れ、下腹へと向かっている。
「ぁ……あの……ぁっ……!」
周りに人がいないのは分かっていたが、それでももし偶然通りかかった誰かに見られでもしたら、と思うと、あまりの寒さと恥ずかしさで全身がぶるぶるふるえて、総毛立ちそうだった。
「い、いつもの……ルロイさんはもっと優しくて……」
シェリーは息も絶え絶えにささやく。
「ルロイさん、か」
腰の紐を強く結んだドレスでは下腹部に手が届かない。黒ずくめのルロイは苛立って低く舌打ちした。
「そんなに好きか? ”俺”のことが」
シェリーは頬を染めた。上気してかすんだ眼をまたたかせる。
「はい……」
黒ずくめのルロイは手を止めた。瞳の奥に侮蔑の色がよぎる。
「”俺”と寝るのもか」
いきなり聞かれて、シェリーはしどろもどろに口ごもった。
「……あ、あの、それは……その……えっ?」
蚊の鳴くような声になりながら、ルロイの襟元をぎゅっと掴んで、火照った顔をうずめる。さすがに面と向かってそれを口にするのははばかられる。でも、本当のところはそうじゃなくて──
「それは、もちろん、えっと、あの……」
以前にルロイに抱かれたときのことを思い出して、頬が、かあっと赤くなった。思い出すだけでも嬉しいやら恥ずかしいやらで身体がふるえそうになる。あんなことやこんなことをいっぱいさせられ、言わされ、感じさせられ──
「い、いえ、言えません、そんな、とてもとても……っ」
好き、って。本音の処ではそう言いたいけど、でも、でも……
緊張した真っ赤な顔でぶるぶる震い上がる。
(……みたいなこと、されるのは、も、も、もちろん、嫌いじゃない……ですけど……でも、でも、だって、こっこっ恋する乙女としては当然ではないですかっ大好きな方に、その……好きって……ああ、でも昨日はもうぐでんぐでんに酔っぱらっていたという以上にいろいろ必死すぎて頭がどうかしていたとしか思えないわけで、要するに特別の場合、というだけであってあんなことは二度とできないっていうか、いくらわたしがルロイさんのことを好きで好きでたまらないって言ったってそんな、よっぽどの理由がない限り頑張って突撃しようなんて勇気を奮い起こせるはずもないし、だいたい、そんなことばっかり考えている、なんてふうにも思われたくないですし、そんなに突然、言いたいこと言えるようになるわけなんてないし、やっぱり、ああっ……とにかくだめぇっ……!)
シェリーは紅潮しきった顔で恥じ入った。へなへなと崩れ落ちる。
「これ以上はもう……どうかおゆるしくださいませ……」
「だめだ」
「ええっ……!?」
「許さない」
ぐい、と腰を引き寄せられる。
心臓の音が聞こえる。力強く打つ鼓動の音。ルロイに抱かれたときに聞こえた音と同じ。そっくりな力強さに、つい、ほうっと気を緩め、眼を閉じて、無防備に身をゆだねようとする。
──なのに。
なぜか奇妙な違和感が脳裏をよぎった。
何かが違う。そう思って胸元に寄せた頬を、ふと、離す。
コートの感触が冷たい。鉄のようだった。普段のルロイなら、毛皮でふちどった襟付きの、丈の短い革上着を着ているはずだが……。
シェリーはまじまじとルロイの装いを見つめた。よく見たら、いつもと様子が違う。
「このコート……あれ? そう言えばいつの間にこんな服をお仕立てに……?」
不思議に思って眼をぱちぱちさせる。
「あの、ルロイさんって……こんな黒っぽい乗馬コートをお持ちでしたっけ……?」
ルロイが馬になど、乗るわけがないのに。一瞬頭をよぎった疑念を、よもやとばかりに噛み殺す。そんなことなどあるわけがない。考えすぎだ。半ば呆然としつつ、腰に吊した剣へ視線を移す。柄を銀線で巻き、流麗な彫金の飾りを鞘に施した諸刃の長剣だった。
ルロイが常に携行している半月型の野太刀とはまるで違う。これは、いったい……? もやもやとした違和感がますます大きくなる。
「それに、この剣も……」
おずおずと手を伸ばして、剣に触れようとする。剣の柄頭に黒い百合の紋章が見えた。眼を押し開く。
「この紋章……! ルロイさんがどうして?」
「理由を聞きたいか」
ぞっとする笑みが問いかけをさえぎった。伸ばした手首をぐいと掴み取られる。シェリーはぎくりとして息を飲んだ。背筋が石のようにこわばる。
「知れば必ず後悔する。それでも構わないと?」
「あっ」
手首をねじり上げられる。悲鳴が喉につまった。するどい爪が、からかうように顎をつまんで上を向かせる。
「どうした? 返事は」
冷たい目が笑いかけてくる。
「やっ……何をなさるのです、ルロイさん……どうして!」
シェリーは蒼白になりながらも身をよじった。まるでルロイがルロイでなくなってしまったかのようだった。おそろしさのあまり、身がすくんで動けない。
「答えは簡単だ。教えてやろう。俺が【
強引に顔の向きを正面向きへと矯正される。眼と眼が合った。息を呑む。
黒い瞳の奥にほの暗い笑みがたたえられている。底知れぬ闇にも似た、諧謔の微笑。
「”シェリー”。貴様を殺すためだ」
背筋がつめたくなった。