お月様にお願い! 番外編 恋の赤ずきんちゃん

世界で一番しあわせな王女様は、だあれ?

「あの野郎がシェリーを追っていった……だと?」
 黒光る狼の目が、すうっと細められる。
「そ、そうよ。あたしはやめろって言ったんだけど、あいつが勝手に」
 かろうじて気の強いふりを保ちはしたものの、シルヴィはルロイの表情に怖気をふるって声を飲み込んだ。目をそらす。
「まさか、本気でシェリーに手を出すつもりだなんて思わなかったのよ! 仕方なかったんだもの、その……逆らえなかったの……あの、時期的に、つまり……分かるでしょ!」
「……信用しろってのか?」
「他にどう言えっていうの」
 ルロイは無言でシルヴィを見やった。今は信用するしかない。苦々しく息をつく。
「だいたい、あいつのことを黙ってたあんたもあんたよ」
 シルヴィは言い訳がましく顔をしかめた。
「前にあいつがあんたを探して村に来たときのこと、何でちゃんとシェリーに言っとかなかったの? あんなに大騒ぎしてたじゃない」
「言えるわけねえだろ、あんな……」
 バルバロの村──長老のところへ、ぞっとする提案を携えたアドルファーが現れたのは数週間前のことだった。一触即発の状態となっていたところ、運悪く顔を付き合わせてしまったのだ。
(ああん、何だ? この騒ぎは。おう、グリーズ、いったい何の騒ぎだよ、誰だ、あいつは? こんな村のど真ん中で邪魔くせえったら)
(ああ、ルロイの奴がさ……)
 冷や汗を浮かべ、固唾を呑んで見守っていたグリーズリーが振り返りもせずに答える。
(何か、急に人間をぶっ殺すことにした、とか何とか、訳わかんねえイカレたことをほざいてるんでみんなで止めようってことになってさ。あいつ、あんまりシェリーちゃんに発情しまくりすぎてついに頭のネジがブっ飛んじまったんじゃねえの?)
(はああ!?)
 ルロイはグリーズリーの胸ぐらを掴んでつるし上げた。噛みつくように脅す。
(誰が発情しすぎだってんだよコラ! 満月まではおあずけって決めてんだぞ? この血の滲むような努力をだな、知りもしねえでまったくケダモノみたいに言いやがって馬鹿にすんな!)
(あいたた痛えよ、やめろルロイ痛えだろ……って何だ!? ルロイが二人いるーーー!?)
(何ーーー!?)

 記憶を追いながらルロイは歯がみした。
「あんな、訳分かんねえ、時代に取り残された過去の遺物みたいなことを口走る危ねえテロリスト野郎のことなんか」
 声を飲み込んでうつむく。

(戻ってこい、ルロイ。俺のもとへ。月の民の誇りを取り戻せ)
(うっせえ! 誰だ、てめえ! わけ分かんねえこと抜かしてんじゃねえよ!)
(愚かな)
 切り結んだ剣とナイフが甲高い音を立ててぶつかり合った。殺意の軌跡が交差する。
 呼吸が荒く乱れる。競り合うどころか、受け流すだけで精いっぱいだった。力量差は明白。圧倒的に不利だ。かろうじて踏みとどまりはしたものの、この状態ではいつまで持ちこたえられるか分からない。
 焦りに気を呑まれたとたん。ぞっとする剣の残響音が鼓膜を震わせた。
(っ……!)
 ナイフが手からもぎ取られる。足を刈られ、どうっと仰向けに倒れ込む。死を宣告する光が眼に映った。
(人間に尻尾を振る犬は)
 黒ずくめの相手に切っ先を突きつけられる。
 冷たい後悔が背筋を流れ下った。身動きできない。剣の柄に刻まれたくろがね色の紋章が眼に焼き付く。
 黒百合ノワレ
(死ね)
 鏡に映った自分自身が、刃を突き下ろした──
(……ルロイ!)
 皆が最悪の事態を想像し、目をそむける。
(貴様には、王族として一族存亡の戦いに身を投じる義務がある)
 刃がざくりと音を立てて地面に突き刺さった。
 奴隷の首輪が、鈍い音を立てて地面に落ちた。断ち切られた下から、奴隷の黒い紋章があらわになる。
 ルロイは呆然とアドルファーを見上げた。首の皮一枚のところを、鋼の殺気が貫いている。
(いずれ、バルバロと人間、雌雄を決するときが来よう。隷属の屈辱は濯がれねばならぬ。死んでいった仲間の無念に背を向け、自分一人だけのうのうと生き長らえるなど許されるわけがない)
 三日月の形をしたチョーカーを投げ与えられる。
 完膚無きまでの敗北。
(人間と決別しろ、ルロイ。裏切りは許さない。分かったな)

 鏡の向こうに取り残された自分を見ているようだった。
 アドルファー。双子の兄。
 囚われの身となった時機があまりにも幼すぎたために、生き別れの兄弟がいたことすらずっと忘れていた。だが、互いの顔を見れば情けないほどに一目瞭然だった。
 ルロイは首筋に残された奴隷の焼き印を手で押さえた。
 シェリーと出会って以来ずっと忘れていた火傷の痛みがよみがえる。
 ひりひりと赤剥けたように痛む【百合の紋章】の傷跡。それは今でもざらついた過去、すさんだ記憶の象徴だった。
「あいつの顔を見ると……あのころの自分を見てるみたいで」
 食いしばった歯と歯の間から、押し殺した苦い声を絞り出す。
 アドルファーの眼に宿る憎悪は、かつて奴隷だった幼い自分が、檻の中から外を、広い青空を、自分以外のすべてを憎んで見上げていたときの眼と同じだった。
(絶対に死ぬものか。生きて、ここから脱出して、あいつらを皆殺しにしてやる。人間なんかみんな死ねばいい)
 座して死を待つだけの檻の中でずっと、呪い続けていた。
 あの笑顔を眼にするまで。
(あたし、シェリー。あなたは?)
 光だった。救いだった。憎悪の闇に差し込んだ希望の黎明だった。あの光が、あの笑顔が、世界を変えた──

「一刻も早く忘れたかった」
 苦悩を色濃く宿らせて眼を伏せる。
「あいつが何企んでるかは知らねえ。あんな奴のやることなんて知ったことか」
 ルロイは唇を噛んだ。声を低く押し殺す。
「とにかくシェリーだけは絶対に巻き込みたくなかった」
 シルヴィは腕を組んだ。思案顔を曇らせる。 
「なるほど。あいつの行動にはシェリーの正体も絡んでるってことなのね。それであんなに執着して……」
「だから、なおさらこんなところでぐずぐずしてる暇はねえってことだ」
「そんなに焦って、何をどうする気? まさか」
 シルヴィは眼を上げ、小馬鹿にした薄笑いを浮かべた。首をかたむけ、腰に手を当てて、尻尾をゆらっと揺らす。
「何って、当然、シェリーを探すに決まってんだろ」
 ルロイはいきなり身をひるがえした。部屋を飛び出してゆこうとする。
「ちょっと待った」
 シルヴィは表情も変えず、ルロイの襟首をぐいと掴んだ。力任せに引き倒す。
「ほげふ!」
 勢い余って足が浮き、白目を剥いた首つり状態になる。シルヴィは白い眼で見下ろした。
「考えナシに突っ走ってんじゃないわよ馬鹿狼」
 ルロイはげほげほと咳き込んだ。真っ赤な顔で怒鳴り返す。
「オイコラてめー! 何しやがる!」
「馬鹿がネギしょって突進するのを止めてあげてんのよ」
「何だと貴様っ、さては寝首を掻く気かー!」
「大丈夫よあんたの首ごとき、一個や二個ぐらいもげたって」
 しれっと肩をすくめる。
「オイコラ待てーい! もげるわけねーだろーーッ! っていうかおかしいだろその発想は! だいたい、首が二個ももげちまったら普通死ぬわ!」
「あんたの首は何個あるのよ」
 シルヴィは鼻白んだ。軽蔑のまなざしでしらじらとルロイを見下ろす。
「いっぱいあるぞ、手首、足首、小首、乳首にカ……」
「下品」
「うっ……」
 シルヴィは腰に手を当てた。肩をそびやかせる。
「悪いけどあんたの馬鹿に付き合うほど暇じゃないの。いい? あんたみたいなバカが一匹紛れ込んでるってだけで、こっちは相当不利になるのよ。分かる?」
 ふん、と嫌みっぽく鼻を鳴らす。
「だからこそ何とか汚名挽回するって言ってんだろ。分かったら邪魔すんごぐげぶッ!」
 懲りずにいきなり身をひるがえそうとしたルロイの顔面に、めりっ、と。待ちかまえていたシルヴィの肘鉄がめり込んだ。
「うおおおおおお鼻血がああああ!」
 ぷぴー! と噴き出す鼻血を押さえながら、ルロイは床の上をごろんごろん七転八倒した。
「あら、ごめんあそばせ。汚名挽回なんていうからつい」
 しれっと肘をハンカチで拭きながら口先で謝るシルヴィに、ルロイは鼻血だらだらの顔で噛みついた。
「完全にタマ獲りに来てんじゃねえかよ! シルヴィ、さてはてめえ……アドルファーに命令されて俺をここに足止めしようとしてんじゃねえだろうな!」
「は? そんなことしてあたしに何の得があるってのよ。全治一生のバカのくせに、こんなときだけ余計な頭を働かせないでちょうだい」  そっけなく鼻であしらわれる。
「うるせえ、あわててごまかすところがなおいっそうあやしい」
 ルロイは疑わしげにじろりとシルヴィを睨み付けた。
「さてはお前、俺をケムに巻こうってんだな? マジでシェリーをどこかへ追いやる気か?」
「そう思い込むのは勝手だけど、ただのバカも度が過ぎたら笑い事じゃ済まされないわよ」
「バカバカ言うな。そう何度も騙されるもんか」
「あたしがいつあんたを騙したっていうの? バカだからバカって言ってやってんでしょ。被害妄想もいい加減にして」
 シルヴィはうんざりと首を振った。
「一人で考えナシに行動するなって言ってんの。あいつはあたしたちみたいな普通のバルバロとは違うわ。考え方がまともじゃない。そんな奴とぶつかったって、お人好しのあんたが勝てるわけないでしょ」
「何い!?」
 かちんと来る。ルロイはたちまちムキになって唸った。
「どっちが強いかなんて、本気で戦ってみなきゃ分からねえだろうが! あのときは本気じゃなかった!」
「何言い出すのよ、このバカは。アドルファーがあんたより強いのは分かってるでしょ。当たって砕けてからじゃ遅いんだから」
「今なんて言った」
 アドルファーと比較され、ルロイはあからさまにかっと頭に血を上らせた。
 シルヴィはさすがに失言に気付いたのか、口ごもった。
「ちょっと待ってよ、馬鹿な真似はやめなって。何でもかんでも自分一人でできるわけないじゃない。そうやって人の話を聞かないから結局……」
「邪魔すんな」
 ルロイはシルヴィを突っぱねた。
「シェリーは俺が助ける。ぐずぐずしてたらマジで間に合わなくなっちまう」
 聞く耳も持たずに部屋を飛び出してゆこうとする。
「ルロイ、待ちなさいったら。あんた一人で何が……ちょっと、ねえ、ルロイったら!」
 シルヴィの狼狽える声が追いかけてくる。肩に手が掛かった。
「待ちなさいってば」
「触るな」
 ルロイは肩に乗ったシルヴィの手を、冷ややかに払いのけた。
 シルヴィはたたらを踏んでつんのめった。声を飲み込む。
「え……?」
「今さら信用できるかってんだ」
 突き放すようにして吐き捨てる。
 シルヴィは眼を押し開き、何か言おうとした。だがルロイは聞く耳を持とうともしなかった。
「そもそも、お前がアドルファーに手を貸すから、こんなことになっちまったんだろうが。これ以上余計な口出しすんな。分かったか!」
 ルロイはシルヴィを突きのけ、走りだした。
 もしシェリーがアドルファーに捕まっていたら──
 そう思うと闇雲にわめいて、突っ走りたくなる。
 シルヴィの言うとおりだ。もっとよく考えて冷静に行動すべきだ、と頭では分かっているのに、シェリーのことで頭の中がいっぱいになって、焦りばかりがつのって、他のことがまるで思い至らなくなる。そういう後先考えない自分の失態が、ただただ情けなく、悔しくて仕方なかった。
 こんなことになったのも、シェリーをひとりぼっちで置き去りにしてしまったせいだ。
 あのとき、シェリー一人を残して、側から離れたりしなければ。
 もし、このまま二度と逢えなかったら。
 もし、アドルファーが──ぞっとする行動に出たとしたら。
(人間と決別しろ、ルロイ)
 冷たい声がよみがえった。
(それが王族の義務だ)
「くそっ……!」
 ルロイは押しつぶされた呻き声を上げた。

 わがままって思われても良いですから、もう少しだけ、こうさせてください。あとちょっとだけ……

 そう言って気恥ずかしげに頬を染め、身を寄せてきたシェリーのいじらしさを思い出して、ルロイは震えだしそうになった。
「俺は馬鹿だ」
 こんなにも自分の愚かさを呪わしく思ったことはない。
 他の誰のせいでもない。全部、自分のせいだ。シェリーの笑顔と泣き顔とが交互に浮かんだ。恐怖の衝動を必死に振り払う。
「馬鹿だよ、マジで馬鹿だ、馬鹿すぎて昨日の俺をぶん殴ってやりたいぐらい大馬鹿だ! 俺の間抜け!」
 呻き出したいほどの後悔をこらえるには、ひたすら自分を責める他にすべはなかった。

 黒い尻尾をがむしゃらにたなびかせ、ルロイは駆け去っていった。その後ろ姿をシルヴィは呆然と見送った。あっという間に見えなくなる。
 半分溶けかけた泥雪の水たまりを踏み越える、びしゃりという音が聞こえた。
 泥水が飛び散った。黒い滲みが残雪の上に降りしきる。
 泥が広がってゆく。
 シルヴィは打ちのめされたように動かなかった。

 普段はゆるやかな小川が、今朝は驚くほど水を増している。
 川底に遊ぶ魚たちの姿も、餌をつつく水鳥の姿も一切ない。橋のたもとの水車が、今にも壊れそうな勢いで回転し、泥水を跳ね飛ばしていた。
 川の上流で何かあったのだろうか。エマは感情のない眼で景色を追った。
 普段はきらきらと透き通って、心浮き立つほどに美しいのに。今朝の水はひどく濁って、粘土と同じ色をしている。
 人の心がゆがめば、鏡に映る自分たちの姿もゆがむ。人の所業がゆがめば、その眼に映る情景もまた同じようにゆがんでゆく。
 エマは橋の欄干にもたれ、濁流が過ぎ去る川縁を見下ろした。自嘲の笑みを浮かべる。
「汚ならしい川。まるで鏡みたい」
 おびただしい量の枯れ草が、水辺の木々が繁茂する岸辺に引っかかっていた。折れた流木。剥ぎ取られた枝葉。それらが木の根に絡みついた様子は、まるでごっそりと抜けた白髪のようにも見えた。
 川にさしかかる枝の一本にカラスが止まっている。
 があ、があ、掠れた声で鳴いている。黄色い眼が川縁の何かを見下ろしていた。があ、があ。
 赤い色。
 エマは光のない眼をまたたかせた。
「……あれは……?」
 目をこらして身を乗り出す。流木と枯れ草の向こう側に赤い何かが引っかかっている。
「いったい何……」
 言いかけて声を呑む。白い手が赤ずきんを握りしめていた。