「ママ!」
エマはよろず屋の裏口ドアを必死に叩いた。
「開けて、早く!」
足元にぽたぽたと泥水が滴った。背中がぐっしょりと濡れている。凍えるようにつめたい。白蝋のような手がぶらりと揺れた。
「いったいどうしたんだい、エマ?」
ようやくドアが細く開く。眼を赤く泣きはらしたフーヴェルおばさんが暗がりにひそむように顔を出す。
「お屋敷に帰ったはずじゃ……」
その声がぎくりと途切れる。エマは母親を押しのけるようにして裏口を押し通った。
エマは傷ついた少女を背中におぶっていた。
「この子が川で溺れてたのよ」
エマは説明する時間も惜しいとばかりに、入り口で呆然と立ちつくす母親を肩で押しのけた。
少女は眼を閉じたまま息もしていないように見えた。ぞっとするほど青白い。身につけた青いワンピースは半ば破れ、靴も脱げている。血色を失った唇は凍えきった紫色に変わっていた。
「タオル持ってきて。お湯を沸かして、それから服を脱がせて、怪我の治療しなくちゃ。早く」
「これは、いったい……」
フーヴェルおばさんは唇を震わせた。
「いいから早く」
エマは母親の反応に気付かず、取るものも取りあえず奥の部屋へと少女を運び入れた。すぐさま少女の濡れた服を脱がせ、硬直した手に握った赤ずきんを、むりやりに指をほどいて取り上げる。
「ママ、お湯持って来て。早く」
首をねじって声を荒らげる。
「あ、ああ、分かってるよ」
フーヴェルおばさんは狼狽した声をあげて後ずさった。逃げるように台所へと向かう。
「……何てことだろう、まさか」
歯列の隙間から声を絞り出すようにして呻く。
震える手で鍋を持ち上げようとする。鍋底がかまどにぶつかった。取り落とす。けたたましい音が床に転がった。
▼
突然、目の前の枝から鳥が飛び立った。枯れ葉が舞い散る。
ルロイは困惑して立ち止まった。
「足跡が……」
雪に残った足跡が道の途中で途切れている。
寒気がこみ上げた。視線を崖下へと向ける。急流が逆巻いていた。ぞっとして目をそらす。
嫌な予感がこみ上げる。
「そんなこと、あるわけが……」
ルロイは眼を瞑った。最悪の想像を頭から振り落とす。
道の端に雪を踏み荒らした形跡があった。靴跡だ。身をかがめ、膝をついて、周辺を丹念に調べる。
「この匂い……」
険しい表情で木の幹に鼻を近づける。
「……?」
ほっぺたを寄せ、もう一回匂いを嗅ぐ。
「……うむ」
にんまりと笑み崩れた。鼻の下がでれーんと伸びる。
「えへ、えへ、えへへ……? やっぱシェリーだ、うひゃひゃひゃ俺のシェリー! いい匂いだぁ……あひゃひゃ~~くんくんしたい、くぅ~~ん……」
マタタビにじゃれる猫みたいにでれ~~んとして木の幹に抱きつき、尻尾をぱたぱた振りながら首の後ろをこすりつける。
「ハァハァ、たまらん……! シェリーの匂いだ……そうそう、この、ほわわんとした、ハーブのような、石けんのような、バニラのような……それでいて何というかこう、夜に咲く純白の百合というか、楚々としてつつましやかに恥じらいつつも月下に清冽ににほひたつ清純なエロスのかほり……えへへへ……えへへへへ……はっ!?」
ぎくっとして我に返る。
「な、何やってんだ俺は!? 危うく木の幹ごときに発情するところだった……! 危ねえ……さてはこれも奴の罠か!」
冷や汗をぬぐい、表情をきりっとさせる。
鼻をくんとさせる。木の幹にはもう一人、別の臭いがひそんでいた。一瞬触れたかどうかといった程度のかすかな痕跡だ。
「アドルファー……」
鼻に皺を寄せた。獰猛に唸る。
その名を口にするのも忌々しい。追っても追っても追いつけないもどかしさに、自分への苛立ちがこみ上げた。深呼吸を繰り返し、腹の底が煮えくりかえる激情を押し殺す。
「つまり、あの野郎もシェリーの足跡を追ってここまでたどり着いたってことだな」
ルロイは木肌に手をついた。抜け駆けされた事に対する苛立ちを振り捨て、暗い眼で遙か崖の下を見やる。
「その後、いったい……?」
普段はせせらぎ程度のおだやかな水量しかない渓流が、今は雪解けの水を集めた濁流に変わっていた。岩床は激しい水しぶきをかぶって黒く濡れている。
あの勢いでは河原沿いに歩いて下ってゆくのも不可能だろう。いつ水勢を増した川に流されてしまうか分からない。増水した川縁を歩くことがどれほど無謀で危険きわまりないことか、山に棲む者ならばすぐに考えが及ぶはずだった。
かといって、他に可能性がないのも事実だった。特に急いだ様子もなく、呑気にとことこと歩いてきたらしい足跡は、ここでいったん立ち止まったあと、ふっつりと途切れている。この先の道をシェリーが歩いた形跡はない。
「いったい、どこに消えちまったんだ」
ルロイはなけなしの脳みそを絞った。頭をいらいらと掻く。
「くそ、わけ分かんねえ……」
それみたことか、としたり顔で笑うシルヴィが脳裏に浮かんだ。
(だから言ったでしょ、あんた一人じゃ何もできないって)
「うるせえんだよ」
今さら非を認め、頭を下げることなどできるはずもなかった。後ろめたさを振り払おうと、ルロイはいじけた唸り声を上げた。
「シェリーを助けたいって思うことの何が悪いんだ。さんざんアホだのバカだのとけなしやがって」
木に両手をついてがっくりと肩を落とす。
「とはいうものの、どうしたらいいんだ。せめて、何か手がかりになるようなものでも残っていれば」
うつむいてため息をつく。
大量の流木が河原に打ち上げられていた。剥き出しの肋骨を思わせる枝が、岩と岩の間からぞっとする白さで突き出している。
「ん?」
何かが目に留まった。眼下の河原に飛沫が飛び散るたび、同じ場所、同じきらめきが何度も繰り返し瞬いている。
「何だ、ありゃ?」
眼をすがめ、見入る。何かが光っていた。
▼
「何とか……怪我の治療だけは終わったけど」
エマはベッドの縁に置いた椅子に腰を下ろした。包帯で全身を巻いた少女を無言で見つめる。
少女は死んだように眠っていた。目覚める様子はない。
おそらくは溺れてすぐ意識を失ったのだろう。あちこちぶつけたり、擦りむいた痕はあるが、運の良いことに命に関わるような怪我はしていない。
金色の柔らかな髪。今は見る影もなくやつれているが、元々の顔立ちはたぶん、人形のように愛らしかったはずだ。
エマは暗い瞳を少女の首筋へと向けた。包帯を巻いて隠した傷は、打ち身だけではない。いくつも強く噛まれたような傷があった。
森で獣に襲われたのか。
それとも──
そっと髪を撫でてやったあと、投げ出されたまま動かない手を毛布の下へと戻してやる。その手はつめたく、ぐらぐらとして、何の抵抗もなかった。
「あんかを持ってきたよ」
ぎっ、とちょうつがいの軋む音がして寝室の戸が開いた。母親のフーヴェルが入って来る。
「様子はどうだい」
バケツに火ばさみを差したものを下げ、古びたキルトの袋を小脇に挟んでいる。フーヴェルは腰をかがめ、焼き石の入ったバケツを床に置いた。ごと、とバケツから石の転がる重い音が聞こえた。
「ううん」
エマは気弱に首を横に振った。少女に視線を落とす。閉じられたまぶたはぴくりとも動かなかった。長いまつげがやつれた影を落としている。
「変わりなし。目を覚ます様子もないわ」
「……そうかい」
フーヴェルはエマに背中を向けた。机の上にあんかの袋を広げ、バケツから焼き石を取り出して並べる。しわぶかい手が小刻みに震えていた。
「ねえ、ママ。この子、どこの子か知ってる? もし、誰か知り合いがいるようなら……」
「お前はもうお屋敷にお帰り」
丸めた背中が揺れるように動いている。声だけがした。三角巾で覆った白髪がうなじにほつれている。なぜか急に老け込んでしまったかのようだった。顔も上げず、ただうつむいて、バケツから熱い石を取り出しては、ひたすら袋の上に並べている。
「あんまり遅くなると、旦那様にお叱りを受けちまうよ」
「……うん」
エマは答えをためらった。心配そうに少女の寝顔を見つめる。視界の背景に、部屋の隅のハンガーに吊した赤ずきんが映り込んだ。暗い、重苦しい部屋には余りにも不釣り合いな色。赤い色。
「でも……」
「いいから。もう、余計なことは考えずさっさと帰っちまいな」
フーヴェルおばさはそっけなくたたみ込んだ。エマを見ようともせず、かたくなに机の上の石を睨んでいる。
火ばさみを使う手だけが動いている。
さっきから、何度、同じことを繰り返しているのだろう。焼いた石を分厚いキルト袋の中で無駄にたくさん詰め込み、ごつごつしないよう、平らにならして袋を閉じようとしては止め、余計な石を取り出す。何度やっても、完璧に平らにすることなど、決してできはしないのに。
「この子の看病ぐらい、あたしがやっとくよ。よその子ばっかり心配するなって言ったのはお前自身だよ。お前がぐずぐずしたせいで、旦那様に疑われたりでもしたら、カイルはどうなるんだい」
よそよそしい声だった。
「……クレイドさまは」
エマはうつむいた。シーツの端を引っ張って、そぞろに指に巻き付ける。
「そんなに悪い人じゃないわ」
母親の言うとおりだ。目の前の傷ついた少女を拾って介抱すれば、とりあえずは”何もしなかった”ことに対する自責の念からは逃れられる。そのほかの、いろんなことからも。
だがそんなものは結局、現実逃避でしかない。一時の情に流され、目くらましの偽善に無為の時間を費やしたところで、弟のカイルを助けることはできない。しかし、だからといって即座に手のひらを返せるほど心が強くもなかった。
「……良い悪いの話じゃないよ」
「でも、クレイドさまは自分のお仕事をなさっただけだもの。結局は余計な真似をしたカイルが悪いんじゃない。みんなにこんな心配掛けて……」
「それでも」
フーヴェルは寂しげにつぶやいた。
「あの子を信じてやれるのはあたしたちだけなんだよ」
エマは黙り込んだ。
ためいきばかりがこぼれる。どうしたらいいのか分からず、互いに黙りこくる。
ただ帰りたくないだけのことを、見抜かれているような気がした。
主であるクレイドの怒る顔だけは見たくなかった。
こんなことさえなければ。
普段のクレイドは、王家に輿入れした親戚がいるとはとても思えないほど、明るく気さくな青年貴族だ。よもやこのようなかたちで関わってしまうことになろうとは夢にも思わなかった。本来なら、使用人ごときにお声掛かりがあるはずもなく、ましてや不相応の思いなど抱くことすら恐れ多い天上の身分だ。
顔を覚えてもらわなくてもいい。名を知ってもらわなくてもいい。ただ、ひっそりと仕えていられるだけで十分に幸せだった。クレイドの使ったシーツにこっそりと触れ、男らしい匂いに胸を焦がす。クレイドが使った食器にこっそりと唇を寄せ、誰かに見つかりそうになるたび、あたふたと頬を染め、食器を光を透かして念入りに磨く振りをする。
あの方の目に留まろう、などいう大それた望みすら持ってはいなかった。同じ屋敷の、ほんの片隅でいい。あの方が日々をお過ごしになるほんのひとときのお手伝いができたら、それで。
なのに。
よりによって弟が罪人呼ばわりされて。
重荷だ、としか思えなかった。弟の存在がまるで、じとじととまとわりつく湿気のように重苦しかった。こんな面倒を引き起こした弟のことを、まるでクレイドとの間に立ちはだかる壁のように疎ましく思いながら、でも、もしかしたら──
この騒ぎがきっかけとなって逆に──ああ、なんと罪深いことだろう──クレイドに近づく些細なきっかけにできるのではないかと、あの方がつみびとに垂らしてくださった憐憫の糸のように思えてしまった。その糸を手に取れるものならいっそ他人を犠牲にしてもいい、母を傷つけてもいい、とさえ。
ばかげた妄想だ。最初からそんなものあってもなくても同じだと分かっているくせに。
顧みた自分の汚さに打ちのめされそうになる。
見透かされているに違いない、と思った。こんなことになってもまだ、クレイドのことを思うと、胸が締めつけられたように苦しい。届かぬ思いが苦しい。
恥知らずで、自分勝手で。
浅ましくて。
嫌な女。
惨めだった。
フーヴェルは手だけを黙って動かしている。石の当たる音がちいさく続く。
無言の背中が、馬鹿げた夢想をたしなめているかのようだった。エマは吐息をついた。
「結局、余計な心配事をさらに増やしちゃっただけみたいね。ごめんね、ママ」
フーヴェルは手を止めた。あんかの袋を折りたたみ、ためいきの笑みをもらす。
「そんなことはないよ。困ってる人を助けるのは人として当然のことさ。ほら、これ。その子の足元に入れておやり」
あんかの袋をエマに手渡す。エマは母親の言うとおりにした。毛布をめくり上げ、冷え切った少女の足元に温い袋を押し込む。フーヴェルは煤で汚れた手をエプロンで拭った。
「むしろあたしゃ誇らしい気持ちで一杯だよ。こんな時でも、お前が人としての優しさを失わない子だと分かってさ。大丈夫。何も心配することはないよ。あんたもカイルも、二人ともママの自慢の子どもたちさ」
細めた眼が笑っている。
「ママ」
「さあ、これでもう一安心だろ? 気が済んだら挨拶のキスをさせておくれ」
エマは自分より遙かに背の低い母親のために腰をかがめた。フーヴェルは目尻の皺をほころばせた。首に手を回して抱擁の挨拶をする。
「まあ、どうしたことだい? あんたまたずいぶんと背が伸びたねえ。いつの間にかこんなに大きくなって。背伸びしなきゃキスもできないよ」
疲れた顔の母親を見ると微笑みを浮かべるしかなかった。
「やだ、もう、そんなこと言われたら逆に恥ずかしいわ。もういい年なのに。同い年の子で結婚していないのは、村じゃあ私くらいよ」
クレイドのことが脳裏に浮かんだ。叶わぬ思いに身を焦がしても自分が傷つくばかりだ。
「いい人がいればいつだってできるよ」
頬にキスし、肩を叩いて、互いに慰め励まし合うかのように抱きしめる。
「良い子だよ、お前は。さあ、お帰り。遅くなるといけない」
フーヴェルは力づけるように笑ってエマを押しやった。
「ママ、あのね、あの……私、ちょっと気になるんだけど」
エマは背中を押されながら、母親を振り返った。どう切り出したものか悩みながら語尾を濁す。
フーヴェルは顔をくしゃりとさせた。愛想の良い赤ら顔がなおいっそう笑顔になる。
「なあに、心配するこたないよ。いったい、どこの村の迷子だろうね? この子の目が覚めたら、名前を聞いて、どこの村から来たのか尋ねて、行商のついでに送り届けてくるだけのことさ。どうってこたないよ」
よどみのない答えが返ってくる。
エマは口ごもった。
「そうじゃなくて、もしかして、その子……」
「いいから。さっさとお行き」
唐突に突き飛ばされる。部屋から追いやられたかたちになって、エマはつんのめった。
ぎくりとして振り返る。狭められるドアの向こう側にある母親の笑顔が、すっと暗く、細くなり、消えてゆくのが見えた。ドアに声が遮られる。
「お前は関わらなくていいんだよ」
「ママ?」
思わず、声を上げてドアにすがりつきたくなる。扉が音を立てて閉まった。
暗がりの向こうと。
こちら側。
世界が完全に分け隔てられる。
「ママ……」
エマは立ちつくした。頑なに閉じられた扉を見つめる。
空気までが断ち切られたような気がした。