藁の積まれた納屋の向こうに、別の家の裏口が見えた。
すすけたれんが色のえんとつが屋根から飛び出している。おなかがぐうぐう鳴りそうないい匂いがした。パンの匂い。ベーコンの匂い。甘ったるいソースの匂い。それから金物や埃っぽい木の匂い。表の道路側にはブリキの牛乳缶がいくつも転がっている。石を積んだ大きな洗い場もある。
「雑貨屋か……?」
道路に面した店の表側に、ぶら下げた板看板が揺れていた。目を皿のようにして、まじまじと見入る。
「ええと、何て書いてあるんだ? フー……の店……」
そこまで読めたところで風が吹いた。看板がくるりと回って裏返しになる。
ルロイは苦笑いした。鼻をふんふん言わせて、手や肩や、身体のあちこちに染みついた臭いを嗅ぐ。トマトやブドウ、あとは潰れた野菜の青い匂いといったところか。
まずはこれをどうにかしなければならない。
「ちょうどいいや、あそこで顔を洗わせてもらおう」
洗い場には井戸もある。ルロイは用心深く左右を見回した。
「誰もいないな……? よし、今のうちだ」
さっと走って目指す庭に忍び込む。
さいわいなことに、ルロイが隠れている裏庭に面した窓には分厚いカーテンが下ろされていた。たとえ中に人がいたとしても、カーテンを開けない限り、外にいるところを見られる心配はない。
「取りあえずこれで一休みできそうだな……って」
ほっと一安心したとたん、逆にあちこちが痛くなってきた。思いきりぶん殴られた後頭部がずきずきと疼く。
「カボチャって普通食うもんだろ! せっかくの食い物を鈍器にしちまうなんて、まったく、もうバチアタリな……!」
ぶつくさ言いながらたんこぶをさすっていると、腹の虫がぐーと鳴った。ポケットをまさぐり、何か食べられるものはないか探す。チョーカーの紐が指にひっかかった。気にも留めず、さらに探る。
「何か食うものねえかな……」
ポケットにあったものをまとめて掴み出し、ゆっくりと手のひらを開く。
食べ終わったキャンディの包み紙。落ち葉のカケラ。いつかシェリーにあげようと思って隠し持っていた、まんまるい鍾乳石の真珠。
それから。
「……これは……?」
意外なものが入っていたことに気付いて、ルロイは存外の表情を浮かべた。
「いつの間にこんなもの」
しばらくの間、手のひらの上に載った、小さな”約束”をまじまじと見つめる。声もない。
だが、いつまでも感慨に耽っているわけにはいかなかった。新たな決意を秘め、思いを壊してしまわないよう、そっとポケットにしまい込む。
ルロイは一度変なマスクをゆるめ、呼吸を整えた。それから息をひそめ、家人に気付かれないよう、身を低くして、じりじりと井戸に近づく。
なぜか、濡れた泥と草を踏んだ靴の臭いがした。増水した川からずっと続いている氾濫の臭いと同じだ。
音をさせないよう、つるべの桶をゆっくりと下ろす。
地下深くで水の音がした。無事汲み上げられたらしい。ゆっくりと桶を持ち上げる。
桶が上がってきた。水が半分ぐらい入っている。
「よっしゃあ、水だ、水、水! 頂きまー……あっ、そうだ」
思い当たることがあって、ぎくりと首をすくめる。
「確か、食事前にはいつもこうやって、両手を結んで……何て言ってたっけ……?」
地面に座り込み、背筋をぴんと伸ばし姿勢を正して、あやふやな記憶を頼りに桶を地面に置く。
「えーと、確か……今日一日の、うむ……何だっけ? まあいいや、とにかく感謝するんだっけ? ええと、明日も今日とおなじように、平和で、幸せな一日でありますように。ずっと──」
ふと、口をつぐむ。
ぱちぱちとはぜる暖炉の火の前で、シェリーと抱き合ってほおずりした記憶がよみがえる。
酔っぱらったほんのり赤い顔。すこしうるんだ瞳。物わかりの良すぎる子どもみたいに、服の襟を心許なげに掴んで、頬を寄せて、すがりついて。
(明日も、今日と同じく平和でありますように)
平穏で、ささやかな、だけれども何よりも大切な願い。でも、そんなちっぽけな祈りすら昨日の自分はかなえてやることができなかった。どんなにあたりまえに思えても、それは本来バルバロと人間の間には存在し得なかったはずのもの。昨日までの平穏は、二人で力を合わせ必死に守って、やっと手にできたしあわせなのだ、と分かっていたはずなのに。
一度手に入れてしまえばもう、二度と壊れることなどない、と。愚かにも信じ込んでいた。
もしかしたら、そんな安らぎの日々はもう二度と戻って来ないのだろうか……?
まさか。ルロイは強く鼻をこすった。悩む間があるなら、そのぶん前へ進めばいい。その先に何があるか、飛び込んで行ってみれば分かることだ。今、自分にできることは一つだけ。シェリーの無事を信じ、互いの思いを信じる。ただそれだけだ。
そのとき。
「おい、コソ泥野郎。そこで何やってる」
背後から男の声がした。武器を構える金具の音が甲高く響く。銃の撃鉄を起こす音だ。
寒風がすり抜けたような感覚に、ルロイは身をこわばらせた。ぎくりとして桶を蹴飛ばしてしまう。横倒しに倒れ、中の水があふれた。黒く地面に広がる。
「別に。喉が渇いたから、ちょっと水を飲ませてもらおうと思っただけだ」
平然と言い返しながら、かすかに舌打ちする。バルバロにあるまじき失態だ。いくら風下から接近されたとはいえ、これはあまりにも下手すぎる。
「嘘をつけ。どうせ家畜を盗みに来たんだろう。手を上げて、ゆっくりとこっちを向け。逆らったら特注のイノシシ弾を全弾、脳みそにねじり込んでやるからな」
男は口汚く罵る。声に焦りが混じっていた。ルロイは唇をゆがめた。さすがに銃を持った相手に立ち向かうのは面倒だ。
「だから、泥棒じゃねえって言ってるだろ」
「口答えするな! 顔を隠したって分かってんだ。さっさとこっちを向け、盗人野郎!」
悪態ついでに背中を銃口でぐいと小突かれる。
「……分かったよ」
ルロイはうんざりとうなずいた。ここは無闇に挑発に乗ったりせず、素直に従った方が賢明かもしれない。少なくとも帽子とマスクで変装していることだし、いきなりバルバロと見抜かれることもないだろう。
仕方なく、腹をくくって振り返った──途端、もくろみは脆くも崩れ去った。
「ぎゃぁぁぁぁあ出たぁぁぁぁ血まみれゾンビーーーッ!!!」
トマトまみれのルロイを見たとたん、相手は銃の引き金に手を掛けた。
エマは息を呑んだ。クレイドはゆっくりとソファに膝をつき、なげやりに覆い被さってくる。
手慣れた仕草だった。ひどく優しく、甘く、分かり切った所作。胸が痛い。そんなことに傷つく自分こそが馬鹿だと分かっていた。なのに。
どうしてこんなことになっているのだろう。いつの間にかガウンの紐をほどかれ、汚い布をつまむような指づかいで下着を脱がされ、取り去られる。
どうして、自分は抗わないのだろう。ねちねちと嫉妬して歯ぎしりするメイド仲間の声が聞こえてくるような気がした。
仰臥してクレイドを見上げる。
降りてくる暗い手が、まるで罪人を取り押さえる刺又のように思えた。あるいは売春婦に懺悔を強いる偽善者のようにも。
青い目が光っている。
組み敷かれ、肩を押さえつけられる。裸なのは自分だけだった。ひとりよがりに濡れて火照っている肌を見下ろされる。
「教えてほしい」
ぬるく汗ばんだ肌も。
抗わぬ黒い腹の内も。同僚を出し抜いてやった、とほくそ笑む薄汚い打算も。
すべて見透かされている。
エマは恥ずかしさのあまり、顔をそむけようとした。クレイドの眼に映る自分の姿を直視できなかった。
「君の心が知りたい」
肌の反応を確かめるように、腿の内側を、膝の裏を、足首を指がまさぐる。
「ぁぁ……」
抱かれる、と確信したと同時に熱い吐息が洩れた。
「今回、君が快く協力してくれたおかげで、どれほど私の肩の荷が下りたことか。君には到底想像も付かないだろうね。欲しいものは何だ? 宝石? 毛皮のコート? それとも小さな村ひとつまるごと? 本当のことを言いさえすれば何でも買ってやろう。私は君を必要としている」
「ぁ、あ……クレイド、さま……分かっています」
乳房をもみほぐす指が、悶える肌を伝う。
身体が吸い付く。反応している。
これも取引だ、などと。浅ましくもみだらにうわずる頭で考える。
そんな汚さすら見抜かれていると分かっているから。
だからこそ都合良い密偵として選ばれたのだと分かっているから。
事が成就した暁には、薄汚い裏切り者の価値など砂よりも軽くなってしまって、正義と天秤に掛けるだけの存在感すらなくなってしまうだろうから。
「何かあったら、必ず、すぐにお知らせします、あなたの、仰せのままに……ミ・ロード」
だから。
濁った水のように、嘘をつき続けよう。
川底の美しい秘密を隠してしまおう。
伏せたカード。それだけが、このひとの興味を自分へと引きつけられる唯一の切り札だ。
私のせいじゃない、母だって本当はあの娘が誰なのか知っていたくせに、口を閉ざして何も言わなかった。ちくちくした罪悪感にかられて真実を覆い隠そうとした。言えばカイルを助けられると分かっていたくせに。黙っていれば見逃してもらえるとでも思ったのか。もっと自分の値段をつり上げられるとでも思ったのか。いくらとってつけた汚い嘘で塗り固めても、仮面を剥ぎ取られてしまったらすぐにばれてしまうのに──
違う。
ママは、絶対に、そんなことしない。
そんな阿漕なふうに考えてしまうのは、自分が一番、後ろめたいからだ。
自分が一番、汚いから。
自分が一番、罪深いから。
あの時に見た川の汚さと同じぐらい濁っているから。
涙がこぼれた。
「ぎゃぁぁぁぁ血まみれゾンビ!」
「ゾンビ!? えっ!? どこ!?」
予想外の反応に唖然となる。だがルロイも自分の顔を鏡で見てみれば納得しただろう。ぐちゃりとつぶれた黄緑色の液や、べろりと皮が剥けたようになった包帯。その下から真っ赤なトマトの果肉がのぞいたり、ブドウの赤い汁がぼたぼたと垂れていたりしたら、だ。
「何だい、今の騒ぎは?」
窓越しに声が聞こえた。家の中から足音が響く。
わずかにカーテンが揺れ、縦に細い隙間ができた。ぎくりとする。誰かがこちらを見ている。一瞬、部屋の内部が透け、暗い輪郭の光を放ったような気がした。
「な、何だ、今の……?」
心が吸い寄せられてゆくような感覚──ルロイは足を止めそうになった。
「待て、ゾンビ!」
猟師が声を荒らげる。ルロイははっとした。
「……くそ、この緊急事態にゾンビかよ! いったい、どこに……!」
焦って身をひるがえす。とたん、恐怖におののく猟師と真正面からぶつかった。互いに跳ね飛ばされ、のけぞって倒れる。猟師は落とした銃に飛びついた。銃口を向ける。
「く、く、来るなッ、ゾンビめ!」
「だからゾンビなんてどこにいるんだ!」
「わしの目の前だ!」
「だからどこ!」
「ここだ!」
まっすぐ指を差される。
「……は? 俺?」
猟師がうなずく。
「……誰がゾンビだッ!」
ルロイはしばらく考え込んだあと、いきなり逆上して怒鳴りつけた。猟師の胸ぐらに手を伸ばして掴みかかる。
「もう一回言ってみろ、噛みつくぞ、てめえ!」
「ひぃぃっ……う、撃つぞ……!」
引き金に指が掛かる。そのとき、ぼとっ、と。半分だけ剥けたブドウの粒が、まるで腐った魚の目玉のように地面へとこぼれおちた。
「ひぃぃぃぃ顔がもげたーーーっ! く、く、来るなあぁぁーーっ……!」
猟師が昏倒寸前の悲鳴を上げる。
ルロイはとっさに身を低くし、猟師の手首めがけて飛びかかった。黒光りする銃口を手で上に跳ね上げ、身体をひねりながら銃身をなぎ払う。
「ぎゃぁぁぁぁ噛まれた……もうだめだ……ゾンビになる……!」
突き飛ばされた猟師は手首を押さえ、よろめいた。恐怖のあまり白目を剥いて失神する。
「うっせぇ、誰がなるかよバーカ!
ルロイは猟師をけっ飛ばし、牙を剥きだして唸った。
急に背後が騒がしくなった。広場の方向だ。侵入に気付かれたのかも知れない。ルロイは後ずさった。
人目を避けるため、後ろ髪引かれる思いでその場から逃れる。これ以上、長居はできない。いったん、村はずれまで戻ることにし、枯れ草がこびりついた土手の斜面を滑り降りた。石橋の袂に身を潜める。
「何だよ、ちくしょう! こっちはシェリーを捜したいだけだってのに、次から次へとありんこみたいにわらわらわいて邪魔しやがって。全く前に進めねえじゃねえかよ」
ルロイはどすんと腰を落とした。いらいらとした気分を乱暴な言葉で紛らわしつつ、拳で冷や汗をぬぐう。
「とにかくシェリーの居場所を……ん?」
なぜか硬い感触がこめかみをかすめた。
「な、何だ、これは……!」