お月様にお願い! 番外編 恋の赤ずきんちゃん

世界で一番しあわせな王女様は、だあれ?

「出たぁぁぁぁ……!」
 奇声が聞こえた。カーテンを引いた窓の向こう側からだ。
「何だい、今の声は」
 フーヴェルは弾かれたように立ち上がった。どうやら裏庭で誰かが激しく揉み合っているらしい。
 視線と物音につられ、シェリーもまた窓の外をうかがった。カーテンがほんのすこしだけ開いている。その隙間から見えるかも知れない。バケツを蹴飛ばしたような音がした。黒い影が飛び退く。
 目があった、ような気がした。はっと息を呑む。今のはいったい──
「気にしなさんな。怖くなんかないよ。安心おし」
 シェリーの青ざめた顔色を見とがめたのか。フーヴェルはすぐに表情をやわらげた。足早に窓際へと近づく。
「ありゃたぶん、隣のマートンじいさんだよ。また野良犬が家畜小屋に入り込みでもしたんだろうさ。気にしなくていいよ」
 そう言うや、ろくに外の様子を確かめもせずさっとカーテンを引く。部屋は再び薄暗くなった。
 でも、さっきの声は。
 シェリーは手で喉をおさえた。やはり声は出ない。ふいごみたいな音だけがする。
 フーヴェルは首を振った。シェリーの髪を優しく撫で、穏やかに言い含める。
「無理しちゃいけない。元気になるまでは動いちゃだめだ。うちで養生しな。無理に動かしてまた身体を壊させちまったら、あんたんとこのおうちのひとに申し訳が立たないよ」
 おうちのひと。シェリーはとまどった。
 なぜか急に心許なくなる。鼻の奥がつんと痛い。
「ほら、ゆっくりおやすみ。大丈夫だから」
 噛んで含めるような口調だった。優しく労ってくれる声だ。なのになぜか、真綿のような言葉の鎖で無理矢理にベッドへ縛り付けられているような気がした。
 不安に心が揺らぐ。
 まさか。もしかして。何か口に出しては言えない理由があって……
 執拗にまとわりついてくるひねた考えを振り払う。
 普段の自分なら──
 どんなふうだったのか本当のところはよくは思い出せないけれど、でも、きっとそんなひねくれたふうには思わないはずだった。こんなに優しくしてくれるのに人の親切を疑うなんて。考えすぎだ。そんなことなどあるわけがない。そうに決まっている。でも。
 もし、また”裏切られたら”。
 ふとそんな言葉が脳裏にうかんだ。心なしか、ぞくっとする。
 もしかして、誰かに裏切られるようなことがあったのだろうか? だとしたらいったい何があったというのだろう……?
 川で溺れて。
 バルバロに襲われた……。
 息を吸い込み、身体をちぢこめる。思い出そうとすればするほど、心が押しつぶされそうになる。違う。ただ襲われただけじゃない。思い出したくもないような、強引な何かをされた記憶が──
「しっかりおし。震えてるよ。大丈夫かい。熱があるんじゃないのかい」
 手が額に触れる。
 フーヴェルはゆっくりとシェリーの身体を横にさせた。仮面のような笑顔だった。
 シェリーは我に返った。こわばった笑みを浮かべ、表情を取りつくろう。
 やっぱり考えすぎだ。そうに決まっている。何度も同じ言葉を自分に言い聞かせる。この優しいおばさんを心配させてはいけない……。
 だが、身体に残った疲れは自分で思っているよりはるかに煩わしかった。
 横になって眼を閉じたとたん、記憶が断片となって降り落ちてきた。夜の底に引きずり込まれる。
 嫌な夢だった。足が忘却の黒い罠に引っかかっている。割れた岩のように食い込んで、どんなにもがいても動けない。
(俺の名を呼べ)
 その名を声に出せば、吐息まで凍ってしまいそうだった。なのに、憎悪のまなざしは容赦なく近づいてくる。
 喉を絞められ、目がくらんで、息ができなくなる。ちらつく金の光。尖った三日月の形をした首飾り。
 誰……?
 無理矢理に口にさせられたその名は、いったい何という名だったか。
 もどかしさがこみ上げる。声に出せればすぐにでも思い出せそうな気がするのに、記憶が形にならない。
 何度も口にしていたはずの名だ。知っているはずだ。
 なのにためらいが記憶に蓋をする。思い出すのが怖い。悪夢の中の見知らぬ誰かがあざ笑っている。信じたお前が愚かだと罵倒する。
 現実とも悪夢ともつかぬ後悔が、心を黒く浸した。

 板張りの細い隙間からかすれ声が洩れ聞こえてくる。
「あれは」
 カイルは息を呑んだ。後ろ手に手枷を嵌められたまま、羽目板の節穴に眼を近づける。
 呻きとも、よがり声ともつかぬ甘ったるい歓喜の喘ぎ。ベッドの軋みと同期した女の痴態に声をなくす。
「姉さん……!」
「大きな声を出すな」
 肩に手を置かれる。
 女が目の前で貴族に身体をゆだねている。
「これで分かっただろう」
 背後の声に、カイルは顔をこわばらせた。
 首と繋がれた枷の鎖を引かれ、強引に連れ戻される。カイルは無様にのけぞり、よろめいた。隠し部屋から連れ出され、膝をついて、床に突っ伏す。現実から逃れてもまだ、幻聴のよがり声が、耳にべっとりととこびり付いたままのような気がした。
「お前がなぜ、犯してもいない罪に問われたのか」
 鎖を手にした家令がつぶやく。
 埃っぽい隠し部屋で身を潜めていたというのに、銀ねずの燕尾服には蜘蛛の巣ひとつついていない。汚れた白い手袋をあたらしいものへと無表情に取り替えながら、家令のヨアンはカイルを見下ろした。かすかな侮蔑の表情が浮かんでいる。
「お前の姉エマ・フーヴェルは、ロダール伯に仕える密偵だ」
 カイルは顔をそむけた。聞きたくなかった。
 家令は平然と鎖の端を壁の留め具に引っかけた。じゃらりと音を立てて鎖が垂れ下がる。
 後ろ手に縛られ、首枷を付けられ、這いつくばらされている。犬同然の扱いだ。
「あんただってそうだろうが」
 吐き捨てるように言い返す。家令は肩をすくめた。
「お前を利用したのは私ではない」
 カイルは鎖の繋がった手を力なくだらりと垂らした。
 エマは──
 最初からクレイドの、ロダール伯爵の手下だった……?
 さもエマの身に何か良くないことが起こるようなふうに脅して……嘘をついて、罠に掛けて、シェリーを裏切らせようと仕向けた……?
 唇を噛む。苦い血の味がした。吐き出したかった。
「何で、あんなものを僕に見せる」
 家令は質問には答えず、胸ポケットに手を入れた。引き抜いた指先に小さく、銀色に光るものが挟み込まれている。
「何の鍵か分かるかね」
 カイルは表情を噛み殺した。うつむいて、神経を研ぎ澄ます。
 舌打ちの音が聞こえた。ぎくりとする。
 続きの間に、誰かがいる。
 女物の靴の音が床をいらいらと踏み鳴らしていた。木の軋む音。誰かが椅子に腰を下ろした。妖艶な百合の香りが鼻腔をくすぐる。
 あれは貴族の匂いだ。庶民の匂いではない。
 背筋がぞくりとした。
「知るか。僕は鍛冶屋じゃない」
 口を開くだけで、錆びた鉄を噛むような味がした。うつむいたまま吐き捨てる。
「見ただけで分かるわけないだろう」
 目の前の床に、銀の鍵が転がった。当惑して見つめる。
「さっさと拾いなさい」
 続きの間から、邪険な女の声がした。カイルは眼を走らせた。聞いたことのない声だ。
「誰だ」
 鉄の筒が強く押し当てられる。冷酷な意図がこめかみに伝わった。
「余計な口を利くな。先に答えろ」
 火薬の臭いがした。
「悪いけど僕はパン屋だ」
 平然と強がってみせる。
パンブレッドの味は分かっても、弾丸ブレットのことは分からない」
「そんなに知りたいか」
 家令は火蓋の撃鉄を起こした。耳の穴に銃を押しつける。鼓膜に直接、死の鼓動が反響した。心拍数が上がる。
「鉛の味が」
 歯を食いしばる。手は背中側で枷を嵌められている。ほどいてくれる様子はない。手では拾えないと分かっていてわざと──
 冷や汗が脇の下を流れた。屈辱に全身が燃えそうだった。だが、どうすることもできない。
 カイルは固唾を呑んだ。
 下手をすれば撃たれる。抗うことはできない。眼を固くつぶる。息が上がる。
 少しずつ身をかがめ、顔を床に近づける。身体が震えた。手を使えないのなら、口で拾うしか……
 頭上から女の笑い声が降った。
「……!」
 黒いヒールの爪先が鍵を踏みにじる。
「どうしたの。ほら、お取りなさいな。犬みたいに」
 嬉しそうに声がうわずる。嘲笑の笑いだった。
「自由の鍵。欲しいんでしょ?」
 カイルは呻いた。眼を閉じ、靴の爪先に唇を押し当てる。
「穢らわしい」
 鼻柱を蹴られる。鈍痛が走った。なまぬるい鼻血がぼたぼたと床に落ちた。それでも後頭部に鉛の弾をくらうよりはましだ。
 血まみれの唇を寄せ、口で鍵をくわえ、拾い上げる。
 顔を上げようとしたがかなわなかった。女のヒールが首につけられた鎖をわざと踏みつけている。
 ぎりっ、と、音を立てて口の中の鍵を噛む。鉄の味がした。
「鏡をもっていらっしゃい、ヨアン」
 女が傲然と命令する。
「何にお使いに」
「現実を見せてあげるのよ。この哀れな男に」
 家令は大きな姿見を引きずって戻ってきた。鏡に映し出された自分の姿に、カイルは吐きそうになった。
「こんな自分の姿をどう思う?」
 黒いガウンの裾が見えた。足首すら見えないほど裾の長い、なめらかな重ね織りのレースが、馬鹿にした音を立ててカイルの鼻先をかすめる。
「壁の向こうのお前の姉は、お前を売った報酬として何を手に入れたのだと思う?」
 陰湿な蔑みの響き。
 目の前に、黒い百合の花束が落ちてきた。黒と白のリボンで結ばれている。葬送の花だった。死の匂いがした。
「あなたを売った金で、エマ・フーヴェルはこれからの人生をたっぷりと楽しむ。宝石も、毛皮も、ガウンもショールも手袋も新しいフードも狩猟用の馬だって思いのまま。男を虜にするセックスの仕方を覚えるのと引き替えに、都に家を買ってもらって、おしゃれな馬車に乗って、おいしい食事をして、笑って、あなたが一生かかっても稼げない値のワインを口にする。あなたの血の色そっくりのワインを」
 くすくすと笑う。
「……それって、どんな気持ち?」
 カイルは答えなかった。口の中の鍵だけが答えを知っている。這いつくばってでも手に入れた鍵が。
 女はきびすを返した。衣擦れの音が離れた。踏みつけられた鎖の重みから解放される。
 カイルは動かなかった。
 目の前の黒百合の花束を、息を殺して見入る。毒の匂いのする棘がひそんでいた。黒いランセットが。
「まるでおとぎ話よね。どうしてこんなことになったのかしら。鏡よ、鏡よ、鏡さん。この世でいちばん不幸なのはだあれ?」
 女の横顔が鏡に映った。黒い花のような仮装用の面をつけている。
「なんて、ね。本当に、いったい、誰のせいなのかしら」
 深紅のマニキュアを塗った指先が官能的に鏡面をなぞる。完璧に美しい唇がゆるりと吊り上がった。
「より美しい他の女を妬んで歯ぎしりするなんて、わたくしらしくないものね。わたくしの未来は鏡の中にはない。わたくしの人生はわたくしのもの。欲しいものは手に入れるし、邪魔なものは消す」
 仮面の下から黒い目が見つめている。
「ところでお前、未亡人は好き?」
 燃える目だった。