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ところがシェリーときたら、カイルの独り言にはまるで気付いていなかった。何とか草の実を取り除こうと悪戦苦闘してはいるのだが、髪はますますくしゃくしゃの度を増すばかり。
フーヴェルおばさんは腰に手を当てた。やれやれと首を振ってためいきをつく。
「可愛い子がそんな、土手を転げまわる迷子のひつじみたいな頭をしてちゃだめだよ」
「そんなことありません。わたし、おっちょこちょいで」
慎重に草の種をつまんでは引っ張り、左の手のひらに握り込む。
「あいたたっ、村にシルヴィさんって、しっかり者のお姉さんみたいな方がいるんですけど、いたた、いつもぽやぽやしてないでさっさとやりなさいって言われて、ばちこーんっ! て、わああ!?」
叩く真似をして手を振り上げた勢いで、取ったばかりの種をまき散らしてしまう。
「落としちゃいました! ……あわわ、ごめんなさい……!」
あわてて拾い集める。フーヴェルおばさんはシェリーの手から草の種を取り上げた。問答無用でゴミ箱行きにする。
「しょうがない子だねえ。ちょっと待ってな」
フーヴェルおばさんは肩をすくめた。部屋の奥に消える。
「ええと、どこに置いたかねえ……ああ、あった、あった」
タンスをごとごと開け閉めする音が聞こえた。真っ赤なずきんを手に戻ってくる。
「これをかぶってお帰り。頭に草の種をくっつけたまま取ってやりもせずに帰したと思われたんじゃあ、あたしの女がすたっちまうよ」
可愛らしいフードを頭の上からかぶせ、襟元できゅっと結ぶ。
「どうだい?」
「わあっ、赤ずきんちゃん! かわいいーーっ!」
シェリーは無心にはしゃぐ。おばさんはいとおしげに眼を細めた。
「うちの娘がね、一昨年からクレイドさまって伯爵のお屋敷に御奉公に上がってるんだけどさ、シェリーちゃんぐらいの年頃まで使ってたんだ。お古で悪いけど」
「クレイド卿の?」
シェリーは目を輝かせた。つい、はしゃいでしまって手を結び合わせる。
「まあ、もしかしてユヴァンジェリン・クレイドのお兄様?」
宮廷で馴染んだ古い友だちの名前を思わず口にする。
「おや、お妃さまのお名前をご存じなのかい」
フーヴェルおばさんは驚いた顔をした。
「えうっ!?」
シェリーは喉に変な声を詰まらせた。目を白黒させ、けふんけふん咳き込む。
「い、いえ、湯加減はじぇんじぇんクレームだらけ……」
「はあ?」
「はうう……! い、いえ、何でもありません。そんな大事なもの、いいんですか?」
「いいよ。あの子もきっと喜ぶさ」
「うふふ、ありがとう、おばさま!」
赤ずきんをかぶって、スカートをつまんで、浮かれた爪先でくるりと回る。
「家まで送っていこうか?」
カイルがさりげなく口を挟む。シェリーは首を振った。
「いえ、ひとりで帰れます」
「大丈夫?」
「慣れてますもの」
微笑みでさえぎる。
「でも、隣村まで帰るんだろ? そんなに荷物があると大変だよ?」
カイルは食い下がる。シェリーは答えなかった。首をかしげ、おっとりとカイルを見つめる。フーヴェルおばさんは気にも留めずにシェリーを抱擁し、頬にキスした。
「道草をせずにまっすぐ帰れば大丈夫だよ。決して寄り道しちゃいけないよ? 知らない人について行っちゃいけないよ? いいね?」
「いやですわ、おばさま。子ども扱いして。もちろん、わたしだってそれぐらいちゃんと分かってます」
シェリーはにっこり微笑んだ。その様子を、カイルはどことなく奇妙なまなざしで見つめていた。
「んふっふん♪ 恋するショコラ♪ ひみつの魔法♪ ふりまくの♪ とろ~りあまい♪ 夢を見せて♪ わたしの気弱な♪ オオカミさん♪ 食べてくれなきゃイタズラするぞ♪ お月様に、がおっがおっがおーーー♪」
舌足らずな歌声が無防備にひびく。さえずる小鳥のようだった。
赤いずきんがちらちらと森の木陰にまたたく。
スキップして、タップ。たたたん、と靴のかかとで音をさせるたびに、くるくる巻いた金髪の毛先がふわりとなびく。
カイルは息をひそめ、シェリーの後をつけていた。
あんなにたくさん、かごいっぱいの荷物を持って、本当に隣村まで一人で歩いて帰るつもりなのだろうか……?
シェリーは荷物でいっぱいになったかごを、大切そうに抱きしめている。
「すっかり遅くなってしまいました。大丈夫でしょうか……んっ?」
カイルの心配をよそに、赤ずきんのシェリーは立ち止まった。
くるりと振り返る。
「わ!?」
カイルは口を押さえ、あわてふためいた。納屋の横に積み上げた干し草の山に頭から飛び込む。干し草が飛び散った。
「見つかるかと思った……!」
どきどきする胸を押さえ、何度も深呼吸して、それから用心深く、そっと頭を突き出す。
シェリーは、心許なげにきょろきょろと周りを見回していた。
「……間に合えばいいのですが」
シェリーが立っているのは森の縁に当たる三叉路だ。
そのまま川沿いの土手道を右へ行けば、シェリーが帰るはずの隣村。
左に行けば──野生のバルバロが棲むと言われる広大な森林地帯が広がっている。
シェリーは白い手をこすり合わせた。はあっと息を吹きかける。
「うーん……」
指であごをつつきながら、小首をかしげて、はるかな山麓へと続く森を見上げる。
「お日様もまだ頭の上ですし。途中でルロイさんの好きな森いちごを摘んで帰っても……うーん……ど・ち・ら・に・しようかな……?」
「えっ?」
カイルは盗み聞きする耳をそばだてた。ぎょっとして息をつめる。
「お、おい、まさか、寄り道する気か? おふくろにまっすぐ帰れって言われただろう……」
じりじりと焦るカイルの目の前で、シェリーはおまじないをとなえつつ、三叉路を交互に指さして考え込んでいる。
「どこに行く気だ……?」
どうやら本気で寄り道するつもりらしい。
だとすればどうする?
カイルはすばやく頭をめぐらせた。
さっきまでは、とりあえず人目の付かないところまで後をつけて、本当にちゃんと家に帰るのかを確かめるだけにしておくつもりだった。
もちろん、やましい気持ちなど当然、あろうはずもない。万が一のことを考えてのことだ。帰る途中で寄り道をしたり、危険に巻き込まれたり、怪しい奴にからまれたり……なかんずく、”偶然”を装って声を掛け、家まで送っていく振りをして、あわよくば一発……などという下衆なことを考えるような輩を近づけさせないためには、ちょっとぐらい卑怯な真似をしても許される……
カイルは頬をゆがめた。
だが、もし、シェリーがバルバロの森の方角へ行ってしまったら……?
シェリーに持たせた荷物をくるんでいた古新聞には、バルバロと人間との間で戦争が起こるかもしれない、”一触即発の危機”だと書かれてあった。だとしたら、おぞましい半獣半人が村の近くをうろついている可能性もないとは言い切れない。もし、そんな化け物がシェリーに襲いかかりでもしたら……?
(がおおおおーー)
(きゃああんバルバロに襲われてしまいましたー誰か助けてーー)
(シェリー、大丈夫か! あとば僕に任せろ! えい、やあ、とう! 消えろ、化け物め!)
(きゃいんきゃいん)
(……はあはあもう大丈夫だよ。化け物はいなくなった)
(ああん、カイルさん、怖かった……!)
(もう泣くなよ。バルバロなんかどうってことないさ。ほら、涙を拭いて)
(ありがとう、カイルさん。こんなわたしでよければお礼に抱いて……ぁっ、あっ、そんな……はずかしい……ううん、いやぁ、こんな、すごい……ぁぁんっ素敵っ……カイルさんすごい……ああんらめえ、あんあんっ……)
「……うおおおおおっしゃあ! 送り狼作戦、完璧!」
カイルは妄想の鼻息も荒く拳を突き上げた。会心の笑みを漏らす。
「ヤれる! ヤれるぞ、この作戦……!」
と、シェリーの眼の前を、右から左へ、真っ白なうさぎがぴょんと横切った。立ち止まって長い耳をぴくりとふるわせる。
「あっ」
シェリーはきらりと目を輝かせた。声を弾ませる。
「うわあ、うさぎさんです! おいしそう……! じゃなくて可愛い!」
うさぎは驚いてぴょこんと跳ねた。シェリーも真似をして両足をそろえてぴょこんと跳ねる。
真っ白い綿のぽんぽんみたいな尻尾が草むらに吸い込まれた。シェリーも負けじとさっそく茂みに頭を突っ込んでいる。
「ああん、待ってください、うさぎさーん! おいしそうって言ったのは撤回します、とってもおいしそうっ!」
さっそくうさぎを追いかけて走りだしている。
「お、おーいシェリー……? そっちは危ないぞ……?」
カイルは小声でひそひそと呼び止める振りをしながら、隠れていた干し草の山から頭をのぞかせた。
緑の中を駆け抜ける真っ赤なずきんが、ちらちらと無垢な疑似餌のように揺れ動いて見えた。天真爛漫な笑い声が洩れ伝わってくる。
行く手は恐ろしいバルバロの森だというのに。
「何やってんだよ、いきなり寄り道とかさ……」
思わず好色の笑みがこぼれるのを、カイルは口笛を吹いてかろうじてかみ殺した。ポケットに手を突っ込んで、隠れ家から歩み出る。
「ははは、困るよなあ……? 夜道で変質者とかさ、怪しい男とか、バルバロとか……女の子の一人歩きで襲われたりしたらひとたまりもないだろうにさ……仕方ないなあ、僕が守ってあげなきゃ。本当にシェリーときたら、ふらふらと危なっかしくて。見てられないよ……ははは……まったく不用心にもほどが」
ごくりと唾を飲む。
「あれじゃ……どうぞ襲ってくださいと言わんばかりじゃないか」
カイルは眼を周到にほそめた。拳で口元を荒々しくぬぐう。
暴漢に組み敷かれるシェリーの裸身を想像して、カイルは下唇を無意識に舐めた。身体の奥がぞくりとする。
「そんないけない子は……優しく叱ってやらないと、だよな」
にっとほくそ笑んで、改めてシェリーを眼で探す。
「あれ、いない?」
シェリーの姿はもうどこにもない。まさか、もう森に入り込んでしまったのだろうか?
あわてて目をこらす。
「……?」
ちらりと赤い色が見え隠れする。よかった。まだ見失ってはいない。だが、あのままではどんどん奥に入り込んでしまうだろう。帰り道も分からないぐらいに。
奥へ行けば行くほど、道に迷う可能性は高くなる。
「まったく、シェリーと来たら、馬鹿な子だよな……後先のことを考えもせず、自分からどんどん袋小路に入り込んでいくなんて……」
カイルは薄笑いを浮かべて歩き出そうとした。
木の枝を押しやるような、がさり、という音が聞こえた。ぎくりとして足が止まる。
「何だ、あれ……?」
森の縁に黒くたたずむ影が見えた。ふっ、と見えなくなる。
「消えた!?」
いや、違う。見通しが悪いはずの森の道を、まるで滑空するかのようにすり抜けて走っている。人間の動きではない。
「まさか、バルバロ……!」
息を呑む。カイルはあおざめた。
「バルバロが、何でこんな村の近くまで……!」
不気味な影はシェリーを追いかけて、やがて見えなくなった。
「お、おい、冗談じゃない、ヤバイって。み、み、みんなに知らせなきゃ。バルバロが攻めてきたって……」
カイルは口ごもった。その場からじりじり後ずさろうとする。だが、なぜか、足が棒のようにこわばって動かない。
「逃げろって……言わなきゃ……シェリーにも……」
声が途切れる。ねじれた首の後ろが、鉄に変わってしまったかのようだった。
どうやって知らせればいいというんだ……?
後を追いかける? 森には凶暴なバルバロがひそんでいるというのに……?
森の奥から悲鳴が聞こえたような気がした。カイルはびくりと震えた。顔が引きつる。聞こえるわけがない。あれは悲鳴なんかじゃない。”鳥の鳴き声”だ。”そうに決まっている”……!
「ぼ、僕のせいじゃないからな」
カイルは聞かなかったことにしたくて、必死に耳を塞いだ。崩れるように笑って、後ずさる。
「まっすぐ帰れって言われてるのに、寄り道してるのが悪いんだろ……」
身をひるがえし、逃げ出そうとする。その肩を。
「貴様……ここで何をしている!」
だしぬけに、万力のような力で掴まれる。カイルは悲鳴を上げた。