息を呑む。ワンピースの端切れを捨てたところを見られた──
振り返った真後ろに、黒い影が立っていた。
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「このくらい離れれば……」
何か言っている。女の声だ。よほど息を切らしているのか、ひどくかすれていて何と言っているのか聞き取れない。
いったい、誰が……?
ルロイは身をこわばらせた。息を殺し、物影に身をひそめて橋の上の様子をうかがう。人影が見えた。疲れ切った様子で欄干にもたれかかっている。
「領主さまに見つかる前に、何とかしてしまわないと。はやくしなきゃ。早く」
熱に浮かされたような焦った口ぶりでつぶやき続ける。青い布きれが降ってきた。風に吹かれ、舞い上がる。
ルロイは反射的に腰を浮かした。驚きの声を飲み込む。
ひらひらと逃げる青い色。
思わずつかんだ。愕然と見つめる。
この色は──
(おはようございます、ルロイさん。朝からそんなにぐるんぐるんされては目が回ってしまいます……)
いつものあの笑顔が思い浮かんだ。耳をくすぐる優しい声。お気に入りのワンピースドレスを着て、つま先立ちでくるん、くるん回って──
手のひらに載っていたのは、シェリーが着ていた服と同じ色の布だった。それがばらばらの細切れになって、ゴミのように捨てられている。
ルロイは布きれを強く握りしめた。一気に土手を駆け上がる。
「おい、そこで何してるん……」
中年の女だった。橋の欄干から半分身を乗り出すようにして、布切れの行方を目で追っている。
「……ですか?」
問いただすつもりの声が尻すぼみに小さくなる。
「誰っ」
女は弾かれたように振り返った。目が合った。病葉のような顔色だった。
「あ、あの、えっと」
怯えた表情に、ルロイは壁にぶつかったようにつんのめった。
「べべべ別に怪しい者ではっ……すみません、脅かしてしまって」
さっきまでの憤りが急速にしぼんでいく。女性の顔を見た途端、何をどう言って良いか分からなくなった。まごまごと口ごもる。
女の目が、ルロイの顔に止まった。ぎくりと目をそらす。泳いだ視線が大きくとがった耳へと向けられた。
「狼の耳……?」
血走った目が恐怖に見開かれる。
「あっ、と……え? これは、いや、あの、別に」
ルロイはあわてふためいて耳を隠した。何とか取りつくろおうと無理にこわばった笑顔を浮かべ、弁明する。
「何でもねえよ! じゃなくて、ええっと、実は俺、じゃなくてボク、あの、この村にいるはずの人を探しに来てるだけで……それで今てめえがお捨てになりやがった、じゃなくて、あなたさまがお捨てになった布っきれと同じ色のっ」
耳の真横を、唸るような突風が飛びすぎた。
ルロイは本能的にのけぞった。生命の危機を感じて半歩飛びすさる。
「誰だ」
突風が吹き付ける。殺気が降りかかった。腕で眼をかばいながら身構える。
黒いコートの裾が、音を立ててひるがえる。黒い帽子に差した羽飾りが揺れ動いた。
「弁えろ。人間の犬の分際で」
低い声。斜に構えた剣の刃。くろがねの瞳が射抜くように光った。ぎらりと殺意が灯る。
「アドルファー」
ルロイは息を呑んだ。
「バルバロ……!」
女性はルロイを見て悲鳴を上げた。逃げ出そうとする。
「ちょっ……」
ルロイはアドルファーのことも忘れ、女性の後を追おうとした。
女性の手に握りしめられている赤い色に目が留まる。見覚えのある形だ。息が凍り付きそうになる。シェリーが村でもらってきた、あの赤ずきんにそっくりだ。
「おい、それ見せろって……見せろください!」
思わず身を乗り出す。女性は喉を絞め上げられたような声を上げた。
「た、助けておくれ」
女性は赤ずきんを取り落とした。腰を抜かし、アドルファーの背後に逃げ込む。
ルロイは苛立った。舌打ちして女性に追いすがる。
「ちょっと待てよ、勘違いすんな、そいつだって」
広場のどよめきが大きくなったような気がした。けたたましい犬の鳴き声が近づいてくる。
気付かれたらしい。ルロイは焦った。時間がない。
「頼むから俺の話を聞いてくれよ、じゃなくて、聞いてください。その赤ずきん……」
藁にもすがる思いで声を絞り出す。だが、女性はまるで聞いていなかった。
「あっちへお行き、化け物。しっ、しっ!」
野犬を追い払うような仕草で払いのけられる。女性が手を振り払うたび、強いビネガーの臭いがぷんぷんした。消毒薬の臭いだ。ルロイは苛立ちを必死に噛み殺した。どんなに疎まれようとも、ここで退くわけにはいかない。
「何でだよ! 話ぐらいさせてくれたって……!」
「時間切れだ」
アドルファーは薄く笑った。親指を立て、背後を示す。あざけりの光が宿っていた。
「おい、あっちだ」
「人狼が出たぞ」
「火を持って来い。化け物を村に入れるな」
人間が叫び交わす声が聞こえた。さらに犬の吠え声まで重なる。
「くそっ!」
ルロイは歯がみした。アドルファーだけならまだしも、人間の集団を相手にするのはあまりに分が悪い。
「無事かどうかだけでいい、頼むから教えてくれ。シェリーはどこだ。怪我とかしてねえだろうな!?」
「シェリー……?」
女性はおうむ返しに聞き返した。
冷水を浴びせかけられたような眼でルロイを見返す。まるで、初めてそこに誰かがいると気付いたかのようだった。狼の耳と悪魔の尻尾を持つ半人半獣の怪物ではなく、人と同じ言葉をしゃべる話し相手として。
アドルファーが舌打ちした。女性を突き飛ばす。
「余計なことを」
首に下げていた呼び子の笛を口元へと運び、吹き鳴らす。周辺は騒然となった。音に気付いた猟師たちが方向を変え、大挙して駆け寄ってくる。風が松明の煙を運んできた。タマネギの刺激臭が絡みついて、眼を刺激する。
「くっ、何だこれ……!」
煙にまかれ、咳き込む。ろくに顔も上げられなかった。眼が滲みる。
「待ってくれったら! シェリーは無事なんだな!? そうなんだろ! 答えて……!」
また咳き込む。逃げる女性の背中が煙の向こうに消えた。見失いそうになる。ルロイは後を追った。今となっては唯一の手がかりだ。シェリーの居場所を知っているかもしれない人を見失うわけには──
「悪あがきは止せ」
アドルファーの声が行く手を遮った。鋼の刃が喉元に差しつけられる。
「邪魔すんな。退け!」
銃の台座を棍棒代わりに殴りかかる。アドルファーはあっさりと身をかわした。
「人間はバルバロの敵だ」
猟犬が群れをなして飛びかかってきた。すり抜けようにもまったく前に進めない。手首に食いつかれる。
「くそっ、邪魔すんな、わんこのくせに!」
力任せになぎ払う。腕に食らいついていた猟犬は悲鳴を上げて転がった。すぐさま跳ね起きて吠えかかる。別の一匹ががぶりとお尻に噛みついた。
「あいってえーー! 痛えんだよチクショウっ! ううう、尻が、尻が、尻がぁぁぁぁもげるーーーっ! 食うなっつってんだろうが! マジでぶっ飛ばすぞコラァ!」
犬相手に苦戦していたルロイを尻目に、アドルファーは傲然と剣を鞘に収めた。きびすを返す。
「おいコラ待ちやがれ。待てったら、どこ行く気だ、戻ってこい。くそっ……! アドルファー!」
ルロイは煙にまぎれた背中に向かって怒鳴った。犬の首の皮をつかんで放り投げる。アドルファーは振り返らなかった。黒いコートの後ろ姿が犬の群れの向こうに消える。
見えない壁が声を遮断しているかのようだった。戻ってくるのは吠え声と敵意。それだけだ。無性に怒りがこみ上げた。
「シェリーを返せ! ふざけんな。いったい何がしたいんだ。人間と敵対してるはずのお前が何でこんなことをする。答えろよ」
悔しさに身震いする。
「わけ分かんねえよ! そんなに人と関わるのが怖いのか!」
集まってきた猟師が横列を作って立ちふさがった。
「被害が出る前に射殺しろ」
「人食いの化け物は、一歩たりとも村へ入れるな!
「撃ち殺せ」
威嚇の銃声が続けざまに響いた。猟犬がぱっと四方に散った。硝煙の臭いが吹き付ける。
「てめえらも話を聞け! 揃いもそろって頭から敵って決めてかかりやがって、俺はただ、シェリーが無事かどうか知りたいだけなんだ。人間のくせに、そんなことも分かんねえのかよ!」
ルロイは構わずに前へと突き進んだ。がむしゃらに声を振り絞る。
いっそ撃たれても構わない、とさえ思った。
こんな思いが続くなら。
シェリーと二度と逢えないかもしれない恐怖に比べたら。二度と無くしたくない大切なものを本当に失ってしまうぐらいなら、いっそ──いっそ、ここで。
「答えなら」
アドルファーが唐突に足を止めた。黒い帽子のつばを目深に下げ、振り返る。またいつもの傲岸な嗤笑を浮かべているとばかり思っていたが、なぜかまるで笑っていなかった。指を鳴らす。
「もう、分かっているはずだ」
銃口が火を噴いた。