「なるほど。囚われの王女を取り戻せ、か」
言葉面からはいかにも勇壮な趣が感じられる。いやがうえにも期待が高まろうというものだ。ルロイは武者震いし、次の言葉を待ち受けた。
「まずはシェリーちゃんがどこにいるかを正確に把握する必要がある。一口に人間を相手にすると言っても、全部が全部、一枚岩ってわけじゃないからな」
グリーズリーは棒をほうき代わりにして地面の枯れ草をざっと掻き分けた。土の色を剥き出させた地面を、こん、と音をさせて突っつく。
「以前、人間の兵士がシェリーちゃんを追っかけてきたことがあったよな」
「ああ」
ルロイはうなずいた。
思いをめぐらせる。初めてシェリーと出会ったとき、シェリーは仲間であるはずの人間の兵士に追われていた。
さすがに突然すぎて──何せ人間のハダカ、それもあんなにきれいな裸を間近で見たのは初めてだったものだから、すっかり気が動転してしまって──
そもそも人間同士のもめ事なんかに口を挟むつもりなどこれっぽちもなかったにも関わらず、ついちょっかいを出してしまって、シェリーを連れて洞窟の横道に身をひそめ、ひたすら密着して、抱きしめているうちに、つい……
(あんっ……だめ、動かないで……)
……えへへ……あまりにもけしからん声をあげるものだから、ついうっかり発情しそうに……
……まったくあのときのシェリーときたら……あんな可愛い声あげたりしてもう……あはは……エヘヘ……可愛すぎるのも困ったもんだよなあ……でへへへへ……えへへへへへへぇ……
「おい」
グリーズリーが手を伸ばした。顔の前で何度か左右に手を振ったあと、ズボンの前ボタンからはみ出してぱたぱた動いていたルロイのしっぽをぐいと掴む。
「はうッ!?」
ぎくーっ! とする。
「何だその、でれーーーんとやに下がった締まりのねえ顔は」
グリーズリーは陰険なまなざしでルロイを睨んだ。しっぽを手首に巻き付け、ぐいとつるし上げる。
「まさか、妙なこと想像してんじゃないだろうな、ああ?」
「はっはっは何のことかなグリーズ君。いらぬ詮索はよしてくれ給え」
ルロイはあわててよだれを手の甲でぬぐい、ビクンビクンのたうつ尻尾をズボンへとしまおうとした。妄想で股間をたくましくしている場合ではない。
「まったく。シッポおっ立ててんじゃねーよ。ちゃんと話を聞けっての」
グリーズリーは邪険な素振りでぽいとしっぽを払いのけた。
「つまり、さっきの人みたいに、知らずに助けてくれる人もいればそうじゃない奴もいるってことだ。問題は、シェリーちゃんを狙ってる連中が”ごろつき”じゃなくて人間の権力者側らしいってこと」
シルヴィが顔を上げた。不安の面持ちでグリーズリーを見やる。
「何だ?」
グリーズリーが怪訝に訊ねる。シルヴィは小難しい顔をしかめて、いろいろと思い出そうとするかのように低く唸った。
「あたし……アドルファーはてっきり、自分の弟の、それも一番人間を嫌ってるはずのルロイが人間と付き合ってるのが許せなくて、それでシェリーを追い出そうとしてるんだとばかり思ってた」
「そういう個人的な腹いせだけで動いてくれるような奴なら、こっちも分かりやすいんだけどね」
グリーズリーは淡々と否定する。シルヴィは傷ついた顔をそむけた。もしかしたら、半分は自分のことを言われたと思ったのかも知れない。
「そう言えば」
ルロイはひとつ思い当たることがあって口を開いた。
「シェリーが持って帰った新聞には、バルバロと人間が戦争するんじゃないかって書いてあった。俺たちが復讐しようとしてるんじゃないか、って」
グリーズリーは棒を杖代わりにして腕を組み、顎を乗せてもたれながら、考え込む表情を見せた。首をひねり、唸り声を上げる。
「ふうん、戦争ねえ……? そんなきな臭い話、聞いたこともねえけどな。むしろあいつなら逆に敢えて自分から紛争の種を撒き散らして、人間同士の勢力争いに俺たちを巻き込むのことぐらいはやるだろう。もしシェリーちゃんが”行方不明の王女”だと知ったらなおさら」
ルロイは目を細めた。
「あの野郎ならやりかねない」
「要するに、あいつの挑発にホイホイ乗るような馬鹿な真似はするな、ってことさ。今はシェリーちゃんを奪還することだけを最優先に考える」
グリーズリーは棒の先で地面をひっかき、図を描き始めた。
「とはいえ、あれだけの騒ぎを起こした後だ。俺たちで直接、シェリーちゃんを探すのはたぶんもう無理だと思われる。だから、今は逃げたと奴らに思わせておいて、こっそり取って返して別の経路で侵入する」
「別の経路? 反対側から忍び込むってことか」
「そういうこと」
ざっと大まかに地形を書き込んだあと、現在地に×印を描き入れる。
「ここが現在地。さっき入ったのがこの川の橋の辺り。俺たちとしては、いつでも森に退避できるこの侵入経路が一番安全なんだが、あえてこう、ぐるっと大回りして」
棒の先を持ち上げ、日が落ちて黒く沈んだ山の手を差し示す。
「ほら、あそこに城が見えるだろ」
ルロイは夕闇に目をこらした。木陰に紛れる灰色の城壁が見えた。ひときわ高い塔が立っている。青い六角垂型の尖頂を持つ鐘楼塔だ。窓がいくつか開いている。明かりが灯されている様子はない。
「あれがおそらく領主の屋敷だ。仮の話として、もしシェリーちゃんが捕まったとしたらどうなると思う?」
「待ちなよ、グリーズ。さっぱり意味が分かんない。どうして今すぐなの?」
シルヴィが困惑の面持ちで口を挟んだ。
「あんたさっき自分で言ってたじゃない。この場はいったん退けって。ルロイさえ無事なら取りあえずは様子見でいいでしょ? 曲がりなりにも王女なんだから、たとえ捕まっちゃったとしても、少なくともバルバロであるあたしたちとは違って即座にどうこうされるようなことはないはずよ」
「いや」
グリーズリーはシルヴィの言葉を遮った。冷静に言葉を継ぐ。
「”王女”だからこそだ」
シルヴィは眉間にきりきりとしわを寄せた。噛みつきかねない勢いで突っ掛かってくる。
「何で? どういうこと? 納得できない。あたしは嫌よ。せっかく無事に逃げおおせたっていうのにまた戻るなんて。あんたたち、死にたいの? 馬っ鹿じゃないの?」
尖った声がぐさぐさと耳に突き刺さる。凄い剣幕だ。ルロイとグリーズリーは苦笑いしながら目配せしあった。両手で耳を押さえ、びりびりと鼓膜に響く嵐をひたすらやり過ごす。
「とにかく、今は危険よ。奴らだって馬鹿じゃない。一度侵入されてるのに、ちょっと追い払ったからってすぐ警戒を解くような真似をするはずがないでしょ。絶対に待ち伏せしてるはずよ。ルロイの馬鹿がさんざんシェリーがどうのこうのって叫んでくれたおかげで、あたしたちの目的がシェリーだってことがばれちゃってる。下手に戻ったりしたら今度こそ蜂の巣よ」
「うんうん」
「分かってる」
「何その態度。人の話聞いてないでしょ、あんたたち」
旗色が悪いと見たか、シルヴィはむっとした顔でアルマを振り返る。
「ね、アルマ、あんたもそう思うでしょ。ビシっと言ってやんなさいよ、そんなアホな真似は止せって」
「んー……?」
アルマはもじもじ照れくさそうに小首をかしげた。眉根をハの字に寄せる。
「困っちゃう。そんなこと言われてもぉ……?」
「あんたのダンナでしょ!?」
「んー……でもぉ、ダーリンが決めたことだし……ねえ?」
「だからそれが冗談じゃないっての! あんた、グリーズと結婚したんでしょ? なのに、いきなりそんな危ない橋渡らせて平気なの? 止めようって気はないの?」
「それもそうねえ」
アルマは心配そうに眉をひそめた。おずおずとグリーズリーを見つめる。
「ねえ、ダーリン。いつ頃帰ってこれる?」
グリーズリーはくしゃくしゃと頭を掻いて苦笑いした。首をかしげる。
「うーん……そうだなあ……明日?」
「本当?」
「あー、ごめん」
グリーズリーは平然と笑った。
「いつ帰れるか俺にもぜんぜん分かんねえ。けど」
空を見上げ、黄昏の匂いに鼻をくんくんさせる。
「こんな最高の満月の夜に、俺たちだけ世界で一番幸せになるわけにはいかないだろ? せっかくの満月なんだからさ。友だちみんなでわいわい楽しくやりたいんだ。俺たちだけじゃなくてさ、ルロイや……シェリーちゃんも一緒にさ」
ルロイは鼻をこすった。グリーズリーをちらりと見やり、目をしばたたかせてからわざと子供じみたふくれっ面で唇を尖らせる。
「ふん、うるせえ。余計なお世話だ。何が『世界でいちばん幸せ』だよ。それはこっちの台詞だ。シェリーを無事救出した暁には、むしろ嫌って言うほど、一番しあわせでらぶらぶな所を見せつけてやるからな」
「馬鹿言え。『世界でいちばん馬鹿』の分際で。てめえの馬鹿に最後まで付き合わされるこっちはいい迷惑だよ」
「うっせえ! こっちだって、テメエの立てた穴だらけのお馬鹿な計画に乗ってやってんだぞ? 有り難く思えよな」
「ふん、計画通りにやれるもんならやってみろ」
「おう、やってやる! 絶対にヤってやる!」
「だったらヘマすんな」
グリーズリーは笑ってルロイの肩を小突いた。
「一番大切な日に、一番大切な人に置いてけぼり食わすような真似は、もう二度と」
互いににやりと笑みを交わす。
「……あったりめえだ!」
頭上でぱんと手を打ち合わせる。小気味よい音が響いた。様子を見つめていたアルマが、微笑んだ。
「うん、そうね……きっと、シェリーちゃんも同じ気持ちよね」
不安げな表情が払拭され、いつもの甘ったるい笑顔に変わる。
「ウフ♪ 二人とも頑張ってね♪ あたし、ダーリンが戻ってくるの待ってる♪」
「ちょっとー! 何勝手に自分たちだけの世界に浸ってんのよ! あたしは認めないからね! 村に戻ったら長老さまにいいつけてやる。人間なんかに関わったって、絶対にろくなことにならないんだから!」
「んもう♪ シルヴィったら、さびしがり屋さんねぇ……」
「違うわよーーー! 違うって言ってんでしょーーー!」
「仕方ないわねえ……あとで、シルヴィにも恋の最終兵器を教えてあ・げ・る♪」
「うぁぁ! やべえ、何か背後からムラムラしたのが出てる!」
「フェロモンだ、フェロモンが出たぁぁぁぁ……!」
アルマはにこにこ微笑んでグリーズリーにしなだれかかり、一方のシルヴィは思い通りにならないことにかんしゃくを起こしている。それを聞き流しながらルロイは心のどこかにこつん、と何かが当たるのを感じた。
胸の中で居所をなくしてぐるぐる巡っていた思いが、すとんと腑に落ちたような気がする。
深呼吸して、心臓の上を手で押さえる。
身体が熱くなった。失ったものは確かに大きい。心にぽっかり穴があくほどに。だが、何もかもなくしたわけではない。まだ残っている。ここに、こんなにも熱い思いが。
ルロイは大きく息を吸い込んだ。これは希望の火だ。
「そうか、そうだよな! うおおおおおよっしゃあぁぁぁ! みなぎってきたぜえええええ!!」
腹に力を込め、大声を張り上げる。シェリーはきっとあの村のどこかにいる。助けを待っている。
「馬鹿、何吠えてんだ! 静かにしろ」
グリーズリーはぎょっとした顔をあげた。いさめようと飛びかかってくる。ルロイは口を塞ごうとするグリーズリーの手にがぶりと噛みついた。
「うっせえ、遠吠えしたい気分なんだよ」
「あいたたっ! ガキかてめえは!」
「ちょっ……こっちの居場所がバレちゃうでしょーが、バカ狼っ!」
シルヴィと二人がかりで取り押さえに掛かってくる。ルロイはひらりと身をかわし、木の枝に飛びついた。
「止まれってば!」
グリーズリーが追いかけてくる。ルロイはその顔を踏み台にして、くるりと逆上がりした。するするとてっぺんまで身軽によじ登る。
グリーズリーは踏まれて赤くなった鼻を押さえ、涙目で怒鳴った。
「バカ! 降りてこい! 負け犬の遠吠えしてんじゃねえ!」
「へん、やだね。勝利の雄叫びって言ってもらおうか」
あっかんべーをして、片手で斜めにぶらさがって身体を支え、村を見下ろす。
西の空は透き通った茜色だった。
眼下に、いくつもの区画に色分けされた畑が広がっていた。緑の残る丘。葉を落として寒々とした冬林。針葉樹の屋敷森に囲まれたいかめしい城館。ふもとには豆粒みたいな赤茶色の屋根が寄り集まっている。まるで帽子をかぶったどんぐりの寄せ集めだ。
広場から放射状に伸びる街道が見えた。
あの道はいったいどこへ、どこまで続いているのだろう。
人間の国の都。シェリーの生まれた街。シェリーと出会った、始まりのあの街に続いているのだろうか。
ふと、心にためらいの影が差した。
もし──
シェリーが王女として都に帰ることを望んだら?
森での不便な暮らしを捨て、石造りの豪奢な城で贅沢に暮らす日々を望んだとしたら?
そのとき、自分はどうすればいいのだろう。
たかだか森の狼ごときが、一時の庇護と引き替えに一生の愛を希うなど、思い上がるにも程があるだろうか?
シェリーには権利がある。バルバロと共につつましやかに暮らす日々ではなく、元通りの、贅沢で華やかな日々を取り戻す権利が。世界でいちばん幸せな王女として生きていく権利が──
前後左右に大きく枝がしなる。突風が背後から吹きつけた。目が覚めるような勢いで揺さぶられ、黒髪と尻尾が荒々しく逆向きになびく。
グリーズリーが足元の石を拾って投げつけた。
「降りてこい! せっかくの計画を台無しにする気か、このどアホーー!」
「うっせえよ、まだだ。まだ終わってねえから」
ルロイはまぶしすぎる夕日に眼を細め、気持ちを奮い立たせて笑った。まだ夜が来るには早すぎる。今日という日を、希望を終わらせてしまうには、まだ。
もしシェリーが望むなら、シェリーを世界でいちばん幸せな王女さまにしてみせよう。でも。
「……約束したんだ。ずっと一緒にいる。二度と離さない。絶対にあきらめない、って」
だから──
口に手を添え、夕日に向かって声も限りに叫ぶ。
「必ず迎えに行く! 待ってろよ、シェリー!」
喉をふるわせ、遠吠えを響かせる。木霊が重なった。