お月様にお願い! 番外編 恋の赤ずきんちゃん

塔の上のシェリー

 『フーヴェルの店』と書かれた看板が揺れている。店の戸は開け放たれたまま。泥棒にでも荒らされたのか、商品や棚がひどく散乱している。人の気配はない。
 さながら戦火を逃れ、うち捨てられた廃墟のようだった。店の主であるフーヴェルが戻った様子はない。アドルファーは冷ややかに周りを見回した。視線を落とす。
 おもむろに身をかがめる。アドルファーは”それ”を手に取った。
 青い布の端切れ。
 確かめるまでもなかった。店の中へと無断で踏み込む。荒らされた表の雑貨屋を通り抜け、生活のにおいに満ちた部屋へ。
 カーテンが開いていた。冷たい夕暮れの風が吹き込んでいる。
 周りを見回す。つんときつく鼻を突く消毒薬の臭いに混ざって、かすかに川の水の乾いた臭いがした。ルロイが追っていた人間の女と同じ臭いだ。
「道理で分からなかったはずだ」
 アドルファーは目をほそめた。部屋の隅に机があった。使いさしの形で開いたまま放り出された鋏が残されている。
 それをくすね、窓際に近寄って夕日にかざす。刃の根本に糸が絡みついていた。薄い青の糸くず。
 笑みが浮かぶ。
「さて」
 アドルファーは店を出て表通りへと戻った。鴉の破れ羽のような帽子のつばを持ち上げる。
 空を見上げる。鳥が二羽、ねぐらへと帰って行くのが見えた。赤みを帯びた空、金の絵の具をすり流したような雲をかすめ飛んでゆく。
 狼の遠吠えが聞こえてきた。
「まだ信じているのか、人間を」
 アドルファーは息をついた。地面に落ちた影はくろぐろと引き延ばされている。遠吠えに耳を傾け、それからポケットから赤い布を掴み出した。憐れみの入り交じった表情を浮かべる。
「信じれば裏切り、弱みを見せればつけあがる。人間とはそういうものだ。なぜ分からない」
 捨てられた看板が、きぃ、きぃ、とうらさびれた音を立てて回り続けている。
 アドルファーは手にした赤ずきんを握りつぶした。帽子に隠れた片眼が黒く光った。

「カイル・フーヴェルが逃げた──だと?」
 クレイドはゆるんだクラヴァットを結び直しながら家令を睨んだ。不愉快そうに部屋の中を歩き回る。灰色の服に身を包んだ家令の表情はうそぶく仮面のように変わらない。
「申し訳ございません。黒百合塔の地下牢獄に閉じこめておいたのですが」
 あくまでも慇懃な態度を崩さずに低く言う。
「なぜ逃げられた」
「調査中でございます」
「地下牢に囚われの身でどうやって逃げるというんだ。何者かが手引きしたに決まっている。調べたのか」
「それも調査中でございます」
 家令は口をつぐんだ。表情の片鱗をもうかがわせない目が床を睨んでいる。
「分かった」
 クレイドは怒りを押し殺した。他に言いようもなかった。苛立ちを深呼吸で紛らわせ、執務室の椅子に腰を下ろす。
 窓の外を見やった。日が暮れてゆく。沈む太陽は血こごりのように赤かった。
「他に言うことは」
「ただちに後を追うよう、ニーノに命じました」
「エマはどうした」
 反応がない。意外だった。クレイドは眼を上げた。さらに問いつめる。
「エマ・フーヴェルはどうしたと聞いている」
「あらあら、何だか知らないけど、ずいぶんとおかんむりね」
 ふいに声がして、重い執務室の扉が開いた。
「……この私がせっかく来てあげたっていうのに」
 クレイドは立ち上がった。
「お邪魔だったかしら」
 貴婦人が横顔をのぞかせた。襟ぐりの大きく開いた、妖艶な黒いガウンをまとっている。高く結い上げた髪も黒。胸元には黒くきらめく粒真珠が縫い込まれている。
 家令がうやうやしくその場でひざまずく。
「お待ち申し上げておりました。大公妃殿下」
 クレイドは用心深い視線を一瞬、女性と家令へ向けたあと、なごやかに表情を崩した。
「とんでもない。明日だと思っていたからね。嬉しい誤算だ」
「だと嬉しいけれど」
 執務室に入ってきた女が見透かした笑みを返した。黒のレース扇を馴れ馴れしくそよがせ、尊大に手を差し伸べる。裸に直接、むせかえるような黒百合ノワレの香りをまとうに似た官能的な雰囲気が漂った。
 クレイドはひざまずいた。
「ようこそおいでくださいました。我がロダールの城へ」
 指輪に口づける。
「栄華を極めた君にとってはこの城など見すぼらしいあばらや同然だろうけれどもね。お帰り、妹よ」
「そのようなことはなくてよ。この家はわたくしにとって家族同然。あなたと同じように、ね。元気そうね、トラア」
 甘ったるい含み笑いが響く。黒真珠のように美しい女だった。ただ美しいだけではない。濡れて光る瞳がふつふつとたぎって見えた。

 夕日が山の彼方に熔け落ちてゆく。たなびく雲がまるで炎のようだ。
 村を見下ろす丘の上に、黒い影がふたつ、風のように走り込んだ。下生えがごそごそと動く。
 枯れ枝を踏み抜く音がぱきん、と鳴る。
「静かに。音を立てるな」
「てめえこそ声出すなっての」
「ちょっと向こうに寄ってくれよ、はみ出しちまう」
「そっちだって肘当たってるっつーの!」
「やかましい。いい加減にしろ。気付かれるぞ」
「てめえこそ小煩えんだよ……痛ってーー! 尻尾踏むな!」
「踏んでねえよ、てめえで勝手に踏んだんだろう」
 邪魔な草を掻き分けながら、互いに声を潜めて怒鳴り合う。
「おいコラてめえわざとやってんのか、ああ?」
「してねーよ。いちいちわめくな。ガキじゃあるまいし」
 がさごそ。がさごそがさごそ。本人たちは音もなく罵り合っているつもりだろうが、静まりかえった森の中では騒々しいことこの上もない。
「何だと!? るせー、てめえこそいちいちエラそーな顔でお高く止まりやがって……さては嫌みか? 嫌みだな?」
「やってないって言ってるだろ……どうせ勝手に枝にでもぶつかっ……」
「ああ、うぜえ! 俺より前に出るな! すっ込んでろ!」
「何い!? さっきから聞いてりゃさんざん喧嘩に因縁に文句ばっかり言いやがって、何様のつもりだよ!」
「うっせえ、俺様だよ、貴様こそ何様だ!」
「そっちがその気ならこっちにも」
「うるさいわ、ボケ狼ども!」
「ぐは!?」
「ぐえ!?」
 ひときわ高くぶん殴る音がした。ごちんと火花が散る。
「まったく。あんたたちときたら。馬鹿なの? アホなの? 死ぬの?」
 巨大な棍棒を手にした謎の人影が、軽蔑しきった嘆息をもらす。
 ルロイとグリーズリーは、その場に並んでばったりと倒れた。
「……」
 ようやく夜の森に静寂が戻った。
 風が吹き抜けてゆく。騒がしさをすべてぬぐい去るかのような、穏やかな風だった。冴えた月の色が青く夜を染めてゆく。
「いつまで寝てんのよ、このくされ餓狼ども」
 いきなり襟首を掴まれ、茂みから引きずり出される。朦朧とする意識を泳がせたのも束の間。強烈なビンタビンタビンタの三往復に見舞われる。
「ほげぇぇゃぁぁぁ……!」
 問答無用の強制覚醒である。目から火が出そうだ。
「ううっ……いったい何が……?」
 ルロイはひりひりするほっぺたをさすりながら起きあがった。
 まだ後頭部がずきずきする。カボチャで殴打されたたんこぶの上にもうひとつでかい二段たんこぶができる勢いだ。
 隣を見る。
「ぎょええぇぇぇぁ……!」
 同じく謎の人物に胸ぐらを掴まれ、べしべしべしと無惨にビンタされまくっているグリーズリーが見えた。
「グリーズ!」
 反応のない身体がどさりと地面に投げ出された。ほっぺたは蜂に刺されたみたいにふくれあがっている。たぶん、目を覚まさせようとしてビンタしたのだとは思うが完全に逆効果だ。後頭部に大きなたんこぶがボコボコと盛り上がっている。
「うわぁ……」
 目も当てられない惨状である。シルエットになった人影がゆっくりと振り返った。ルロイは身構えた。
「何者だ!」
「う、うーん……?」
 グリーズリーが身じろぎした。
「大丈夫か。しっかりしろ」
 ルロイはあわてて駆け寄った。身体の下に腕を差し入れ、グリーズリーを支え起こす。ぐらりと頭がのけぞった。
「グリーズ!」
 さらに声を高める。かすかにまぶたが動いた。どうやら意識は戻ったようだ。ルロイは思わず安堵の声を上げた。しかし、まだ意識が混濁しているらしい。グリーズリーはぼんやりと眼を開けた。視線がうつろにさまよう。
「さっき天国が見えたんだ……」
 まどろみの中、うっとりと解放されきった笑みを浮かべる。
「美女が手招きしてくれてさあ……おっぱいをいっぱい頭に乗せてくれたんだ……ぱふぱふ……って……ああ……おっぱいいっぱいちゅっぱちゅぱ……」
 手で後頭部のたんこぶをさわさわと触っている。恍惚の表情だ。どうやら頭を強打しすぎて変になったらしい。
「しっかりしろグリーズ! 気を確かに持て! そっちの天国には行くなぁぁぁぁ!」