お月様にお願い! 番外編 恋の赤ずきんちゃん

塔の上のシェリー

 机の引き出しを何度か引いて鍵が掛かっていることを確認した後、腰に下げた鍵束からひとつを選り出して開ける。
「残念だよ」
 懐中時計を放り込み、代わりにしまいこんであった本を取り出す。
「一人で逝くのは寂しいだろうからな。冥土のみやげに持たせてやるとしよう。エマが読みたがっていた本だ──ところであの娘の行方は分かったかな」
「フーヴェルが囲っていたのは事実だ。その後のことは分からない」
 ハンガーに手を伸ばし、かけてあった帽子を取って目深に被る。窓ガラスに自分の姿が映った。アドルファーの姿は見えない。
 帽子の角度を整え、羽根飾りを手で整える。
「自慢の鼻で追えばいいだろう」
「村の人間どもをわざわざ一つ所に集めさせておいてよく言う」
「権力の行使を臣民に公布するのは施政者としての義務だよ。私は暴君でも独裁者でもない、しがない地方の一領主だ」
「……わざとだろう」
「何のことだ」
 クレイドは気付かぬ振りをした。したり顔でぬけぬけと聞き返す。アドルファーの口調に棘が混じった。
「わざと村人に騒ぎを起こさせたのだろう。守りを固めさせるだけで良かったはずだ。今、この時を選んで処刑などする必要はなかった。高札を立てて村人を集め殊更に騒ぎ立てる必要も」
「村を外敵から守るのも、領主としての義務だよ。念には念を入れて何が悪い。バルバロに侵入されただけでも相当な大失態だというのに、手ぬるい対応でさらに恥の上塗りをさせられてはたまらない」
 クレイドは苦笑いした。村の出入り口は厳重に封鎖してある。人の流れに逆らうことはできない。目立つ行動を避けようとすればするほど、広場へと引き寄せられることになる。
「それにしても、ずいぶんと都合良く侵犯騒ぎを起こしてくれたものだ。警備を厳重にする口実も立ったし。最高の晴れ舞台だよ」
 手にした本をぱらりと開き、しおりの位置を確かめる。
「さすがにあれだけの人間が集まるのを見るのはいけ好かぬ」
 答えるアドルファーの声に珍しくためらいが混じった。
「だろうと思って、似合いの代役を用意しておいたよ。貴公には少々、役不足かもしれないがね」
 クレイドは安請け合いして本を閉じた。
「それはそれとして、今後は突発的な行動は控えてもらおう。もしバルバロが──と結託して、などと公になってしまったら大疑獄どころの話ではない。彼女もそれは望まないだろうさ」
 あえて下世話な興味をかき立てるふうにひとりごちる。
「女を餌におびき出すつもりか」
「まさか。あくまでも穏便に、自発的に、だよ。臣下ごときが王族の権威を貶めるようなことなど決してあってはならないからな。ひたすらお出ましいただけることを希うばかりだ。それに」
 何食わぬ顔で否定して上着を羽織る。
「せっかく放った狐狩りの犬を見逃すつもりもない」
「その狐はどこに」
 クレイドは手袋をはめながら顔を上げた。反射するガラス窓を鏡代わりにして最後にもう一度、身だしなみを整える。薄暗い笑みが窓に反射した。
「……もしかしたら、私の目の前かもな」

 雲が切れて、青い月がおもてを現した。ほくそ笑む魔女の横顔にも似た模様が、地上の茶番劇を見下ろしている。
「そろそろ時間だ」
 誰かがつぶやいた。
 赤いずきんと魔女の仮面をかぶせられたエマの身体は、絞首台のロープの前にひざまずいたまま動かない。
 髑髏の面をかぶった首切り役人が絞首台の傍らに立った。黒いローブが風にはためく。幽霊船の帆のようだ。
 真っ赤なランプを持った黒いマントの一団が鐘楼の階段を上ってゆくのが見えた。内部から照らす火が滴る血の色に変わった。処刑を知らせる黒い旗が風に泳ぐ蛇のようにうねり、たなびく。
「あの鐘が鳴り始めたら……エマは」
 シェリーは自分の手を握るニーノの手に、息苦しいほどの力がこもるのを感じた。締めつけられる手首と同じように胸が痛い。
 時間がない。深夜零時になったら、鐘楼の鐘が鳴り始める。鐘がすべて鳴り終わったら、終わりの始まりだ。
「エマを処刑してどうなるというんだ」
 ニーノは苦々しく吐き捨てた。何かを必死に考えている。
「彼女は何もしてない。冤罪に決まっている。あの方が自分の使用人を見捨てるなんてことはあり得ない。そうだ、そうに決まってる。これは何かの間違いなんだ。クレイドさまならきっと分かってくださる……」
 クレイド。
 ”クレイド”と言った。頭の奥が今にもつぶれそうだ。痛い。こめかみに手を押し当てる。頭の中の血管が圧迫されて、どくり、どくり、と音を立てて蠢いているような気がした。
 クレイド。確かに知っている。
 黒い目。
 黒い髪。
 狡猾な微笑が思い浮かんだ。
 魔女の仮面をつけた女の幻影が見える。偽りの忠誠という名の毒をまぶしたリンゴを差し出す、美しい女。いったい、誰の面影だろう……? 確かに知っているはずなのに、喉の奥に魚の小骨が刺さったみたいにちくちくと邪魔をして、痛んで。思い出せない。知っているはずなのに。何度も、見たはずなのに。
 ずっとそうだった。
 ”今みたいに”。
 知らなかったことにしようとした。
 ことさらに彼女が強調する友情を壊したくなかったから。それが嘘であることに気付きたくなかったから。
 目をそらし続けた。
 認めるのが怖かったから、疑うのが怖かったから、彼女の信頼を失うのが怖かったから。いや、違う──もし彼女を疑っていると知れたら、影で何をされるか分からなかったから。
 だから、無条件に信じた。わがままを許し、皆を逆にいさめ、専横特権を与え、信じ続けようとした。
(フルルが、子羊がいなくなったんですの。あんなに皆で可愛がっていたのに。お願いですわ、殿下も一緒にあの子を探してやってくださいませんか)
 疑う素振りすら見せなかった。気付かない事にし続けた。黒い手袋を嵌めた手から毒リンゴを受け取ったとき、彼女が勝ち誇った笑みを浮かべたのを見てもまだ、何も見なかったことにしようとした。
 本当は、それこそが彼女の本心だと分かっていたのに。
 シェリーはポケットの中の金のチョーカーをきつく握りしめた。
 鐘楼が赤く染まってゆく。赤い色が夜空から降り注ぐようだった。
 赤い色。
 心の奥底に閉じこめられていた記憶のカケラが割れた。過去の断片が鏡のように映し出されている。
 今なら、思い出せる。
 フーヴェルおばさんの笑顔が見えた。手に赤いずきんをひらひらさせている。
(うちの娘がね、一昨年からクレイドさまって伯爵のお屋敷に御奉公に上がってるんだけどさ)
(何も心配はいらないよ。ここにいれば大丈夫。もうすぐエマもカイルも帰ってくる。そうしたら怖い事なんて何もなくなるさ)
 エマ・フーヴェル。
 シェリーは身体をふるわせた。
 思い出した。いわれなき魔女の汚名を着せられ、今にも殺されようとしているあの女の人こそが、クレイド卿に仕えているという、おばさんの娘さん。エマ・フーヴェルだ。
(あなた、どうしたの、しっかりして……ほら、手に掴まって。大丈夫よ。すぐにママに看てもらうから……うちがすぐそこにあるの。大丈夫よ)
 川で溺れかけていたとき、助けてくれた人だ。見ず知らずのわたしを付きっきりで看病してくれた人だ。わたしに赤ずきんを譲ってくれた人だ──
 シェリーは身震いしそうになった。心臓が音を立てて何度も跳ねる。胸の奥が焼けこげそうに熱くなった。
 今、声を上げなければ。
 今、行動を起こさなければ。
 あのひとが殺されてしまう。
 何度も息を吸い込んだ。かすれた音をかろうじて吐き出す。
「つ……ていって」
 シェリーは顔を上げた。自分の声とは到底思えないような、しゃがれ声が聞こえた。喉の奥がささくれ立って、声を出すだけで痛みが走る。
「君、しゃべれるのか?」
 ニーノが目を押し開く。シェリーは繰り返した。
「あのひとの所へ。わたしをつれていって」
 もう、見ないふりはできない。したくない。
 シェリーは前へ進み出ようとした。声が、思いが、とめどなくあふれ出てくる。
 ふらふらと足を踏み出す。ニーノが腕を掴んだ。引き留める。
「どこへ行く気だ。危ない。出て行っちゃいけない」
「いいえ」
 シェリーは目の上を強く押さえた。暗闇に幻影のような光がまたたいた。目が眩む。頭痛に襲われる。背中を誰かの手に押されているようだった。
「どうしても行かなくちゃ。エマさんを助けられるのは……わたしだけなの……」
 訳も分からずに口走る。ニーノは総毛立つまなざしをシェリーへと向けた。
「どういうことなんだ? 君は、いったい」
 そのとき、視界の隅を黒い影が走り抜けた。
 影から影へ。死角をかいくぐってジグザグに走る。疾風のようだった。目にも留まらない速度で一直線に走り抜けてゆく。
「あれは……」
 一瞬だけ横顔が見えた。金色に反射する野生の眼が月明かりに光跡を描く。
 ひた走る影。たなびく黒い髪。まるで月下の狼のよう。
 ひとつ。
 ふたつ。
 追いつ追われつ、影は燃えさかる松明の前を横切っては現れ、また消える。いったいどこへ向かっているのだろう。
 ふいと暗がりに紛れて見えなくなる。
「ぁ……」
 失意の声を飲み込む。気が付けばもう一陣の風となって消え失せていた。シェリーは周りを見回した。それらしき姿はどこにもない。いったいどこへ行ってしまったのだろう……?
 でも、まだ、この近くにいるはずだ。眼を皿のようにして影を探す。身体の奥が無性に高鳴る。鼓動が早くなる。
 気のせいか、今の横顔には見覚えがあるような気が──
 火の粉が高く舞い上がった。灰交じりの風が吹き付けてくる。
 目深にかぶっていた黒いフードが後ろに飛ばされた。シェリーは目にごみが入らないよう、腕で覆った。隠していた金髪がほどけ、闇に射した曙光のようにこぼれ出す。
「どうしたんだ。何かあった」
 ニーノは訊ねようとして声を呑んだ。賛嘆と驚愕のまなざしを向ける。
「君は……?」
 シェリーは怯えた眼でニーノを見返した。乱れる髪を押さえ、チョーカーを手首にからめて、胸元を掻き合わせる。
「今、そこに誰かが」
 ふるえる指先で人だかりの向こうを指差す。
 ニーノは指し示された方角を振り返った。腰に下げた護身用の銃に手を置き、いつでも抜けるよう身構えながらあわただしく周囲を見回す。
「侵入者か?」
 ふと、風が凪いだ。すべての音が途絶える。
 髑髏の面をつけた首切り役人がおもむろに手を挙げる。骨と皮だけの筋張った手首がのぞいた。
 人々が釣られて空を見上げる。鐘楼台から洩れる光はひどく赤く、まるで血の涙を流したようだった。
 それを皮切りに。
 処刑時刻を告げる鐘が鳴り始めた。