お月様にお願い! 番外編 恋の赤ずきんちゃん

塔の上のシェリー


 シルヴィが顔を上げた。
「あっれえ……?」
 はふん、と酒臭い息をつき、すっかり出来上がった顔で周りを見回す。火照った視線がぴたりと赤ずきんで止まった。
 酒の瓶を掴んだ手で、にへらにへらとだらしなく指差す。
「おい、シルヴィ、どうした?」
 あわててグリーズリーが支える。シルヴィは甘ったるい笑いをこぼしてグリーズリーの首に腕を巻き付けた。はだけた胸がぷるんとだらしなく揺れる。
「おかしいなー? ねーねーグリーズーー、あの赤いのぉ、もしかしてシェリーの赤ずきんじゃなーい?」
 しなだれかかるようにしてグリーズリーの腕におっぱいの谷間を押しつける。
「えええっ!? えっ……あ、いや、ちょっと……」
 グリーズリーは赤面し、あわてふためいて離れようとした。おっぱいの谷間に肘がしっかりとめり込んでいる。
「うふふうん? あはぁ? やっぱそーだよねー? あれシェリーのだよねー?」
 シルヴィはすりすりとおっぱいで肘を挟んでこすりつけながら猫なで声を上げた。けらけらと無責任に笑う。
「待て待て待て待てそれ以上言うな、ヤバイ」
 グリーズリーは汗だくの顔をぎくりと緊張させ、一瞬ルロイを見た。あわてて視線をそらし、シルヴィの口を手で塞ぐ。
「んがぐぐ~何すんのよーウソじゃないったらぁ……」
 シルヴィはじたばたと手を振り回した。蓋の開いた瓶から、濁り酒の粘っこいしずくが白く滴り落ちる。
「わっ、酔っぱらってんのかよ、何やってんだこんな時に。ルロイに聞こえたらどーすんだよ……」
 焦って黙らせようとする。シルヴィは鼻の頭をとろりと赤くしてグリーズリーに身を寄せた。
「本当よ見間違うわけないってばぁ……だって、アドルファーがあの子から剥ぎ取ったトコ、この眼で見たんだもん……っぷはぁ~~!」
 もわぁんと酒臭い息を吹きかける。
「うわっ、酒クセーー!」
 グリーズリーは鼻をつまんでのけぞった。シルヴィは官能的に腰をすり寄せた。きっちりと腰に巻き付けていたはずの尻尾がゆるんで、思いっきりふらふらと揺れ動いている。
 グリーズリーはぎょっとして目を剥いた。
「シルヴィ、尻尾が丸見え……!」
 ぴよんぴよん逃げ回るシルヴィのシッポの先を何とか元通りに巻き付けさせようとして尻を掴む。
 顔やはだけた胸に、こぼれた濁り酒がぴしゃんとかかる。シルヴィは声を上げて笑った。両手でおっぱいを持ち上げ、舌をちろりと出して舐め取る。
「あはぁん、もう、いやぁん、何すんのよお、白いのがいっぱいかかっちゃったぁ……」
 なまめかしい匂いが漂い出す。
「わわわやべぇ、完全に酔っぱらって……! ど、どうしようルロイ……」
 グリーズリーはあたふたとルロイを振り返った。
「どうもこうもねえよ」
 ルロイは背筋にぞくぞくと怖気が奮い上がるのを感じた。拳を握りしめる。首の後ろの毛がぞわっと逆立った。
「あれがシェリーの赤ずきんだって言うなら……」
 ルロイは鐘楼から洩れる赤い光に照らし出された絞首台を睨み付けた。粗末な布一枚をまとい、罪人のように縛られてうずくまる姿はひどく痛々しく、やつれて、赤く腫れ上がっているように見えた。
「助け出すまでだ!」
「待て、ルロイ。やめろ。無茶すんなって」
 グリーズリーはよっぱらったシルヴィに絡みつかれたまま詰め寄った。押しとどめようと手で制する。
「落ち着け。周りを見ろ。俺たちは今、敵の軍勢に取り囲まれてるも同然なんだぞ。まずは様子をうかがってからでも遅くない。もしこんなところで下手に騒ぎを起こしたら今度こそ……」
「知るかよ!」
 ルロイはその手を払いのけた。駆け出す。
「待て。行くんじゃない。これはきっと罠……」
 グリーズリーは血相を変え、ルロイの前に立ちふさがろうとした。が。
「あっはーーん? だーーれだ? こっちょこちょー?」
「うわっシルヴィ!? やめろってうははははは! そんなことしてる場合じゃ!」
 ぐでんぐでんに酔っぱらったシルヴィに両手で目隠しされ、シッポで鼻をくすぐられてつんのめる。
「うふふーー? イっちゃいやぁんこちょこちょーー!」
「マジでやめろって、邪魔すん……ふんがっ……ほぇっ……」
 グリーズリーはじたばたと腹をよじりながらくしゃみした。シッポの先で鼻をくすぐられ、脇の下をくすぐられて、くしゃみと笑いが止まらない。
「……ぶぁっか……ふ、ふ、ふえーーっくしょん! ルロイ、待てって……ぶえっくしょん!」
「待てるか!」
 目の前にシェリーがいる。
 魔女みたいな仮面をかぶせられ、後ろ手に縛られ、罪人のように晒しものにされている。
 そう思うと、他のことなど何一つ考えられなかった。頭の中に怒りの噴煙が吹きだして屈辱の渦を巻く。
「俺はシェリーを助けに行く!」
 グリーズリーの声も、もう耳に入らなかった。

 処刑の鐘が鳴り始めた。
 低く、重く、冷たい音。
「侵入者だって? カイル・フーヴェルか」
 ニーノは呼子を口に持ってゆきながら四方を見回した。
 だが人々のどよめきが高まってゆくなか、姿を視界に捉えることは難しかった。
「あっち……」
 シェリーはおぼつかなく指差そうとして、ためらった。
 あの横顔。確かに見覚えがあった。でも、いったい、どこで──
 急に不安になる。なぜかそのことを口にしてはいけないような気がした。雲が月を覆い隠した。広場を黒い影が覆ってゆく。
「どこだ。どこにいた。どっちの方角だ」
 問いただそうとしたニーノの背後からいくつも不平の声があがった。背中を突き飛ばされる。絞首刑を見ようとする人々が刑場近くに詰めかけているのだ。シェリーは人波に押され、よろめいた。
「大丈夫か、君」
 ニーノが抱き寄せてかばってくれた。
「は、はい……すみません、ニーノ様。ご迷惑ばかりおかけして」
 頭を下げるも、心の裡では侵入者のことを告げずに済んだとほっと胸をなで下ろす。
「それは良いんだが、賊の姿を見失ってしまったな」
 ニーノは苦々しく舌打ちした。シェリーは、自分の失敗のせいで苛立たせてしまったのではないかと心細くなってニーノの横顔を見上げた。
 だがニーノはシェリーを抱きしめたまま、絞首台の方向を睨んでいた。怒気の混じった声で吐き捨てる。
「彼女を助けなきゃならないって時に、何でこんな余計な騒ぎが……。仕方がない」
 ニーノは険しい表情でシェリーを見下ろした。まさぐるようにシェリーの手首を掴む。
「悪いが同行願おう」
「えっ……」
 ぎくりとする。
「で、でも……あの」
 まごついた視線を絞首台のエマ・フーヴェルからニーノへ、交互に向ける。ニーノは有無を言わさぬ声で命じた。
「本当は君を家に送っていってあげるべきなんだろうけれど、あいにくこの状況だ。かといって、か弱い女性を捨て置くわけにはいかない。ならばせめて騎士らしく君を守る役目だけは最後まできちんと果たしたいと思う。こっちへ来て」
「あの、いえ、でも……」
「僕の手を離すんじゃない」
 断るに断れない。やむなくシェリーはうなずいた。ニーノは子供だましの微笑みを浮かべるとシェリーの手を引き、絞首台に向かって走りだした。人垣をかきわけて進んでいく。
 また鐘が鳴った。シェリーは背筋が凍るような不安にかられた。背後から黒い手の形をした悪意が追いかけて来るような気がした。恐ろしさに耐えきれず、顔をそむけて目をつぶる。
 今のでいくつめの鐘だっただろうか。この鐘が鳴り終わったら、エマ・フーヴェルは無実の罪で殺されてしまう。
 シェリーは首を何度も振って気をしゃんとさせた。金のチョーカーをぎゅっと握りしめ、ともすれば怖じ気づく心持ちを押し殺す。
 いいえ。決してそんなことはさせない。
 そうなる前に、何が何でもエマの無実を証明するのだ。
 目をつぶり、決意を秘める。
 勇気を出し、声に出して、真実を告げなければならない。
 でも……
 いったいどうやって?
 何が”真実”なのか、何を言えばいいのか。頭の中にもやが掛かっているみたいだった。どうしても思い出せない。ひとりぼっちで争乱に放り出され、訳も分からず逃げまどうばかり。ためらってばかり。真実から遠ざかろうとばかりしている。
 思い出せるはずだ。もう、ほとんど思い出しているはずだ。
 探さなければならない。わたしがわたしであるために。この痛みの在処を見いださねばならない。
 シェリーは自分に強く言い聞かせた。エマ・フーヴェルを救えるのはわたしだけだ──
 髑髏の面を着けた首切り役人が、エマの傍らに立った。手に銀色の鎌を持っている。冷たい風が吹いた。首切り役人のまとうコートが荒布のようにばたつく。
 鐘が鳴る。聖なる威厳を持っていながら、ひどく悲しげな音色だった。
 鳴り続けている。
 エマ・フーヴェルはようやく、自分の居場所に気付いたらしかった。ぎごちなく仮面をかぶせられた顔を上げ、十三階段頂上からの光景を見回す。
 赤いフードのついたケープが風にあおられた。よろめく。
「ここは……どこ?」
 かぼそい肩が震えた。寒さに凍えて青白く変色したくちびるが動く。
「いったい、どうなって……?」
 首切り役人がエマの首にロープをかけようとしている。エマは身をよじって抗った。
「いや、どうしてこんなところに私が。下ろしてください、これは何かの間違いです。私は何もしていません。信じてください。旦那様はどちらに……」
 兵士が駆け寄った。もがくエマを取り囲む。一人が力ずくで取り押さえた。口を塞がれる。悲鳴がくぐもった。すべてが鐘の音にかき消される。
「退いてくれ」
 ニーノが怒鳴った。人々の背中を押しのけ、邪魔をする者には腕に物を言わせて突き進む。
「僕はクレイド卿に仕える者だ。はやく持ち場に着かなければならない。退け。邪魔だ」
「ニーノ様、大変。エマさんが」
 シェリーは絞首台を指差した。エマが絞首台の真下に引っ立てられてゆく。
 ニーノは声を呑んだ。
「しまった」
 鐘の音が無情に鳴り渡る。
 青黒く発光する雲の合間から、まだらになった月明かりが注ぐ。現れては消え、消えてはまた現れる、気まぐれな死の福音のようだった。冴え渡る月おもてが死刑場をつめたく見下ろしている。
「時間がない」
 ニーノは歯を食いしばった。歯列の間から苦渋の呻き声を押し出す。
「このままでは、もう……!」