お月様にお願い! 番外編 恋の赤ずきんちゃん

塔の上のシェリー


「いい加減にしやがれ」
 背後からグリーズリーが躍りかかってきた。
「お前の脳みそはスッカラカンか」
「うっせえ! 邪魔すんな!」
 思い切り背中に体当たりされる。身体が前にのめった。跳ね飛ばされながらもルロイは空中で身をよじり、グリーズリーの腹を蹴飛ばした。もんどり打って地面に転がる。
 すぐさま跳ね起き、走りだす。その足にグリーズリーがぶら下がった。
「お前の無分別な行動で何もかもが台無しになっちまってもいいのか」
 組んずほぐれつの取っ組み合いしながら、互いに喉の奥で獰猛に唸る。
「だからって、黙って見てろって言うのか。シェリーが殺されるかどうかの瀬戸際だってのに! ええいくらえッ!」
 油断したグリーズリーの手を取り、背負い込むようにして全力で放り投げる。
「どぉりゃあぁあ!」
「わああっ!?」
 グリーズリーはじたばたしながら空を飛んで人だかりのど真ん中に落ちた。人垣が崩れ、悲鳴ごとなぎ倒される。倒れ込んだ人々の壁の向こうに、木の杭を尖らせて作られた柵が見えた。絞首台はその向こうだ。
「あいたた……痛ってぇ……!」
 グリーズリーは後頭部を押さえて起きあがった。周囲の人々に一斉に睨みつけられ、ぎくっとすくみ上がる。
「す、すみませんごめんなさい、はい、はい、分かってますもうしません失礼しましたごめんなさい……」
 グリーズリーは巻き込んでしまった人々にぺこぺこと平謝りしながら逃げるように駆け戻ってきた。泥の付いた口の周りを拳の背中でぬぐう。
「いい加減にしろ。これだけ言ってもまだ分からないのか。だったら直接、身体に教えてやるしかないな」
 横を向いて、口の中の泥をぺっと吐き出す。
「こんなこともあろうかと、前もって準備しておいたものがある。見ろ、ルロイ! これを!」
 服に付いた土をはたいて落とし、素知らぬ振りでポケットに手を突っ込む。ルロイはポケットから武器が出てくるのかと用心して身構えた。グリーズリーは四角いカードを一枚、ポケットから引き抜いた。ぴらぴらと裏返らせる。
「それが何だってんだ。ただのカードじゃねーか」
 ルロイは拍子抜けして唸った。隙あらば横をすり抜けていこうと様子をうかがう。
「真に受けて損した」
「そいつはどうかな」
 グリーズリーはもったいぶってにやりと笑った。口を開く。
「この間、シェリーちゃんがうちに来たって話はしたよな。キッチンで何か作ってたって。その際シェリーちゃんがくれたんだけどさ」
「え……」
 ルロイは虚を突かれて拳を引っ込めた。
「シェリーが?」
 疑わしげにじろじろとグリーズリーの手元を見つめる。カードがちらちらと目の前を行き来した。
「だから、それが何だって言うんだよ」
「これに何て書かれてるのか……見たくないか?」
「えっ」
 ルロイは思わず気を奪われ、身を乗り出した。頭の中を疑念が渦巻いた。グリーズリーはほくそ笑んでさらにカードを前後左右に行き交わせ、ひらひらさせる。
「見てみたいだろ?」
 にわかには素直に答えられず、ルロイは口ごもった。
 シェリーが書いたカード……? そんなものがあったとは。いったい何が書かれているというのだろう? というか何のために? そもそも誰宛てだ? 頭の中が余計な心配でぐるぐるし始める。せっかく書いたんなら気軽に見せてくれればいいものを。存在すら知らせてくれなかった。ということは……まさか……。
 他のオス宛てということも……?
 うわあん嘘だぁぁあぁ……! シェリーに限ってそんなことなどあるわけがああっぁぁ……!
「ふっ」
 グリーズリーは小馬鹿にした笑みをうかべた。手品師みたいな指使いでカードをくるりと裏返し、さっとポケットへとしまい込んでしまう。ルロイは思わず動きに釣られて、手を伸ばした。
「だが見せない!」
 心の隙を突かれる。グリーズリーが飛びかかってきた。ルロイの手の下をかいくぐって腕を掴み、足首を内に蹴って払った。上半身を強く横に振られて、ルロイはつんのめった。体勢を崩し、のけぞって倒れ込む。
 グリーズリーは荒い息をたてて腕を逆さにねじり上げた。足でひしいで、がっちりと押さえ込みにかかる。
「俺ごときにあっさり手玉に取られるなんて、お前らしくない。頭に血が上りすぎだ。少しは冷静になれ」
 月を雲が覆い隠した。かと思えばまた吹き払われて雲間が切れる。
 グリーズリーは凍り付いた怒りを宿した目でルロイを見下ろした。本気で怒っている。喉の奥の唸り声は低く、小さかったが、ルロイの怒りに冷や水を浴びせかけるには充分だった。
 グリーズリーはぞんざいに顎でしゃくって死刑台の方向を示した。
「見ろ」
 ルロイは視線を移した。
 赤く照らし出された絞首台の下に、髑髏の面を着けた死刑執行人が佇んでいる。まるで告知の時が来るのを待っているかのようだった。風がばたばたと死神の黒い衣をはためかせている。
「何が始まるにしろ、あいつが動き出すまでは大丈夫だ。時間はある。お前が何もかもめちゃくちゃにしない限りはな。分かったか」
「……うん」
「本当に分かってんのか?」
 グリーズリーはルロイの上から退いた。ルロイは手をついて起きあがろうとしながら舌打ちした。
「うるせーよ。分かったっつってんだろ」
「どう見ても分かってなさそうだな……」
「何だと! 誰が分かってないって言った! そんなに俺に分かって欲しいか!」
「この期に及んで逆ギレか? ありえねえ……」
 拗ねるルロイに対し、グリーズリーは頭を抱えた。うんざりと目をそらし、あきれ果ててつぶやく。ルロイはどすんとその場にあぐらをかいて座り込んだ。
「ぐちゃぐちゃしつこく抜かしてんのはそっちだろ。そんなに分かって欲しけりゃあ分かってやるよ。その代わり、こっちにも条件がある!」
「うわーついにゴネたもん勝ち? 何か言い出しちゃったよ……」
「うっせー!」
 意地でも聞く耳は持たない。鼻息も荒く、ふんと肩をそびやかせて腕を組む。
「……見せろ」
 ルロイはむすっと唇をとがらせ、ぷいと顔をそむけた。
 横を向きながら手を突き出す。グリーズリーはきょとんとした。
「何だその手。お手か?」
「うるせー! いちいち口答えせずに黙って見せるもの見せりゃあいいんだよ! 言われたとおりにして欲しいんだろ!? だったらそれ! さっきのカード! 見せろよ!」
 頬を赤くして強情に言い張る。
「分かった分かった。勝手にするがいいさ。ほらよ」
 グリーズリーは笑ってカードを指先ではじいた。
 カードは落ち葉のようにくるくる回って宙を舞う。ルロイはすかさずぴょんと飛びついた。地面に落ちる前にぱくっと口でくわえ、くるりと前回りに一回転してから着地する。
 内心どきどきしながら、手に取ったカードを見下ろす。
 いったい何のカードだろう……?
 高まる期待に、わくわくと胸を沸き立たせながら、カードをゆっくりと開く。偉そうに言ってはみたものの、まだ直視する勇気がない。どうしよう。見ようか。見るまいか。いいや、据え膳食わぬは男にあらず。男たるもの、この胸のときめきを大切にしなければ。 よし! ルロイは腹をくくった。
 じたばた焦っても仕方がない。海のように広い心、大地のようにたくましい腕で、すべてを受け止めるのだ。
 息を深く吸い込み、あくまでも鷹揚に、平然と構えて、薄目でちらっと──
 見た。
 ででーん! 真っ赤なルージュの巨大キスマークが目に飛び込んだ。
「うっふーーーん♪ 愛しのダ~~~リ~~~~ン♪ 愛してるわぁぁあん♪♪ ぶっちゅぅぅううんキスマ~~ク♪ あ・げ・る♪♪ byアルマ」
 カードのど真ん中に、むっちりと深紅に色づく圧倒的な肉感が鎮座ましまして、猛烈なフェロモンを放射している。
「ぐっはぁぁあ!」
 精神にダイレクトアタック!
 ルロイはもんどり打ってのけぞり倒れた。むわんむわんとサイケデリックピンクのフェロモンを発するカードがなぜか手にべったりと貼り付いたまま離れない。悲鳴を上げ、ぶっちゅううううと迫ってくるキスマーク入りカードを投げ捨てる。
「ぎゃああああ目が! 目がぁぁぁぁあ!」
 目を押さえ、ごろごろと転がり回る。
「馬鹿め、かかったな!」
 グリーズリーは高らかに笑った。ルロイが取り落としたカードを拾い上げる。
「言っておくが、本当にこれはシェリーちゃんの直筆だからな。アルマが俺にくれる用の見本にするはずだったんだけど、結局自分では字が書けなかったらしくてね。キスマークは当然アルマだけど、字は間違いなくシェリーちゃんが書いた愛のメッセージだ」
「ううう、最悪なもん見ちまった……」
 ルロイは息も絶え絶えにうめいた。期待していただけに与えられた精神へのダメージも計り知れない。まさに天国から地獄まで真っ逆さまに転げ落ちたに等しい。
「この世のものならぬおぞましい悪魔召喚の呪文が見えた……」
 げっそりと落ち込み、四つん這いでうなだれる。
「最高の間違いだろ」
 グリーズリーはほくそ笑んでカードにキスした。さらりと言い抜ける。
「こんな素敵な愛のメッセージ、他にはないぜ?」
「てめえ、マジで騙しやがったな!」
「騙されるお前が悪い」
「うっせえーー! こんなのシェリーじゃねえ! ちくしょう、俺のときめきを返せーーーッ!!!!」
 ぼかすかと互いに取っ組み合って殴り合う。
 ふと、風が止まった。人々が固唾を呑む。動揺が波紋となって広がった。人の壁が崩れる。
 いったい何が起ころうとしているのか。
「ん?」
 赤く染まっていた鐘楼の明かりがふっと消えた。心を威圧するような、重い鐘が鳴り始める。
「おい待て。何だ、今の感じは」
 異変に気付いたルロイはいがみ合うのを止め、掴んでいた胸ぐらをぱっと離した。何事かと背後を振り返る。放り出されたグリーズリーはどすんとしりもちをついた。周りを見回す。声をひそめる。
「何が起こった?」
 死刑台の方向からどよめきが起こった。
 誰かが叫んでいた。柵を揺さぶっている。半分壊れたような、しゃがれた、悲鳴じみた声だった。
「悪いのはあたしなんだ。だからその子を許してやっておくれ」
 突風が吹き、空の雲が吹き散らされた。青白い月が面を出す。さえざえと冷たい針を刺すような光が、罪に濡れる舞台を照らし出してゆく。
「あの声はいったい……?」
 処刑を告げる鐘が鳴り渡った。

 深夜零時。
 処刑時刻。
 執行の鐘が鳴り始めた。ロダール伯トラア・クレイドは、騎乗姿で刑場に姿を現した。赤い光に濡れたえんじ色のコートが突風にはためく。
「恩赦を」
 誰かが叫んだ。
「哀れな娘にどうか恩赦を」
 風に死の匂いをかぎ取ったのか、馬が荒々しく鼻息を吹いた。前足を乱暴に掻く。クレイドは馬から下りた。手綱を押さえていた主馬係に合図して馬を引かせ、柵越しに詰めかけた群衆を見渡す。
 吹き付ける風に帽子が吹き飛ばされそうだった。帽子のつばを押さえる。かろうじて取りつくろっていたであろう正義だの秩序だのという馬鹿げた白昼夢が、現実の前に音を立てて崩れ落ちるのを見るかのようだった。クレイドは口元を笑みの形に吊り上げた。
 周りを見回す。
 広場の片隅に黒い四輪馬車がどっしりと停車している。窓がほそく開いている。邪悪に微笑む美しい顔が目に浮かぶ。
 再び鐘が鳴った。群衆の中から互いに揉み合って怒鳴り合う騒ぎが起こったが、すぐに静まった。
 時間だ。
 指を鳴らして合図を送る。髑髏の面を着けた首切り役人は粛々と腰を折ってお辞儀をした。手にした鎌を高々と掲げる。
 鐘楼から赤く漏れ出ていた光が消えた。窓に暗幕が下げられたのだ。周囲は一変して暗闇に変わった。
 と同時に、櫓の横のかがり火が、ごうっと音を立てて激しく燃え上がった。兵士が一斉に手にした松明を掲げた。炎の輪が広場を取り囲む。
 クレイドは首切り役人を見つめ、下がるように合図した。闇に向かって目配せを送る。
「最後にもう一度だけ聞こう」
 十三階段を上がり、縛られたエマの背後に近づく。
「エマ・フーヴェル。君の物語は本当にこの結末でいいのか」
 ささやくように耳打ちする。エマはびくりと肩を震わせた。
 だが、身動きひとつできぬよう後ろ手に縛られ、喉元に槍を差しつけられ、声すら出せぬほど怯えていては、答えを返すこともできない。
「君は弟を、母を守るために口をつぐんだ。それが私に対する反逆であり裏切りであると知りながらね。崇高な自己犠牲の果てに死刑台へと昇る──何と気高く、美しい決意だろうか。内心、胸を打たれたよ」
 クレイドの冷たい指先がエマの顎の線をつたうように這った。耳朶に触れる。もてあそぶ。
「君自身は、明日の朝には冷たいむくろと成り果てて、露に濡れ、鴉に死肉をついばまれる餌となっているというのに」
 風が吹き抜ける。背筋を冷たく這いのぼる風だった。
「その思いが何一つとして有用な実を結ばないという、薄ら寒い事実を目の前にしてはね。君と君の家族を陥れた犯罪者どもは罪に問われることもなく、まんまと逃げ延びるだろう。きっと今頃はほくそ笑んで勝利を祝っていることだろうね」
 クレイドは胸のポケットから黒のハンカチーフを引き抜いた。
「だが、ひとつだけ方法がある」
 誘うようにはためかせる。ハンカチを持った手の裡には、折りたたまれた一通の手紙が隠されていた。
「これさえあれば、君の命を助けることができる」
 エマは呆然と視線を泳がせた。
「これが何か、知りたいか……?」