お月様にお願い! 番外編 恋の赤ずきんちゃん

塔の上のシェリー

 クレイドは悠然と広場を見渡した。黒百合ノワレの紋章が透かし削られた羊皮紙の書状ごしに薄く笑う。
「免罪符だ」
 エマの肩がびくりと震える。濡れた髪がこめかみに貼り付いた。
「マール大公妃が君の命を譲り受けたいそうだよ。もちろん、君には断る権利がある。私も強制はしない。君には君なりの正義があるだろうからね。だが、君のご家族や君を知る皆は、あくまでも意志を貫こうとする君の姿勢を見て、あるいはこう思うのではないかな。せっかく差し伸べられた救いの手を、なぜ取ろうとしないのかと。その免罪符さえあれば、君だけでなく、君の弟も、君たちをかくまった母親も、家族全員が救われるのに、とね」
 クレイドはあえて声を抑え、訥々と続けた。
「卑しむは君の罪ではない。君を無惨にも見殺しにし、自分だけは難を逃れようとした悪意の存在だ。愛情深い家族に取り入り、良心の呵責を覚えさせることによって否応なしに犯罪へと巻き込んだ怪物の存在だ」
 闇を射抜く声が響き渡る。しわぶきひとつ聞こえない。
 クレイドは返ってくるはずもない答えをわざと待ち受けた。
「それほどまで君の魂を押さえつけているものとはいったい何だ? 君ひとりを人身御供に差し出して、自分だけは難を逃れようとしたもの。君を罪に陥れたものは、いったい誰だ?」
 視線を燃えさかる炎へ向ける。薪がくずれた。火の粉が赤く立ちのぼる。茫然自失し、声もないエマの横顔だけが炎に照らされている。
 こわばった白い息が断続的に立ちのぼる。苦しい息。追いつめられた吐息が。
 返事はなかった。
「答えられないのなら、致し方有るまい」
 先ほどと同じ位置に、あの黒い馬車が停まっていた。相変わらず窓一枚だけが細く開いている。そこには一言一句たりとも漏らすまいと聞き耳を立てている者がいるに違いなかった。言葉ひとつですべてを手に入れたつもりになっている女。ほくそ笑みながら、酒をあおりながら、高みの見物を決め込もうとしている女。勝利の一歩手前、上り詰める手前の踊り場に立ち、期待と高揚のるつぼに身をゆだねた強欲な女が。
 首切り役人がエマの首にロープを掛けた。
「やめておくれ」
 どよめきが起こった。人垣が割れ、その狭間から憔悴しきった姿が這い出す。茶色の外套を被った中年の女だ。
 エマが悲痛にあえいだ。
「ママ……だめ、来ないで!」
「やめなよ、フーヴェル。あんたまで殺されちまう」
 誰かが女を背後から引き戻そうとした。
「あたしの命なんかどうでもいいんだ」
 フーヴェルはしゃがれ声で制止を振り払った。柵にすがり、くずおれるように膝をつく。
「領主さま。知っていることなら全部話します。だから、その子だけは助けてやってください」
 クレイドは訴えをあえて冷然と無視した。兵士がフーヴェルを強引に柵から引きはがす。フーヴェルは両手を結び合わせて懇願した。
「話を聞いてください」
「それ以上喋るんじゃない。お目汚しめ。とっとと消え失せろ」
「せめて話だけでも……!」
「黙れと言っている!」
 交差させた槍で強引に追い立てられる。
 最後の鐘が鳴り出した。心をかき乱す不協和音が降り注ぐ。助命を願う叫びが飲み込まれた。後味の悪い、断末魔めいた嗚咽だけが響き続けていた。
「後生ですから、聞いてください。本当に知らなかったんです。あの新聞で見るまでは、本当に、何も知らなかったんです。うちで看ていたあの女の子が、まさか、あ、あの子が」
 涙が喉にからんだ。フーヴェルはそれ以上言えず、すすり泣いている。
 クレイドは無言で指を鳴らした。兵士が合図に気付いて動きを止める。フーヴェルはその場にへたり込んだ。嗚咽してばかりで、言葉にならない。汚れたエプロンで目尻を押さえ、肩を震わせている。
 風の音が高く空を渡ってゆく。まだらの雲が吹き払われ、月が残酷な素顔を覗かせた。クレイドは目を細めた。
「続けろ」
 フーヴェルは頭の上で手を結びあわせ、地面にうずくまった。恐怖のあまり身体の震えが止まらない。
「さっき、新聞で御姿を見たから間違いありません。あの赤ずきんの子は、シェリーちゃんは」
 声が動揺して、裏返った。自らの言葉の重みに耐えきれず、肺の中の空気を絞り出すようにして告白を続ける。
「王女さまです。宮殿で病気に伏せっているはずのシェリー王女です……!」
 どよめきが消えた。水を打ったように静まりかえる。
「王女?」
 人々がざわざわとし始めた。不安と猜疑の面持ちで顔を見合わせる。
「シェリー王女がこの村に……?」
「そんな馬鹿な」
「いったいどういうことだ?」
 鐘の音がどよめきを飲み込んだ。ざわめきがふるえる波紋となって広がる。
 クレイドは無感動な仮面の表情を向けた。青い瞳に白く月光が熔け滲む。
「王女がこの村におわすだと」
 口を開く。おぼつかなげにひそひそと声を交わしていた全員が固唾を呑んで、領主が下す裁定の行方を見守っている。
 クレイドは声を高めた。フーヴェルを睨み付ける。
「そのようなたわごと、この私が信じるとでも思ったか。その女も同罪だ。連れて行け。重ねて死罪を申しつける」
 哀れな母親の表情が変わった。
「領主さま、嘘じゃありません。どうか、どうかお聞き届けを。領主様」
 兵士がフーヴェルの腕を掴んだ。フーヴェルは猛獣に貪り食われた家禽のように引きずられていった。ばたつく足が人々の壁に飲み込まれる。
「ママ……!」
 エマが顔をそむけた。蒼白な顔だった。一目でそうと分かるほど唇がわなないている。
 クレイドはしばしその横顔を見つめた。
 馬車の中の黒い魔女は今、何を思っているだろう。茶番劇の行く末に手に汗握りしめているだろうか。勝利に酔いしれ、躍り上がっているだろうか。
「さあ、どうする……?」
 語りかける相手はエマであってエマではない。
 権勢欲に取り憑かれたあの魔女ならば、ただちに都へ人を走らせるだろう。人の噂は風よりも速い。
 王女が我が身可愛さに罪なき侍女を見捨てたとの風評が流れれば、敬愛は嫌悪へ。期待は失望へ。その威光は愛憎半ばして完全に失墜する。
「母親を見殺しにするか。それとも、追われる身の弟にすべての罪をかぶせるか。答えろエマ・フーヴェル。賢明な君ならば、この後、どうすればいいのか分かるはずだ」
 ”彼女”は、必ずこの場にいる。
 光が失われた後、どれほどの失意と闇がもたらされたか、彼女なら知らぬわけもあるまい。
 いずれにせよ、もしこの場にいるなら。もし人の心があるのなら。今の叫びを聞いて安穏としていられるはずがない。いや、むしろそうであってくれたほうがよほどこの愚かしき茶番劇の幕を引いてすべてを終わらせる決心が付く。
 クレイドは背反する笑みを浮かべた。
 果たして、胸に秘めた大義のために弱きを切り捨てることが彼女にできるだろうか。
 できるはずがない。
 燃える眼を上げる。彼女は必ず姿を現す。罠と分かりきっていてもなお”彼女”が”彼女”であり続けるために。
 決して逃がれることはできない。かつていみじくもクレイド自身が思い知らされたように、それは義務。国家に身を捧げることこそが、王族に課せられた高貴なる義務なのだから。
「……君も、私も、彼女さえも。運命からは決して逃げられないのだよ」
 非情を装い、勝利に酔いしれてみせたのも束の間。
 風の匂いが変わった。ざらついた苦い風が鼻先をかすめる。
「このにおいは」
 クレイドは顔を上げた。
 火薬の臭いだ。近い。無意識にエマをかばいつつ周囲を見回す。背後で悲鳴が上がった。
 視界の隅を黒い疾風が駆け抜ける。
「何っ……!」
 瓶の割れる音がしたかと思うと、思いもよらぬ方向──
 頭上から、火の付いた松明が降り注いできた。

「さっき新聞で見たから間違いありません。あの赤ずきんの子は、シェリーちゃんは」
 死刑宣告そのもののような鐘が鳴った。続く声がかき消される。鐘の音は幾重にも重なり、共鳴し合い、止むことなくいつまでも鳴り続けている。
「シェリー……だって?」
 ルロイはグリーズリーの胸ぐらから手を離したそのままの姿勢で、呆然と死刑台の方向を振り仰いだ。
 煌々と照る青い月光のもと、凄惨な影絵の劇が演じられようとしていた。赤ずきんをつけた罪人の娘の首に、ロープの輪が掛けられようとしている。
「シェリー! ちくしょう、このままじゃ間に合わねえ!」
 シェリーの名前を聞いた途端、ルロイは向こう見ずにも駆け出した。
「お、おい、ルロイ……くそっ、ああもう!」
 捕まえる暇もない。グリーズリーは頭をかきむしり、憎々しく吐き捨てた。
「まったく、結局はまんまとおびき出されて正面突破かよ。あの馬鹿。見るからに罠って分かってるだろうに!」
 ぱっと手を伸ばしてシルヴィの手から酒瓶を引ったくり、後を追う。
「ああんあたしのお酒~~」
「ごめんシルヴィ……ってもうほとんどカラッポじゃないかーーー!」
 気を取り直して速度を上げる。グリーズリーは息を切らしてルロイの後を追いかけた。背後から声を掛ける。
「ルロイ、これを持っていけ」
 白っぽい包みを放り投げた。ルロイは走りながら片手で受け取った。
「何だこれ」
 訝しんだ声を上げる。
「いいから受け取れ。こんなこともあろうかと弾薬袋をばらして準備しておいたんだ」
「こんなことも……って、どんだけ用意周到なんだよ」
 ルロイは変なイキモノを見るような眼でグリーズリーを見やった。
「その割には、お前んちの家族計画って超行き当たりばったりなのな」
 いきなり図星を指されたグリーズリーは、ずでーんとすっ転んだ。頭を抱え、かきむしりながら悶絶する。
「しまったぁあぁその通りだぁぁあ! これからは毎月アルマの安全日をカレンダーに書く! 書くったら書く!」
「意味ねーだろそれ。どーせ満月が来たら、また背後から襲われてヤらされまくるくせに」
「だからこそ書くんだ。アルマの安全日は俺にとっても安全日。すなわち生命の危機を感じなくて済む日ってことだからな」
「そっちかよ……て感心してる場合か。今はそんな話をしている場合じゃねー」
「おっとそうだった。失敬失敬」
 気を取り直してグリーズリーは前方に注意を引き戻した。ルロイの肩を叩いて、行く手に見える櫓のてっぺんを指差す。
「俺は派手に動いて陽動に回る。その隙にあの櫓へ昇れ。そこなら奴らには絶対に近づけない」
「何でだよ。高いところに昇ってどーすんだ。下から撃たれたら終わりだろ」
 ルロイは訳も分からぬまま、渡された白い袋をポケットへと突っ込んだ。抗議の声を上げる。
 グリーズリーはあかあかと炎に照らされた顔をにやりとほくそ笑ませた。
「馬鹿と煙は何とやらって言うだろ。黙って言うことを聞け。合図したらそいつを使え。いいな」
 グリーズリーはルロイの背中を突き飛ばした。ぱっと二手に分かれる。
「お、おい、どうやって使えってんだよ! ちょっと、おおおい、グリーズ! わけわかんねー!」
 だがグリーズリーの背中はあっという間に人込みの中へと紛れて消えた。ルロイは頭を抱えながら、半ばやけくそで周りを見渡した。
「櫓。櫓。櫓、どこだ? っと、あれか!」
 炎に照らされる木組みの櫓のすぐ横に絞首台が見えた。するどく先端を尖らせた丸太の杭がずらりと周りを取り囲んでいる。もし足を滑らせでもしたら。
「下手すりゃぷすっていっちまうよな、ぷすって」
 自分の串刺しが丸焼き器の台にのせられて、くるんくるんと炙り焼きにされている様子を想像する。
「地獄のバーベキューにご招待、ってやつか?」
 ルロイはぞくっと怖気を奮って笑った。シッポの毛が逆立ちそうだ。少なくとも今はまだろくでもない魔物どもの腹を満たしてやるつもりはない。
 絞首台の上では貴族のコートをまとった男が屈み込んで何か喋っていた。さっきまで段上にいたはずの死刑執行人はいつの間にか姿が見えなくなっている。入れ替わりになったのだろうか? あの貴族はいったい何を喋っているのだろう。
「あ……?」
 火の付いた酒瓶が空高く放り投げられるのが見えた。櫓にぶつかって瓶が割れ、中の酒があふれる。
 続けざまにもう一つ。
 今度は松明が投げ上げられる。
「ちょ、ちょっと待てって! あの野郎、早えんだよッ!」
 めらめらと這う火が導火線代わりのロープを伝って、四方八方に盛大に引火した。黒い旗が炎に包まれる。
「いきなり火の中に飛び込めってか!? ふざけんなこっちのケツにまで火を点けてどーすんだよーーっ!」
 火の粉が宙に舞うなか、ルロイは荒々しく笑って突っ走った。