お月様にお願い! 番外編 恋の赤ずきんちゃん

塔の上のシェリー


 炎がちぎれ、夜空に吹き上がった。
 旗が風にあおられ、櫓に燃え移る。
「どうなってるんだ。火事か」
 ニーノは左右を見回した。広場のあちこちから火の手が上がっている。
「違う。そうじゃない。火を放たれたんだ」
 黒煙がうねる波となってどっと吹き出した。悲鳴が聞こえた。フーヴェルだ。
「あの声は……!」
 シェリーは人込みに向かって駆け出した。ニーノが背後から引き留める。
「どこへ行く。敵がいるかもしれないんだぞ」
「でも、あのままではおばさまが」
「君まで怪我をしたらどうする」
 ニーノは苛立った声を上げて、やや乱暴にシェリーを引き寄せた。叱責の目を向ける。
「混乱に乗じて何者かが襲撃しようとしているかもしれないんだぞ。もしそれが牢から逃げ出したエマの弟だったらどうする。奴は追いつめられている。旦那様に対しても何をしでかすか分からない」
「カイルさんはそんなことしません」
 シェリーは無意識に口走った。言ってからはっと息を呑み、手で口を覆う。
 ニーノは目を見開いた。
「カイル・フーヴェルを知っているのか」
「えっ……」
「彼を知っているのかと聞いている」
 腕を掴む手の力が強まる。シェリーは狼狽えた。どぎまぎと口ごもる。
「いえ、あの、わたしは」
 まっすぐに射抜く視線。いたたまれずに目をそらす。
 カイル・フーヴェル。エマの弟。何らかの罪を犯して逃げたと言われている人だ。いったい、どうしてそんなことを口走ってしまったのだろう……?
 急に怖くなって、シェリーはニーノの手を振り払おうとした。怖じて身をちぢこめる。
 ニーノは岩のように表情を険しくした。取り押さえる手をさらに強め、シェリーをぐいと引き寄せる。
「君への質問は後だ。今はエマのことが心配だ。とにかく僕と一緒に来てもらおう」
「ニーノ様……!」
「君から目を離すわけにはゆかなくなった」
 ニーノは身をひるがえし、シェリーを連れて走った。逃げ惑う人々をかき分け、押しのけ、強引に突き進む。シェリーは咳き込んだ。煙が喉にからんで痛い。乱暴に引きずられるせいで、ともすればつんのめりそうになる。
「手を離してください」
 つまづいてよろけた拍子に、視界の隅を飛びすぎる疾風が見えた。
 はっと目を奪われる。速い。
 逃げる人々とは逆の方向に向かって走っている。
 人々の波を泳ぎ抜け、高く跳ね飛んで、炎の回り始めた櫓の柱に飛びつく。まるで翼を得た魚のようだった。あっという間に櫓のてっぺんまでよじ登ってゆく。
 炎が上昇気流を生み出し、突風を巻き起こした。煙と灰が舞い上がって視界をさえぎる。しなやかな姿がかき消されたように見えなくなった。埃が目に入ったのかもしれない。シェリーは目をしばたたかせた。
 視線を泳がせて探す。いったい、どこへ行ってしまったのだろう……?
 鉄を削ったような火の粉が降りしきった。
「うほっ、良い眺め! 見晴らしサイコー!」
 誰かの声がする。煙の向こう側、風で飛ばされた帽子があおられて舞い上がる。
 姿は煙にまぎれて見えないままだ。なのに、なぜか声だけが鮮やかな存在感を伴って耳に飛び込んでくるような気がした。直接ささやかれたみたいに、はっきりと聞き取れる。
 理由はすぐに思い当たった。
 ”聞き慣れた声”だからだ。
 シェリーは息を詰め、空を振り仰いだ。声の主を探す。
 強い風が舞い起こった。視界を遮っていた煙が吹き払われる。
 シェリーは目をみはった。
 めらめらと躍る炎。真っ赤に照らされた櫓の屋根のさらに上、張り出した柱のてっぺん。
 照り返しに赤く染まる剽悍な顔立ちが見えた。
 黒髪が激しく風にあおられた。炎と影の作り出す陰影が乱舞する。
 三角の大きな耳が見えた。
 バルバロだ。
 一見、兵士のような出で立ちだが、雰囲気がまるで違う。袖をまくり上げ、ボタンは全部はずしたまま。大胆に身体を乗り出し、片手一本でぶら下がっている。
 思わずびくりと身をこわばらせる。まさか、こんなところにまで。
 ふいに胸の奥がずきんと痛んだ。
 気を失う寸前、森のどこかでバルバロに襲われそうになった──そんな恐ろしい記憶と相反する、愛おしい思慕の気持ちがあふれ出す。
 何かが違う。
 心臓がとくん、とくん、音を立てて跳ねる。
 シェリーは切なさに息苦しくなって、胸を手で押さえた。
 どうしてこんな気持ちになるのか、自分でも分からない。こわいはずなのに。恐ろしいはずなのに。なのに、見えない何かに包まれているような不思議な安堵感に身をゆだねたくなる。目の前に見えているのは確かに凶暴なバルバロ、のはずなのに。
 でも、なぜか、違う気がする。何かが。
 手にからめて握りしめていた金のチョーカーがちりちりと星のように光る。よろず屋の裏庭に落ちていたチョーカー。恐ろしい怪物が身につけていたものと同じ、そっくりの形、そっくりの色。でも、どうしても心にひっかかって捨てられなかった──
 ちぎれた記憶の鎖が光ってつながる。
 このチョーカーは、もしかして……
「あ……」
 呆然と立ちつくすシェリーの視線に気づき、ニーノは空を振り仰いだ。
「しまった、あれは!」
 めざとく認めて銃を抜き払う。引き金に指をかけ、片眼をつぶって照準を定めようとする。だが次々押し寄せる人の波に突き飛ばされ、腕を跳ね上げられ、まともに狙いを付けられない。
「くそっ、バルバロめ。いつの間に……だめだ、このままでは人が多すぎて狙いが……!」
「さてと。グリーズの野郎、昇るだけ昇らせておいて、いったいこの後どーしろってんだ? ま、いいや。なるよーになるでしょ」
 櫓の上のバルバロが、ポケットから白い包みを掴み出す。
 手にした包みから、ばちっと音が飛んだ。火花が散る。
「ん? 何だ今の音」
 バルバロは目をぱちくりとさせた。きょろきょろと怪訝な仕草で周りを見回す。
「何か臭うな。何だこりゃ? まるで火薬みたいな……」
 鼻をふんふんと言わせながら、空中の臭いをたどって包みにたどり着く。
 ぱちんと鼻先に火花が踊った。
「熱っ!?」
 さっきよりもバチバチと鳴る音が大きくなった。かと思うと、ものすごい勢いで四方八方に火花が噴出し始めた。ぐるんぐるん回り出す。
「あわわ何だこりゃ! って、ひひひひひひ火が点いてるじゃねーかよ! うぁあちゃちゃちゃーー!」
 バルバロの顔からみるみる血の気が引いた。熱さのあまり二度三度とお手玉をしたあげく。
「……あ」
 ぽとり、と。
 受け損ねた。手をすり抜ける。袋はばちばちと火花を放ちながら燃える櫓のど真ん中に落ちていった。炎に吸い込まれる。
 バルバロは引きつった顔で苦笑いした。つと冷や汗が伝い落ちる。
「……やっちまったかも」
 足元から鮮烈な輻射光がふくれ上がる。バルバロの姿が光に呑み込まれる。
「爆発するぞ! みんな散れ。逃げろ!」
 ニーノが耳元で叫んだ。シェリーを抱きかかえ、横っ飛びに伏せる。
 閃光が走る。轟音と炎が地面を揺るがした。

「爆発するぞ!」
 誰かの怒鳴る声が聞こえた。
 火花散る袋を火中に投じればだいたいどうなるか、いくらルロイでも予想は付く。
 周りを取り囲んでいた人間たちが蜘蛛の子を散らすように逃げ出してゆくのが見えた。もちろん、櫓のてっぺんにいるルロイの逃げ場はどこにもない。
 足元から大爆発が起こった。
「だぁぁああグリーズーー! てめー、何つーもん持たせてんだぁーーーッ!」
 爆風に吹っ飛ばされる。まるで木枯らしに吹き散らされる寸前の枯れ葉みたいに身体が半分宙に浮く。足をすくわれ、ぐるんぐるんに翻弄されて目が回る。
「ほんぎゃぁぁ……目が回っ……」
 ばらばらと木っ端が散る。かろうじて襟首がどこかに引っかかったらしい。梁材からぶらんとぶら下がっている。どうにか最悪の事態だけは逃れられたらしい。
「うう、助かった……む?」
 なぜかお尻がじりじりと熱い。ぷすぷすと煙が立ちのぼっていた。どうやらシッポのあたりらしい。ひょいと軽く振ってみる。
 するといきなり、ぼっ! と音を立ててシッポが燃え上がった。
「ふんぎゃーーーっあちゃちゃちゃちゃーー!」
 何たることか、シッポの毛先に火が付いているではないか! 完全にケツに火が付いた火だるま状態である。両手両足をばたつかせて必死に消火を試みる。
「熱い熱い熱い禿げるーーー俺のシッポがぁぁぁぁあ……!」
 じたばた暴れすぎた勢いで、ぶら下がった支えの柱がぐらりとかしいだ。めきめきと音を立ててへし折れる。火の粉が吹き上がった。
「お、お、落ちるーーーっと……!」
 櫓がバラバラに分解し、崩れ落ちる。
 ルロイは燃え上がる櫓の柱を蹴った。音もなく赤ずきんの少女の真横に着地する。
「っ……!」
 少女がおびえたふうに身体をちぢこめる。
 火の付いた柱が、絞首台の手前と向こう側を隔てて倒れ込んできた。
 すかさずルロイは少女に駆け寄り、縛っていた鎖を手近にあった斧で叩き斬った。倒れ込んでくる柱を避けて、少女を抱き上げる。
「しっかり掴まってろよ、シェリー!」
 だが少女はなぜか山猫のようにルロイの腕の中で暴れた。魔女の仮面がわずかにずれる。
「どういうことだ、これは。裏切る気か」
 貴族が炎の向こう側でたたらを踏んで立ち止まった。近づくに近づけず、手で熱気をかばって呻く。青い瞳に怒りとも炎の乱反射ともつかぬ逆鱗の輝きが映り込んでいる。
 ルロイはひょうひょうと肩をそびやかせた。しれっと言い放つ。
「シェリーは返してもらうぜ。じゃあな」
「何?」
 貴族は鳩が豆鉄砲をくらったような顔をした。腕の中の少女が身をよじる。
「離して」
 燃える絞首台が大音響を立てて崩れる。
「追え。逃がすな」
 貴族が背後で怒鳴った。ルロイは少女を腕に抱いたまま走り出した。
「安心しろ、もう大丈夫だからな!」
 少女にそう言い聞かせてやってから、火の付いた柱をひらりと跳び越える。炎がつむじ風に巻かれ、赤い軌跡を描き出した。
 行く手に兵士が立ちふさがった。交差させた槍が突き出される。
「怪物め、止まれ!」
「へへんだバーカ! 止まれと言われて止まる馬鹿はいねーんだよ」
 ルロイは身をかがめ、一目散に走り抜けようとした。兵士は次々に数を増し、背後から武具をがちゃがちゃと騒々しく鳴らして追ってくる。
「止まらんと撃つぞ!」
「あっかんべー残念でしたー狼は急には止まれませーん」
 鼻先で笑い飛ばしつつ、闇雲に逃げる。しかしどこを向いても人、人、人。悲鳴とどよめきばかりが四方八方から打ち寄せてくる。そのうちに方向感覚がまるでなくなってしまい、どちらへ向かったものかさっぱり分からなくなって立ち止まった。
「って……えーと、ありゃ? 広場の出口ってどっちだったっけ? 全然わかんねーぞ?」
「いたぞ、そこだ!」
 背後から次々に兵士が飛びかかってきた。ルロイはあわてて身をひるがえした。赤ずきんの少女を腕に抱いたままでは、相手をぶん殴るわけにもいかない。仕方なく蹴っ飛ばし、肩で当て身をくらわせ、のけぞったところを踏んづけてぴょんと乗り越える。
「あらよっと」
 余裕たっぷりに高く跳ねてみせたのも束の間。後方に、髑髏の仮面が浮かび上がって見えた。炎の中で、まるで笑ってでもいるかのように揺れ動いている。死刑執行人だ。
「しまった、見つかった」
 ぎくりとする。気を呑まれている暇はない。ルロイは背筋に走る寒気をふりほどいて、再び走りだそうとした。
 と思った途端。
 足首を掴まれた。
「うわっ!?」
 ぐいと引き戻される。ルロイは兵士の群れの中にびたーんと頭から倒れ込んだ。
「犯人確保ーーーーッ!」
 わらわらと駆け寄ってきた兵士が次から次へと馬乗り状態で覆い被さる。
「その娘を置いてけーーーー!」
 まるで角砂糖にたかるありんこだ。ぎゅうぎゅうに乗っかられ、押しつぶされ、地面に顔や手を押しつけられる。
「ふんぬぬぬぬ……!」
「逃がすなー! 全員で押さえ込めーーーっ!」
 耳元でぎゃーぎゃーとわめき散らされる。ルロイはじたばたともがいた。
「うぐう……重い……っ……潰れるーーー!」