お月様にお願い! 番外編 恋の赤ずきんちゃん

塔の上のシェリー

 銃口が続けざまに火を噴く。
「伏せろ!」
 ルロイはとっさにシェリーを庇う青年に向かって警告を放った。刹那の視線が交錯する。声が通じたのかどうかすら分からない。
 グリーズリーの頭を力任せに押さえ、赤ずきんの少女ごと地面に伏せる。
 頭上を耳をつんざく銃声が飛びすぎる。硝煙が立ちこめた。刺激的な火薬の臭いと煙とが視界を奪う。
「っ……!」
 呻き声が聞こえた。青年の声だ。まさか、どこか撃たれたのか。
「殺すのよ。殺して。そいつらを殺して、ヨアン!」
 我を忘れた女の声が夜を引き裂く。
「止めろ。馬鹿者ども」
 えんじ色のコートを着た貴族が飛び出してきた。兵士の手から銃を奪い取り、胸ぐらを掴んで揺すぶる。
「味方に当たったらどうする気だ。何を考えている!」
「申し訳ありません、しかし、私はただ家令さまのご命令通りに……」
「ヨアンめ」
 貴族は兵士を突き飛ばした。姿を消す家令の背中に向かって怒鳴りつける。
「待て。どこへ行く、ヨアン。戻れ! 私の命令がきけないのか」
「シェリー、無事か! どこだ?」
 一方のルロイもまた、煙の彼方にいるはずのシェリーに向かって怒鳴った。焦燥がこみ上げる。声だけが煙に吸い込まれて途切れる。
 返事はない。姿も見えない。あの青年もいない。
「見失った……くそっ!」
 視線が釘付けになる。シェリーがいたあたりの地面に、黒く滴った血の跡が見えた。寒気がぞくっと首筋を撫でる。
「まさか深手を負ったんじゃ……!」
 ルロイは周りを見回した。耳をぴんと立てる。人垣の向こうに騒然とした気配が感じ取れた。舳先にかき分けられる波のように、人だかりが割れてゆく。走る息づかいまで聞こえてきそうだ。
「あれか」
 めざとく探り当て、走りだす。後ろから泡を食ったグリーズリーの声だけが追いかけてきた。
「まったく当たって砕け続けるのもいい加減にしてくれよ、てめーのケツ拭くのにこっちがいったいどれだけの被害を被ってると……っああもう心が折れるわ! 何でこーなるんだーーー!」
 あちこちから呼び子の笛が鳴り渡った。甲高い音が耳に突き刺さる。
「シェリー!」
 ルロイは四方を見回しつつ、声を嗄らして名を呼んだ。
「どこだ! どこにいる?」
 すぐさま追っ手に気付かれ、前後を挟み打ちにされる。槍を手にした兵士が行く手を遮った。
「逃がすかっ」
「しつけーんだよ!」
 低く身をかがめ、しなやかな身のこなしで槍の下をすり抜ける。ついでに、禿げた尻尾を鞭のようにしなわせ、兵士の鼻っぱしらに叩き付けてやった。
「人の恋路を邪魔する奴は狼に蹴られて死んでまえーーッ!」
「ぎゃーーー!」
 足をもつらせた兵士が槍を放り投げて転倒する。巻き添えを食らった何人かが、次々にけつまずいて倒れた。
「勝手に突っ走るな! こっちは二人分なんだぞ」
 エマを腕に抱いたグリーズリーが息を切らして怒鳴った。足がもつれて、もうふらふらだ。
「もうこれ以上走れねえ……」
「弱音を吐くな! 二十日間耐久エロマラソン完走コンプリートマスターの称号を持つお前らしくもねー! このままじゃシェリーを見失っ……」
 その目前に。
 死神の鎌が振り下ろされた。
「っ……!」
 ざくっと髪の毛が切られた。頬に痛みが走った。鉄の臭いが鼻を突く。
 地面に手を突き、転がって逃れる。ルロイは顔を上げた。
 くちばしの生えた髑髏の面を着けた死刑執行人が立ちふさがっている。
 ちぎれた葬送の旗をまきつけた鎌。たてがみと見まごう形に破れたフード。長く風にたなびく髪。衣の裾からのぞく巨大な剣。口の端の笑み。
 すべてが黒い。
「ここから先は、地獄への一本道だ。おいそれと通すわけにはゆかぬ」
 鎌の刃だけが、炎を映して赤く光っている。
 ルロイは頬に走った痛みを手で押さえた。ぬるつく指の腹を見下ろす。血がこすれついていた。
「イカレた格好だな」
 拳の背でぐいと血をぬぐう。ルロイはおもむろに立ち上がった。髑髏の面をつけた死刑執行人へ、挑発の声を突き刺す。
「コスプレ会場への道案内ならお断りだぜ? さっさと道を空けろ、アドルファー」
 死刑執行人の口元が、薄く吊り上がった。


「殺すのよ。殺して。そいつらを殺して!」
 女の金切り声が聞こえていた。
「ニーノさん!」
 シェリーは息を呑んだ。ニーノが肩を押さえてくずおれている。足元に銃が落ちていた。青ざめた顔がゆがむ。
「大丈夫ですか、ニーノさん……」
 ニーノは顔を上げた。青い顔で微笑む。
「どうということはない。それより君こそ怪我はないかい?」
 肩を押さえた手の下から、黒い染みがみるみる広がってゆく。シェリーは声を無くした。
「ひどいお怪我を……!」
 泣き出しそうになるのを、必死にこらえる。
「ここにいてはなりません。煙が晴れたら、また銃撃の的になってしまいます」
 声を殺し、ニーノの腕を支えて立ち上がる。
「僕のことはいい。君をこれ以上巻き込むわけにはゆかない」
 ニーノは押さえた手の肘でシェリーを振り払おうとした。だが肩から下の腕はまったく動かない。ぶらりと垂れ下がったままだ。顔だけが苦悶に歪む。
「いいえ。とにかくご一緒に」
 シェリーはニーノの身体を支え、引きずるようにしてその場から逃げ出した。よろめきながら走って人込みの中へと身を隠す。
 シェリーは胸が張り裂けるような思いで背後を振り返った。
「ルロイさん……」
 どうしてこんなことになってしまったのか。黒髪のバルバロの姿が視界から遠ざかってゆく。
 怒号が声をかき消す。”あのひと”が見えなくなる。
 分からない。記憶の中には、はっきりと憎悪の残像が残っているというのに。なのに、どうしてこんなに……胸が痛くてたまらなくなるのだろう……。
「っ……!」
 ニーノが苦悶の声をあげた。押さえた掌の下から血が滲んでいる。寒気がこみ上げた。
「ひどい出血です」
 支える手が生ぬるく滑る。シェリーは声を呑んだ。
 涙を振り払い、四方を見回す。大丈夫だ、今なら誰も後を追ってこない。
「早くこちらへ」
「気づかいは無用だと言ったはずだ……」
「いいえ、とにかく落ち着いて傷の手当てができる場所を探すことが先決です」
 息を切らし、周囲の音に耳を澄ます。今は少しでも早くこの場から逃れなければならない。ニーノを安全な場所へ連れて行かなければ。
 聞こえるのは怒号と悲鳴、夜を渡る甲高い唸り声のような風の音ばかり。地上を焦がす火を夜空が反射して、火の粉の雨を降らせている。
 シェリーは同じように逃げまどう人々の背中に声を掛けた。
「もし、どなたか、お医者様はいらっしゃいませんか。ひどい怪我をしているのです。止血と、応急処置……どなたかできるかたはいらっしゃいませんか、お願いします、大変なんです……きゃっ!」
 突き飛ばされる。シェリーはニーノにぶつかるまいと必死にその場で踏みとどまった。
「無理をする必要はない。エマのことなら心配ないさ。彼女を見捨てたりするものか。必ず取り返しに行く」
 ニーノは息を切らして呻いた。強がるように笑って言う。だが顔色はますます悪くなり、声もかすれて、立っているのもやっとの有様だった。
「君はまず自分の身を案じろ」
 呼吸が乱れてその後は言葉にならない。脂汗が流れ落ちる。
 シェリーは答えず、あくまでもニーノを支え続けることに専念した。
 追っ手が来ることを恐れ、何度も背後を振り返る。くずれた櫓から立ちのぼる炎が四方八方に飛び火して、絞首台ごと燃やし尽くしていた。煙が流れて視界を奪う。
 ニーノは険しい表情を崩さなかった。肩の傷を押さえながら、肺の中の空気を吐き出すように言う。
「僕の任務のことを忘れてもらっては困る」
 血の気の失せた顔で唇を引き結ぶ。
「もしカイルとエマの二人がバルバロと通謀して王女を拉致し、国を揺るがそうとしているなら、僕はクレイドさまに代わって彼らを止めなければならない」
 切羽詰まった声の響きにシェリーは顔を上げた。ニーノの目をまっすぐに見つめる。
「そのような大それたこと、断じてお二人とも関わってはいらっしゃいません」
「ならば、なおさら。エマの無実を証明するためには、行方不明だという王女を探し出し、真実をつまびらかにしていただくほかは手だてはない」
 苦渋に満ちた目がシェリーをとらえる。
「あのバルバロは君を探していた。あやうく処刑されるところだったエマを、君と勘違いして助けたんだ。だが、なぜだ? なぜバルバロが君を助けようとする?」
 シェリーは炎に包まれた絞首台を振り返った。
 エマの首に掛かるかもしれなかったロープは罪の炎にあぶられ、ちりぢりの炭になって燃え落ちている。
「君は、いったい──何者だ」
 さらに問いつめられる。
 答えられなかった。言葉を飲み込む。
 ニーノは思い詰めた苦い表情を浮かべた。ふと闇を見透かす視線を走らせる。
「……どうやら、呑気に聞き糾している場合じゃないらしい」
 ニーノの視線を追う。灰色の燕尾服を着た家令が立っていた。片眼鏡がぎらりと反射する。酷薄な面持ちに炎の影が躍った。
 手に銃が握られている。ニーノが持っていた銃だ。シェリーは息を呑んだ。
「あの方は」
「君は逃げろ」
 ニーノは痛む肩を押さえながら耳打ちした。シェリーを背後へと押しやる。
「でも、お屋敷の方なのでしょう……だったら」
「さっきのやりくちを見ただろう。あいつはバルバロもろとも僕らを殺す気だ。君はここにいちゃいけない」
 シェリーはニーノをかばおうと頭を振った。
「いいえ、そんなことはできません。お怪我をしていらっしゃるニーノさんを置いて、わたしだけ逃げるわけには」
「あいにくだがそこまで恥知らずじゃない。女性を楯にして生き延びるぐらいなら今この場で潔く自決したほうがマシだ」
 ニーノは苦痛をものともせぬ大胆な笑みを浮かべた。
「さっきの奴の態度で確信した。僕がクレイドさま直属の密偵だと気付いて、逆に向こうから消しに掛かってきたんだ。捕まっていた弟のカイル・フーヴェルを逃がしたのも、おそらくあいつの仕業に違いない。エマの命と引き替えにノワレの命令に従うよう強要されているんだ。彼が取り返しのつかぬ罪を犯す前に探し出してやらないと」
 ニーノは突然シェリーを突き放し、肩を押さえたままヨアンに突進した。不意を突かれた家令はもんどり打って倒れた。地面で揉み合う。
「ニーノさん」
「話は後だ。行け!」
 シェリーは手で口を押さえた。悲鳴がもれそうになる。ニーノは血まみれの手を振り払った。笑っている。
「ここは任せて今のうちに逃げろ、早く」
 家令の手に握られた銃が振り上げられた。シェリーは声を振り絞った。
「ニーノさん、後ろ!」
 振り返る間もない。家令は銃把でニーノの肩の傷を殴りつけた。
 ニーノはさけび声をあげてその場にくずおれた。
 家令はおもむろに立ち上がった。恐ろしく不釣り合いな灰色の正装が血と煤に汚れている。
 汚れを見下ろす目に嫌悪の色が浮かんでいた。家令は無言で白のハンカチを取り出した。眼鏡についた汚れを神経質にぬぐう。ハンカチの刺繍は黒く咲き誇る百合の紋章だった。
「お迎えにあがりました、殿下」
 うやうやしくも抑揚のない声で告げる。
「そろそろ幕引きの頃合いかと存じます」
 銃をニーノへと向ける。シェリーは家令を見すえた。引き金に指が掛かっている。
 撃鉄の起こされる音が、かちり、と響く。
 風に撫でられたような冷たさが背筋をなぞった。逆らえばニーノが撃たれる。心臓が押しつぶされそうになる。いったい、どうすれば──
「だめだ。僕に構うな。逃げろ」
 ニーノは地面に爪を立てて上半身を起こした。苦痛に顔をゆがめる。
 シェリーは動かなかった。
「……主人ミストレスが城であなたをお待ちです」
 家令が慇懃に口を開く。シェリーは眼を上げた。
「主人とは、誰のことですか」
 問いには答えず、家令はうやうやしく頭を垂れた。半ば強引に手を取るべく、シェリーに向かって一歩、前へ足を踏み出す。
 が、なぜか途中で立ち止まった。靴底から濡れて粘った音がする。
 視線を落とす。
 足元に赤っぽい水が流れている。
 ぎくりとしてニーノへ視線をやる。
 血……?
 いや、違う。ニーノは半分起きあがって、肩を押さえていた。確かに出血してはいるが、あれほどの血だまりができるはずはない。ならば、あの水らしきものはいったい……
 はっとした。声を呑む。
 これは水の匂いじゃない。
 油。それも、ふんわりと香ばしい、そしてどこか懐かしい揚げ油の香りだ。
「……君たちは気付かなかったようだけどね。実は、最初から広場の端でミートパイの屋台を出して様子をうかがってたんだ」
 家令の背後から憎悪に濡れた声がした。小さな手提げのランプをぶらさげた誰かが近づいてくる。
「ほっかほかの揚げたては地獄みたいに熱いからね」
 遠くから射す明かりが一瞬、泣き出しそうなカイル・フーヴェルの顔を照らし出した。
「気をつけろよ」
 ランプを無造作に地面へと放り投げる。華奢な音がしてガラスの海鞘が割れる。炎が燃え上がった。