お月様にお願い! 番外編 恋の赤ずきんちゃん

塔の上のシェリー


 カイルは如才なく微笑んだ。
「まあ、聞かなくても答えは分かってるんだけどね」
 しどけなくもたれかかって、シェリーの髪にくしゃりと手櫛を差し入れる。
「ついこの間のことなのにさ。もうずいぶん遠い昔のことみたいだ。覚えてるかい、シェリー。君が頭をスズメの巣みたいにくしゃくしゃにさせて店に来たときのこと。あのときもこうやって邪魔な草の実を取ってあげたっけね」
 無造作に引き寄せられ、抱きすくめられる。
「本当は、草の実を取るふりをして、どさくさに紛れてキスするつもりだったんだ。君を抱きしめて──邪魔なものを全部、こんなふうに、一つ、一つ」
 髪を撫でながら、ぬめるような笑みを浮かべる。カイルは指先に金髪を巻き付け、物憂げに引っ張った。ランセットの刃が押し当てられる。
「いけません……」
 ぶつっ、と音を立てて髪の束が切られる。シェリーは身をこわばらせた。悪寒に身体が震え始める。
「動かないで」
 カイルは隠然とランセットの刃先をちらつかせた。意味ありげな目線をニーノへ走らせる。
「君が逃げたら、そいつがどうなるか分かっているよね」
 シェリーは涙の滲んだ目で振り返った。身をよじらせ、カイルに懇願する。
「やめてください、カイルさん。こんな恐ろしいこと」
 カイルはよどんだ笑い声を上げた。
「恐ろしい? 僕が?」
 カイルは卑屈な仕草で両手を広げた。
「こいつは驚いた。よもや君の口からそんなせりふを聞くなんて。自分が何をしたか、覚えていないとでも言うのかい?」
「どういうことですか……?」
「とぼけるのもいい加減にしてもらおう」
 カイルはふてぶてしく壊れた笑みを浮かべた。
「本当は最初から知ってたんだろ? 何にも知らない、男も知らないような顔をしてさ。僕たち家族が犯してもいない罪を着せられ、泣きわめきながら逃げまどっていたとき。姉さんが縛り首にされるってときに、君はどこにいて、何をしていた?」
 眼の奥に暗い光がよぎった。乾いた声で続ける。
「何て事はない。僕も姉さんも、最初から罠に嵌められてたんだ。あの女と、あの領主と、それから君自身が企んだ罠にね」
 カイルの口元に薄ら笑いが広がる。まるで別人だった。シェリーは息を呑み込んだ。
「罠……?」
「まさしく、それってどんな気持ち? だよな」
 ゆるゆると嬲るような仕草でシェリーの首筋を指先でなぞり上げる。
「さてと、じゃあさっきの答えを聞かせてもらおうか。大丈夫、約束は必ず守るよ。だから正直に言いなよ。本当の君の気持ち。自分だけは助けて欲しい。自分だけは見逃して欲しい、そのためなら何でもするって」
「カイルさん」
 カイルの意図するところが分からず、シェリーは怯えた視線を向けた。
「どうってことない、取引さ。僕があの女にさせられたことを」
 カイルは口をつぐみ、嫌な笑い方をした。
「君にもしてもらおうっていうだけのことさ。これだけの騒ぎを起こしたんだ、どんなにあがいたところでもう逃げられはしない。君だってバラされたくはないだろう? 自分の正体を」
 シェリーは返す言葉もなくうつむいた。唇を噛む。言い返せない。
 そのやりとりをニーノが聞きとがめた。困惑の口調で口を挟む。
「正体? いったいどういうことだ……?」
「うるさい。赤の他人が。黙ってろ!」
 カイルはニーノを再び蹴った。何度も執拗に蹴り続ける。ニーノは苦悶の呻きをあげて身を折った。
「ニーノさん」
「君は動くなと言っただろ」
 身を乗り出そうとしたシェリーの手首を、カイルは強引に引き戻した。
「いっ……痛い……放して……」
 掴んだ手をねじり上げられる。シェリーは必死にもがいてカイルの手から逃れようとした。
「余計なことをするなと言っただろう。君は黙って僕の命令に従っていればいいんだ」
 妬み交じりの荒々しい吐息が耳に吹きかかった。
「奴らが君を捜してるのは知っているだろう? 君を助けてあげられるのは僕だけだ」
 シェリーは覆い被さってくるカイルから逃れようともがき続けた。じりじりとした重みが掛かってくる。振り払えない。まるでぬかるみに足を取られたかのようだった。
「いけません、カイルさん。ぁっ……どうかやめてください……!」
「君はまさに、魔女に囚われた塔の上の姫君そのものだ」
 凍り付く声がシェリーのうなじにささやきかける。
「今も思い出すよ。君の歌声。君が垂らす、誘惑の長い髪。可哀想なシェリー。塔の上のシェリー。君は、塔に閉じこめられた可哀想な王女様だ」
 指にからめた髪の毛を引っ張られる。言葉が毒の鱗粉となって耳に舞い込む。
「外の世界。君の知らない世界。君にとって、宮廷は狭苦しくて、堅苦しくて、うんざりする石の牢獄みたいに思えていたんだろうね。違うかい? だから、誰かに連れ出して欲しいと願った。きらきらした甘いお菓子の塔。魔女のひそむ誘惑の城から、一歩、外へ」
 声色が暗く翳った。
「何も知らない馬鹿な若者は、可哀想な王女を逃がそうとして塔に上る。そこに魔女がひそんでいるとも知らずにね」
「違います」
 言葉のひとつひとつが棘のある鎖を伴って心を縛り付ける。息もつけないほど、身体がこわばる。
 シェリーは恐怖を振り払った。ようやく息を継ぎ、手を揉みしぼり、声を押し出す。
「違います……!」
 カイルは目を細めた。吐き捨てる。
「自力で運命に逆らえないなら黙って一人で閉じこめられていればよかったんだ。他人を巻き込んだりせず、自分の運命だけを甘受していればよかった。何も知らないくせに、何もできないくせに、自分一人だけが苦しんでいると思い込んで」
 ふと、声が落ちた。
「でも、もう、いいんだ。目をそらしてしまえば嫌なこと全部を忘れられる。他の奴らのことなんてどうでもいい。君だって忘れたいだろ? 自分の汚いところなんて見なかったことにしたいだろ? 大丈夫、僕に任せて。全部忘れさせてあげる」
 見せしめのランセットを頬へ添わせ、ひやりと押し当てる。興奮した笑い声が背後からまとわりついた。首筋に唇が押しつけられる。妬ましさを帯びた湿り気が、ぞっとするほど熱い。怖いほどだった。
「一人殺すのも、二人殺すのも同じことさ。分かるだろう? その意味が」
「やめ……やめてください、カイルさん……!」
「動くんじゃない。それ以上逆らったら、本当にそいつを殺すよ……?」
 カイルは付け上がった笑いを放った。
「どうせ、もう、僕には何も残ってない。だから、せめて君が欲しい。一緒に逃げよう。こんなことになったのも、全部君のせいだ。一人で死ぬなんて嫌だ」
 ランセットを振りかざす。罪深い光が反射した。
「このまま僕と一緒に世界の果てへ逃げよう……」
「貴様、それでも男か。女性を脅迫して従わせようとは卑怯千万。恥を知れ」
 唐突にニーノが遮った。
 壁に身をもたせかけ、苦しげな息を吐く。血の気の失せた顔が苦悶にゆがんでいた。茶色の髪が冷や汗に濡れて額に貼り付いている。
「……今、何て言った?」
 カイルは追いつめられたけもののような笑みを浮かべた。凶暴な光が眼の奥に瞬く。
「いけません、カイルさん。待って……」
 引き止める間もなかった。シェリーを乱暴に押しやり、刺々しい足音をたててニーノに歩み寄る。カイルはニーノの肩を容赦なく蹴った。
「やめてください」
 シェリーは二人の間に割って入ろうとした。ニーノがかぶりを振る。
「君は離れていろ。僕なら大丈夫だ」
 はれぼったい眼を引きつらせてほそめ、かすかに笑う。
「でも!」
「いつまでも続くと思うなよ。そんなやせ我慢」
 カイルは憎々しげに吐き捨てた。何度も傷口を狙って蹴り、踏みにじる。
「ほら。ほら。痛いんだろ? ああ? 痛いなら気取ってないで正直に痛いって言えよ、ナイト様? さもないと傷がますます広がるぜ? いいのか?」
 ニーノは身体を折って耐えた。額から冷や汗が滲む。蒼白になった顔を上げる。
「僕をどうしようと貴様の勝手だ。だがレディの目の前で暴言を吐くな」
 ニーノはぎらりと燃える眼でカイルを睨み据えた。
「エマのことも忘れたのか」
「姉さんの名を出すな」
 カイルは悪意に満ちた声で遮った。
「僕を罪人扱いし、姉さんを脅し、挙げ句の果てに始末しようとしたのはどっちだ。被害者面するんじゃない」
「やめてください、カイルさん。お願いですから。そんなひどいこと」
 シェリーは凍り付いた声を上げた。カイルは動きを止めた。
「やめろだって?」
 ぎごちなく振り向く。
「いったい誰のせいでこんなことになったと思ってる」
 シェリーは眼を押し開いた。薄ら笑いを浮かべたカイルの表情は、まるで古傷で引きつれたように異様にゆがんで見えた。
「……君のせいだろ? ”行方不明の王女様”」
 ニーノがはっと身を固くした。殴られてあざになったまぶたを押し開く。
「王女……」
「おいおい、まさか今の今まで甘ったれたお伽噺を聞かせて回ってるとでも思ってたのかい?」
 カイルは、毒々しい嘲笑を浴びせかけた。
「本当のことを教えてやるよ。こちらにおわす御方こそ、我らが王女、うるわしの白き百合、敬愛する女王陛下の血を唯一ひく直系の王女! その名もシェリー殿下にあらせられる、だそうだ!」
 カイルはよろめいて笑った。ふるえる手に殺意のランセットを握りしめる。屍衣のように青白い手だった。
「僕だってあの女に教えられるまでは想像もしてなかったさ。新聞に載ってる絵姿を見せられても、それでも分からなかったぐらいだ。まさか、僕の店にジャムを売りに来てた子が。君が、あの王女だったなんて」
 ニーノは狼狽した視線をシェリーへと走らせた。シェリーは否定できずに顔を伏せた。カイルは吐き捨てるようにして暴露を続ける。
「こんなことになると知っていたなら、絶対に君を家に入れてやったりしなかった。君が引き寄せるであろう災厄のことを知っていさえすれば、どんなに君が困っていたとしても関わるべきじゃなかった。得体の知れない余所者なんて匿ってやるべきじゃなかった!」
 カイルは額に手を押し当て、よろめいた。身体を支えようと壁の棚に手を伸ばす。ふらついた拍子に積み上げられていた道具類に手が触れた。なだれ落ちる。
 金属の音、陶器の割れる音が暗闇に跳ね返った。壊れた道具の散乱するけたたましい反響が耳を突いた。
「平和な村だった。僕の店も、母さんの店も繁盛してた。みんな幸せだった。なのに」
 残響が消え失せた後、カイルはうつむいた。声が震える。
「君をかばったせいで、村はめちゃくちゃになった。バルバロが襲ってきて、広場は火の海。姉さんは女たらしの領主に慰み者にされ、母さんは君に騙され、僕は恥知らずの犯罪者にされ……みんな、君と関わったせいだ。あの場で姉さんを助けられたのは本物の王女である君だけだったのに。君は僕らのことを助けてくれようともせず、姉さんも母さんも見殺しにした! 違うかい、シェリー? 君のしたことと、僕の言ったこと。どこが違う?」
 矢継ぎ早に言い放つ。カイルは重い吐息をついた。うつろな視線が床を彷徨う。シェリーは声もなくカイルを見つめた。
「……知らなければよかった。でも、知ってしまった以上、もう、君を許すことはできない。全部、君のせいだ。君が、あのとき名乗り出てくれさえすれば、こんなことにはならなかった。君のせいで、僕の人生も、姉さんの人生も狂わされてしまった。たとえ君をあの女のもとへ連れて行って姉さんの恩赦を勝ち取ったとしても、今さらそれが何になる? それこそが唾棄すべき罪だ。王女を裏切った卑劣漢、恥知らずの人殺し。一度付けられた汚名は二度とそそげない。もう二度と日の当たる道は歩けない。もう二度と、元の僕には戻れない。そんな気持ちが、君に分かるか」
 カイルは喘ぎ、片手で顔を覆った。ランセットを持つ手がだらりと垂れ下がり、小刻みに震えている。声なき悲鳴のようだった。
「カイルさん。私の話を聞いてください」
 シェリーは意を決して口を開いた。カイルの手を取る。
「触るな」
 カイルはシェリーの手を押しのけた。指に絡めた金のチョーカーがちりちりと光を反射する。
「いけない。彼の言葉に耳を傾けてはならない」
 ニーノが苦悶の声を振り絞った。
「これこそが罠だ。あの女が、黒百合派ノワレが、貴女をおびき出すために仕組んだ卑劣な罠だ」
「それでも」
 シェリーは静かに首を振った。ランセットを握ったカイルの手に自らの手を添え、そっと握りしめる。
「やめろよ、白々しい」
 カイルは食いしばった歯の奥から声を絞り出した。
「逃げられないと分かったら今度は色仕掛けか。君もあの女や姉さんと同じか。女なんて、どうせみんな……みんな……!」
「目をそらさないで。私を見てください」
 シェリーはカイルの目をのぞき込んだ。カイルは振り払おうとした。
「断る。君は僕にもっとも恐ろしい罪を犯せと言うのか。ただの人殺しではすまない、王女殺しの大罪を。こんなことになったのも、全部、何もかも、君のせいだっていうのに!」
「自分の犯した罪を人のせいにするな」
 ニーノが口を開いた。壁にもたれ、咳き込み、痛みに顔をゆがめる。
「何もしてくれなかったと彼女を恨む前に、なぜ自分の手でエマ・フーヴェルを取り戻そうとしなかった?」
「うるさい! 勝手なことを言うな」
 カイルはもがくようにして叫んだ。
「領主に逆らうような真似ができるわけがないだろう。姉さんを助けるには、あの女の命令通りにするしかなかった。誰も助けてなどくれなかった。下手をすれば僕だって殺されてた!」
 カイルは唐突にシェリーを突き飛ばした。ランセットを掴んだ手を自暴自棄に振り払う。
「だから、もう、こうするしかないんだ。貴様を殺して、シェリーを人質にして、この村から逃げ出すしかもう……!」
 一瞬。月明かりに照らされた刃が見えた。
 シェリーは声もたてずその場に踏みとどまった。決意を秘めた眼でひたとカイルを見すえる。
 ニーノが声を呑んだ。
 毒の芳香を放ってまがまがしく光る刃先。狂ったようにひらめく光が空を切る。
 何かを切り裂く音がした。
 シェリーがかぶっていた黒のフードが斜めに裂けて、肩にわだかまる。白い頬があらわになり、切られた勢いではじき飛ばされた金髪が床に散る。その上に。
 血のしずくがぽたりとしたたり跳ねた。