お月様にお願い! 番外編 恋の赤ずきんちゃん

塔の上のシェリー


「罠。全部が全部、罠だったのよ」
 シルヴィは食いしばった奥歯を軋らせるような声で唸った。
「敵のまっただ中に飛び込むような真似をさせられて。コレが罠じゃなくて何だっていうの? まるで蜘蛛の巣にがんじがらめになったみたい。どこで何を間違ったのかよく考えるべきよ」
「考え直すのは俺じゃない」
 ルロイは苛立たしげに頭を振るい、息をついた。燃える眼でアドルファーを睨み据える。
「あいつに聞けって言ってんだろ。いつまでも過去の恨みつらみを並べ立てて、復讐を口にして、人間を目の敵にしてるのはアドルファーのほうだ」
「だから変だって言ってるのよ」
「変なのは分かってるさ。いつまでも過去にこだわるあいつの考えがおかしい」
「違う。こうなること自体がおかしいって言ってんの。妙だとは思わない? 生き別れてた実の兄弟が、こんなに憎み合って殺し合わなきゃならないなんて」
「だからアドルファーが……」
「そうじゃない」
 シルヴィは即座に否定した。
「あんたは全然分かってない。間違ってるのはあんたのほうよ。どこかに本当の敵がいる。こうやって実の兄弟を醜く争わせて、一族の絆を断ち切って、あたしたちバルバロ全体の内紛を誘って、分断しようとしてる奴が。思い出してよ。いつからこんなことになっちゃったのかを。誰がそうさせてるのかを。あたしたちバルバロが一族の結束を失うことで、いったい誰が得をするのか」
「誰って……知らねーよ、そんなの。どういう意味だよ」
 ルロイはこみ上げる苛立ちもろとも吐き捨てた。シルヴィの目が暗く光る。
「もしかしたら、誰かが、最初からあんたを罠に掛けて、騙して……人間の味方をさせるために……スパイとして潜り込んできたんじゃないかって……」
「シルヴィ」
 思わず声を呑む。
「何が言いたい」
 見返してくるシルヴィのまなざしは、まるで胸の奥を見透かすようだった。執拗な追求がまとわりつく。
「あの子はあんたを見捨てた。助けに行ったはずのあんたを見て、逆に逃げ出した。おかしいじゃない。何でそんなことするの? それにもしあの子が人間の王女なら、処刑なんて簡単に止めるよう命令できたはず。なんでそうしなかったの?」
 反論できない。
 ルロイは言葉に詰まった。ためらいが、焦りが、疑念が。波のように渦巻いて迫ってくる。
 そむけられた青い顔を思い出す。まさか、そんな──
 違う。ルロイは脳裏をよぎる嫌な想像を強引に振り払った。シェリーがそんな真似をするはずがない。きっと何か特別な理由があるはずだ。
 初めて出会ってから、今日という日が来るまで、何度も。
 誤解もあったし、すれ違いもあった。でも、そのたびに互いの気持ちを確かめ合って──より強く、より深く、絆を強めてきた。
 肩で大きく息をつく。
「それでも、俺はシェリーを信じる」
「そんなに好き? あの子のことが、まだ」
 奇妙に暗く、沈んだ声だった。シルヴィはうつむいた。
 ルロイはシルヴィの反応に気付かなかった。剣を強く握りしめ、決意の言葉を繰り返す。
「あったりまえだ!」
「もし、裏切られてたとしても……?」
「裏切られてなんかいねーよ。何度も言ったろ、俺はシェリーを信じてるって」
「そう」
 シルヴィはため息をついた。うつむいたまま山刀を握りしめる。
「分かったわ」
 くぐもった声で低くつぶやく。
「というわけで、いいか! 何があってもシェリーは俺が守る! てめえにだけは絶対に手出しさせねえからな! 分かったか!」
 ルロイは改めてぐいと胸を反らし、アドルファーに対して大見得を切った。指を立て、対決の決意を込めて指差す。シルヴィがわずかに後ずさった。背後に手をやり、何かを掴む。
「許さない」
「……ん?」
 ルロイはきょとんとした。怪訝な表情でシルヴィを振り返る。
「今、何か言った?」
「……ええ、言った」
 シルヴィの押し殺した声が耳元のやけに近いところから聞こえた。
「でも、気にしないで」
 背中に手が触れる。
 突風が吹き荒れた。雲が流れ、月をまだらに覆い尽くす。辺りがふと暗く翳る。シルヴィの腕が動いた。黒い光が走る。
 背中に鋭い痛みが走った。
 身体の中に冷気が流れ込んでくる。
 世界が歪む。膝の力が抜けた。がくりと膝をつく。
「なっ……」
 突然のことに、一帯何が起こったのか理解できない。ルロイは疑問と混乱の笑みをシルヴィへと向けた。
「何を、した……?」
 ぎごちなく視線を背後へと向ける。身体が奇妙にぐらついた。焦点が合わない。
 肩越しに自分の背中を見下ろす。
 ナイフが突き刺さっている。黒い、小さなナイフだ。刃に黒く毒が塗られている。
 手から剣がこぼれた。空虚な金属音が夜空に響く。
 ルロイは呆然と顔を上げた。
「どうして」
 おぼつかない言葉だけが、喉から出かかっては剥がれかけの薄皮のように貼り付く。シルヴィは顔をそむけた。うつろな表情で剣を拾い上げ、あらぬ方向へと投げやる。
「……あんたが悪いんだからね」
 押し殺した声で吐き捨てる。ルロイは刃が引く軌跡の光を目で追いかけた。
 空中で剣を掴み取ったのはアドルファーだった。使い手の元に戻った切っ先が弧を描いて空を切る。
 アドルファーは剣を構えた。
「何度も忠告した」
 冷たくぎらつく刃の切っ先が、ひゅん、ひゅん、と音を立てて振り払われる。
 つめたい毒が身体の中を巡り始める。手足が麻痺し、呼吸もままならない。眼がかすむ。
 いったい、何が──
 現状を理解する暇もなく昏倒し、顔から地面に激突する。ルロイは呻いた。
 血と泥。敗北と屈辱の味が口の中に広がる。剥き出しの土。突きつけられた剥き出しの現実を、ようやく悟る。
「裏切り者は許さない」
 視界が暗転した。


 金髪が床に舞い落ちる。
 カイルはシェリーの頬に走った赤い傷を食い入るように見つめた。蒼白になってよろめく。
「何で避けなかった。どうして!」
 声を呑み、恐怖にあおられた声をあげて、手に貼り付いた黒いランセットを投げ捨てる。
「毒が回ったら、息ができなくなって……!」
「大丈夫です」
 シェリーはよろめいた。喉に手をやる。手が震えていた。月明かりが翳って、あおざめた表情を覆い隠す。
「カイルさんが苦しむ必要はありません」
 カイルはかぶりを振った。
「違う。僕は……シェリー……本当に、ただ、君を助けたかっただけなんだ! 自分はどうなってもいい。あの女に命令されたとおり、君を殺したことにすれば。僕が王女殺しの汚名を被れば、君だけは助かるって……君を自由の身にして、逃がしてあげたかったんだ! そうやって君と二人で、どこか遠い遠い、誰も僕らのことを知らない街まで逃げて、逃げて、どこまでも逃げてゆけたら、って……」
「わたしには……何も見えていませんでした。目では見えていても、心には何も映っていなかった。でも、今なら分かります」
 シェリーは立っていられず、その場に屈み込んだ。胸元を掴み、むさぼるように息を吸い込む。
「わたしに向けられたこの刃は、カイルさんが一人で苦しんで、悩んで、どうしようもなく抱え込むしかなかった痛みそのものだと」
 窓から月影が差す。床に十字の黒い影がこぼれる。炎の喧噪が聞こえた。
「その痛みを受け止めることこそが、わたくしの責務です」
 誰もが自分の信じるもののために戦っている。
 愛おしい記憶がよみがえった。こうこうと夜を照らす満月を背負い俊敏に駆け抜けてゆく黒い影。
 白煙を突き破り、宙に舞う姿。荒々しくたなびく髪。しなやかで強靱な身のこなし。大きな三角の耳。燃えるような野生の瞳。
(シェリー)
 差し伸べられた手を、炎の向こうから聞こえた声を、すがるような心地で思い出す。
 あんなに近くまで来てくれたのに。
 どうして、あのとき気付かなかったのだろう。
 シェリーは後悔と痛みの入り混じった嘆息を噛み殺した。
「これ以上、わたくしのために迷惑を掛けるわけにはゆきません」
 よどみのない、だがかすれた声で低く言い切る。眼がかすんだ。背筋に嫌な悪寒が走る。
「僕は」
 カイルは、十字の影の上にうずくまって動かなかった。まるで罪のくびきに縛り付けられたかのようだった。
「僕は……!」
「ニーノさん。お願いがあります」
 シェリーは眼を閉じた。寒気がした。喉の奥がいがらっぽく燃える。苦しくて、苦くて、焼けるようだった。
 荒く弾む息をくりかえし、かぶりを振る。胸が詰まる。呼吸が喉に絡むようだった。ひどく熱い。
「どうか、わたくしを──」
 もう一度、あのときに戻ることができたら。
 力なく瞬きし、熱を帯びた吐息をつく。手にした金のチョーカーを握りしめる。だが、どんなに祈っても過去のあやまちは消えない。残酷な運命を告げる鐘は鳴り終え、もはや余韻もなく、今さら時計の針を巻き戻すこともできない。それでも、ひたすらに希う。
 もう一度。
 できるなら、あの夜に。ルロイと別れたあの夜に、もう一度。
「殿下」
 異変を察知したニーノが声を高める。
「まさか毒が」
「いいえ、わたくしなら大丈夫です」
 シェリーは苦しさを振り払い、眼を閉じた。遠い記憶が闇の中の炎のようにゆらめく。
「……連れて行ってください。もう一度、あの、炎の広場へ」
 手の中のチョーカーが光った。