お月様にお願い! 番外編 恋の赤ずきんちゃん

狼の夜は終わらない

 クレイドは首を横に振った。
「いいや。意識はあるが、まだ毒が残っていて朦朧としている。尋問に答えられる状態ではない」
「だったら頭から水をぶっかけてやればいいじゃない」
「あまり紳士的とは言えないな」
「たかがバルバロに随分と肩入れするのね。動物愛護の精神かしら。でも、あんまりつまらない見栄を張って、わたくしをがっかりさせないでちょうだい」
(何だと! 誰が動物だ!)
 声に出せるものならわめき散らしてやりたい気分だった。鼻の横がびくびく吊り上がる。
「逃げたもう一匹を早く仕留めないと、事態はもっと悪化するわ。あなたの失態よ。責任を追求されたくなければ、さっさとこいつを拷問して吐かせることね」
 もう一匹……?
 シッポがぴくりと跳ねる。ルロイは思わずにやりとした。先ほどクレイドが言っていた”仲間”とは、まさしくグリーズリーに違いない。捕まっていた死刑囚の娘と一緒に無事脱出したと見える。さすがは次期族長の呼び名も高い百発百中の男、満月のたびに子供が増える伝説の男だ。
 ぱたぱた動くシッポの嬉しそうな反応に気付いたクレイドは、むっとした様子で尻尾の根本を踏んづけた。
(ふんぎぃぃいいいゃあああ!)
 喉の奥で声にできない悲鳴を上げる。
(何しやがんだてめーー! ぶっ殺す!!)
 半泣きしつつ歯ぎしりしてクレイドを睨み付ける。
 クレイドはルロイの視線をさらりとかわした。苛立った口調で女の言葉を遮る。
「すぐに探し出すさ」
「そうしてちょうだい。早くあの子を見つけてあげないと、もっとひどい噂が広まることになるわ」
「噂……?」
 クレイドは声を潜めた。盗み聞きしていたルロイもぴくりと背筋をこわばらせる。
 女はうっすらと笑った。
「あなたは皆の目の前であんなことを暴露されて平気なの? 王女ともあろうお方が、目の前で罪もない娘が殺されるのを黙って見過ごしたばかりか、バルバロとの間に緊張が高まって皆が不安がっているこの時機に、よりによって雲隠れしたままこそこそと逃げ回ってばかりいる、と」
「……!」
 ルロイは思わず怒鳴りつけそうになった。
 ふと、クレイドの視線を感じた。無表情に近い冷徹な視線。ここでつまらぬ下手を打つようなら容赦なく切り捨てる。そう言っているように思えた。
 喉の奥から噛み殺した唸りが洩れる。
 この貴族の意図するところは分からない。だが、ルロイの知らぬところで、あやうい綱渡りめいた駆け引きを仕掛けているらしいことだけは分かる。
 ルロイはゆっくりと呼吸した。必死に自分を押さえつける。今、感情を爆発させても状況は好転しない。利用するならすればいい。こちらもそのつもりで立ち回るだけのことだ。
「突拍子もない主張だな。現実的とは言えまい」
 クレイドは苦々しく眼を伏せた。
「あながち冗談とも言えなくてよ」
 女は手を口に添えて笑った。その仕草はまるで蝶のたわむれる花の裏側にひそむ蛇のようだった。
「あの子も馬鹿な子よね。晒し者にされる前に、さっさと出てくればよかったものを。今さらのこのこ現れたところで、誰ももうあの子のことなんて信用しない。身代わりにされた娘を自分可愛さのあまり見捨てたなんて……本当は殺されるのが怖くて逃げ隠れしていた、なんて、皆の前では口が裂けても言えるわけがないわ。となればたとえ真実がどうであれ、こう言いつくろうしかないはずよ。王女は仇敵バルバロに捕らわれの身であった、と」
 女はルロイの傍らに屈み込み、指をからめるようにして頬に触れた。嘲笑の笑みを投げかける。
「あら。このバルバロ」
 無造作に指で髪をかき分け、うなじを探る。ルロイはぞくりと身体をこわばらせた。
「このしるしは」
 冷たい視線が、黒ずんだ火傷の跡をなぞる。立てられた爪が焼け付くように熱く感じた。
「ねえ、トラア。これ、奴隷の焼き印じゃない?」
 声に喜悦が混じっている。クレイドは見たくもなさそうに見下ろし、ルロイの首筋に残る火傷に気付いて、意表を突かれた表情を浮かべた。
「らしいな」
 耳元で交わされる会話に、ルロイは身を震わせた。悔しさと苛立ちで爆発しそうになる思いをかろうじて噛み殺す。
「奴隷ならなおさら好都合ね」
 女はくすくすと笑った。
「あの子が犯した不徳の罪を暴かれたくなければ、何を言われてもこちらに黙って従うほかはないものね。何を要求されても、どんなことをされても」
 指先を唇に押し当て、あやうく微笑む。
「もし、あの子の秘密を臣民に知られたらどうなると思う? まさか、あの……真っ白な雪みたいにきよらかな姫君が、けがらわしいみだらな声を上げて、獣に尻を振っていた、だなんて噂が流れたら? 子羊みたいに愛くるしい姫君が、毛むくじゃらの野獣に慰み者にされていた、なんてことを皆が知ったら? あるいは」
 黒い目に恍惚の色が浮かぶ。
「”奴隷の子”を産んだと知れたら」
 女はぶるっと震えて、濡れた熱い吐息を漏らした。
「どう思うかしら、ねえ、トラア?」
「奴隷の子……」
 無意識に繰り返した後、クレイドは声を呑み込んだ。声音に不安の色が混じった。
「どうするつもりだ」
 女は勝ち誇った甘ったるい笑みを浮かべた。
「教えない」
「エヴァ。待て」
 クレイドは声を押し殺した。
「まさか、君……」
「そんな呼び方──馴れ馴れしくしないでちょうだい」
 女はぷいときびすをかえした。
「わたくしを誰だと思っているの。マール大公妃よ。彼我の差、身分の差をわきまえなさいな」
 女は目を細めた。
「もういいわ。あなたはさっさと化け物どもの居場所を白状させておいて。これ以上わたくしに余計な手間を掛けさせないでちょうだい。さもないと……」
 言いかけて女は薄く笑った。クレイドは身を乗り出した。
「どうする気だ」
「秘密」
 女は逃げるようにクレイドの手をすり抜けた。
「切り札は大切に取っておくものよ」
 きびすを返す。黒いガウンの裾がふわりと舞い、毒花の甘い芳香を放った。
「ユヴァンジェリン」
 クレイドは消えゆく背中に向かって声をかけた。
 女は立ち止まろうともしない。硬い靴音が闇に吸い込まれる。
 ルロイは気配をはかり、足音が聞こえなくなったのを確認してから、用心して訊ねた。
「おい。今の偉そうな女、いったい何様だ。あんたのヨメか」
 クレイドは驚いた目をしてルロイを見やった。答えようとして途中で止め、苦笑いする。
「残念ながら彼女の夫でいるにはいささか先立つ名誉が足りなかったようだ」
 指で輪を作ってから、皮肉な仕草で肩をすくめてみせる。
「そんなことより先ほどの取引だが……」
「待った。また誰か来た。さっきから出たり入ったりとずいぶんにぎやかな牢屋だな。おちおち捕まってもいられねえよ」
「誰だ」
 クレイドが闇に問いかける。
「おおそれながら」
 思っていたのとは違う声だ。ルロイはぱちくりと眼をまたたかせた。鼻をひくつかせる。クレイドがルロイへ目をやった。
「どうかしたのか」
 ルロイはあわてて首を振った。
「何でもない」
「ニーノ様からの伝言が届きました」
 暗闇から男が一人、ひっそりと現れた。ささやくように報告すると、クレイドに小さな銀の筒だけをを手渡し、そのまま目を合わさずに下がってゆく。
「ニーノ?」
 ルロイは面食らった。気のせいか、その名。いつかどこかで洩れ聞いた覚えがあるような──
「君には関係ない」
 クレイドはそっけなく遮った。手の内に密書の筒を握り込んで隠す。
「えー? 何だよーけちけちすんなよー俺にも見せろよー」
 ルロイは首を鶴のように伸ばしてクレイドの手元を盗み見ようとした。
「断る」
「いやいやそこは貴族らしくノブレスオブリージュ、友愛、騎士道、高尚なる博愛精神を発揮するのが順当ってもんじゃねーのかよ。俺にも見せてくれよ、な? な?」
「却下」
「何だよケチくせえ野郎だな。狼の風上にもおけねえ」
「ハゲ尻尾のくせに」
「ハゲ言うな。これは勇気のたまものだ。名誉の負傷と言ってくれ」
「なるほど。光り輝くハゲの勲章というわけだな」
「だからハゲハゲ言うなってんだよ、このシッポなし野郎!」
「あいにく人間に尻尾はない。なんなら尻尾用の毛皮のヅラでも送ろうか?」
「むううううるせーー! 言いやがったなこの成金コスプレマニア! いけすかねえ気障ったらしの悪徳領主野郎!」
「何とでも言いたまえ」
 ぎゃあぎゃあと悪口雑言の限りを尽くすルロイを悠揚と無視し、クレイドは銀の筒のふたを抜いた。傾けて中身を取り出す。
 金のチョーカーが転がり出た。掌に載る細い鎖。牙の形をした月の石飾り。
「これは……」
 クレイドは眉間に皺を寄せた。無意識にルロイと見比べる。
「何だよ」
 ルロイは怪訝な表情で見返した。
「何か問題でもあったのか」
「いや、何でもない」
 クレイドは何事もなかったかのように態度を改め、手の内にチョーカーを握り締めた。
「悪いが急ぎの用事ができた。これで失礼する」
 ランプを手に取り、立ち去りかけて、口を開く。
「しばらくここで静養してゆくといい。くれぐれも身体を労るようにな。無理するなよ」
 ルロイは鼻先で笑い飛ばした。
「余計なお世話だ。さっさと行け」
「そうさせてもらう」
 クレイドはそれ以上何も言わず、足早に立ち去った。靴音が遠ざかってゆく。静けさが戻ってきた。
 ルロイはうんざりと首を振った。顔を上げ、暗闇を見据える。
「……おい、てめえはまだ用が済んじゃいねえだろう」
 闇に向かって声を掛ける。
 最初に聞こえた靴音は四つ。後から現れた女を含めて五名がこの地下牢を訪れた計算になる。登場人物は看守、クレイド、黒いドレスの女と最後に現れた密偵。
 残る一人は──
「今は貴様など相手にしている暇はない」
 闇にひそむ捕食者の気配が伝わってくる。
「待てよ、アドルファー。まだこっちの話は終わってねえんだよ」
 ルロイは闇を睨み付けた。
「てめえ、さっき、俺に向かって裏切り者は許さないって言ったよな。ご大層に並べ立てた捨てぜりふ。まさかきれいさっぱり忘れちまったとでも言うんじゃねえだろうな」
 無関心な靴音が去ってゆく。ルロイは苛立った。見えない背中に向かって闇雲に声を突き刺す。
「人間の犬に成り下がったのはどっちだ。答えろ。人間と協力するでもなく、人間と敵対するでもなく。狼のくせに、どっちつかずの狐みたいにコソコソと立ち回りやがって。てめえはそれでいいのかよ。自分のやってることこそが卑怯だと思わないのか。おい、聞いてんのかよ、アドルファー! 返事しやがれ!」
 返答はなかった。