お月様にお願い! 番外編 恋の赤ずきんちゃん

狼の夜は終わらない


 暗闇の森を悍馬が疾駆する。白波のごとく夜に流れ下る鼻息、怒濤のごとく土を蹴立てる蹄の音。
 いななきが響く。吐く息はどこまでも白く、後方へと流れ去ってゆく。渦を巻く夜光の波のようだった。
 クレイドは鞍上から上空を見上げた。
 滑空する白い影が見えた。ニーノの伝書鸚鵡だ。
 導きの鳥を追って、古の城壁が残る坂道を駆け降りてゆく。城壁はそこかしこで木の根に浸食され、崩れている。我が身同様の過去の遺物、裏さびれた没落と斜陽の光景だ。
(待ち人来たれり)
 掌にすべり落ちてきたのは、見覚えのある金のチョーカーだった。
 アドルファーの首に掛かっていたものと同じだ。いったいなぜ、こんなものをニーノが送って寄越したのか。
 その意味と、添えられていた密書との関連に思いを巡らせる。
 裏切りの予兆に、クレイドはざわめく胸の内を押し殺した。手綱を握りしめ、馬を急がせる。
「……無事でいろよ、ニーノ」
 城から村へと至る道を、後ろ髪引かれる思いで通り過ぎる。
 広場の中央に打ち棄てられた燃え跡は、まだ悔恨の煙を上げてくすぶり続けていた。謂われなき罪をかぶせたエマ・フーヴェルが、先ほどのバルバロ、ルロイとその仲間によって奪取された、偽りの舞台だ。
 消し炭を踏みにじった足跡が無数に散らばっている。
 クレイドは無様な景色から苦々しく眼をそらした。
 悪の領主、悪の女王。虐げられた家族。炎に照らされた舞台上で演じられた茶番劇。
 醜く歪んだ影絵が映し出したのは、約束された勧善懲悪、栄光と予定調和の結末ではなく、醜悪に破綻した狂言物語だった。
 大団円へと至るはずだった道の、いったいどこで設定を間違えたのか。
 鳥が弧を描いて急降下した。白い姿が視界から消え失せる。
 クレイドは虚を突かれて馬の速度を落とした。角を曲がり、周囲を見渡す。
 頭上から鳴き声が聞こえた。全身真っ白な鸚鵡が、古ぼけた倉庫の屋根に止まって羽づくろいをしている。さながら一仕事終わったとでも言いたげにクレイドを見下ろし、首をぐるりと回して物憂げに含み鳴く。
 クレイドは音を立てぬよう用心して馬から降りた。
 耳を澄ます。何も聞こえない。誰もいないのか、それとも──
 だが、ためらっている暇はなかった。護身銃を抜き、弾丸が込められているのを重みで確かめてドアを蹴り飛ばす。
「動くな!」
 身構える。踏み込んだ勢いで、月明かりに白くけむる土埃が舞い上がった。土臭い臭いに思わず息を詰める。
 暗闇の奥に眼を凝らす。壁際に死体がふたつ転がっているように見えた。
「ニーノ」
 愕然としつつ呼ばわる。
「生きているなら返事しろ」
「旦那様」
 かすれた声が返ってくる。
「私はここに」
「ニーノ」
 思わず安堵の声をあげ、銃を下ろす。クレイドは目が慣れるのを待って倉庫の内部へと足を踏み入れた。周囲の安全を確かめる。
「旦那様」
 ニーノは肩に手を当てていた。身を起こすだけで呻きがもれる。手の下に黒ずんだ染みが見えた。
「誰にやられた。ヨアンか」
 矢継ぎ早に尋ねる。ニーノは荒い吐息をついた。答えかねて首を振り、そのまま脱力して壁にもたれかかる。
「話は後で。それよりもこちらの方を一刻も早く」
 言葉がもつれ、しっかりとした声にならない。クレイドはニーノが言わんとしていることを理解できないまま歩み寄った。銃を両手で握りしめ、いつでも発射できるよう引き金に指をかける。
「誰をだ? とにかく状況を……」
 何かにつまずきそうになる。足元に黒い衣を被った人影が転がっていた。フードの端から、金色の毛先がのぞく。
 うつぶせに倒れたまま、ぴくりとも動かない。青白い指先が、こわばった形に曲がっている。まるで死んでいるように見えた。
「誰だ。カイルか。まさか殺したのではあるまいな」
 クレイドは黒ずくめの人物の側に屈み込んだ。反撃に備え、銃の先でフードを剥がす。
 金色の髪が床にこぼれ出す。クレイドはぎくりと声を呑み込んだ。
「これは……」
 背後の戸が、突然、寒気のする音を立てて開いた。強い風が吹き込む。
「誰だ」
 反射的に振り返り、銃を構える。
 髑髏の面を被った死刑執行人が立ちつくしていた。漆黒のマントが重苦しい音を立ててたなびいている。
「アドルファー」
 クレイドは愕然と声を漏らした。
「貴公、まさか私の後をつけてきたのか」
「ああ、そうだ。何か問題でも」
 臆面もない返答に、クレイドは憤りの声を荒らげた。
「これはどういうことだ。貴公の──」
 手にしたチョーカーを苛立たしく突きつける。
「貴公の仕業か」
 アドルファーは金のチョーカーに目を留めた。質問に答えず、代わりにマントの裾を悠然と払って、腰に吊った漆黒の剣をこれ見よがしに見せつける。刻まれた黒百合の紋章が鈍色を放った。
 狼の唸り声が暗闇に響く。
「言ったはずだ。我が目的を遂行するためならば如何なる手段をも厭わない。たとえ悪魔と手を結ぶことになろうとも、な」
 アドルファーは髑髏の面をはずした。横たわる少女の目の前へと無造作に投げやる。
騎士ナイトは囚われ、戦車ルークの弾もまた尽きる。残された女王クイーンはあまりにも無力」
 面は床に跳ねて二つに割れた。表と裏、白と黒、左右に分かたれて転がる。
「──王手チェックメイトだ」