お月様にお願い! バレンタイン番外編

恋の赤ずきんちゃん

 ルロイは飛び出してゆくシェリーを愕然と見送った。
 後を追わなければ、と思うのに足が動かない。
 シェリーが何かを隠そうとしていた戸棚へ、ぼんやりと眼を向ける。よほど急いで閉めたのか。隙間が細く空いている。新聞の切れっ端がはみ出していた。
 ルロイは険しい面持ちで半開きの戸を見つめた。
「”赤ずきん”なんか被ってごまかしたって……臭いですぐにばれるって分かってるはずなのに」
 ルロイは戸棚に手を伸ばそうとした。
「何で、あんな──」
 指先が取っ手に触れる。
 ちょうつがいがかすかな軋みの音を立てる。開こうとして、ルロイは動きを止めた。しばらくそのままの姿勢で、じっとして動かない。
 首に下げた金のチョーカーをまさぐる。
「こんなもののせいで……!」
 引きちぎろうとして、苦しげに唇を噛む。気持ちに蓋をするかのように、乱暴な音をさせて強く戸棚を閉めた。息を継ぎ、振り返る。
 ルロイは戸棚から離れ、歩き出した。

「ルロイさん……」
 井戸端の縁に手を掛け、その場で子どもみたいにしゃがみ込んで、シェリーは泣いていた。涙がぽろぽろ、後悔の念となって頬を伝う。
 泣いてちゃだめ。
 ルロイさんに、謝らなきゃ。
 森の夕暮れは早い。
 日が傾いて、峰の上の向こうに隠れる。騒々しく鳴き交わしていた小鳥たちの声も、いつしか絶えて聞こえなくなってゆく。代わりにひっそりとした山影が黒く、西の空に広がった。あっという間に雲が空を覆い、山背となって冷えた足元をすくう。
 背後から土を踏む足音が聞こえた。
「シェリー……」
「ルロイさん」
 シェリーは涙をぬぐいもせずにしゃくりあげた。振り返ることも、顔を上げることもできない。
「ごめんなさい。ルロイさんは悪くないのに。わたしが悪いのに」
「シェリーは悪くないよ」
 低い声がためらうようにささやく。
「俺が、その……」
「ううん」
 シェリーは涙で濡れた顔を上げた。袖で何度も目をこする。ルロイの顔をまっすぐに見ることもできなかった。
「ごめんなさい。隠し事したかったわけじゃないんです。わたし、ルロイさんに……喜んでもらおうと思って、それで、びっくりさせてやろうって……つまらないこと思いついちゃって、馬鹿みたいにはしゃいじゃって……おばさまやカイルさんにお願いしていろいろ準備しようと思ったんです。決して、ルロイさんと喧嘩したかったわけじゃ……!」
「シェリー、もういいって」
 ルロイが遮る。声がゆっくりと近づいてくる。
「言わなくていいよ」
「戸棚の中を……ごらんになったのですね」
 足元を、真夜中のさざ波がひたしてゆくような気がした。ぶるっと身体が震える。胃を締めつけるような悪寒がこみ上げた。
「……いいや、見てない」
「どうしてですか?」
 シェリーは驚いて眼をみはった。立ち上がって振り返る。
 ルロイはシェリーに触れようとして、涙に気付いた。気まずい顔をして手を引っ込める。
「先にシェリーに謝ろうと思って」
 ルロイは口ごもった。
「カイルって、村のパン屋だろ」
「……おばさまの息子さんです。いつもおいしいパンを焼いてくれる、いいひとです」
 ルロイは肩を落とした。ゆたかな狼の尻尾が、ちからなく垂れ下がっている。
「だよな。俺、そいつのパンを、シェリーが買ってきてくれるたびにいつもうまいうまい言ってばくばく食ってたのに。何で気が付かなかったんだろう」
「ルロイさん……」
「シェリーからそいつの臭いがぷんぷんするから、てっきり、シェリーが浮気したと思い込んでたんだ。ごめん。謝る」
「……うわき……?」
「だから泣くの、やめてほしいんだ。君に泣かれるとつらい。俺が悪いんだ。シェリーのことが好きすぎて、そいつの臭いがするってだけで、いらいらして……勘違いした。ごめん」
 ルロイはシェリーの足元に身をかがめた。膝をつく。シェリーは眼を真っ赤に泣きはらした顔を上げた。
「ルロイさん……?」
「罰として噛みついてくれ。謝る。このとおりだ」
 喉をさらす。
「このあたりをガブッと行ってくれ。頼む」
「あ、あの、わたし」
 シェリーはさすがに引き気味になって口ごもった。
「噛み付くのは、さすがにちょっと……無理です」
「じゃあ腹を見せる」
 いきなり服の腹をめくり上げて出し、尻尾を巻き付けて地面に寝転がろうとする。服従の姿勢だ。
「そんなことをしてはいけません、ルロイさん」
 シェリーはあわてて押しとどめた。首を振る。
「隠し事をしていたのは、わたしのほうです」
 息苦しさに立ちすくむ。声がふるえた。
「わたしが……黙って……したから、ルロイさんは怒ったんですよね」
 半ば仰向けで腹を半分出した状態のまま、ルロイは声を呑んだ。表情がこわばる。
「えっ? あ、いや、あの……えっと……違うんだろ?」
 ルロイは眼をそらした。気まずい目線をあちこちに泳がせる。
「……ごめんなさい。本当のことを言います」
 シェリーは心を覗かれたくなくて、ぎゅっと眼を閉じた。
「シェリー」
 雰囲気が変わってしまったことに気付いたルロイが低い呻き声を上げる。
「やめろ。だめだ。やめてくれ」
「いいえ」
 つめたい北風が吹き付けてくる。森を冷やす黒い風だ。ざわざわと音を立てている。
 いつまでも臆してはいられない。真実はすぐに明るみに出される。いつかは──告げなければならないのだ。
 シェリーは瞼を開けた。揺れ動くまなざしでルロイを見つめる。
 枯れ葉が灰色の空に飛んでいった。いたたまれない思いが迫ってくる。
 赤ずきんに手をかける。
「ごめんなさい。ルロイさん。実は……」
 赤ずきんを、さっと引き払う。草の種をいっぱいにくっつけたくしゃくしゃの髪がふくれあがった。
「きゃっ……!」
 風が吹きつけた。なおいっそうもしゃもしゃになった髪が激しく波打つ。
「うわっ!?」
 いつになく斬新に炸裂した髪型に、さすがのルロイも度肝を抜かれた。バネ仕掛けのように跳ね起き、腫れ物に触るようにしてシェリーに近づく。
「何だよ、その土手のてっぺんから下の端まで転げ落ちたみたいな頭は! 草の種だらけじゃないか!? どうしちまったんだ?」
「ああ、やっぱり! ごめんなさい!」
 シェリーは真っ赤になってうつむいた。
「どんなに頑張っても自分では取れなくって……困ってたらカイルさんが取ってくれるっていうから……!」
「ちくしょう、そういうことか。それで、シェリーの髪にも服にもこんなにオスの臭いがついて……」
「えっ」
 シェリーは顔色を変え、手首や肩に鼻を近づけた。くんくん臭いを嗅ぐ。
「ど、どうしましょう、ごめんなさい、お酢の匂いって……ピクルスひっくり返しちゃったときに服に匂いがついちゃったんでしょうか? それともせっけんで髪洗ったとき、お酢でリンスしたから!? ああん、もう、わたしったら、ルロイさんの前でお酢の匂いぷんぷんさせてたとか……は、恥ずかしい……」
 恥ずかしさのあまり、手で顔を覆う。
 ルロイは口をつぐんだ。やがてがっくりと肩を落とす。
「やっぱ、ごめん。謝る。君を疑うなんて、俺、よっぽど頭に血が上ってたとしか思えない」
 首に掛かった金の飾りが艶のない輝きを放った。
「この首飾りのこともちゃんと説明する……」
「いいえ」
 シェリーは指の先で涙をぬぐった。ルロイの腕に手をかけ、ルロイを見上げる。
 おだやかな黒い瞳がまっすぐにシェリーを見下ろしていた。夜になると凄腕の狩人に豹変する瞳。野生の瞳。バルバロの眼。
「いいんです。もう、聞かなくても」
「どうして? 気になってたんだろ」
「……」
 声もなくルロイの腕に身をあずける。優しい腕が抱き止めてくれた。いつもと同じ腕。ルロイの腕の中。
 太陽に抱かれているようだった。
 日が暮れようとしている森の空気は、ダイヤモンドダストに包まれたみたいにつめたいのに、ルロイの髪は毛皮そのもののぬくぬくした暖かさを保っている。
 霧氷を蹴散らし、雪原を駆け抜ける狼の姿が脳裏に浮かんだ。
 牙の形をした金のチョーカーにいわくがあるらしいことは、含みのある言い方で分かっていた。
 いつ、どこで、何のために。
 誰から渡されたのか。
 それでも首を横に振る。シェリーは潤む瞳でルロイを見つめた。
「だって……」