お月様にお願い! 番外編 恋の赤ずきんちゃん

狼の夜は終わらない



 目が覚める。
 身体が痺れているせいか、手足が重く、だるい。手の先の感覚が失せている。
 吐き気とめまいが波のように何度も襲ってくる。まるで死出の川に浮かべた棺の船に乗せられているかのようだった。
 シェリーはゆっくりと指先で頬に触れた。冷たい。
「また怖い夢を見たのかしら」
 見慣れぬ部屋に、ひとり置き去りにされた記憶。
 だが、涙を吸った枕のつめたさは夢ではない。紛れもない現実だ。
 口元を押さえ、まとわりつく不快な吐き気を呑み込む。このところずっと、重くていやな感じの痛みが下腹部にわだかまっている。
 まるで澱みたいにもったりと居座って、きもちわるい。
 痛みを押しのけたいのに、身体の中ではどうにもならない。仕方なく、半ば八つ当たりも兼ねて、やわらかな羽毛の寝具を陰鬱に傍らへと押しやった。身体を動かして気を紛らわすしかない。
 おなかをさすりさすり、所在なく起きあがる。
 奇妙な感覚があった。まとう衣の音に違和感を覚え、視線を落とす。
 半裸を思わせる黒のネグリジェだった。一見して、意識のないうちに別の誰かに着せられたものだと分かる。
 瞬時に意識が冷えた。周りを見回す。
 見知らぬ部屋だ。重たいえんじ色のカーテン。木のベッド、石造りの床に広げられた毛足の長い部屋敷き、黒百合の壁紙、くろがねの燭台、飾り気のないランプ、ガラスの造花と鉄格子。空気を取り込むラッパ型の通風口。
 決して殺風景ではないが、底冷えのする場所で一人寝かされていたことに、たとえようもない孤独を覚える。
 ベッドから降りてみる。はだしの爪先が床に触れた。痛いほどの冷たさに身をこわばらせる。氷の湖に足を踏み入れたようだ。
 ここはいったいどこだろう。
 どこからか鳥のさえずりが聞こえてくる。窓の向こうにいるに違いない。仄暗くも明るい、朝とも夕方ともつかぬ光を透かすカーテンに近づく。
 カーテンを開こうとして、手を止めた。ふいにわき起こった暗雲を見上げるかのような、嫌な予兆にたじろぐ。
 見たくない。外を見るのが怖い。自分が自分でなくなるような気がして──
 違う。
 カーテンにすがる手が震えた。むしろ怖いのは、窓の外の光景が恐ろしいほど当たり前であることだった。
 かつて何も知らなかった頃、窓の隙間からおどおどと眺めていた世界のほとり。聞かされていた言葉はこうだ。
 どんなに見た目が美しくても、あれは人間の住む世界ではない。だから、決して近づいてはならない──そこに住むのは人間ではない、荒々しい、”けだもの”だ、と。
 泣きたくなるほど愚かだった。
 息をつき、頭を垂れ、うつむく。
 ここが海の底ならよかったのに、と思った。現実を見せつけられるぐらいなら、いっそこのまま貝になってしまいたかった。深海の泡を聞きながら、硬い殻をきつく閉じて、漂う海流に身をゆだねて、お母さんのおなかの中にいるみたいにまるくなって、ゆら、ゆら……
 また小鳥のさえずりが聞こえる。まるで呼んでいるようだった。
 そんな暗いところに閉じこもっていないで、外に出て。
 現実を直視しなさい、と。
 シェリーは顔を上げた。
 絶望の箱の底に残った一条の光に導かれ、おそるおそるカーテンの隙間に目を当てる。
 外の世界。
 もしかしたら、あれらは全部まぼろしだったのかもしれない。カイルのことも、ニーノのことも、炎の向こうで叫んでいたルロイのことも。
 窓の外はどうなっているのだろう。凝り固まった記憶と同じだろうか。それとも、愛おしい、まばゆい記憶と一致するだろうか。
 もしそうだったら、どんなにか──
 シェリーは目をつむったまま深呼吸した。うじうじと考えても仕方がない。わずかな期待を必死に寄せ集め、希望が見えるよう、しゃんと背筋を伸ばして気を取り直す。
 どんなに寒くても、いつか必ず冬は終わりを告げるものだ。明日は今日よりも暖かくなる。
 きっと。そうだ。そうであってほしい。
 今でもありありと思い出せる。あの光景──
 シクラメンの赤い花輪でしるしをつけたカレンダー。光あふれる出窓には、色とりどりの花を付けたビオラの鉢がみずみずしく並んでいる。葉っぱについたあおむしさえ嬉しそうにむくむく歩いていて、ありんこが列を成して。
 まぶしい光をはらんだ白いカーテンを引き払うと、視界いっぱいに森が広がる。森の匂い。大地の匂い。空の匂い。
 耳を澄ませば、太陽みたいにはじける気さくな笑い声が、今にも聞こえてきそうだった。
(おはよーーーーシェリーーーー! やっぱ好き好き大好きだあああぁぁぁぁぁもう我慢できなぁぁぁぁぁ……!)

 そのとき。
 ノックの音がした。夢が破られる。
「……どなた?」
 かすれた声で問い返す。
「トラア・クレイドです、殿下。入ってもよろしいでしょうか」
 シェリーは目をしばたたかせた。
 これが現実だ。限りなく残酷な真実という名の現実。
 ここにルロイはいない。
「どうぞ。お入りになって」
 冷静に応じる。鍵を解除する金属の音がした。おもむろにドアが開く。
「失礼いたします」
 白い綿帽子を深くかぶり、顔を隠した侍女が二人、滑り込んできた。シーツを代えるのか、大きな布張りのワゴンを引き、それぞれ深緑色のワンピースを身につけている。
「このものたちが殿下の身の回りの世話をいたします。何でもお申しつけくださいますよう」
 背後に、暗い灰色のコートを着込んだ金髪の貴族が控えている。
「殿下、お召し替えを」
 メイドが視線を遮るカーテンを引いた。熱く蒸したタオルで身体を拭い、ワゴンからローブを取り出して着替え、髪を整える。
 シェリーは鏡に映る己の姿を眺めた。
 黒いドレス。奇妙に濃い化粧と付け髪を派手に盛って散らした結い方は確かに今風の洒脱な装いなのかもしれないけれど、でも、それらは自分の好みとはまるで違っていて、嫌みなぐらい自堕落で慎みのない装いに思えた。襟ぐりを大きく開け、ことさらにデコルテへと視線を集中させるドレスもまた、鏡の中でさえ目のやり場に困るほどだ。
 まるで”魔女”みたい、だと思った。あまりに痛々しく、見ていられなくて、鏡から目をそらす。
 王女でありながら宮廷で他人好みの服を着せられるということが何を意味するのか、分からないほど子どもではなかった。もはや自分で自分の着たいドレスも持てない、たったそれだけの権利すら与えられない、誰の後ろ盾もない籠の鳥。
 身だしなみを整え終えると侍女たちは頭を下げ、ワゴンを押して続きの間へと引き下がっていった。入れ替わりにクレイドが部屋に入る。
「僭越ながら、皆を代表し、殿下の無事の御帰還をお喜び申し上げます。ご無事で何よりでした」
 クレイドはうやうやしくひざまづき、指先に口づけて臣下の礼をつくした。手を取ってもらい、腰を下ろす。
「ありがとう……」
 喉の奥に言葉がつまる。シェリーはためらってクレイドを見上げた。何を尋ねるべきだろうか。自分のことか。それともルロイの──
 途端に思いが堰を切ってあふれた。質問が矢となって口をついて出る。
「教えてください。ここはどこですか。わたくしはどうしてここにいるのです? ニーノさんはご無事なのですか? 他の皆さんは──」
 クレイドは問いに答えず窓に近づいた。外界の景色を遮っていたカーテンを引き払う。
 薄暗い光が部屋に満ちた。
 灰色の空が広がっていた。今にも雨が降りそうな暗い雲が一面にたれ込めている。
 シェリーは声もなく、眼下の景色を見つめた。
 放射状の道路に沿ってぎっしりと詰め込まれた石とレンガの建物が、石ころのように眼下を埋め尽くしている。
「ここは……」
 おずおずと手を出すと、濡れて冷えたガラスに指先が滑った。黒く冷たい鉄格子が視界を遮っている。
 改めて、窓から望めるかぎりの光景を食い入るように見つめる。
 高台から見下ろす光景。
 赤レンガと灰色の石でできた建物。箱庭にぎっしりと無数にはめ込まれた賽子のような家並み、そして剥き出しの肉と骨と鎧を思わせる城壁。
 それはすべてが石づくりの都だった。
 自分の生まれた街。宮殿のある都。誇りを奪われたバルバロが奴隷として働かされている街。人間の街。
 立ちこめる霧の向こうに山が見えた。真っ白に凍った川と、森と、視界を遮る白銀の峰。
 シェリーは声を呑み込んだ。
 ルロイの森はどこだろう。涙がにじみそうになる。わたしたちの森は。皆が暮らす村は。何もかもがあんなにも遠く──遙かに遠くなってしまった。
「ニーノさんはご無事でしょうか」
 他に何を尋ねて良いか分からず、眼をまたたかせ、かろうじて尋ねる。
 クレイドは鋭いまなざしを室内へと走らせた。
「命には別状ないとの報告を受けております」
 ほっとする間もなく、クレイドは続けた。
「が、危急の事態であることに代わりはありません」
 鏡に映るクレイドの仕草に釣られ、視線を後追いする。
 クレイドの視線は雄弁だった。物理的な逃げ道、あるいは落ち度という名の抜け道がないか、油断なく推し量っている。
「殿下が行方知れずとなっていた間に、我らの宮廷は堕落しました。民に不安を与えぬよう、あえて偽りの平穏を装い続けたがゆえに。己が利益のためだけに外患勢力を引き入れ。女王陛下のご威光に疑いを持ち、聞くに堪えぬ讒口、醜聞をうわさし、国情を乱さんとした。守旧派、王党派であるわれわれ白百合《ブラン》派と、急進勢力である黒百合《ノワレ》派。何ゆえ我ら廷臣が、これほどまでに醜く、愚かしく諍い合うことになったのか」
 クレイドは鏡に背を向け、まっすぐにシェリーを見つめた。瞳にほの暗い火が宿る。
「お分かりでしょうか」
 鏡には、威儀を正すクレイドの背中がより近く、大きく、逆に怯えきった自分の顔が遠くにぼやけて小さく映っていた。
 シェリーは口ごもった。語気の強さに押され、視線を床に泳がせる。
「醜聞とは……いったい誰が、誰の、どんな」
「あまり詳しくは詮索なさらぬ方がよろしいかと」
 クレイドのまなざしは変わらず冷ややかに青いままだった。
 背筋にぞわりと嫌な虫酸が走る。
 もしかしたら、調べられたのかもしれない。
 気を失っている間に──身体の、どこかを。
「しかし、たとえどのような秘密が孕まれようとも、殿下には、我が国を導き照らす、きよらかな白き光のままでいていただかなければなりません」
 何が言いたい。
 シェリーは聞き返そうとして、唇を噛みしめた。
 背後から迫る足音が聞こえてくるような気がした。クレイドの言う光は、光であって光に非ず。それは民を導く光ではなく、喉元に差しつけられた冷たいナイフの光だ。
「ご決断ください。御諚を、どうかお命じください。秘密が明らかにされる前に、すべてを消し去らねばなりません」
「秘密……」
「すでに御自覚もおありのはず。秘密が明らかになる前に、我らクレイド一族に詔勅をお与えください。秘密を守り、殿下を守り、国を守る楯となり剣となって獅子身中の虫、売国の徒どもを蹴散らせ、と」
「分かりません。どういうことですか。何の話をされているのです?」
 クレイドはわずかに目を見開いた。
「この期に及んで身に覚えがないと」
「だから、何のことか分かりませんと、さっきから何度も申し上げて……」
 深いため息が聞こえた。クレイドは眼を伏せた。
「……御身に秘密を宿されたのでは、と申し上げております」
「え……」
 シェリーは身体の奥が震えるのを感じた。クレイドと目を合わせることができない。無意識に掌をおなかに押し当てる。
「何……?」
 よく分からない。何が、いったい、どうだというのか。
 弱々しくかぶりを振る。
「……分かりません」
「お戯れを」
 クレイドは苦い表情を浮かべた。眉をひそめ、わずかに首を振る。
「この秘密がもし、悪意有る者に悟られでもしたらどうなることか」
 思わせぶりに声を潜める。
「流言を用いて謀反を起こし、外患を引き入れ、他国と内通する者が、もし現れたら。ゆえに、この秘密だけは決して誰にも知られてはならないのです。これ以上の混乱が生じれば、国家の分裂、存亡の危機をも招きかねません」
「存亡の危機?」
 村から持ち帰った新聞に書かれていた”戦争”の二文字がよみがえった。不安を噛み殺し、尋ねる。
「内乱が起きると……おっしゃりたいのですか」
「解決の方法はただひとつ」
 投げかけた問いに対して明確に否定をせぬまま、クレイドは話を続ける。
 シェリーは相手の青い眼を見つめた。澄んだ青空の色をしているはずなのに、まるで真冬の海のような、人を拒絶する色に思えた。
 もし内乱の危機を回避できるのであれば、何でもしよう。だが、囚われの身でいったい何ができるというのか。
「わたくしに、何ができましょう」
 握り締めた手が心許なく震える。
「この寒さ、お体に障りましょう。どうぞ、こちらへ」
 クレイドはシェリーの手をそっと取った。冷えた朝の空気が染みこむ窓辺から引き離して椅子へと誘う。
 シェリーが腰を下ろすのを確かめて、クレイドは口を開いた。
「先日の事件で、カイル・フーヴェルの姉エマを拉致した逆賊の一味を捉えました」
「え……」
 耳を疑う。炎を背負って走るルロイの面影が脳裏によぎった。まさかルロイが──
「何か」
 クレイドにけわしく睨み付けられる。
「いえ、あの」
 シェリーは言いよどんだ。たじろいで視線を泳がせる。
 クレイドは無表情に指先で首筋を叩いた。
「ここに奴隷の焼き印を捺されたバルバロです。おそらくは我々に恨みを持ち、それゆえに黒百合《ノワレ》派と結託したバルバロの一派でしょう。部下が重傷を負いましたが、かろうじて取り押さえました。その者を交渉材料として使います」
 ぎくりとする。やはりルロイだ。自分を追って村に来て、そのまま捕まってしまったに違いない。
 でも、今、何と言った? 血の気の失せた唇を噛む。まさかルロイが、村の誰かにひどい怪我を負わせた──?
「そ、そのバルバロのひとは、今、どこに……?」
 クレイドはシェリーの質問を無視した。
「バルバロは部族の結束が固いと聞いています。たとえ造反者といえど、一族の者が罪人として人間の手で断罪されることは望まないはず。よって、現在、かの者の助命歎願を受け入れることと引き替えに、バルバロ王アドルファーとの会談の場を設けるべく秘密裏に交渉中です」
 シェリーは一瞬、希望に胸はやらせて声を上げた。
「交渉できるのですね。ルロ──」
 それは今、口にしてはならない名だった。言葉を切り、言い直す。
「彼らと、バルバロの王と交渉ができるのですね?」
「はい。ただし」
「ただし?」
「交換条件を提示されました」
「条件……?」
 やはり一筋縄ではいかなかった。ふくらんだ希望がたちまち力なく萎んでゆく。だがまだ何もかもが潰えたわけではない。シェリーは気を取り直した。
「どのような条件ですか」
「我々が希望するのは”決して明かされてはならない秘密の破棄”」
 感情を押し殺した声が告げる。
「それに対し彼らは、秘密が秘密として存続し得ないこと、すなわち人とバルバロが対等かつ友好的な関係を結ぶよう要求してきました」
「それだけ?」
 シェリーはむしろ驚いて聞き返した。
 対等、という、あまりにも当たり前すぎる言葉にどれほどの鬱屈した感情が込められているのか気付かずに繰り返す。
 クレイドはわずかに眼をほそめた。
「それだけです、殿下」
 瞳の奥に隠された闇がゆらめく。
「破格の条件と思われます。たかだかバルバロ一匹。たとえ交渉が失敗したとしても、こちらが失うのは手札一枚のみ。何ら問題ありません」
「でも、その、もし、交渉の協議を行うならば、あの」
 シェリーは無意識に手を揉みしぼった。心の裡を読まれまいとしても、はやる気持ちを隠し通すことができない。クレイドの眼を食い入るように見つめ、尋ねる。
「その、たとえば、決裂などといったことにならないように、むしろ、その人質の方にも協力していただいて、双方の意図を通じ合わせるような、和平の使者のような役目を負って頂くというようなことをお願いすることはできませんか?」
 クレイドはなげやりな目線を窓の外へと向けた。
「よもや、命を助けて欲しくば仲間を裏切れと」
 冷徹に吐き捨てる。
 その瞳はまるで光を遮断する鉛の鏡のようだった。思いを受け止めることもない。音を響かせることもない。何も映さない。
「狼の群れに狐は必要ない。己の命惜しさに寝返る男など、人質としての価値すらないでしょう」
 冷酷だが、クレイドの言うとおりだ。
(決して相容れぬ敵同士だ)
 いつだったか、ルロイとうりふたつの顔をした謎のバルバロがそう吐き捨てたときのことを思い出す。
 バルバロと、人間。
 背筋がつめたくこわばる。
 皆が皆、ルロイのように快く人間を受け入れてくれるわけではない。バルバロは人間を恐れると同時に、ずっと憎んできた。少数民族であるが故に、数に勝る人間によって虐げられ奴隷同然に扱われてきた過去を、誰が忘れることなどできようか。
 今し方クレイドはこう言った。
 ”対等かつ友好的な関係”。
 手を携え、共に歩む未来。かつて夢に思い描いた世界だ。
 だが、それが実際にどのような形で示されるのかは、まだ分からない。
「しかし、この密約の存在が洩れれば、先ほど申し上げたように、我々の意図とは逆に、国内の反乱分子と結託されてしまう可能性も無いとは言えません。事を運ぶには、早急かつ内密に、事を進めてしまわねばなりません」
 真綿で首を絞められてでもいるような心地がした。言葉遣いは丁寧だが、中身はルロイの命を楯にした脅迫そのものだ。
 もし、この機会を逸してしまえば、人と、バルバロの未来はどうなるだろう。
 もし、ふたつの種族が敵味方に分かれ、相争うようなことになったら。
 もし、人間とバルバロが本当の敵同士になってしまったら。度を超した憎しみが暴発してしまったら。
 ルロイもまた、あんな恐ろしいまなざしをするようになるのだろうか。かつての記憶を──奴隷として人間に囚われの身であったころの憎しみをよみがえらせて、再び敵同士だと──
 シェリーは眼を伏せた。
 クレイドは決断を下せと言った。だが、おそらく本心は別の所にあるのだろう。対外的な交渉を成立させることと、今、何らかの決断を迫ることに、直接の関連はないはずだ。
 交渉の目的そのものには何の関わりもないであろうルロイの存在を、あえてこの場でほのめかすことにこそ真の意図が隠されている。
 いったい何をどうせよというのか。
 ルロイの命と引き替えに、いったい、何を。
 シェリーの表情を読み取ったのか、クレイドは態度を改めた。
「もし、殿下が真の平穏をお望みならば」
 遠い空の下から、運命を告知する鐘の音が聞こえた。広場で聞いた鐘と同じ音が。低く、高く。
「バルバロとの同盟締結のため、バルバロの王にして月と森の王《ロード・ネメド》アドルファーとの婚姻を取り結ぶよう、謹んで上奏いたします」
 シェリーは眼を閉じた。
 ゆっくりと息を吸い込む。
 一瞬の無言を拒絶と誤解したのか、クレイドはわずかに口早になって続けた。
「内乱と謀反を回避する唯一の方法を。御身の国のため、御身の民のため、御身の平和を希うものすべてのため、なにとぞ御決断くださいますよう。王族として果たすべき御身の責務を、尊き義務《ノブレス・オブリージュ》を」
 果たすべき責務。
 尊き義務。
「殿下が今まで過ごされた日々は、王女としての努めを捨て、国を捨て、義務を放棄してきたことに他なりません。上に立つ者が弱みを見せればすなわち敵に付け入られる隙を生み、争い事の種を生み、我が国の民を無用に虐げることになります。どうか、ご理解たまわりますよう。王女たる殿下の御身を差配するのは国家の意志そのものであって、いやしくも決して貴女という個人の勝手気儘になるものではないということを」
 取りつくろわれた忠義の言葉が頭上を通り過ぎてゆく。
 シェリーはぼんやりとうつむいた。
 どこかから声が聞こえたような気がした。
(領主に逆らうような真似ができるわけがないだろう。姉さんを助けるには、あの女の命令通りにするしかなかった。誰も助けてなどくれなかった)
 身を切るようなカイルの叫び。
 今なら分かる。素肌を刺す冬の風のような、あの悲痛な訴えの意味が。
 なのに、あのときの自分はどうして良いか分からず、ただ立ちすくむことしかできなかった。
 今、すべてを奪われ、直に己の肌へ冬の峻烈な風を吹き付けられてようやく分かる。
 カイルが感じたであろう痛み。よもや自分にも同じ痛みが降りかかるであろうとは思いもしなかった、あの痛みに。
 こうするより他に、手段はない。
 王女として、人々の平和と、自分の幸せを天秤にかけることはゆるされない。
 痛みが過ぎ去るのを待つだけでは、何一つ解決しない。
「……分かっています」
 自分に言い聞かせる声がふるえる。
 たとえカイルを逃がしたとしても、自分が罪を一身に背負うと心に決めても、問題は何も解決しない。降りかかる痛みからむやみに逃れるだけでは。
 ほんの数日前までは、幸せだった。
 ルロイと出逢ったころは、本当に何も知らなくて。
 自分が殺されそうになっていることさえ、まるで信じられなくて、どうすればいいのかすら分かっていなかった。ただ、ただ、流されて、逃げて、隠れるばかりで、立ち向かう術すら知らなかった。
 でも、ルロイと出会って、自分は変わったと思えた。
 いろいろなことを知ったし、いろいろなことを教えてもらった。泣いて、笑って、怒って、恋を──してもいい、と。
 そんな自由が、もしかしたら自分にもある、などと。
 思ってしまったことへの。これは罰なのだろうか。
 きっと、そうなのだろう。
 いつかはこんな時が来ると思ってはいた。でも、いや、違う……そうじゃない。本当は、幸せすぎて、自由すぎて、現実から逃げていただけだった。ずっと見て見ぬふりをし続けてきただけだった。
 たった一人の思いすら叶えられずして、国を守れるわけがない。
 この国も、この国の人々をも幸せにできすして、自分ひとりだけが幸せになどなってよいはずがない。
 帰らなければならない。
 人間は人間の世界に。
 狼は狼の世界に。
 それが王女としてのつとめだ。皆が待つあの世界へと戻ろう。何も知らずにいられた日々に別れを告げ、再びあの黒い林檎を、血の味の林檎を口にしよう。戯れの睦言に彩られた微笑みを浮かべ、心を殺し、欲望と権勢の宴に酔いしれる者たちの中へと身を投じよう。
 もう、知らなかったことにはできない。
 本当に好きだったから。
 ルロイの人なつっこい笑顔。優しさ。そのすべてが好きだったから。
 最初から、こうであるべきだった。
 ようやく腑に落ちた。目の前の鏡に自分自身の姿が映し出される。
 黒いローブをまとった漆黒の王女、シェリー
 どうして今まで気付かなかったのだろう。
 憐憫の笑みがこぼれる。己の無知蒙昧を今になって悟るとは。我が身の愚かさを棚に上げ、権力に翻弄されるカイルに同調しようとしていたとは。何というあさはかな娘だろうか。
 叶いもしない願い、自分自身の闇を暴く魔法の鏡を前にしてようやく何を成すべきか気付くなんて。
 自分は王女だ。人ではなく、ましてやひとりの少女などではない。生まれ落ちてから今の今まで、人の血、人の骨で形作られた国体の一部であった。もはや名前、感情すら我が心の御するところにあらず。この血肉は王女という名の武器でしかない。
 それが、王族に生まれたものとしての義務ノブレス・オブリージュだ。
 でも。

 やっぱり、いやだ──

 心にもない言葉を自らへと言い聞かせるたび、自分が壊れ、心がすさみ、姿を映す鏡ごと、周りの世界が壊れてゆくように思えた。
 いくらルロイのためとはいえ、人間とバルバロの架け橋として、国のため、みんなのために、顔も知らぬバルバロの王、愛してもいない相手に我が身を差し出すなんて嫌だ。帰りたい。ルロイのもとへ帰りたい。本当の自分に戻りたい。こんな、おそろしいところにはいたくない。義務なんて投げ捨ててしまいたい、ほかのひとのことなんてどうでもいい、自分の、ルロイの、ふたりだけのことでせいいっぱいなのに、こんなの絶対に──

「有り難きお申し出に存じます」
 シェリーは人形のように微笑んだ。ドレスの端をつまみ、かるく膝を折って、会釈する。
「謹んでお受けいたします」
 鏡に映った自分の微笑みが黒く凍り付いて見えた。