お月様にお願い! 番外編 恋の赤ずきんちゃん

狼の夜は終わらない



 残酷な告知を終えた後、クレイドは王女の牢獄を後にした。
 監視役を兼ねた侍女が廊下まで見送りについて来た。無言で頭を垂れる。見慣れぬ顔だった。
 塔の、長く暗い螺旋階段を、ゆっくりと下りる。降りきった先に目元を隠す黒いフードを被った女が待っていた。
「ユヴァンジェリン」
 女は壁に取り付けられていた箱の扉を閉めた。どうやら伝声管を通してすべての会話を聞いていたらしい。
 マール大公妃ユヴァンジェリンはフードを背中側へとすべらせて落とし、微笑んだ。
「よく言えたものね、あんな心にもない嘘を」
「君の書いた筋書き通りにしたはずだが」
 クレイドはまとわりつく情念の匂いを払いのけた。すげなく傍らを通り過ぎようとする。
「相変わらずひどい男。わたくし一人を悪者にする気?」
 ユヴァンジェリンは手を伸ばしてクレイドの行く手を遮った。
 壁にかかった鏡に、妖艶な女の笑みが映り込む。クレイドは立ち止まった。ユヴァンジェリンを見つめる。同じように鏡に映っていた王女の表情が思い浮かんだ。
「ニーノと言ったかしら、貴方のお気に入りの密偵坊や。ヨアンに撃たれて怪我したんですってね。それで怒ってるの?」
「ニーノだけじゃない」
「あら」
 言外の疎ましさを感じ取ったのか。ユヴァンジェリンは一本、二本、と指折り数えて見せながら、立てた指先に吐息を吹きかけた。赤い唇に物欲しげな笑みを浮かべる。ぞくりとする美しさだった。望めば何でも手に入ると確信した笑みだ。
「じゃあ、あっちの坊やのことかしら」
「カイルは」
 クレイドは言い返そうとした。ユヴァンジェリンは、不満そうに唇をとがらせた。
「罪人ごときの命、別にどうなろうが構わないのではなくて?」
 鏡越しにちらりと上目遣いの問いかけを投げて寄越す。
 クレイドは感情を噛み殺した。乾いた唇を湿らし、深呼吸する。
「ヨアンを殺すようカイルに命じたのは君か」
 クレイドは死んだ家令の名を口にした。
「さあ、どうかしら」
 ユヴァンジェリンは鉄の微笑を浮かべた。クレイドの眼の奥にある色を見たのか、ふいと表情を変え、鏡に向き直って、指先でどうでもよい髪のほつれなどを直している。
「誤解しないでちょうだい。わたくしだって彼のことは信頼していた。有能な執事を失って本当に残念だと思ってる。でも」
 用意された台本を読み上げるかのようだった。
「……でも、貴方も実のところほっとしてるんじゃないかしら? だって、あの家令が死んでくれたおかげで、わたくしたちの”秘密”を知るものは誰もいなくなったのだから」
 乱れた髪をなまめかしく指に絡める。赤い欲望の舌がちろりと唇を舐めた。案の定、挑発の目だ。
「もしかしたら、これで、やっと本当の”家族”に戻れるかもしれなくてよ」
 振り向いて壁にもたれ、黒い手袋を嵌めた指先をクレイドの顎に這わせる
 クレイドはユヴァンジェリンを見つめ返した。確かに書斎を嗅ぎ回るものがいなくなったのは事実だ。だが、狐が一匹とは限らない。
 感情を消した眼で欲望の光を跳ね返す。
「そうだな。きれい事を言うつもりはない。王女を救出した以上、もう後戻りはできない。クレイド家の正義は今やマール大公妃たる君の双肩に掛かっているのだから」
 その言葉を聞くや、ユヴァンジェリンの頬から微笑みが抜け落ちた。眉間にきつい皺が寄る。
「まるで他人事ね。いいご身分だこと」
 ユヴァンジェリンは目をそらし、再び鏡の中の自分自身を見やった。子どもじみた苛立ちの表情で、胸元に下がる黒い宝石へ視線を突き刺す。
「貴方は、まるで、自分だけ──」
 言いかけて、唇を噛む。再び口を開いたとき、そこにいたのは元の妖艶な美女だった。
「私が欲しいのはこんなちっぽけな石ころじゃない。そう決めたのよ。私は、すべてを手に入れる。誰のためでもない、私自身のために。あの日、あなたが、私ひとりを夜ごと違う男が這い入る宮廷のベッドに置き去りにした日から、ずっと」
「それ以上言うな」
 クレイドは目をそらした。手を伸ばし、ユヴァンジェリンの肩を抱き寄せる。
「後戻りできるものなら、すべてを償っている」
「そうよ。貴方は私の奴隷になるの」
 指同士が絡められる。唇が重なった。誘惑と欺瞞の吐息が混じり合う。
「君がそう望むなら」
「当然だわ。命令よ、トラア。もっと強く抱いて」
 唇が暗く光る。兄妹にしては不穏すぎるキスのあと、ユヴァンジェリンはクレイドの胸に顔を埋めた。



 白いオウムは夜空をゆっくりと旋回している。
「こっちにおいで」
 エマは腕を前に突き出し、手首を叩く合図をした。白いオウムはふわりと向きを変え、滑空してエマの腕に止まった。
 嘴で羽づくろいをし、ぴい、と鳴く。
「何か足についてる」
 グリーズリーが無造作に手を伸ばす。オウムは怒って突っついた。
「痛った、何すんだよ」
 グリーズリーはこれ以上囓られまいとあわてて手を引っ込めた。
「凶暴な鳥だなあ。こっちが食われるかと思った」
「食べる気だったんですか?」
「いや、美味そうだなあって」
「食べちゃだめです」
 エマはくすくす笑った。オウムの足に絡まった鎖をほどく。鎖の先には鍵がついていた。小指の先ほどしかない、小さな鍵だ。
「何の鍵かしら。お屋敷の鍵なんて、家令のヨアン様しか管理してないはずなのにどうして」
 ふと、怪訝な表情になる。
「ニーノはどこ?」
 オウムに尋ねる。
「おまえにこれを託したのはニーノでしょ?」
「ニーノ、シラナーイ」
 オウムはとぼけた声で鳴いて返した。
「うわ、喋った」
 グリーズリーはびっくりして声を上げた。オウムが羽ばたいた。
「カギ、シラナーイ」
 そのまま飛び去ってしまう。
「あっ、ちょっと待っ……食わないから!」
「グリーズさんが大きな声上げるからです」
 振り返ってエマが睨んだ。むすりと頬がふくらんでいる。グリーズリーは肩を落とした。
「ごめん。食いません」
「冗談ですわ」
 エマはけろりと笑った。あらためて掌に載った鍵を見つめる。
「でも、ニーノがどうしてこんなものを」
「もしかしたら牢屋の鍵なんじゃないかな」
 グリーズリーは勢い込んで言った。
「君のお母さんを助けようとして鍵を盗んでくれたのかも!」
 エマはかぶりを振った。
「いいえ。牢屋の鍵がこんな小さな華奢な鍵のはずありません。私も捕まっていましたから分かります。すごく太いかんぬきがかかってて、掌より大きな、頑丈な錠前がかかってて」
「それじゃあ、どこの」
「見当も付きません」
 エマはうなだれて眼を伏せた。グリーズリーはオウムが飛び去った夜空を見上げ、それからエマの掌に乗った鍵を見つめた。
「ニーノってあいつだろ。俺たちを足止めした人間。だったら領主の手先じゃないのか」
「そうですけど、でも」
「君をおびき出す罠ってこともありうる」
「……はい」
 罠という言葉が胸に刺さったのか、エマはうなだれた。グリーズリーはあわてて続けた。
「だからといって、たかが領主の手下が自分だけの考えでこんなことをするかな? いや、ないな」
 自信満々に言ったつもりが、エマの顔を見ているうちに、なぜか勝手に頭の中の考えと違う余計な台詞がするすると出てきた。どう考えても言いたかった内容とは違う。
「きっと何か理由があって、この鍵を誰かに託す必要があったんだ」
「誰?」
「誰って、そりゃあ」
 グリーズリーは口ごもった。
「そうだな、誰か、この鍵のことを知ってる人。たとえば」
 しゃべっているうちに頭の中のもやもやした考えがまとまり始める。
「あの鳥が馴れてる人、その鍵が何の鍵なのか分かる人……そうだ、人だ。それを渡すべき人を探していたとして」
 たたみ込むように続ける。
「たとえば、近づけば食われるかも知れないのに、わざわざバルバロがいる場所に鳥が近づくと思う? 思わないよな」
「あっ」
 エマが驚きの声を上げた。眼を瞬かせ、唖然とグリーズリーを見つめる。
「……それって、もしかして」
「そう」
 グリーズリーはうなずいた。
「君だ」
「私に? これを? ニーノが? 分からないわ」
 エマはうろたえて矢継ぎ早に言った。
「君が城に戻ってくる、という確信があったんだろうな」
「それはおかしいわ。だいたい、王女さまと間違って助けられただけの私が、どうしてすぐ自分からお屋敷に戻って来られるなんて思うの? そんなこと普通は考えもしないわ。こんな、どこの何の鍵かも分からないものを渡されたって、正確な答えになんか、絶対にたどり着けるはずが」
「いいや、君にしか分からない何かがきっとあるはずだ」
 グリーズリーは冷静に言った。
「それは、秘密の扉の鍵《メッセージ》なんだよ」