お月様にお願い! 番外編 恋の赤ずきんちゃん

狼の夜は終わらない

 結局、屋敷はもぬけの殻だった。放し飼いにされていた番犬の他には、誰の姿も見あたらない。どうやら住人全員が一夜にしてどこかへ引っ越してしまったらしかった。
 無人の城ならば何の遠慮もいらない。グリーズリーとエマは、使用人用の裏口に回って、鍵の掛かっていない出入り口から堂々と中へ入った。
 暗がりの中、エマは手探りで戸棚を開けた。ランプを取り出し、手慣れた様子で火打ち鎌を打って火を起こす。
 すぐに周辺が明るくなった。グリーズリーは鼻をくんくんうごめかし、あたりを見回した。
「人間の家に初めて入ったよ。まるで迷路みたいだな。ドアいっぱい部屋いっぱい廊下いっぱい」
「家なんて人間もバルバロもそんなに変わらないでしょう?」
「全然違うよ。まあ、ルロイのところは、シェリーちゃんがいたからだいぶん”女の子の部屋”っぽかったけど、俺んちなんて普通にただの山小屋だし」
「それは、ここがお屋敷だからですわ」
 エマは微笑んだ。
「私たちのような庶民の家でしたら、この厨房ひとつよりも狭いのが普通ですもの」
「そうなんだ。だったら安心した」
「このお城は、クレイドさまの領地にある邸宅《カントリーハウス》のうちのひとつですわ。以前は廷臣として宮廷におつとめでしたから、お屋敷に戻って来られるというよりは、たくさんある別荘のうちの一つといった扱いでした」
 エマの説明によると、貴族が気まぐれに別荘から別荘へと移動することは、別段珍しくもないことのようだった。
「それにしても贅沢な話だよな。王様とか王女様とか貴族様とかさ。人間にはいろんな金持ちがいるもんだ。バルバロにも王がいるらしいけど、どこのどいつかも知らないし顔を見たこともない」
 グリーズリーがぼやく。
「私だって似たようなものでしたわ。自分の家に王女さまがいらっしゃってたことさえ気付かなかったのですもの」
 エマは微笑んでうなずいた。明かりを手に、戸棚や樽をあちらこちら無造作に開けてゆく。
「でも、クレイド様は、華やかできらびやかな宮廷での暮らしが長くていらっしゃったのに、こんな、何にもない質素な村を本当に気に入ってくださって、長く滞在しておいでです」
「王宮から逃げ出したシェリーちゃんを捕まえるために来ただけじゃないの」
「それは……そうかもしれませんけれど」
 エマが口ごもる。グリーズリーもそれ以上は何も言わなかった。
「ありましたわ」
 エマは食料をいくつか戸棚から取り出し、嬉しそうに振り返った。ハムの塊、それから瓶詰めにしたアンズのシロップ漬けだ。
「ちょっと古いみたいですけど。おなかすいたでしょ? ご一緒にいかが?」
 エマはナイフで器用にハムを削いだ。薄い一切れを最初にぱくりと口にくわえ、残った分厚いかたまりをにっこり笑って差し出す。
「おひとつどうぞ」
「喜んでいただこう」
 気取った会話に、二人そろって示し合わせたように笑う。手早く食事をすませたあと、グリーズリーは狼の仕草そのままにぺろりと口の周りを舐めた。
「さてと、行くかな、お化け屋敷の探険に。その鍵が指し示す場所へ」
 エマは手にした秘密の鍵を握り締めた。ふと遠い目をする。
「そう言えば、これぐらいの鍵を使うような箱を……ううん、箱じゃないかも……最近どこかで見たような……ええと……」
「どこだった?」
 グリーズリーは勢い込んで尋ねた。エマは怯えた様子で首を振り、また考え込んだ。記憶の奥底に何かが引っかかっている。
「ちょっと待って。どこだったかしら」
「君と、君にその鍵を渡したニーノという男の二人ともが知っている、秘密の鍵を使うような場所があるはずなんだ」
 グリーズリーは念を押すように繰り返した。
「たとえば、秘密の扉。秘密の引き出し。秘密の箱。秘密の話」
「秘密の話」
 エマは呆然とグリーズリーを見返した。そう言えば階段でニーノと立ち話をしていたとき、ちょうどクレイドに呼ばれたのだった。そこならば 『秘密の話には持ってこい』だと言って。
 本のページを繰って戻るかのように、記憶がよみがえる。
 引き入れられたのは薄い闇に満たされた部屋だった。奥に”鍵”が壊された机が見え、おそろしいことに蓋が半ば壊されていて、誰かが乱雑に掴み出してばらまいたのか、床に”手紙”が散らかっていて──

 エマは声にならない声をもらした。見開いた目に動揺が走る。
「手紙ですわ」
「手紙?」
 虚を突かれたグリーズリーは目を丸くする。
「やっと思い出しました。こちらです、グリーズさん」
 エマは霧の向こうに見え隠れする記憶に急かされ、歩き出した。狭い廊下を抜け、赤い絨毯敷きの大階段のたもとで立ち止まって、階上を見上げる。
 頭上は暗闇に満ちていた。それでも月明かりがどこかから漏れて、青く滲んで、うっすらと行く手を指し示しているような、そんな気がした。
「案内しますわ。あの”部屋”へ」

 階段を昇りきった突き当たりにひっそりとした扉があった。エマは身を震わせた。
「この部屋はクレイドさまの秘密の書庫です。と言っても普段は鍵がかかっていて誰も入れないというだけのことなのですけれど」
 躊躇するそぶりを見せるエマを気づかい、グリーズリーは前に出てドアの取っ手へと手を掛けた。
「でも君は入れてもらったことがあるんだね」
 グリーズリーが尋ねるとエマは黙り込んだ。どうやら触れてはならない傷にさわる質問だったらしい。グリーズリーはエマの名誉のためにそれ以上余計なことを詮索するのはやめにした。
 あえて無造作に扉を開け放つ。
 明かりに照らされた書庫の内部はひどく荒らされていた。机の上だけではなく、床にまで乱雑に本が投げ捨てられている。
 振り返ってエマの表情をうかがう。
 エマは動揺していなかった。ということは、以前からこうだったに違いない。使用人ならば掃いて捨てるほどいただろうに、この部屋の主は、部屋をわざと散らかったままにし、誰にも手を付けさせなかったということだ。
 この部屋の主は、散乱した本にメッセージを託している。
 グリーズリーはエマから手燭を借りて、壁のランプに火を灯した。書庫全体がしんみりと明るくなった。
 本棚の裏の隠し部屋へと続く小さなくぐり戸が開いている。
 エマはふいに青ざめて立ちすくんだ。膝が震えている。グリーズリーは手で合図してエマを制した。せっかく協力してくれた彼女を、敢えて危険にさらす必要はない。
「君はここで待っててくれ」
 エマは気丈にかぶりを振った。
「いいえ、私もご一緒いたします」
 歩き出そうとしてエマはやはり立ち止まった。視線をあわただしく周りへと配る。
「おかしいわ」
 表情が曇った。エマはぎごちなく腰をかがめ、床に手を伸ばした。落ちていた本を拾い上げる。
「この本がどうしてまた、ここに」
 何度も裏返してはぼんやりと眺める。それは赤と白の革表紙に金押しのタイトル、そして表紙絵として可愛らしいレディと貴族の二人組が描かれた本だった。
「『探偵王女とルーン卿』の一巻じゃないか」
 グリーズリーは思わず苦笑いした。エマが目を丸くしてグリーズリーを見やる。
「ご存じですの?」
「ちょっとだけ。以前、シェリーちゃんが読んでたのを借りて読んたことがある」
 グリーズリーは鼻をこすり上げた。
「村の連中に読み書きを教える教科書に使わせてもらおうと思ってさ。今時バルバロも人間の言葉ぐらい読み書きできないと対等な交渉ができないからね。内容はさすがに女の子向けだけど、面白いよね、ほら、王女が裏切り者のスパイを追跡するシーンとか、実は彼こそが王女の本当の婚約者でしたとか。村の女連中に、はやく先を読め! って、そりゃあもう急かされまくったよ」
「そう言えば、この本をクレイドさまにお返ししたとき、誰かが書斎を荒らしていたようでした」
「これだけぐちゃぐちゃに散らかってたら、荒らすも何も全部同じに見えるけど」
「いいえ。荒らされていたのはクレイドさまの机にあった文箱です。クレイドさまは私に、誰が机を荒らしたのか、犯人に心当たりはないかとおたずねになりました。この鍵はきっとその机の」
 エマはページを開こうとして目をまたたかせた。
「あら、変ね。どうなってるのかしら。見て、グリーズさん。おかしくない、この本? ページが全部くっついてて開かない……」
「本を持ってこっちへ来るんだ、エマ」
 エマがはじかれたように顔を上げる。
「ニーノ!」
 くぐり戸の奥から現れたニーノは、目の下にやつれた暗い笑みを浮かべて拳銃を振った。
「そこのバルバロ。武器を置いて手を上げろ。降伏するなら命だけは助けてやる」
 撃鉄を起こす音が、暗く響いた。