忘れたい。
あんな新聞のことなんか、もう──
「仲直りするのに交換条件がいるだなんて、そんなのは嫌ですもの。仲直りだけ、させてください。わがまま言ってごめんなさい……お願いします」
「……うん」
ルロイの声が近づく。大丈夫。何も変わらない。たまたま包んでいた新聞に、脅かすような怖いことが書いてあっただけ。
あんなもの、ただの紙切れでしかない。人間の世界で何が起ころうとも、森に隠れ住んでいる限りは関係ない。
(もう、わたしは……人間の国の王女なんかじゃないんですもの)
ほうっと吐息をつく。
大丈夫。見なかったことにすればいい。
ルロイの腕の中にいれば、怖い事なんて一つもない。
ルロイなら、何があっても守ってくれる。一緒にいてくれる。力づけてくれる。どんな嵐が来ようと、二人でいれば怖くない。
だから、心配はいらない。二人っきりの世界を守り続けていれば、いつまでもずっと一緒にいられる。何も変わったりなんかしない……。
シェリーはルロイを見つめた。
建物の陰になった壁際に、夕暮れの北風が強く吹き付けてくる。井戸のつるべがかたかたと風に揺れた。
ルロイの髪が黒い嵐のように翻る。
「ルロイさんと……二人でずっといられたら……わたし……」
赤ずきんがばたばたと裏返ってはためいた。くしゃくしゃの髪がもつれて、もっとくしゃくしゃになる。
「他に何もいらないです。それだけで……もう……」
こみ上げてくる思いに不安が入り交じって、胸がいっぱいになる。思わず手を取り合い、寒さを忘れて、互いにいつまでもじっと見つめ合う。それだけで、胸がじんと熱くなった。
「こっちにおいで。ここは寒いよ。早くうちに入ろう」
やがてルロイはシェリーの背中に手を回し、引き寄せた。微笑んでささやきかけてくる。
シェリーはうなずいた。ルロイの包み込むような笑顔が、つめたい逆風をもさえぎってくれているように思えた。勇気を振り絞って笑顔を作る。うれしくて、せつなくて、また、ぽろっとこぼれそうになった涙を指の背でぬぐう。
「ルロイさん……大好きです」
シェリーは足元からひやりと上ってくる寒気を振り払った。うんと背伸びして、ルロイの首に腕をまわす。
「いつもみたいに、ぎゅって……してもいいですか……?」
ルロイは微笑んだ。身をかがめて頬を近づける。
「バルバロ流の仲直りが先だよ」
「え……? どんなふうに……?」
「こうだよ」
つめたい頬を寄せあい、ぬくもりを分かち合うようにして、身を寄せる。
ほっぺたとほっぺた。眼を閉じて頬ずりして寄り添い合えば、濡れた頬のことなど、全部忘れてしまえる気がした。
「よし、これでもう、喧嘩はおしまい。ああ、もう、二度と喧嘩なんかしねえからな。もしシェリーに出て行く、なんて言われたら、俺、心臓止まっちまうよ」
ルロイが涙の目尻にキスした。いたずらっぽくささやく。
「……えっと……あの……」
狼のくせに、まるで小鳥がついばむみたいなキスをしてくる。情熱的な吐息を耳朶に感じて、シェリーは頬を桃色に染めた。
「そんなに近づいたら、ルロイさんの髪にまで、草の種が……ついちゃいますよ……ぁ、あっ……」
狼の情熱が混じってくるのを、うっとりと受け止める。
「いいよ、種ぐらい。そんなことより晩飯の用意しよう。明日の晩までは出かけなくても困らないように、いっぱい取ってきたんだ。シェリーにも嫌っていうぐらいに食わせてやるから」
「……明日の晩まで? どうしてそんなにたくさん……」
そこでシェリーは、はっ、と我に返った。
忘れてたーーーーーっっっっっ!
明日は、恋人たちの祝祭日だ。
カレンダーにつけた、赤いハートの印。
一週間も前からチョコレートを注文し、ルロイが喜ぶプレゼントを考え、びっくりパーティの計画を練り、今夜までには準備万端、パーティの用意を調えられていたであろうはずの、日。
なのに、余計な面倒事ばかりがいっぱい降りかかってきて──
気が付いてみれば未だに料理もなければ、プレゼントも用意できておらず、おまけにパーティ会場の飾り付けもチョコレートのカケラすらも見あたらない。
(ああ、なんと言うことでしょう……未だに何の準備もできてないなんて!! とんでもない失態です……!)
シェリーは額に手を押し当てた。あまりの衝撃にふらふらと立ちくらみしそうになる。
(なのに、ルロイさんときたら”明日の晩までは出かけない”なんて言う始末です……!)
びっくりパーティの計画を実行するためには、ルロイが家にいたら元も子もないというのに、だ!
(あわわわ、どうしましょう。本当に、えらいこっちゃです……!)
頭の中で右往左往する。
こうなったら呑気に喧嘩なんかしている場合ではない。
恋する乙女にとって、バレンタインと世界情勢、どちらが重要か……比ぶるべくもない。
かつて、王女であったこと。人間であること。それがどうだというのだろう。如何なる立場へ追いやられようとも、持って生まれた運命から逃れることはできない。女はいつだって戦争の道具だ。そう……恋とは戦争に他ならない!
恋する乙女にとって、大事なのは……戦争?
それとも……?
(もちろん……考えるまでもありませんっ……!)
ぐぐぐと拳を握りしめる。
(バレンタインに決まってますーーー!)
乙女の決定を覆すことは何人たりとて許されない。とある軍事思想家は、著作内にていみじくもこう述べた──
(諸君! バレンタインは好きか!)
(うおおおお好きだあああーー!)
(わたしはチョコレートが好きだ!)
(うおおおおわたしも好きだあああ!)
もはや、段取りが悪いだの、運が悪いだのと子供じみたご託を並べる暇はない。喧嘩も戦争もお互いが譲歩して仲直りできれば一件落着。あの新聞も、それこそ見られたくないなら、めそめそしてないで、ルロイの目の届かないどこかへぽいっと捨てて証拠隠滅してしまえばいいのだ。だがバレンタインはそうはゆかない。
待っているだけではチョコを渡せない。
とにかく行動を起こすのだ。腹をくくるしかない。
ルロイと連れだって家に戻る道すがら、シェリーは薄暗くなりかけた夕空を見上げた。凍えてしまいそうな冷たい風が吹き抜ける。シェリーは思わずぶるっとして、襟元をしっかりかき合わせた。
「大丈夫? 寒くない……?」
「……ええ、大丈夫ですわ」
いたわってくれるルロイに、微笑んでうなずき返す。
森がざわめいた。不穏に揺れ動いている。木守りの枯れ葉が一枚、ちぎれて飛んでゆく。
その冷たさが逆に、背中を押してくれている、ような気がした。
決意を込め、微笑んで、うなずく。
(ええ、分かっています。この北風さんが、わたしのすすむべき道を教えてくれました……!)
「暖炉に火をくべよう。シェリーの手、氷みたいに冷たくなってるよ。早く入って。一緒に暖まろう?」
ルロイが戸を開けてくれた。
そう、頑なに奪う北風ではなく、あふれんばかりのぬくもりを。
(……やあ、おはよう、ショコラスナイパー君。ルロイ君のハートを射止めるらぶらぶバレンタインのはずが、何やら大変なことになっているようだね。そこで今回の君の使命だが……びっくりバレンタインパーティを開くため、ルロイ君の行動を逐一掌握してもらいたい。
例によって方法とメンバーの人選は全て君に任せる。ただ、もちろん君、もしくはメンバーの誰かが捕らえられ、或いは殺されても、当局は一切関知しないからそのつもりで。なお、この妄想は自動的に消滅する……)
──名付けて、【恋の”逆赤ずきんちゃん”計画】!