クロイツェル

1 叙任

 ごつごつと削り出された奇岩の洞窟に淅瀝が鳴る。跳ね返る雫。冷ややかな点滴の音。狂気めいた余韻が岩に染み入る。
 闇の琴線を揺らがせたあとは、しん、として。先細り、消えてゆく。
 帝都エルフェヴァインの地下に広がる監獄、通称『象の檻』ドグラ。最深部へと至る通路は狭く、人がようやく通り抜けられるほどの幅と高さしかない。ざらつくのみの掘り跡をまざまざと残した岩肌は濡れそぼち、ひやりと冷たい。
 どこへ向かうのか。足音が響く。
 ひとつ。
 ふたつ。
 それ自体が理性の迷宮であるかのような鍵束から正しい鍵を選り出して、鎖で縛められた潜り戸をぬけ、奥へ、下へと潜ってゆく。
 灯りは、手にしたランプ一つ。
 蟻の巣の底に位置する地下牢へと至る。上階から流れ込む汚水に毒され、悪臭を放つこの闇には、この世で最も汚らわしい罪を犯した咎人が捕らわれている。
 最後の潜り戸は、身をかがめてすら通りかねる狭さだった。外からの出入りを完全に断つべく、牢屋の鉄格子の外から鉄板を打ち付け、それを巨大な乳鋲で何重にも重ね合わせて止めつけている。
 差し込まれた鍵が回る。
 錠前がはずされる。潜り戸が押し開けられる。ぎい、と、錆びた音が軋む。足音が、さらに響く。
 こんな地の底に、何の用件があるというのか。
 潜り戸を抜けた先の空間には火がともされていた。岩壁へ直接叩き込んだ折り釘に蝋燭が突き立てられている。
 じりじりと、苦い音を立てて蝋燭が燃えている。
 神の福音を刻んだ蝋が溶けて、幾筋もの白い固まりとなって垂れ落ちている。生きながら墓に閉じこめられ、壁を掻き毟った魔女の爪痕のようだった。
 白い煙がまっすぐに立ちのぼる。炎はすなわち人間の気配だ。これほどの深奥ともなると、風が立ち入ることもない。あるのはただ永遠に澱む闇。秘め隠された罪。せめぎ寄る苦痛。
 光の届かぬ闇の、その奥から。
 ずるり、ずるり、と。
 濡れたぞうきんを引きずるような音が聞こえてくる。次いで鎖を引き延ばす音。呻きとも、歯軋りともつかぬ、断末魔の喘ぎ声。
 何かが、いる――
「ヴェルファー、君の国では、二つの名を持つことが許されていたそうだな」
 静寂《しじま》を破る声が響いた。
 濡れた壁は、聖なる灯火によって照らされ、ぬらぬらと赤くまだらに光っている。無論、赤い色は炎の照り返す故ではない。
 影が躍った。ろうそくの明かりを遮る。
 張りのある男の声だった。
 くるぶしまでたっぷりと丈のある、銀刺繍をほどこした豪奢な聖衣を、袖も通さず、ぞんざいに肩へうちかけている。
 銀灰色の髪。決して若くはない。だが、寸毫も老いさらばえてはいなかった。眉間に刻まれた深い険しい皺と、相反する柔和な微笑は、男が身を置く世界の峻烈さを物語って余りある。
 声を掛けられた方、背後に控えていた青年は答えない。全身を漆黒の軍装で包んでいる。髪も、眼も、身に帯びた雰囲気すら暗い。無関心な瞼を重たげに持ち上げるのみにとどめ、微塵も表情を変えない。
 青年の無表情に失望したのか。聖衣の男はつまらなそうに肩をすくめた。殊更に反応を促したつもりか、あえて牢獄の奥深く囚われる”もの”へと、これ見よがしな視線をくれる。
「なぜ、名乗らない」
 他愛ない声の調子で問いかけてくる。どうやら、聖衣の男は獄内に充満している悪意を露ほどにも感じていないらしかった。
 青年は低く答えた。
「既に滅びた国の習わしであります」
「ロレイアは滅びておらぬ。国を治める宗主が変わっただけのことだ。違うかな、王子」
「今の私は、帝国に忠誠を誓う一兵卒にすぎません」
 祖国の名を言い当てられた青年の表情は硬くこわばっていた。闇の奥を見つめる眼は暗く、険しく、ときおり瞬く稲妻を映して鬱金にくるめいている。
「ロレイアの王子だと」
 破れ紙をばたつかせるようなしわがれた声が響いた。
 青年は顔を上げる。
 見つめる視線の先に、異様な物体が吊り下げられている。
 それは、首だった。
 肉体から魔術によって切り離され取り出された血管の網が、蜘蛛の巣を張り巡らせたようなかたちに広げられて天井から吊り下げられている。
 胴体と頭を切り離され、脳へとつながる神経索だけをおぞましくも長々と糸を引かせて晒され。
 ぶっちがいにして地面の穴へ突き立てられた槍の穂先に、己の髪の毛でくくりつけられ。
 頬の皮を殺がれ、歯とあごの骨が剥き出しになって、なお。
 首は、生きていた。
 否――生きながらえさせられている、と言うべきか。正常な神経ではとうてい直視できない姿だった。
 まぶたも、鼻も。編み上げ靴のような革紐で縫いかがられ、二度と開かぬよう閉じられている。血まみれの舌は根本から厚みを削がれ、三つに裂かれて、べろりと垂れ下がっている。中にあるはずの歯も、ほとんどが拷問で抜き取られるか折り砕かれるかしてなくなっていた。
 罪人の口から洞穴のような赤い闇が覗いていた。絶望の嘲笑がもれた。かすれた血の吐息が、すきま風のように出入りしている。
 額には、骨が見えるほど焼けただれた十字傷がつけられている。まるで、そこにあった何か――しるしのようなもの――の痕跡を消したようにも見えた。
「この男は」
「”教団”の手の者だ」
 いったい、どれほどの大罪を犯せば、これほどむごい責めを、罰を、辱めを受けることになるのか。
「”教団”」
 青年は黒の革手袋を嵌めた手を、強く握りしめた。
 魂を抜かれたような声で繰り返す。
「まさか」
 罪人を見つめる青年の瞳の奥に、ろうそくの炎が映り込んだ。激しく揺らいでいる。聖衣の男は、したり顔の笑みを浮かべた。
「思ったより協力的な男でね」
 素知らぬ笑みを青年へとくれる。
「十年前、教団が”ロレイア”で犯した罪の一端を懺悔してくれた」
 懺悔――?
 それが嘲笑に等しい建前でしかないことは、首から下を失った罪人の今のありさまを見れば分かる。目の前にあるのは、懺悔という名の自白を強引に絞り出すため、人間が思いつくありとあらゆる残虐な拷問にかけられたあとの残り滓、命の残骸にすぎない。
「最後のロレイア王、リドウェルが”生きているかもしれない”そうだよ」
 聖衣の男は巧妙な笑みを誘い水にして続ける。
 リドウェル……!
 青年の脳裏に、かつての記憶が蘇った。瀑音を立てて落下してくる滝に後頭部を打たれたかのようだった。封印された過去が恐ろしい勢いで巻き戻されてゆく。
 十年前。
 祖国ロレイアは滅びた。
 ”兄の死”によって。
 胸の奥を、針で突かれたような痛みが走った。動揺が全身を締め付ける。鼓動が早まった。心臓だけが、自分の身体ではないかのように激しく脈打っていた。
「……そこで何が起こったのか、知りたくはないか」
 自らの忠誠を試す挑発の響きに、青年は聖衣の男へと眼をやった。
 そうして初めて、罪人の首が晒されている方向へむかって、我知らず身を乗り出していたと気づく。
「いえ」
 心ならずも感情が漏出したらしい。青年は、再び闇の壁で心を閉ざした。
 眼を閉じる。息を整える。感情を押し殺す。
 過去はあまりに遠すぎた。当時の彼は幼かった。自分が何者であるかを知らず、兄が何者であったかも知らなかった。自分を捨てた兄を恨みこそすれ、その兄が何を思って別れを告げたのかを顧みようとしなかった。突然の決別が単なる事実とその本質とをねじれたものにした。怖かった。
 青年はおもむろに姿勢を正した。
 漆黒に金刺繍の入った軍衣の長い裾が揺れる。襟には黒い徽章が光っていた。帝国軍特務機関、通称”狐”。その所属を示す襟章だ。
「兄は、私に――祖国から自由になれと言いました」
 罪人を直視する。無惨に切り取られた首を見ることは、過去を、自分自身を直視するに等しかった。目に見える残酷さより、目に見えない狂気のほうがよほどたちが悪い。加えられた拷問から目をそらす必要はなかった。青年の口から無機質な声が押し出された。
「なのに、なぜ、今”それ”を、私に伝えるのです」
「免罪符だよ」
 聖衣の男は冷ややかな笑みを浮かべた。投げ上げた言葉のナイフを、指先で器用にもてあそんでいる。
「任務を遂行するにあたり、”君”が最も適任であると判断し異端審問部へ推薦した私自身へのね」
 ゆったりと打ちかけた豪奢な長衣の裾をさばいて姿勢を変え、けざやかな仕草で両手を広げる。
 それは、彼の元にかつて詰めかけていたであろう信者たち――敬虔で朴訥ではあるが、抗うことを知らない羊の群れのような者たちへ語りかけるときに使う、深い同情と哀れみの共有を表す仕草だった。
「これは、そうだな……ささやかな心付けだと思ってくれ。君の中に未だ残されているであろう”人の心”、”良心の呵責”を少しでも取り除き、代わりに、祖国ロレイアを滅ぼした”教団”への煮えたぎる怒りと憎悪でみなぎらせてやるために」
 狡猾な微笑だった。言葉のナイフがダーツとなって意識の底に突き刺さる。嫌な汗が滲んだ。周到に探られている。するどい言葉の切っ先を、心のどこに命中させれば、確実に獲物を仕留められるか――
「お心遣い感謝します、猊下」
 一礼して受け流す。怒りや憎悪。そんなものがまだ自分の中に残っていると仮定して、ではその感情が一体何の役に立つのだろうと自問自答してみる。答えは案外速やかに弾き出された。首だけしかない罪人を前に錯乱するのと、平常心を保ち続けること。どちらがより有用かを考えればいい。感情などという不確かな落とし穴には近づかぬ方が良い。
 聖衣の男は何気なく手を振った。取って付けたように付け加える。
「”今は無きロレイア王家”への、せめてもの手向けだ」
 己の言葉すら信じていないことは明白だった。屈託のない笑みがそれを物語っている。
 秘された幾ばくかの言葉と真の名、そして誓言が交わされる。
 話はついた。聖衣の男は、腰に差していた飾り刀を掴んで美しい青年に手渡す。
「リヒト・クロイツェル・ヴェルファー」
 青年の名を呼ぶ声が、重苦しく、いんいんと響く。
 青年は、短剣の鞘を抜いた。
 現れ出た刃が、炎を溶かしこんで一直線に輝く。青年の硬い表情と、聖衣の男の他人事めいた表情とが映り込んだ。並んだ二つの顔は奇妙にゆがみ、そしてまたなぜか重なっているようにも見えた。
 白い刃。
 聖なる刃紋。
「ロレイアの悪魔。双頭の魔女。分かたれし青銅の血を受け継ぐ者に闇の栄光あれ」
 首だけとなった罪人が邪悪な唱和を割り込ませる。見えぬ目に刃の輝きを感じたのか。しゃがれた血を吐きしぶかせて、笑う。だが、その偽悪めいた笑みすら、人が自らの痛みを鎧う仮面の一つでしかない、ということを青年は知っていた。
 拷問の血しぶきが飛び散った剥き出しの天井に、反射した光が描き出す紋章がしらじらと浮かび上がった。
 浄化の光がまばゆく波打つ。広がる。
「おお……」
 首だけの罪人は、もはや存在しない身体をのたうたせようとして、顔の筋肉をひきつらせた。唾を飛ばし、唸り声を上げる。
 ぶら下げられた首が、ふりこのように左右に振れ始めた。闇雲な突進を繰り返す獣のようだった。
 交差する二本の槍が、首の動きにつられてがたがたと揺れ動く。頭上の血管網が、濡れた服をこすれ合わせたような疎ましい音を立てた。
 ぼたぼたと血が降る。
 断末魔の笑いがこぼれる。
「六なる星が青銅の蛇と交わる……復活の時は”近い”!」
 けたたましい笑いが噴き出した。
 罪人の首が狂気を口走る。
 揺れ動く首に引きずられた血管の網が、槍の穂先に触れて破れた。おびただしい血の雨が降りしきる。
 異様な雨音が牢獄を包んだ。魔道薬を混ぜ込まれた濃密な匂いが、耐え難い悪臭となって立ちこめる。鼻を突く。
 嫌悪にゆがんだ青年の横顔が、紋章の斜光に照らし出された。
 瞳の色が変わっていた。暗い金色に燃え上がっている。ふつふつとみなぎる思いが噴き出したかのようだった。
 聖と邪。憎悪と憐憫。善と悪。交互に絡み溶けてせめぎ合う感情の陰影。
 対流する空気の渦にも似た影が、まがまがしい混沌の紋様を浮かび上がらせてゆく。
 金色に燃えさかる青年の眼は、ひたと罪人の首を見つめて離れない。
 光の圧力に翻弄された軍衣がひるがえった。黒髪が荒々しく巻き上げられ、たなびく。
「ヴェルファー」
 聖衣の男は、青年が手にした短剣の切っ先に己の手のひらを押し当てた。
「荒野をゆく貴公の先々に神の導きがあらんことを」
 切っ先が手のひらに突き刺さる。
「探せ。貴公に”狼”の免罪符を与える。如何なる罪を犯そうと、今後一切、貴公が法の下の罪に問われることはない」
 赤い血の色が、ぷつり、と丸く珠を結んだ。したたり落ちる。
 血の粒を拾った指先が、青年将校リヒト・クロイツェル・ヴェルファーの額に、赤い紋章印を描いた。
 花模様に似た、血の紋章。

 神の祝福の下、貴公を殺戮官に任命する――

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