クロイツェル2 石造りの奇蹟と薔薇のソロール

5 ハイラムカーニバル

 リヒトは制止を兼ねてロゼルの腕に自分の手を重ねた。
「落ち着け。絶対に飛び出すなよ」
「ああ」
 声を低く押し殺す。リヒトはロゼルの腕を強く掴んだ。緊張でわずかに震えているのが感じ取れた。
「何かあったら私がソロールを援護する。お前がセラヴィルにいると奴に知られたら、ソロールの身にまで危険が及ぶ。分かってるな」
「言われなくても分かってる」
「冷静に行動するほかはないぞ。奴の出方をうかがうんだ。行動を起こすのはそれからでも遅くはない」
「弾を込め直せ」
 ギウロスは、ライフルに弾を込め直させるため、尊大な仕草で背後の衛士に手渡している。
 リヒトは息をつめ、傍らのロゼルを顧みた。無言でギウロスを睨み付けている。かろうじて平静を保った眼の奥に、青い激情の炎が猛り立っていた。
 触れてはならぬものにギウロスは触れようとしている。赤く熱せられた鉄に手をかざすかのような焦燥がじりじりと伝わった。
 できるなら、今すぐ飛び出してアンジェリカを自らの手で守りたい。歯がみする思いで様子をうかがう。だが、自分たちが出て行けば、逆に罪人を匿った咎でアンジェリカ自身が罪に問われることになる。
 何とか手助けする方法はないのか? このまま手をこまねいて見ているしか方法はないのか……?
 歯を食いしばる。
 ロゼルは食い入るようにアンジェリカを見つめていた。今は、何とかアンジェリカが自力で切り抜けてくれるのを期待するしかない。
 ギウロスは群衆を見回した。高慢な笑みが、唇を醜くゆがめている。自分が与えている影響力に酔いしれた顔だった。
 おもむろに口を開く。
「いくら貴女でも、私の部下にまで命令を下す権利はない。少しはお立場というものをわきまえていただきたいですね」
「あら、ちょうどいいところにいらしてくださったわ、ギウロス助祭」
 アンジェリカは平然と言い返した。するどい眼で衛士を睨む。
「こんな小さな子を相手に理不尽な暴力を振るおうとする無頼の者に注意をしていたところですの。助祭からも戒告してくださらない?」
「その割にはずいぶんと勇敢な大立ち回りを演じていらっしゃったようですが」
 ギウロスは冷ややかに笑って、細い眼を上げた。群衆に残忍な視線を突き立てる。
「隠しても、もう調べはついていますよ、ソロール」
 蛇のような視線が群衆をねめつける。
「貴女が、帝国の光と影を支配する一族、権謀術数と陰謀にまみれた帝国軍閥の中心たるやんごとなきアルトーニ枢機卿の直系の娘でいらっしゃること。誠実な修道女、皆に愛される薔薇のソロールとして暮らしていながら、その正体が、主教殺しの大罪人、逃亡者ロゼル・デ・アルトーニの実の姉であることも!」
「何だって……」
 群衆に波のようなどよめきが走る。
「あら、そう、ふーん、へー? それがどうかしまして?」
 アンジェリカはにべもなく笑った。ふん、と鼻先であしらう。
「残念ながら、わたくしにはもう、”弟”なんて家族は一人もいなくってよ! わたくしも、母も、その”やんごとなき枢機卿”さまから用済みのゴミみたいに捨てられた身よ?」
 怪物の上で肩をそびやかせ、平然と言い切る。
「権力の傘で守ってくれる父も、世話のかかる甘えん坊の弟も、もう、この世には存在しない。わたくしの素性が明かされたからといって、今さら失うものなど何もないわ。罪に問いたいなら勝手に問えばいい」
 アンジェリカは、にっこりと太陽のように笑った。
「このわたくしを倒せたらの話ですけれども、ね!」
「ええーーっ! そりゃないぜ、ソロール!」
 怪物の中から驚愕の悲鳴が洩れ聞こえる。アンジェリカは足で怪物内部の何かを蹴り飛ばした。
「ぐぎゃっ!?」
「ごぎょっ!?」
 阿鼻叫喚の悲鳴が潰れる。
「黙って従いなさい! 突撃! 前すすめ! 行くわよ、アンジェリカパーーーンチ!」
「駄目だって、ソロール、やべえって、相手は銃を持ってんだぞ……!」
「大丈夫、神のご加護がありますたぶん!」
「たぶんじゃやべぇってばよ、あああちくしょう!」
 相手がライフルを持っていようがいまいがおかまいなしに突き進む。怪物はぐるぐる回転する腕を振り上げた。
 ギウロスは冷酷に笑った。
「よこせ」
 手を伸ばし、弾を込め終えたライフルをひったくる。
 銃をかまえ、引き金に指をかけた。
「ソロール、危ない!」
 固唾を呑んで見ていた群衆が叫ぶ。銃声が鳴り響いた。怪物の足が吹き飛ぶ。
「きゃあっ!」
 放り出されたアンジェリカの悲鳴が宙に弧を描く。怪物は空中でばらばらに分解しながらひっくり返った。
 ぼろぎれのようになったマントが空を舞った。ローロと、下半身役の大男とが這々の体で張りぼての下から這い出してくる。
「捕らえろ」
 ギウロスが冷ややかに命じた。衛士が駆け寄ってくる。
「しまった、ばれちまった!」
 ローロが逃げ出そうとする。
「まだ逃げちゃだめ!」
 アンジェリカはローロの襟首を引っ掴んだ。
「ぐえ!」
 引っ張られたローロはのけぞってひっくり返った。逃げだそうとしてじたばた暴れる。
「やべえ、やべえってばよ、ソロール! 捕まっちまったら元も子もねえだろうがよ!」
 しりもちをついたままじりじりと後ずさる。耳元でアンジェリカが怒鳴った。
「勇気を出しなさい! 捕まっちゃった子、あなたのお仲間なんでしょ!」
「おとなしく縛に付け」
 衛士たちは、ざっと砂利の音をさせて、アンジェリカとローロを取り囲んだ。冷たく光る槍の穂先をいくつも向ける。
「仲間なんか……」
 ローロは食いしばった歯の奥から声を絞り出した。
「それを言うなら、ソロールは俺たちなんかの仲間じゃないでしょう。俺たちなんか放っておいて、とっとと逃げときゃ良かったんですよ。そうすりゃあんたまでこんな目に遭うことはなかった。このままじゃソロールまで捕まっちまいます……!」
「ばかね。何言ってるの。たとえ見ず知らずの他人でも、見捨てて逃げるほうがずっと心が痛むに決まって……」
 アンジェリカは気丈に首を振った。
「って、あれ? あなた……?」
 ふいに目を丸くする。
「貴様がこのらんちき騒ぎの張本人だな」
 ギウロスが歩み出てきた。ライフルの先でローロを指し示す。
「捕らえろ!」
 衛士が包囲の輪を狭めた。アンジェリカは顔を青ざめさせながらも、きっと目線をあげた。衛士の向こう側に隠れたギウロスに向かって言い返す。
「こんなことしてはだめよ! 町の人にまで暴力を振るわせるなんて。それが聖職者のすること?」
「ならばお尋ねしましょう。貴女の弟は、衆人環視のなか、私の伯父を含めた三名を惨殺したうえ、警備の衛士に重傷を負わせて逃亡した大罪人です」
 ギウロスは冷たくほくそ笑む。
「……それが聖職者のすることですか?」
「ロゼルがそんな馬鹿げたことをするわけがないわ」
「逃亡者をかくまう者は同罪ですよ、ソロール・アンジェリカ」
「かくまってなどいません!」
「いいえ」
 裂けるような笑みが広がる。
「分かっていますよ、もう。どこに隠れているのか。どの辺りにいるのでしょうね……? この中のどこに」
 ギウロスは群衆を見つめた。視線をゆっくりと左右へ滑らせる。笑みが深くなった。
「先ほどの発言は神に逆らい、聖教会の秩序を乱すものと見なされます。撤回をお願いします。さもなくば御身をも拘束することになりかねませんよ」
「なんと言われたって構わないわ」
 アンジェリカはギウロスを見つめた。
 鋼の瞳が激しくくるめく。
「わたくしはロゼルの無実を信じています。たとえあなたが何と言おうともです」
「セラヴィルの修道院は、異端行為を支持するのですか?」
 ギウロスが事も無げに言う。
 アンジェリカは愕然と青ざめた。気丈な微笑みがぐらりと揺らぐ。恐怖にすくむ視線が虚空をさまよった。
「あの子は、決して、異端などでは……」
「ロゼル・デ・アルトーニは異端の罪で追われています。神に仕える身でありながら神に誓わず、正当な裁きを受けず、悪魔にいざなわれるがまま逐電することを選んだのです。逃亡者は異端の罪で告発されます。匿った者も同罪です。貴女は──いいえ、貴女もまた異端に与するおつもりなのですか?」
 断頭台の刃のような残忍な眼が、まっすぐにアンジェリカを見下ろしていた。ギウロスは喉の奥からこみ上げる戯笑をこらえるかのようにささやいた。
「お答えください、ソロール・アンジェリカ。さあ」
 ギウロスは微笑んだ。腰に手を当て、慇懃無礼な仕草で身を乗り出す。酷薄な光が眼の奥をかすめた。
「修道院の名において異端に与するや否や? ロゼル・デ・アルトーニの行為を支持するや否や? 共に断頭台へ上る覚悟がありや無きや? さあ、ソロール。返答は如何に?」
 アンジェリカの顔は苦灰石のように青ざめていた。