クロイツェル2 石造りの奇蹟と薔薇のソロール

5 ハイラムカーニバル

 残響が甲高く耳を突き刺す。
「きゃーーーーたべられちゃううううう!」
 アンジェリカの身体が、高々と宙に持ち上げられた。大猿が子猿を空へ放り投げるかのように、アンジェリカの身体が何度も宙に舞う。そのたびに、細い手足がじたばたと空を泳いだ。素っ頓狂な悲鳴が青空に響き渡る。
「きゃぁぁあ飛んでる、飛んでる、わたくしお空を飛んでますわーー! ……ん?」
 落ちてくるところを受け止めようと身構えた怪物の口が、ぱくりと開いた。炎の照り返しが、恐怖にすくんだアンジェリカの表情をあかあかと染め上げる。
「う……まさか……?」
 次の瞬間。火山のように猛然と炎が吹き上がった。炎と煙にまかれたアンジェリカの姿が、一瞬のうちに包み隠される。
「きゃぁぁぁあああ! げほっ、げほっ、あいたっ!」
 くぐもった悲鳴が怪物の身体の中から聞こえた。
 怪物の身体の中で何かが暴れている。鈍い音が響いた。
「痛ぇっ! そろ、ソロール、静かにしてください、せっかくのイリュージョンマジックが台無し……ぐぶぇ痛いっ!」
 突っ張った手の形、足の形が、ぼこぼこと腹から突き出す。
「あら? そうなの?」
「……」
 怪物は不気味に静まりかえった。ひそひそと声がもれ聞こえる。
「ねえねえ、この次どうなるの!? ねえ? わたくし食べられちゃったんでしょ? ねえ、どうなるの?」
「……お手柔らかにお願いします、ソロール……」
 怪物はごっくん、と喉仏を上下させた。気を取り直し、腹ごなしにごうごうと吠える。火を噴き、煙を吐き、どすどすと足音も荒く歩き回る。
 シンバルが高く打ち鳴らされる。
 太鼓の音が、物見高い人々の注視をあおって高鳴る。
 ロゼルが息を呑む音が聞こえた。無意識にリヒトの手をまさぐり、握ってくる。どきっ、とした。心臓が飛び上がりそうになる。
 悪魔がひそみ笑うかのようなバイオリンのトリルが弾き鳴らされる。
 シンバルが鳴る。そのたびに手に汗を握るロゼルの力がぐっと強まる。息が止まりそうだった。
 緊張が最高潮に達した、次の瞬間。
 踊り子が左右の剣を交差させ、振るった。剣戟の音が響き渡る。
 怪物の首がいきなりすとん、と腹の真ん中あたりにまで落下した。
「首が落ちた!?」
 悲鳴が飛び交う。
 怪物は転げ落ちた自分の頭を腹の前でしっかりと受け止めた。
 頭を抱えたまま、よろめくように見物客めがけて突進する。観客は大笑いしながら右往左往して逃げまどった。
 曲調が陽気な上がり調子に変わった。踊り子は剣を鞘におさめ、優雅にお辞儀する。
 ロゼルは大声で笑っている。リヒトは頬を赤くしたまま、うつむいた。手を握られたまま、じっとして、後ろから詰めかける観客に押される振りをしてロゼルに寄り添う。
 周りの馬鹿騒ぎも耳に入らなかった。肩を揺らして笑うロゼルの、その声だけが鼓動のように身体に直接ひびいて、伝わってくる。
 道化師が、きらびやかな大玉に乗って現れた。ハモニカと吹き戻しとアコーディオンを同時に弾き語りながら、観客に手拍子を要求して広場中を走り回っている。
 口笛と歓声とが一段と高くなった。
 コインが雨あられと降る。先ほどまで花吹雪を売っていたスリの少女が、かごにおひねりを入れてもらおうと汗だくで走り回っているのが見えた。
「すごいな、なかなか面白い余興だった。すっかり見入ってしまったぞ」
 ロゼルはご機嫌に笑いながら手をほどいた。笑顔でリヒトを見やる。リヒトはあわてて寄り添わせていた身を放した。
「そ、そうだな」
 最後の方はロゼルに強く手を握られている感触にばかり気が行ってしまって、何を見たのかさえほとんど頭に入っていない。
「おかげで、何か重要なことを忘れているような……気が……」
 のしのしと引き揚げてゆく怪物の後ろ姿が見えた。さんざん人々を驚かしたあと、小脇に頭をかかえたまま、満足げに肩をそびやかせている。
 ──アンジェリカを腹に飲み込んだまま。
「あああ、しまった、姉上のこと忘れてた!」
 ロゼルは邪魔な見物人の襟首を掴んで放り投げた。
「ええい、どけ、邪魔だ!」
 怪物を追いかけてがむしゃらに突き進む。
 そのとき、黒山の人だかりが、どっと大きく崩れた。衛士が数名、棒で人々を打ち据えながら駆け込んでくる。
「領主の許可なく興業を打つとは何事か。セラヴィルの市を開く許可は与えられておらんぞ。脱税と擾乱の罪だ、共謀する者は逮捕する。市場の責任者はどこだ」
「しまった」
 ロゼルは顔色を変え、つんのめった。
「取り締まりの衛士だ。まずいぞ」
 ハイラムの大道芸人たちは衛士に気付くや否や、さっと身をひるがえした。人の群れに紛れ、あっという間に見えなくなる。あの怪物はと見ると、どすどすと巨体を揺らして逃げ出すところだった。
「畜生、姉上を返せ」
 ロゼルが走りだした。衛士に追われた観客が悲鳴を上げて逃げまどう。
「きゃあっ」
 コインの音が甲高く鳴り渡った。花吹雪が舞い散る。少女が転んでいた。手にしていたかごが投げ出され、中身が地面に散らばっている。
 逃げそこねて突き飛ばされたらしい。痛々しく膝をすりむいている。少女は涙をこらえ、ちらばったコインを拾い集めようとした。
「何をしている!」
 その背後に、衛士が近づいた。少女の襟首を掴んで、まるで荷物袋か何かのようにつるし上げる。
「ああっ!」
 少女は喉をつかんだ。足をばたばたとさせてもがく。
「ごめんなさい……くるし……放して……!」
 衛士が口汚く罵る。
「誰が逃がすか、ばかめ。セラヴィル伯の許可なく市場を開くものは、たとえ子供だとて容赦はせんぞ」
「お待ちなさいな」
 鋭い声が放たれる。騒然としていた広場が一瞬で静まりかえる。
 居合わせた人々の視線が、声の主に集中した。
 逃げ出したはずの怪物が立ち止まっている。
 ぎぃ、と歯車の回転する音がした。ぎ、ぎ、ぎ、と壊れそうな音を立てて振り返る。
 どよめきが広がった。人の壁が左右に割れる。
 怪物が動き出した。後ろ前反対にぎごちなく歩いて、戻ってくる。
「いい大人が、年端も行かない子どもに手を出すんじゃありません!」
 怪物の放つ声はアンジェリカそのものだった。焦った怪物があたふたと自分の顔を手で覆う。だが声は止まらなかった。
「ソロール、ちょ、お願いです、目立つのは勘弁……!」
「お黙りなさい!」
「ぎゃっ、痛っ!」
 怪物の身体の中で悲鳴が起こった。
「ええい、どきなさい。わたくしが操縦するわ!」
「ぎゃぁぁぁ落ちるやめてくださいソロール! 発射装置が壊れ……うあああ!」
 首がぐらぐらと傾いたかと思うと、怪物の頭がずぼっと引きずりおろされた。代わりにアンジェリカの首が飛び出す。
「薔薇のソロール!」
 何事かと見守っていた群衆全員が驚愕の表情を浮かべる。
「ああ、何て事だ……!」
 騒動の渦中で喚き散らすアンジェリカを見やってロゼルは天を仰いだ。だが呑気に嘆いている場合ではない。
「な、何だ、女のくせに」
 衛士が、こわばった顔で後ずさる。アンジェリカの首を乗せた怪物は歩みを止めようともしなかった。月光色の髪が吹き付けた風に巻き上げられる。
「乱暴者をこらしめるのに、男も女もなくってよ」
 鋼色の瞳が激しい怒りに燃えていた。子どもを取り押さえた衛士へ険しいまなざしを突き立てる。
「手を離しなさい。さもないと、怒るわよ」
「加勢に出るぞ、リヒト。あれはさすがに見過ごせん」
 ロゼルが憤りに語尾を押し殺してささやいた。
 だが、飛び出そうとした矢先。出し抜けに威嚇の発砲音が鳴り渡った。漆黒の銃口から火花が噴き出す。リヒトはぎょっとしてつんのめった。
「……全員、動くな」
 苦い硝煙の臭いがただよう。広場は水を打ったようにしんと静まりかえった。
「ソロール・アンジェリカ、そこまでです」
 冷淡な声が衛士の背後から聞こえてくる。
「身の程知らずな行為はつつしんでいただきましょうか……?」
 リヒトは息を殺した。みぞおちに氷の拳を撃ち込まれたような衝撃が伝わってくる。
「止まれ、ロゼル。まずいぞ、あの声は……」
 ロゼルの腕を掴み、つめたくなった口元をこわばらせる。
 不気味なフードで顔を隠した黒衣の異端審問官が、群衆を押しのけて歩み出てきた。手に、煙の立ちのぼる漆黒のライフルを提げている。
 ロゼルは青い眼を三日月のようにほそめた。
「ああ、分かってる」
 殺気立ったまなざしで黒衣の男を睨み据える。うなじの毛がちりちりと逆立った。
「……ギウロス……!」