「あちらです」
片目を瞑って指を唇に押し当てる。
広場の中央で道化師が飛び跳ねていた。綿を入れてふくらませた尻を振り振り、鈴のついた竹馬をしゃりんしゃりん鳴らして歩き回っている。笛をぷう、と吹くたび、帽子のてっぺんから吹き戻しの紙がいっせいに四方へ広がる。
観客はやんやの喝采を送り、笑った。大道芸人の一座だ。
道化師の後ろを、花吹雪のかごを抱えた少女が一生懸命追いかけている。
続いて、全身を真っ赤なガウンに包み、ヴェールと羽の仮面で顔を半分隠した南国人の娘が現れた。
歓声がさらに大きくなる。
褐色の娘は仮面とガウンを投げ捨てた。とろけるような微笑みを浮かべている。外套の下はなまめかしい腰布姿だ。手首に鈴。ベルトに半月刀を何本も差し、腰布にはびっしりと金のコインを縫いつけている。
くねくねと蛇のように腰が回り揺れるたび、扇情的なコインの音が鳴り響く。
娘は異国の音楽に合わせ踊り出した。
観客の男たちは指をくわえ、口笛を吹き鳴らした。大声で褒めそやし、妖艶にくびれる腰の動きを食い入るように見つめている。
踊り子は月の形をした剣をベルトから抜いた。シンバルが叩かれるたび、湾曲した刀を次々に宙へと投げ上げる。
割れんばかりの拍手喝采。惜しみなくコインと花吹雪が投げられる。娘は落ちてくる剣を受け止めてはまた投げ上げた。空中に描かれた刃の放物線が、あざやかな弧を描いてきらめく。
「きゃあぁぁあーーーブラボーーーー! 何てすばらしいのかしら!」
アンジェリカは手を叩き、飛び跳ねて驚嘆の声を上げた。どうやら一発で心を鷲掴みされたらしい。うっとりとため息などついている。
「こんなすごいサーカス、見たことがないわ! ねえ、リヒト君?」
アンジェリカは輝くような笑顔でリヒトに話しかけた。
「この人たち、明日もこの出し物やってくれるかしら」
「どうしてですか」
リヒトは質問の意図が分からず、聞き返した。
「だってみんなの顔を見てよ。すごく楽しんでる。みんながこんなに笑ってる顔見たらアルフレッドもきっと嬉しく思うんじゃないかって……」
アンジェリカの頬に、ぱっと赤みが差した。
「ううん、別にね、一緒に見たいとかじゃないのよ? あのひとったらね、いつもくだらない冗談ばかり言って私を笑わせようとするの。それがまた、もう壊滅的につまんなくって、あまりの寒さに聞いてるこっちが気を遣っちゃうっていうか、申し訳ない気持ちになっちゃってね……ちょっとは人を楽しませる方法を勉強してもらわないとねえ?」
「きっと大丈夫ですよ、ソロール」
もじもじと頬を染めてあわてふためいているアンジェリカを見ていると、なぜか胸がつまって、他に何とも言いようがなかった。
音楽が転がるようなドラムの音に変わった。恐怖をあおるかのように連続して低く叩かれる。
テントの布が内側からめくられる。
恐ろしく背の高い男が現れた。全身を黒いマントで覆っている。身長は普通の人間の倍ほどもあろうか。顔を不気味な包帯でぐるぐる巻きにし、わずかに見える口元は裂けたように赤い。
「
アンジェリカが蒼白になってうめいた。観客からも口々に恐怖の声がもれる。
リヒトは眼をほそめた。つぶさに観察する。
包帯に隠された顔の奥に、土色に塗られた肌が見えた。おどろおどろしく隈取りした眼がリヒトに止まる。なぜか、見覚えがあるような気がした。
「うえっ!?」
妙な声を発して、怪物は突然、首をねじまげた。あたふたと上下する。まるで、首だけがどこかへ逃げ出そうとしているかのようだった。
腕がぬっと動いて、じたばたと暴れる”頭”を強引にもとの位置へとはめ込む。
「ほら、見てリヒト君、あの怪物の頭。気味の悪い動き方。今にも首がはずれそうだわ!」
アンジェリカは口にハンカチを押し当てて息をのんだ。青ざめている。
道化師が手を叩いた。高らかに口上を述べ始める。
「さて皆様お立ち会い、ハイラムの不死男がやってまいりました。首を切っても死なない。身体に剣が刺さっても死なない”奇蹟”の生命力!」
「何だとっ!」
いきなり後頭部にとげとげしいロゼルの声が突き刺さった。
「今、”奇蹟”って言わなかったか……!」
「でかい声を出すな」
リヒトは無表情のまま、手を伸ばしてロゼルの耳をつねった。
「いたたた、ちぎれる!」
「花吹雪はいかがですかー」
少女がかごを持って近づいてくる。
「花吹雪ー、花吹雪はいかがですかー」
広場をのし歩く怪物は、ときおり見物客に食って掛かるような仕草をし、胸を叩き、そのたびに地鳴りのような咆哮をあげる。
真っ赤に塗った口が鬼のように裂けた。
その口から、ぼうっ! と火炎が噴き出す。耳が破れる法螺貝めいた雄叫びが何重にも重なった。
燃えた油の臭いがかすかに漂う。
「きゃああ火を噴いた! こっち見た! 怖あいっ!」
アンジェリカは顔をくしゃくしゃにしてリヒトの腕にすがりついた。
「やんっ、こわぁい、怪物がこっち来る!」
「大丈夫ですよ、ソロール」
かろやかな鳥の羽のようだ。リヒトは微笑んでアンジェリカを抱き止める。
「こら、姉上に触るな!」
ロゼルは激高した。沸騰した頭のてっぺんから爆発的に煙が上がる。リヒトは憤然と鼻息を吹き散らし迫ってくるロゼルの顔を、さも嫌そうに指先で押し返した。
「誤解だ。嫉妬は止せ。醜いぞ」
「はなふぶきー、花吹雪はー」
「だだだだ誰が嫉妬だ俺は貴様がお、おお、おん……!」
「余計なこと言うなよロゼル。分かってるだろうな?」
「はなふぶきはいかがー」
「お、お、弟として姉上の身を心配して!」
「ならば良し。だが、そんなことより……」
リヒトはにやりと笑って、ロゼルのポケット近くに伸びてきた手を掴んだ。おびえた悲鳴が上がる。
「大丈夫か?」
手を掴まれた花売りの少女は、かごを取り落としそうになりながら後ずさった。
「ん?」
アンジェリカが振り向いた。
「どうしたの? 大丈夫? 足踏まれちゃった?」
「あの、いえ……!」
リヒトが手を放すと、少女は顔を真っ赤にした。アンジェリカは、いまにも落ちそうに傾いているかごをまっすぐに直してやった。
「かごを落としちゃうところだったのね? よかったわ。人が多いから足元に気をつけてね」
少女は手首をこすった。ぶるぶると震えているせいか、余分な花吹雪が地面に舞い落ちる。
「あ、ありがとうございます……失礼します」
「ローロによろしく伝えてくれ」
声を掛けると少女は怖じ気づいた眼をリヒトへと走らせた。逃げるように走り去って行く。
「なるほど、そう言うことか」
ロゼルはごうごう吠えまくる怪物をちらりと見た。苦笑する。
きょとんとするアンジェリカをよそに、道化を引き連れた踊り子が、しずしずと怪物の前に進み出る。
極彩色の羽でできた仮面を、宙へと投げ上げる。
小太鼓の音が高まった。大太鼓の音が空を震わせる。
怪物が口を大きく開いた。再び、炎の息を一直線に噴く。投げた羽仮面が一瞬で消し炭に変わった。
観客全員が固唾を呑む。
一体、どうなるのだろう。まさか、かよわい踊り子が、たった一人で、自分の数倍もの体格をした怪物に立ち向かおうと言うのか。
小太鼓の音が頂点にまで高まったとき。
ぷう、と道化がおならをした。黄色い吹き戻しが束になって尻から伸びる。
観客がどっと笑った。
踊り子は剣を打ち鳴らして道化を追い払った。
怪物と向かい合う。怪物は首をぐるぐるとねじれさせた。異様な動きに、観客の間から悲鳴が洩れる。
首の回転がぴたり、と止まった。怪物がアンジェリカを見つめている。
「あら?」
ぬっと巨大な影がさしかかる。怪物が手招きした。アンジェリカはきょとんと小首をかしげる。
「わたくし?」
不思議そうに自分を指さす。
「いけません、姉上」
止める間もなかった。アンジェリカの身体が怪物に担ぎ上げられる。
「あーれーーーきゃーーーだれかーーたすけてーーーーー」
アンジェリカは大喜びで黄色い悲鳴を上げた。足をじたばたさせながら怪物にさらわれてゆく。
「姉上!?」
ロゼルはとっさに飛び出そうとした。
唇に指を押し当てた踊り子が、黙って見ていろ、と言いたげな甘ったるいウィンクをよこす。
申し訳程度のスパンコールでかろうじて覆われただけの乳房が、ロゼルの目の前でにぷるんぷるん揺れ動いた。ロゼルはやに下がって笑み崩れた。
「でれでれするな!」
リヒトはかちんときて思いっきりロゼルの尻を蹴り上げた。
「痛あっ!」
ロゼルは飛び上がって尻を押さえる。
「なぜ蹴る!?」
「じろじろ見るな!」
「誤解だっ……あいたっ!」
「嘘つけ!」
「わわわ分かったもう見な……あいたっ!」
「やっぱり見てたんじゃないか!」
「ちょっとぐらい良いだろ……あいたっ!」
「ほかの女に色目を使うな!」
「そんなに怒るなって、大丈夫だ、安心しろ。貴様の方がでか……あああ痛っ!」
「比べるな、ばかっ!」
怒りにまかせてもう一発蹴り上げようとしたとき。
踊り子が、頭上に掲げた剣を打ち合わせた。