血と薔薇のシャノア

1 快楽の街

 自由貿易都市シャノア。南ラグラーナ王国を貫流するトワーズ河の河口に位置し、この地方一帯の物資輸送を手がける交通の要衝である。その歴史は二百年の昔に遡る。
 もっとも古い著述はシャノア初期の様子を以下のように伝えている。
 年に二度、ルイネード侯領の港シャノアに各国の行商人がより集い、毛織物、南方の果実、野菜、魚、肉や毛皮、木材、炭、岩塩、琥珀、家畜、宝石貴石、絹、金銀細工、鉄、武器、東方の香辛料などを売る。常は入り江に面した漁村であるが、このときばかりは何万という市が立ち、さながら突如として出現した城のようである――
 一方、薄汚れた裏通りでは、剣と銀貨を秤にかけた命がけの商売が繰り広げられる。麻薬、盗品、魔術に使う呪わしい道具、さらわれてきた子どもや女までありとあらゆるものが競りにかけられた。商業、交易の中心地として活気づく表の顔とともに闇に潜む裏の顔を持つ街、シャノア。むろんここでは殺しの腕も重宝された。

 暗闇に沈んだ部屋は、少し苦い煙に満ちていた。開け放した窓辺でカーテンが揺れ、月に見おろされる古い街並みをかいま見せる。月明かりはあくまでも静かで美しい。
 ふいに、するどい苦痛の声がひびいた。てすりをつかむ手に身悶え混じりの力がこもる。
「声を立てるな」
 安楽椅子に身を埋めていた男がおもむろに口にくわえたパイプを灰皿に打ちつけた。耳障りな音が飛ぶ。男は目の前に躍る剥き出しの肩を掴んだ。椅子が厭わしく軋む。血まみれの若い男が、床にうずくまっている。髪も、眼も。血のように赤い。月光が青年の肌を残酷に染め上げている。乱舞する無数の刺青が彫りつけられた背中。にじむ血の色。まるで身体を画布がわりにした殴り描きのようだった。技術も美意識のかけらもない刺青の図柄が青年の背中をかき裂いてゆく。また針が身体に突き立った。
 それは一片の同情もない悲惨な扱いだった。単なる奴隷か、あるいはそれ以下でしかない存在だということを思い知らせるためだけに、男は青年を狂気の刺青でもてあそんでいる。耐えきれず青年は泥を踏みつぶしたようなうめきをあげた。男が手を返して顔料をつぎ足すたび、赤毛は身体をこわばらせ、汗をしたたらせて苦痛に耐える。その様子を、妖艶な姿勢で窓際に立ち控える美女が見つめていた。肩にかかる黒髪が柔らかな影を描いている。顔は闇に隠れ、見えない。ただ、薔薇のむせ返るような香りだけが濃密に漂っている。
「ジェルドリン夫人を知ってるな」
 安楽椅子の男は吐き捨てるように言う。どうにかうなずく赤毛の様子に、窓際の女は声も立てず笑った。眼が合ったのだ。こんなかたちで自我を犯されていながら、射るように激しい眼差しは光一つ失っていない。
「今週中に始末しろ」
 返事はまともに返らない。肉を突き崩す音ばかりが響きわたる。
「聞こえたのか」
 安楽椅子の男は、血まみれの赤毛の背を前に言った。
「理由は」
 呻きにまじって、どこか醒めた声が探りをいれてくる。
 安楽椅子の男はもう一方の手で赤い髪の毛をつかんだ。
「ヴェンデッタ、教えてやれ」
 黒髪の女は唇をわずかにつり上げた。微笑みがかすめる。女の手が伸びて、涙と汗にゆがんだ赤毛の頬を手挟んだ。
「千スーよ、ハダシュ」
 ため息にも似たささやきが赤毛を覆い尽くす。
 赤毛は身を震わせた。黒髪の女は笑って唇を寄せた。舌がとろけ、もつれあう。ごくりと赤毛の喉が上下した。上気した声がもれる。
「それと、”あれ”もね」
 その一言で、赤毛の様子ががらりと変わった。眼にあやしい情欲の色が走り抜ける。吐息が熱っぽく乱れ出した。赤毛は脱力して前のめりにくずおれた。安楽椅子の男は支えようともしない。黒髪の女は投げ捨てられた赤毛の上腕をつかんだ。殺し屋は、月影のかかる窓枠を支えによろよろと立ち上がった。しなやかに痩せた体つきが光に切り取られ、床に漆黒の影を落とす。足下に何かが糸を引いてこぼれ落ちた。赤いしずくが、床に跳ね返る。
「理由を聞いてどうする」
 安楽椅子の男は、過去を彷彿とさせる猛禽のまなざしを差し向けて言った。
「わしを裏切るつもりか」
 殺し屋は答えない。安楽椅子の男はおざなりな笑みを浮かべ、手をかざした。女がさっと寄って男の手を拭く。
「ジェルドリン夫人が黒薔薇に資金を流しているという噂が流れてな。話し合いで、奴との協力関係は終わらせたほうが良いと決まった」
 女はテーブルの上に積んであった革袋をひとつ殺し屋の足下へ放り投げた。重みのある金属音が床にこぼれ出す。赤毛はむさぼるように袋をつかんだ。そのままよろめいてドアの向こうへと消えてゆく。
 安楽椅子の男はパイプの煙草に火をつけなおし、煙を大きく吐きだした。煙が散った後、男はほんのわずかだけ唇をゆがめて笑った。宝石と花と葬送の涙に送られて、悪趣味な白豚は二度と戻らぬ旅に出る。それは愉快なことだった。
「どこから来たか知らんが、少しばかり見逃しているうちに目障りになってきた。黒薔薇など、わしがその気になれば一息で叩きつぶせる。そうだな、ヴェンデッタ」
 女は凄艶なほほえみと低い声で答えた。
「そのようですわね」

 赤毛の男は部屋でひとり、ベッドにうつぶせていた。上半身は裸のまま。背中は血にまみれたおぞましい刺青で引き裂かれている。苦痛のうめきがもれる。掴みだそうとして、そのままあきらめたのか。革袋の口がだらしなく開いて、中の粒銀貨が床にこぼれおちていた。
 ドアが開いた。先ほどの女が入ってくる。赤毛は起きあがった。病的に熱を帯びた目で女を見つめる。黒髪の女は赤毛の存在になど気も留めない様子で、そのまま歩み入ってきた。完全に無視している。赤毛は立ち上がり、女の行く手に立ちはだかった。
 行く手を遮られた女は不興げに唇をゆがめ、立ち止まった。底知れぬ眼で赤毛を見やる。
「支払いが先よ」
 腕を組み、冷淡に微笑む。赤毛は身体を震わせた。壁に据え付けられた燭台に蝋燭が一本、ほのぐらい光を放っていた。迷える羽虫が、己自身を焼き焦がしながらも離れられず、火の回りを舞い狂う。じりじりと音を立てて燃え落ちる。
 拷問のような静寂が過ぎた。女はふと気配をゆるめて赤毛の頬に触れようとした。
「触んじゃねえ」
 赤毛は頭を振ってかわした。
「さっさと出せ。さもないと」
 餓えたけだもの同然に唸って、女へと挑みかかる。女は薄笑った。
「迂闊だこと」
 赤毛は動きをとめ、息を呑み込んだ。いつの間にか、喉に針金のような細いナイフの尖先が突きつけられている。女の声色に冷酷な力が込められた。
「手を放しなさいな」
 赤毛は動かなかった。のどの皮膚がぶつり、と音を立てて破れた。みるみる血がふくらんで玉を結び、転がり落ちる。赤毛は歯を食いしばった。
「金なら、そこに」
「出して」
 嘲う女の声に、赤毛はよどんだ眼をそらした。のろのろと従う。女は革袋を奪った。中に手を差し入れて銀貨を確かめ、代わりに赤毛の手へ折りたたんだ紙包みを押し込む。
 赤毛は部屋の隅へとよろめき歩いた。病的に震える手で机の引き出しをあけ、苦い煤で真っ黒になった真鍮の皿を取り出す。薄茶色のそれを皿に転がり落とす。乾いた音が響いた。
 醒めたまなざしが、赤毛の逃げ込んだ闇を見つめている。赤毛は燭台からろうそくを取り、ランプに火をうつした。その上に、麻薬の樹脂を載せた皿をかざし、炙る。やがて立ちのぼり始めた煙を、赤毛はむさぼるようにして深々と吸い込んだ。もたれた椅子が大きな音を立てて倒れた。恍惚と堕落の匂いが漂いはじめる。
 女は闇におぼれていく赤毛の腕をつかんで、ベッドへと放り投げた。赤毛はだらしなくうつ伏せたまま、痙攣じみた含み笑いをあげ続け、もう、ひくりとも動かない。ふいに女は赤毛の体を仰向かせ、裸の身体に赤い爪を立てた。赤毛は鈍い声をあげて身体をゆらす。だらりとゆるんだその表情は、笑っているようでもあり、どこか泣いているようでもあった。
 女は、闇の色に光る冷たい目で赤毛を見下ろした。
「ラウールに飼われ、貶められ、果てはボロ切れのように捨てられるだけの命。まさかその程度の男だったとは言わせない。貴方に私と同じ闇の光を見いだせたと思ったのに。あの目はただの作り物か。私を睨み付けた毒蠍のまなざしは」
 漆黒の瞳に、暗い炎が揺れ動いていた。
「ハダシュ……貴方、本当にそれでいいの?」

 ねっとりとした煙の渦が、阿片窟の中央から地上へと上がる螺旋階段を昇っていく。どのテーブルも獣のような男たちでいっぱいだった。その間を行き交いながら、誘うような笑みを投げて回る女たちもまた、安っぽい白粉と香水の臭いを強烈にまといつかせている。
「やれやれ、何とも凄まじい傷だな」
 汚れた白衣をまとった男は、ハダシュの背中を見た途端、苦虫を噛みつぶしたような白々しい笑みを浮かべた。薄汚れた鞄をカウンターへと放り投げ、煮沸した布を消毒液に漬け込んだ瓶と、薄黄色い死蝋じみた軟膏の入った広口の留め金付き瓶の二つを取り出す。
「いったい、どこでこんな馬鹿な遊びをしてくるんだ。たまたまイブラヒムの店で薬を仕入れられたから良かったものの」
 手早く消毒し、薬を塗り込めた油紙を背に押し当てて傷を塞ぎ始める。煙草に混ぜた阿片の煙が、ぶどう酒の饐えた匂いと混じり合って腐臭を醸し出していた。
「今度同じことしてきたら薬の代わりにたっぷりと粗塩を塗り込むぞ」
「冗談じゃねえ。イブラヒムの薬なんてどうせ粘土に毒蝦蟇の油混ぜて練ったまがい物に決まって……痛えよ、レイス先生」
 ハダシュは身をよじって抵抗した。
 医師がぴしゃりとその背を叩く。
「静かにしろ」
「痛えっつってんだろ、この、藪医者」
 あまりの手荒さにハダシュが脂汗を浮かべ、唸ると、白衣の医師はどうでもよさそうな調子で肩をすくめ、笑った。場末の掃き溜め医師にはとうてい思えない、貴族と見まごう整った顔立ち。さらりと長い銀の髪、眼鏡に隠された、にこやかな眼。とりあえず本人の希望通りレイスと呼んではいるが、それが果たして本名なのかどうか、ハダシュにはよく分からなかった。
「つつくと蛇が出るような薮でも、いないよりはいるほうが余程ましだ。よし、終わった」
 レイスは手を拭きながら鞄を閉じた。
「もう、こんな馬鹿な真似はするんじゃない。いいね」
 ハダシュは答えなかった。無言でシャツに手を通す。
「分かったかい」
「ほっといてくれ」
 苛立ちまぎれに立ち上がって、吐き捨てる。レイスは眼だけでハダシュを追った。すべてを見通すかのような灰色の眼が、またたきもせずにハダシュを見つめている。
「よお、ハダシュじゃねえか。何やってんだ」
 唐突に名を呼ばれ、ハダシュは首をねじ曲げた。テーブルの合間をぬって男が近づいてくる。一人ではない。黒ずくめの法衣を身につけ、顔を隠した男を連れている。法衣の男は、おそろしく青ざめた顔をこわばらせてフードを引き下げ、横を向いて顔を伏せた。
「じゃ、私はこれで」
 何気なさを装ったレイスが用心深く鞄を抱え、顔を伏せて後退る。気が付いたときにはもういなくなっていた。入れ替わりに現れた男はなれなれしくハダシュの肩を叩き、隣のカウンター席へなだれ込むようにして座った。
「久し振りだな、ローエン」
 ハダシュは痛みのあまり目を眩ませ、咳き込みそうになりながらごまかし笑いをした。
「誰だ、そいつ。客か」
「ああ」
 ぬけぬけと笑う。ローエンはハダシュがこの街に流れ込んで来たときからの仲間だった。
「首が回らねえってんで整理屋に連れてってやるんだよ。どれ、一杯やってくかな」
 ローエンは神官に酒をおごってやろうとしたが断られ、一人で塩漬けの干し肉を肴に安酒をあおった。それから延々と何かくだらない話をし続ける。ハダシュはカウンターの向こう側でうんざりとグラスを磨いているマスターを見やった。そろそろ時間だった。仕事に行かねばならない。
 羽振りの悪そうな仕草でポケットから錆びかけの小銭をつかみ出し、一個ずつ手のひらでより分け数える。あの金があれば。こぼれ落ちる銀貨の音を思い出してハダシュは気持ちを暗くさせた。何かと世話になっているのに、レイスにはここしばらく治療代すら払えていない。人が良いのか、それとも馬鹿なのか。食えない男だということは分かっていたが、それ以上踏み込んで詮索する気にはなれなかった。
「ローエン、悪いが時間だ。あこぎな真似ばっかしてねえで、たまには店に顔を出せよ」
「はッ、そりゃあ俺の台詞だ」
 思わず身構えてしまいそうな嫌な声が絡みつく。ローエンは酔っていた。毒のある眼がハダシュをとらえる。あるいはしたたかに酔っている振りをしているだけかもしれなかった。
「気にいらねえんだよお前、俺の上客までヤリ捨てやがって。おかげで俺は……どうせ俺は……」
「あらやだローエン、ローエンのくせにあんた嫉妬してんの」
 濃い化粧を塗りたくった出っ歯の女が後から顔を出した。嘲弄まじりの唾を飛ばしてからかう。ローエンは歯をむき出して狂暴にうなり、いきなり娼婦の頬を手甲で張り飛ばした。よろめいた娼婦はローブをたくし上げ骨ばったすねを丸出しにして、いきなりはすっぱな啖呵を切り始めた。
「何このゲス野郎。あんたなんかお呼びじゃないっての。ハダシュなら金払ってでも抱かれたいってえ女がごろごろしてんのにさ、隣のあんたがキモくてブサじゃあ近寄れやしねえ」
「何だと、このブサアマ」
 激高したローエンが娼婦に掴みかかる。カウンター上のグラスがけたたましい音をたてて転がり落ちた。中の安酒が飛び散る。傍らにいた法衣の男が騒ぎに困惑し、今にも逃げ出しそうに腰を浮かせた。
 ハダシュはすかさず男の手首を掴んだ。法衣の男は反射的に腕を振り払う。思いも寄らぬ反撃に眼を押し開く。聖職者の所作ではない。男の襟元から、今にもちぎれそうな細いチェーンにつながれた黒いペンタグラムがこぼれおちた。あわてて隠そうとした手がフードを引っかけ、逆に払い落としてしまう。漆黒の髪があらわになった。
 漆黒の眼。漆黒の髪。やつれてはいるが端整な顔立ち。記憶の一部が揺り動かされる。どこかで見たような――罪に怯えた暗いまなざしが光る。神官は怖じて眼をそらした。転がり落ちてゆく者特有の態度だった。だが関わる筋合いはない。
「じゃあな、ローエン。俺は行く」
 ハダシュは鼻白んで言うとカウンターを離れた。
「おい、待てよ逃げるのか」
 しかし今日のローエンはやたらと執拗だった。席を立ったハダシュを追いかけて手を背後から掴み、引き戻そうとする。
「まだ話は終わってねえ」
「時間だって言ってんだろ」
 ハダシュは倦んだ声を上げ、掴まれた手を振りほどいた。
「けっ、あのマダムに呼ばれていそいそしてんだろう。お前、あのババアにずいぶん気に入られてたもんな」
 ローエンは、熱を帯びた嫉妬の眼差しを突き立てた。
「はん、どんな手練手管を使ってんのか知らねえが、白豚にケツ振って楽しいか、この犬野郎」
 口汚い罵倒のはずが、なぜか半分泣いてでもいるかのようだった。いつもの陽気なローエンとはまるで別人に思える。背中に押し付けられた視線が、焼けた鉛のように痛く、心地を焼きなぶった。
 いやな気配に耐えきれず、ハダシュは逃げるように立ち去った。

 柱の中途で頭を踏み固められている奇怪な怪物の彫刻。一瞬の艶姿を扇情的に切り取ったニンフ像。窓枠には宝石と装飾に狂気を絡みつかせたくろがねの薔薇。悪趣味きわまりないゴシックで飾りたてた部屋に、醜く太った中年女が入ってきた。手に持ったろうそくをテーブルの燭台に移し、いったん鏡の前に座る。中年女は欠伸をしながら、ブラシで貧弱な髪を梳き、カーラーを巻いた。鏡に顔を近づけ、分厚いくちびるにたっぷりと紅をひく。紙をくわえて巨大な口紅の跡をつけると、それをまじまじと見て壊れた微笑みを浮かべた。
 窓の外は月夜。青ざめた風がさらさらと舞い込んで、レースのカーテンをまるく膨らませる。ろうそくの火がまたたいた。消えそうなほど、大きくたなびいている。女は窓に目をやり、どうしたものかと考えあぐねる様子をみせた。カーテンはあいかわらず不穏なほどに揺れ、映し出された灰色の木陰をゆらゆらとまといつかせている。
 ふっとろうそくの明かりが吹き消された。女は体をこわばらせ、闇を振り返る。
「だれかいるの」
 風の波打つ形だけが、月影となって床に映る。耳を澄ましても、葉ずれの他には何も聞こえない。巨大に戯画化された影だけが、不気味に伸び縮みして見えた。女は舌打ちし、呼び鈴につながる金と白と赤のふさがついた組み紐に手を伸ばした。
「ジゼラ、火をお願い」
 すぐさま隣の控え部屋から赤いろうそくを携えた小間使いが現れた。消えた燭台に火を移して風よけをたてる。
「マリオンが来るのよ。化粧するから手伝ってくれない?」
 媚びの混じった裏声は、他人が聞けば鳥肌の立つような気味悪さだったが、女中は顔色一つ変えなかった。ドレスを取りにクローゼットへと向かう。
「あっちのほうはどう」
 聞こえていないのか、黒いエナメルのロングドレスと赤い羽根のショールを手に戻って来る。
「こちらでいかがでしょう。それにジャグーのダイヤネックレスもあわせられては」
「ああ、あれならきっとマリオンも気に入ってくれるわね。それで」
「ほぼ順調です、ある点をのぞいては」
 女中は慇懃な態度を崩さぬまま用心深く言葉を選ぶ。
「冗談でしょ。この間も同じ事を言っていたわよ。まだ足りないの」
 女は女中に助けられてガウンを脱ぎ捨てる。ぶよぶよと何重にも垂れ下がった白い脂肪があらわになった。
「役人どもへの賄賂がかさみまして」
「そう」
 女は納得して頷く。酷薄な笑みが口の端を吊り上げた。
「そろそろレグラムにも引退してもらわなくちゃね」
 扉を軽くノックする音が聞こえた。
「マリオンかしら。聞いていらっしゃい」
 女中は、今にも裂けそうなドレスに主人の脂肪をむりやり押し込め、ふわふわと軽いショールを手渡すと、身を翻し、扉を細く開けた。外にいた召使いが二言三言、何かをつぶやく。女中は振り返った。
「マリオンが参りました」
「ああ」
 女はうわずった嬌声をあげて頬を手で押さえた。気味悪く身悶えながら、今にも駆け出しそうにどすどすと足踏みする。女中は宝石箱から金色に輝く大粒ダイヤのネックレスを取り出して、女主人の首にまわし留めた。
「では私はこれで」
 頭を下げ、ささやくように言って、控えの部屋へ続く赤いカーペットに沿って後ずさる。ノックの音がした。怪鳥の頭を模した金のドアノブが回り、扉が開く。
「マダム・ジェルドリン、こんばんは」
「いらっしゃい、マリオン、待ちかねたわ」
 精一杯の媚態もあらわにジェルドリン夫人は現れた赤毛の青年を迎え入れた。夫人の目の前に真紅の薔薇が花開く。花びらの先、青々とした葉の脈に、澄みきった甘露があざやかに珠をむすぶ。水上げしたばかりの芳醇な香りが広がった。
「まあ、綺麗。素敵よ」
 ジェルドリン夫人は初心な小娘のように頬を染め、手を打ち合わせた。
「僕の気持ちです。受け取ってくださいますか、マダム」
 眼をほそめて赤毛の青年は笑う。
「ありがとう。お入んなさいな」
 ジェルドリン夫人は花束を受け取りながら彼のキスを受けた。
「素敵な装いですね、マダム。でもどんなに目も眩む輝きを放つダイヤも、マダムの気品には叶いません。今夜の装いは高貴なあなたにこそ本当によくお似合いです、マダム」
「お世辞はよして。なんだったらこのダイヤ、あなたに差し上げてもよくってよ」
 あえぎながらジェルドリン夫人はビヤ樽のような腰をくねらせた。
「すぐに生けさせるわ。ジゼラ、この薔薇を生けてちょうだい」
 赤毛は女中が入ってきても目一つそらさず、ねばっこいジェルドリン夫人のキスを受け続けた。それは飼い主を満足させる態度だった。
「今夜は泊まっていってくれるのよね」
 ジェルドリン夫人はさっそく赤毛の胸をあばいて、ピアスのはいった乳首に触れた。
「あ……いえ、残念ながら」
 わずかに上気したふうをよそおって青年が言う。
 ジェルドリン夫人は不審そうな眼差しを向けた。
「どうして」
「パーティがあるのです」
「まあ、およしなさい。お金が入り用なら私に言えばよいのに」
「違いますよ」
 赤毛は軽くいなす。
「……クスリ?」
「それもありますけど」
「あらやだ、ほどほどにね」
 ジェルドリン夫人はいやらしく笑った。麻薬を売りさばいている当の本人がいう言葉ではない。
「じゃあ、何?」
「マダムに申しあげられるようなことではありませんよ」
「いいの。言ってみて」
 ジェルドリン夫人はしたり顔で重ねて問いただす。
 赤毛は白状した。
「ラウールさんに呼ばれてるんです」
「あなた知ってるの。あのラウールを」
 ジェルドリン夫人の目つきが急に鋭くなる。
 赤毛は無邪気にうなずいた。
「ええ。いつもは僕、ラウールさんのお店にいるんです」
「そう」
 ジェルドリン夫人は一瞬考え込む素振りを見せた。だがすぐ官能的に笑みくずれ、青年の手を取ってベッドへといざなう。
「あとで面白いお話をしましょ。そう、ラウールを知ってるの……今度、私の店にいらっしゃい。最高級のお薬が入ったのよ。あなた、好きでしょ」
「マダム、じゃあそのうちに……あっ」
 ジェルドリン夫人が軽く肉圧をかけ、もたれかかっただけで、赤毛の身体は黒と金の豪奢な刺繍付きの天蓋が下がるベッドへと押し倒されていた。もう腰のベルトをほどかれている。牛のような唸り声を上げて夫人は赤毛にのしかかった。赤毛は鼻に掛かった媚声をあげる。だが。
「そのうちに、ではなくて、今どうするかを尋ねているのよ、”マリオン”君」
 冷たく乾いた声。赤毛は鋭く体を起こした。ジェルドリン夫人が血相を変えて顔を上げる。いつの間に忍び寄ったのか、背後に先ほどの女中が立ちつくしている。ジェルドリン夫人は眼を押しひらいて、ふてぶてしく変わった赤毛の表情と、女中の冷酷な美しい顔とを交互に見くらべた。
「何、どうなってるの、ジゼラ」
 忍び寄ってきた黒髪の女は、そのままの気配で含み笑った。
「奥様、その”マリオン”……ラウールの犬ですわ」
 ジェルドリン夫人はヒステリックな悲鳴を上げてよろめく。赤毛は乱された着衣もそのままに、ジェルドリン夫人を脇へ押しやった。素っ気ない仕草で女と真正面から対峙する。
「裏切る気か、ヴェンデッタ」
 苦笑いとともに、”マリオン”を装った仮面が剥ぎ取られる。
「ラウールだけに仕えると言った覚えはないわ」
 黒髪のヴェンデッタは肩をすくめる。
「五千スーで手を打ってみない。悪くない話だと思うけど、どうかしら、”ハダシュ”君」
「なるほど、最初からそのつもりだったわけか」
 ハダシュは顔の左半分だけに打算的な笑みを浮かべてみせた。表に出た表情こそ冷めているが、内心はどうやってこの場を逃れるか、その方法を猛然と考えている。
「ここでお前を殺せば千スーの儲け。ラウールを殺せば五千スー。そのかわり死ぬまで追い回されて終わり。簡単だ。こんな取引はできないな」
「一万スーなら?」
 ヴェンデッタは細長い針のようなナイフを取り出した。掌底に金の円環を縫いつけた黒革の指無し手袋に切っ先を押しあて、ゆっくりとしなわせる。ナイフをあやつるしなやかな指使いにまぎれ、右のくすり指にきらりと黒い石の指輪が光った。
「私と手を組みましょ。仕事のことはそれからでも遅くはなくてよ」
 ハダシュは思いつめた眼でヴェンデッタを見返し、無意識に喉の傷をまさぐった。
「悪くはないな」
 全身から生ぬるい汗が噴き出す。ぞくりとする痛みがよみがえった。
「マリオン、ぜ、ぜひそうなさい。ジゼラが言うならあなたを信じるわ。ラウールの十倍払う。いいえ、二十倍でもいいわ。あなたを殺させたくないの」
 ハダシュは焦ってしがみついてきたジェルドリン夫人に押され、はっと我に返った。
「マダム、それはできない」
 顔をゆがめ、ジェルドリン夫人を突き放す。
 こわばった声にジェルドリン夫人は絶句した。
 赤いビロードに彩られた壁ぞいに、互いになまめかしく絡み合った白亜のニンフ像がいくつも並んでこちらを見つめていた。壁一面に張られた姿見が、恐ろしく緊迫した部屋の空気と共に三人の位置関係をそのままに映し出す。灰色の窓、大きくうねるレースのカーテンと悪魔の暗い影、そして暗くてよく見えない白い顔――おそらくはジェルドリン夫人の――すぐ横に、きらめく太いナイフの刃が映っていた。ナイフの柄には、精緻に浮き彫られた赤い蠍の彫刻。
 今まで眼にしたこともないハダシュの酷薄な表情に、ジェルドリン夫人は悲鳴を上げ損ね、息をすすり込んだ。その音は首を絞められる寸前の豚にも似ていた。
「嘘……!」
 むせかえり、何とか殺意を振りほどこうともがきかけた、その甲斐もなく、獲物をかき裂く切っ先が闇にするどい弧を描き走る。鏡に、ざあっと血の飛沫がふりかかった。小さくない呻きがほとばしる。ジェルドリン夫人は純白のニンフたちを深紅の壁布と同じ色に染めながらなぎ倒し、どうとばかりにくず折れた。
 鏡の表面を、幾筋もの血がとろとろと伝い落ちていく。吹き込んだ風にカーテンが舞い上がる。突然切れた雲の合間から月の光が麗々と射し込めて、殺し屋の半身を鏡に浮かび上がらせた。ハダシュはうめき、罪と血に汚れた手を見おろした。震えている。何もかもが深紅に染まっていく、その、耐え難い生ぬるさ。
 ふいにヴェンデッタが口を差し挟む。
「話を続けましょうか」
 笑みが浮かんでいる。
 ハダシュはヴェンデッタを凄絶に睨み返した。
「ふざけるな」
 ヴェンデッタは指を鳴らした。
 心臓が、どん、と熱く跳ねた。本能が敵の潜む居場所を告げる。暗闇に潜んでいた殺意が一気に放たれた。ハダシュはとっさに転がりざま身をひねり、襲いかかってきた敵の手首をするどく蹴った。刀子がふっ飛び、鏡にあたって甲高く華奢な音を響かせる。飛び出してきた黒衣の男がよろめき、つんのめった。顔は覆面で隠れ、見えない。
 ハダシュは手で床を強く突き、横飛びに飛んで跳ね起きた。その手には既にジェルドリン夫人の血を吸ったナイフが逆手に握られている。
「できるのかしら、貴方に」
 ヴェンデッタはしずかに笑った。
 恐ろしい微笑みに、なぜか突然、恐怖がこみ上げる。
「うるせえッ!」
 ハダシュは距離をおしはかり、半ば無謀なまでの間隙をついて男の胸元に飛び込んだ。何のためらいもない喉笛への斬突。耳元に風のような悲鳴が鳴った。割れた傷口から血が噴き出し、豪華な絨毯にボタボタとこぼれ落ちる。だが。
 最後の瞬間、ハダシュは気も狂わんばかりの確信に捕らわれて、手を止めた。ちぎれんばかりに見開かれた相手の眼が、ハダシュの良く知っている別の男と重なる。崩れ落ちてゆこうとする男の胸元を掴み、乱暴に頭巾をはぎ取る。膨大な失血で青ざめた男の顔があらわになった。
 その顔を見たハダシュは、息を呑み、つかんだ手の力も失って、よろよろと後ずさった。ナイフが手からこぼれ落ち、鈍い音を響かせて転がった。血が、ひろがっていく。
「ローエン!」
 名前が轟音となって脳裏に響く。ローエンは棒のように血の海へ倒れ込んだ。深紅の飛沫が飛び散る。信じがたい思いに打ちのめされながら、ハダシュはヴェンデッタをあおぎ見た。ハダシュのもらす喘ぎばかりが、荒々しく息づく。凍えた瞳が見つめかえしてくる。
 低くかすれた笑い声が聞こえた。
「ハダシュ、意地を張るのはお止しなさいな」
 ハダシュはぞっとすると同時に、違う意味でも身震いした。こんな状況に居合わせていてさえ、ヴェンデッタの声は本能に触れた。
「分かっているはずよ。私なら、ラウールよりずっと、貴方を」
 妖しい視線に膝が震えた。動けない。痛みと血に呼び起こされた昨夜の記憶がまざまざと蘇ってくる。ラウールの道楽にもてあそばれ、痛みを忘れるための麻薬に溺れて、それから。
 下半身が鈍くうずいた。――何度も、この女と。記憶の中の悲鳴。恍惚という名の絶望。全てを絞り出されるかのような灼熱の感覚。身体が覚えている。ハダシュは怖れ、後退った。
「もうすぐ”あれ”も手に入る。そうすればこの手でこの下らない国のすべてを破壊できるわ」
 ヴェンデッタは首にかけたペンダントをかるくくわえ、中の何かをあおった。そっと伸ばされた手が、ハダシュのうなじに回ってゆく。濃厚な薔薇の香り。野葡萄色の唇があやしく、艶めかしく光った。身体がこわばった。忍び寄ってくる。逆らえない。しびれるような感触が唇にあたった。口の端をたまらなく甘美な蜜の味が伝う。とろりとこぼれるそれを、思わず探し、受けとめる。舌がからみついた。濃密なくちづけ。ぬめる音が聞こえる。
「私に従いなさい。そうすれば、もっと」
 両手で頬をゆるゆると撫で回される。首へ、肩へ、だらりと下がった腕へと、誘う掌がすべり落ちてゆく。おもわず声が洩れた。呆然と力が抜ける。ハダシュは殴りかかろうとして腰砕けになり、ヴェンデッタの肩に掴まった。襟元のボタンが音を立ててちぎれた。豊かな乳房が大きくはだけられる。きっちりと詰めていたはずの襟から、肩口の赤黒い古傷が露わになった。傷だけではない。それを隠しごまかすかのように、肩から胸にかけ、匂い立つかのような漆黒の薔薇の刺青が一面に咲き誇っている。禍々しく、毒々しく――触れるものすべて、あるいはヴェンデッタ自身をも傷つけずにはおれぬかのような美しさで。
 ヴェンデッタはあやしく微笑んだ。わざと刺青を見せつけるかのように、ハダシュを凄艶な乳房へといざない寄せる。熟し切って今にも腐り落ちそうなほどに柔らかく、なめらかな、それでいてどこか無機質な肌が、汗ばんだ頬に触れた。
「貴方は間違ってる。今の貴方はただの奴隷、あの男に飼われた死にかけの無様な犬」
 蛇のようにちろちろと細い舌を吐く声が、病的に熱を帯びた意識の裏にまで伝い入って来る。けだるく、甘ったるく。淫靡に濡れて光る唇がささやいた。
「私のもとへ来て。生きる理由をあげる。この世に二つとない、歓喜を」
 歓喜。理性がわずかな拒絶をさけんだ。本当はただ逃げているだけ。女の身体と金と麻薬、それに自堕落な暴力に依存しているだけだと。だがそれさえも、青白い肌に罪深く咲き乱れた薔薇の刻印を前にむなしく溶け落ちてゆく。
 夢見心地に身をゆだねかけ、吹きかけられる吐息の甘さに一瞬放心した、そのとき。
 急に音が戻ってきた。荒々しい足音が廊下をよぎる。ドアが激しく叩かれ、ジェルドリン夫人の名を呼ばわる叫び声が響きわたった。ハダシュは我に返ってヴェンデッタを突き飛ばした。とっさに身を翻し、血糊がつくのにもかまわずカーテンを引き払う。薔薇の香りが夜空に放たれた。強いめまいに襲われる。月が恐ろしいほど青白い。
「逃げても無駄よ、ハダシュ。これはゲームなの。私と貴方の」
 声に振り向く。ヴェンデッタは冷たい微笑みを浮かべてハダシュを見つめていた。
「覚えておきなさい。我が名は、黒薔薇」
 ハダシュは思わず後ずさった。
「狙った獲物は、逃さない」
 凍える微笑み。匂い立つ薔薇の唇。激しい胸騒ぎ。危険すぎる、その気配。そのすべてから逃れたかった。ハダシュは窓を突き破り、転がり落ちるようにして身を躍らせた。迷路のような植え込みを蹴散らし走り抜け、塀をよじ登って、用意しておいた馬に飛び乗る。馬は血の臭いに興奮して竿立ち、いなないて、狂ったように走り出した。喧噪が一気に遠ざかっていく。喉がちぎれそうなほど乾いた。
 ハダシュは声ならぬ声で絶叫していた。素性も定かではない殺し屋。父も母も記憶になく、闇の世界に身を投じる以外生き延びる術を学べなかった。今いる世界がたとえ血みどろの毎日でもその泥沼から逃れて行く先さえない。生きるため。ほんの一瞬すべてを忘れたいがために。
 壊してしまった。自らの手でローエンを、友を、自分自身のこころを、ばらばらに打ち壊してしまった。ハダシュは疾駆する馬の背で絶望のほぞを噛んだ。血が臭う。どれほど風を切って走ろうと、身に滲みついた陰惨な死の臭いが吹き飛ばされるはずもなかった。

 隠れ家に逃げ戻ったハダシュは呆然とベッドに倒れ込んだ。汗臭い汚れた毛布に顔をうずめ、ベッドを殴りつける。ローエンの血走った眼がぐるぐると脳裏をめぐり、執拗に消えなかった。
 涙が唐突にこみ上げては荒んだ殺し屋の眼から流れる。友を殺すことと、金のために人の命を奪うことと何が違うのか分からなかった。分からない自分が、悔しかった。とにかく、ハダシュは自分を責め、自分の生業を責め、ローエンの名を呼んで嗚咽し続けた。
 ――我が名は、黒薔薇。
 冷たい響きがよみがえる。ハダシュは枯れた涙を最後にひとつすすり込んで、感情の波をぶつりと断ち切った。濡れた頬を肩口でぐいとぬぐう。うつろな目で周囲を見まわす。長年浴びせられ続けてきた自己否定の罵声が、脊髄に刷り込まれた条件反射となって、感情と思考をともに停止させてゆく。何も考えなければいい。意識がのろのろと滞る。感情をそぎ、自我を放棄し、目を閉じてゆっくりと浅い呼吸を繰り返す。日々、けだもののように生きてゆくのだ。それでいい。ようやく体のふるえが収まりかけたと思った――そのとき。
 廊下の腐り板を踏み抜く甲高い音がした。張り巡らせた鳴子の仕掛けが狂ったようにぶつかり合う。足音が乱れ、どっと近づいた。襲撃。鳩尾に熱い衝撃が走った。
 反射的に立ち上がって窓へ駆け寄り、そのまま木戸を突き破って板張りのテラスへと飛び出す。眼下には無秩序に建て増しされた赤煉瓦の屋根ばかり。路地の向かいにある隣のベランダまでは一飛びの距離だ。ハダシュは手すりを蹴って飛んだ。だが着地した露台の床は半分腐りかけて脆くなっていた。体重と衝撃を支えきれない。
 床が割れた。体が半分突き抜ける。必死でもがき、足がかりを探す。宙に浮いたも同然の状態で露台の床に手を突き体を引き抜こうとしたとき、さらに床が砕けた。身体が沈む。木っ端のくずがばらばらに飛び散る。
「くそっ!」
 ずり落ちそうになるのをどうにかしがみついて止め、頭上の手すりをつかみ、一気に体を引きずりあげる。裂けた木がふくらはぎに引っかかった。皮膚が柘榴のように裂けた。帯状の血が噴き返る。振り返ったときにはもう、黒ずくめの刺客が身を乗り出して迫っていた。鈍色の殺意が光っている。とっさに折れた木っ端を刀子に見立てて投げ込む。尖った先端が刺客の左目に突き立った。刺客は顔をまだらに染め、獣めいた悲鳴をあげてのけぞった。その隙にハダシュは隣の部屋へと転がり込む。
「だっ、だれ、アンタ!」
 鞭を持ち仮面をつけた半裸の商売女が目を吊り上げてわめいた。足下に汗まみれの不細工な中年男がうずくまっている。鎖で緊縛された男の尻には火のついた悪魔の形の蝋燭。口には骨の形のくつわ。悪魔の蝋燭がじりじりと音を立てた。
「逃がすな」
 叫び声が聞こえた。ハダシュは苦悶の脂汗をふりはらい、部屋を駆け抜けた。反対側の窓を引き開け、一気にバルコニーから身を投げる。着地の瞬間、傷が引きちぎれそうに痛んだ。つんのめって倒れそうになる。
 酔客がよろめきつつぶつかってきた。何やらロレツの回らない悪態をついてハダシュの行く手を阻み、突き飛ばす。視界が錐揉みして急降下する凧のように回った。吐き気にも似た恐怖が喉元へこみ上げる。ハダシュは奥歯をきしらせ、どす黒い路地を転がるように走り出した。
 それからどこをどう逃げ回っただろう。アルマナス通りからマリド広場へ、そして過去の遺産である薄汚れた城壁の抜け道を突っ切りヒュッチ区の裏路地へ入り込んで、それから。だんだん動きが緩慢になり、息が切れてくる。刺客の気配も感じられないのに、何度も何度も振り返って、頭が混乱して、なぜ逃げなければならないのかも分からなくなり――
 今ではもう、自分がどこにいるのか見当もつかない。ハダシュは喉をぜいぜい鳴らしながら、それでも獣のように足を引きずり、歩き続けた。とにかく、ここではないどこか見つからないところを探して……とうとう動けなくなって、路地のごみためにうずくまる。
 血が帯のように流れて、足下に黒い血だまりを作った。すえた臭いが鼻をつく。地面がぬるぬると滑った。とりあえずシャツを破いて止血帯を作り、落ちていた食いさしの骨で帯を強くひねりあげ傷口を絞る。全身にしびれ渡る痛みが走った。このまま、こうやって身を隠していれば見つからないだろう。朝になれば、きっと奴等もあきらめる。あきらめてくれたら――
 ぐらぐらする頭が物音にびくりと反応する。本能が最後の警鐘を鳴らした。背筋に走る、痛いぐらい定かな気配。路地の入り口に黒い影がさした。
「いたわ。そこよ」
 あの女の声。心惑わせる瞳が鮮烈に記憶をよぎった。意識を射抜くヴェンデッタの姿が、黒ずくめの刺客の背後にかき消えた。きらりと銀色に光るものが視界をかすめる。人影。注意を払ういとまはなかった。這いずりもがいて、泥と残飯まみれになりながら路地をまろび出る。月が明るい。一瞬、これで助かるかもしれない、という幻想が脳裏をめぐる。だが血塗れのハダシュが転がり出てくる様子に怯えたのか、広場にたむろっていた何人かの街娼、酔っぱらいたちは、おどおどして姿を隠した。そのまま、誰の助けも求めることができず、むなしく膝をつき、倒れ込む。動けなかった。自分の吐く荒い呼吸音だけがいつまでも続く。肌寒い恐怖が肺を締め上げた。死の恐怖が迫る。
 そのとき、石畳を蹴る軽い足音が聞こえた。ハダシュは最後の絶望的なあがきをもって、跳ね起きた。武器もなく、手傷を負い、疲れはててどうすることもできなかったが、せめてもの一撃は食らわしてやるつもりだった。
「……うわ、何、どうしたのそれ。ひどい怪我!」
 緊張感のまるでない声に、振り上げた拳が力無く沈み込む。ハダシュは、全身の力がどっと抜けるのを感じた。夜風に吹き消されかけの灯火を片手に駆け寄ってきたのは、一見、どこにでもいそうな町娘の装いに銃のホルスターを下げた、あまりにも不自然な格好の少女だった。
 こんな夜中に出会うにしてももう少し何とかならない物か、とは思ったものの、今はそれどころではない。相手は燈火に浮かび上がったハダシュの血まみれな姿に眼を押し開いた。
「え、ええっ、喧嘩、にはちょっと見えない……けど?」
「畜生ッ」
 我に返ったハダシュは歯ぎしりしてうめいた。歯がみする思いで口汚くののしる。
「そばに寄るんじゃねえ、このあばずれ女。てめえみてえな淫売にかくまわれるほど落ちぶれちゃいねえや。消え失せろ」
 しかし、近づく絶望の足音がハダシュの罵詈雑言を呑み込ませた。腹の奥が氷のように冷たく縮こまる。だが、一方の少女は周囲の異変にまったく気づいていなかった。いきなり袖をまくり上げて唇をへの字に結び、ハダシュの頭上で気の強いたんかを切り始める。
「な、何を言う、無礼者、この私のどこがそんなふうに見えるというの? どこから見ても平々凡々とした一介の小市民でしょうっ……!」
 黒衣の女が路地から歩み出てくる。石畳に落ちる月影。ざらつく砂にも似た、ひそやかな殺意。暗闇に塗り込められた静寂の中、うつくしいおもてにひそむ冷笑だけが、壮麗な月に照らされ、浮かび上がっている。背後に控える刺客の気配が伝わった。凄まじい殺気が渦を巻いている。一人や二人ではない。
「逃げろ」
 ハダシュは精いっぱいの体裁を取りつくろって呻いた。
「相手は、黒薔薇だ」
 気の強い少女は眼を上げ、近づいてくる刺客を見た。驚きの息を大きく吸い込む。
 ヴェンデッタは肩をそびやかせ、うっすらとひそみ笑った。
「逃げ足だけは見上げたものね。さすがはラウールの飼い犬だわ。でも最後まで逃げ切れるかしら」
 声が闇に沈んでいく。ヴェンデッタはすっと身を引いた。代わりに、刺客どもが足をにじらせながらせめぎ寄ってきた。
「どけッ」
 ハダシュは、少女の袖をつかんで後ろにたぐり寄せた。その余勢を駆って地を蹴り、前に飛び出す。迫り来る刺客どもの数を眼の隅で数えながら、右、左とくり出されるナイフを避け、身体をぐいとひねって手首を捕らえ、逆肘に膝を叩き込む。へし折れる骨の感触。絶叫が耳を突き抜けた。だが踏み込みが深すぎたせいか、足の傷が割れた。支えきれず、がくりとつんのめって膝を落とす。途端、思いもかけない方向から拳骨が叩き込まれた。
 衝撃で意識が吹っ飛んだ。広場中央に立つ妖艶なヌルヴァーナ像の台座に激突し、頭から崩れ落ちる。
「死ねや、ガキ」
 真正面の男が、狂気の嗤いを放って棍棒を振り上げた。
 まばゆく月の光る頭上に黒々と、死を司る美しき死神ヌルヴァーナの像が、その禍々しい青銅の翼を大きく打ち広げて覆い被さってくるのが見えた。意識が凍え入る。反射的に息をすすり、足を蹴り出した。足をすくわれて敵はつんのめる。振り落とされた棍棒は危ういところでハダシュをかすめ、台座の根本に当たって跳ね返った。衝撃で男の手から飛び、点々と転がる。
 殺らなければ殺される。ハダシュは恐怖にかられた悲鳴を上げ、石畳に転がる棍棒を奪い取りざまに敵の頸椎めがけ叩きつけた。ぐしゃりと頭の形が潰れる。何か恐ろしく熱い死の色がべたべたと周囲に飛び散った。ハダシュはよろめいた。べっとりと黒く濡れた手が、ぶるぶると震えていた。激しい呼吸音だけが夜に吸い込まれていく。
 生き残った刺客がふたたびハダシュを取り囲む。ヴェンデッタの怖いほど穏やかな眼差しが、ふと、ハダシュの背後へと向けられた。
「あら? 誰、その子?」
 つられて振り向いたハダシュは思わず目を疑った。さっきの少女がまだ居残っている。
「死にたいのか、逃げろ」
 どなりつける。だが少女は硬直したまま動かない。青くなった唇がわなわなと震えている。逃げないのではなく、動けないのかもしれなかった。台座にすがりつき、目の前で繰り広げられる凄惨な殺し合いを凝視しつづけている。
「さて、どうしたものかしら。デュゼナウ?」
 黒衣のヴェンデッタは困ったように笑って小首を傾げ、背後を見た。黒い手袋をはめた手がひるがえる。
 闇に潜んでいた別の気配が、いらだたしげに応じた。
「……殺れ」
 くぐもった男の声。
 なぜか唐突にいくつもの記憶が混乱した。いらだった声で因縁を付けてきたローエン、苦笑する銀髪の医師レイス、悲鳴を上げて死んでいったジェルドリン夫人――
 恐怖に見開かれた少女の青い目が、ふいに胸を突いた。
「何やってるんだ、早く逃げろ」
 追い立てられるかのように駆け戻って少女を突き飛ばす。
 少女はハダシュの行動に意表を突かれ、甲高い悲鳴を走らせて倒れ込んだ。手にしていたカンテラが石畳に飛び、ブリキの音をたてて跳ね転がる。まき散らされた油が一瞬にして燃え広がった。熱気に闇が引き縮んでゆく。
 その瞬間、恐ろしく重たいものが後頭部に振り落とされた。ハダシュの体が再度、石畳に跳ね返る。口の中が苦い血の味であふれた。痛みすら鈍くにしか感じられない。ハダシュはもがこうとして、ぶざまに痙攣した。頬にあたる石畳のざらついた感触に、鉄錆の生ぬるさがまじっていく。動けない。
「殺すな」
 再び、先ほどの男の声が切れ切れに伝わった。地の声ではない。わざと声色を変えている。
「後で使える」
「ずいぶんと買いかぶるのね。らしくもない。情が移ったの?」
 黒薔薇が嘲笑の声を上げる。
 ハダシュは倒れたまま、うつろに死を思った。足でこづかれ、乱暴に仰向かされる。無意識の呻きがもれた。のぞき込んできた白い顔が、すぐ横で燃えさかる火の陰影をうけ、残酷なほど笑っているのが見えた。
「ハダシュ、聞こえてる。目を開けなさい。この程度でくたばる男じゃないはずよ、貴方は」
 冷たい感触がひたひたと頬をはたく。赤く光るナイフが鋭い光の棘を振り散らした。
「ほら、目を覚まして」
 突き刺す痛みが走った。冷たく乾いたナイフの切っ先が、頬にうっすらと浅く血の線を切り裂いてゆく。にじみ出た血の珠が涙のように頬を転がりおちた。
「殺せ」
 身体がふるえる。絶望的だ。
「残念ね。人間って、そう簡単には死ねないのよ」
 力なくひらいたままのくちびるを、ナイフの先でもてあそばれ、切り刻まれる。血の味。意識が遠ざかった。ヴェンデッタの声ばかりがまざまざと近づいてくる。
「もっと激しく。刻みつけてあげるわ。心にも、身体にも」
 あやしく、優しく、恐ろしい吐息が耳に忍び込んだ。ほつれた髪が柔らかくなだれかかる。
「癒えることのない傷を」
 口を強引に割られ、ナイフを押し込まれる。舌が血にまみれて、うごめく。
 ヌルヴァーナ像の落とす死の影に押し包まれ、ハダシュは喘いだ。かすんだ目を押し開き、必死で月の光彩を探そうとする。しかしどこにもない。真っ暗闇だった。
「どうしたの。見せなさい、あの目を。血の色の輝きを」
 毒々しい声が揺すぶる。
「眼を開けなさい。そして私を見るのよ。貴方を殺す女の顔を」
 恫喝にも似た低いささやきが、ハダシュを圧していく。だが、何も見えない。身体も動かない。弱々しく呻く。無様だった。もう、何も、聞こえな――
「狼藉者、何事か。神妙にいたせ」
 突然、夜に突き立つかのような誰何の叫びが響き渡った。闇に流れる松明をかかげた警邏の騎兵が駆けすがってくる。ヴェンデッタは舌打ちした。気を失ったハダシュから飛び離れる。
「そこな者共、騒擾の罪につき神妙に縛につくことを命ず!」
 騎兵は松明を投げ捨て抜刀するなり、武装した馬ごと突っ込んできた。すさまじい馬塵と蹄の音に刺客一団はそれぞれがとんぼを切ってすばやく散開し、闇へと逃れる。首領らしき男の姿はとうにない。ヴェンデッタもまた、騎兵を睨み据えながら後退り、身をひるがえした。
 騎兵はあえて追いすがろうともせず、荒ぶる馬をなだめながら手綱を引き、傷ついたハダシュの横で馬首を返した。馬が鼻息も荒くいななき、蹄で石畳を掻く。
「姫、どちらにおわします!」
 女の声だった。女神像の袂に倒れていた少女がこめかみを押さえながら頭を振り、起きあがって手を振る。巨躯の女騎士は甲冑を鳴らし、地響きをたてて地面へと降り立った。ヌルヴァーナ像の台座よりも頭が飛び抜けてみえる。騎兵は兜を脱ぎ捨て、怒りと焦燥をにじませた険しい顔で少女に駆け寄るなり手を差し伸べて引き起こした。
「いい加減になさってください、ラトゥース姫。やんごとなき侯姫の身でありながら、なぜこのような危険な真似をされるのです」
「私のことはいいから」
 少女はよろめきながらも駆け寄って、ハダシュの側に膝をついた。手を口元に押し当て、あまりの悲惨さに悲鳴をもらす。
「この街は平穏な我らの都、ハージュではないと何度申し上げればお判り頂けるのか」
 女騎士はがみがみと叱りつつ手袋を脱ぎ、息を確かめるためにハダシュの鼻先へ掌をかざした。
 少女は気がゆるんだのか力なく笑った。
「ごめんなさい、シェイル。もう、抜け駆けは金輪際しないわ。よく分かった。まさか、こんなことが本当にあるなんて」
 女騎士は、濡れる月光のもと、翼を邪悪に広げ、豊満な乳房を剥き出して哀れな獲物へと食らいつくヌルヴァーナ像を侮蔑の眼で見やった。
「この堕落の街でひとりうろつくなど狂気の沙汰としか」
 吐き捨てながら、台座下で息絶えている他の死体横にかがみこみ手早く調べる。だが着衣や所持品に手がかりは何もなかった。むっつりとして、血の臭いから顔をそむける。
「自警団に連絡せねばなりません。それと、この男は――」

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