血と薔薇のシャノア

7 夜の果て

 ラトゥースがシェイルや神官たちと共に駆けつけたとき、既にハダシュの姿はなかった。
 質素な墨衣をまとう太陽神マイアトールの神官たちが遠巻きに見守るなか、翼ある蛇の杖を手にし、全身を白一色の巻衣で包んだ死の女神ヌルヴァーナの祭官が白と黒の骸布にくるまれたギュスタの遺体を取り囲み、鉦を鳴らして鎮魂の呪誦をあげた。豪雨の中、おごそかに花が撒かれ、泣き声が送られる。だが、そんなささやかな弔いさえ一段と激しさを増す雨に追い立てられ、早々に切り上げられてしまった。
 皆、逃げるように散ってゆく。浄めにまかれた花びらが、雨に打たれ泥によごれて、無惨に踏みにじられている。空をどよもす遠雷が聞こえた。ラトゥースは水しぶきの弾ける運河のほとりに立ち、食い入るように水面を睨みつけていた。漆黒の運河に雨の波紋が広がり、波音と雨音に消され、打ち寄せては呑み込まれる。
(何もかも奪われて、何もかもなくして、それでも平気でいろっていうのか)
 叩きつけるようなハダシュの叫びが思い出される。あのハダシュが子どものように震えていた。呪わしい捨てぜりふを口にしながら、今にもはりさけそうな眼をしていた。どうして気付いてやれなかったのだろう。ギュスタも、ローエンも死んだ。他にたくさんの人々が命を落とした。ハダシュが袂を分かつ理由の痛々しさに、言い表しようもない絶望感、無力感だけがつのってゆく。雨のしずくが前髪を伝っては頬にこぼれおちた。拭っても、拭ってもとめどなく続く。ふと、背後から堅い靴音が近づいた。
 ローエンの検視をすませたシェイルが襟を立てた濃い色のコートをまとい、ランタンを手に歩み寄ってくる。
「姫、そのままではお風邪を召します。雨套衣を」
 帽子と折りたたまれた黒いマントを差し出される。
「ありがとう」
 ラトゥースは無意識に応えたが、自ら袖を通そうとはしなかった。
「我々にはまだ為すべき事があります」
 シェイルは声を押し殺した。ラトゥースの痩せた肩にマントをまわし掛け、子どもを相手にするときのように無理やり帽子をかぶせる。最後に、雨に濡れぬよう革のケースに差し込んだ銃を差し出す。
 ラトゥースは打ちひしがれた様子を隠そうともせず、シェイルを見返した。
「何をすればいいの」
 シェイルは答えない。ラトゥースは仕方なく銃を受け取った。それはハダシュに奪われ、そのまま櫓の踊り場に忘れてきてしまった自分の銃だった。よく見れば弾も込められていない。火薬も入っていない。安全装置すら外されていなかった。
「死んだ男の懐から、窮民法に関するレグラムの念書の写しと思われる書きつけの一部と”竜薬”らしき微量の粉末が付着した紙包がそれぞれ発見されました」
 シェイルがふいに言った。ラトゥースは眼を押し開いた。
「その他、黒薔薇の仲間であることを示す刺青が腕にありました。陛下を襲撃しようとした刺客の刺青と同じです」
「毒物を混入させた実行犯……あの男が……?」
「いえ」
 シェイルは低く続けた。
「二つの可能性が考えられます。ひとつは姫の仰るとおり。もう一つは、全てがハダシュの狂言である可能性です。すべての罪をあの男にかぶせ……」
「そんなことあるわけがないわ」
 ラトゥースはかぶりを振った。
「絶対にない」
「ならばなぜ逃走しなければならないのです」
「それは……!」
「我々に出来ることは」
 シェイルのするどい眼がラトゥースをとらえる。
「逃げたハダシュと黒薔薇を捕らえ、真実を解き明かしたのち、共に断罪することです」
「逃げたんじゃないわ」
 ラトゥースは反射的に声を高めた。
「黒薔薇を追っていったのよ。ハダシュは、黒薔薇が次に狙うのは巡察使の私だと言った。よく分からないけど、でも、何か――黒薔薇が、私や義父上を狙う理由に心当たりがあるようなことを言っていたわ。ハダシュがかつて悪に与していたことは間違いないし、それは許されるべき事じゃない。でも、今のハダシュは違うわ。だって、言ってくれたんだもの、私を信じてくれるって、そうやって言ってくれたんだもの、絶対に……」
「お戻り下さい」
 慇懃ではあるが、断固とした口調だった。
「明日早朝、巡察使権限による臨検がございます。姫にも当然おいでいただかねばなりません」
 ラトゥースは顔をそむけた。拗ねたようにうつむく。
「私はハダシュを探すわ」
「まさか任務を放棄なさるおつもりではありますまいな。黒薔薇と奴隷商人の結託をお忘れですか」
 書類ばさみを取り出しながらシェイルは容赦なく言った。
「ニール経由、南回り航路で出航予定の船団がございます。ルイネード船籍外洋船エウロラ号、随艦二隻および食料補給艦一隻。船主はジョルゼオ・ベルナーリほか、
「冒険商人組合」名義での登録です。積み荷は主に黒羅紗、ガラス、金細工、アルコール、随艦は窮民法に基づく移民船。出稼ぎの船です。行き先はサウヴィー。帰路にバクラント寄港、アンサール産の乳香、没薬、珊瑚、白金、黄金、香辛料、カシア等で交易、とあります」
 ラトゥースは無意識に聞かされた単語を繰り返した。
「アンサールのサウヴィー、移民船、バクラント経由……」
「追補として、ダージ軍港所属、五等フリゲート二隻を護衛船として随行させる旨の許可申請がルイネード侯ガストン・ゴーティエ、シャノア総督レグラム連名で出され、現在すでにシャノア入港を受理されております。書類に不備はございませんが」
 シェイルはそこでいったん言葉を切った。不審そうに書類から目をあげる。
「護衛にしてはやや過剰、おそらく私掠船も兼ねているものと」
「宰相閣下が私掠船を許しているという話は聞かないわ。ルイネード侯の専行かしら。見せて」
 ラトゥースはわずかに目を底光らせた。シェイルの手から書類を取ってぱらぱらとめくり、航路図と寄港予定地の滞在日付を確認する。
「今頃出て間に合うのかしら」
 雨の波紋にさざめく運河をぼんやりと見渡してつぶやく。
「アンサールに向かう船は大概、ヒポラスの西風が吹き始める季節までにはバル・デハルの海峡を抜けておくというのが通例だと思ってたけれど」
 シェイルは驚きの顔でまじまじとラトゥースを見下ろした。
「仰せの通りです。申し訳ございません。ではただちにその旨問いただして」
「いや、待って」
 ラトゥースは首を振った。すばやく制する。
「臨検は予定通り明朝一番でいいわ。逆に急に動いて気付かれては困る。
「冒険商人組合」共有船主の名簿はあるかしら」
「間に挟んでございます」
「あらやだ、ほんとだ、ごめんなさい」
 ラトゥースはランプと鼻先がくっつきそうなほど書類に顔を寄せた。雨ににじんで読みづらくなった名簿をめくる。
「組合員一覧、一覧と。でも、この護衛船二隻は気になるわね。ええと、建造年月日はと、あらら、ずいぶんおんぼろさんね」
 ラトゥースは眉間に皺を寄せながらさらに調べ続けた。指先を書類に這わせ、一人ずつ名前を確認しながらつぶやく。
「じゃ、さっき見たあの船がおんぼろ五等? ずいぶん立派な後甲板が見えたように思ったけど……ううん、あれは絶対に五等フリゲートなんてものじゃ」
 ラトゥースは唐突に口をつぐんだ。シェイルが姿勢を正す。
「どうかなさいましたか」
「どうもこうもないわ。見てよこれ」
 怒りもあらわに名簿の書類を指さす。
「これ、カスマドーレの船よ。本艦のエウロラ号だけは冒険商人組合名義だけれど随船の船主は全部カスマドーレじゃない。それも船種未定って。やられたわ。まったく」
 するどく眼を細めて考え込む。
「ということはつまりどういうこと。この商船団は単なるおとりってこと?」
「船種や行き先を擬装したルイネード船籍の軍艦に出港許可を出せるのはレグラムだけです。おそらく出港時にはこのとおりの編制となっているでしょう、ただし実際にどの船がどの港からいつ出航するか分かったものでは」
 シェイルはラトゥースのおそるべき考えを引き取った。
「しかし、これほど大それた企みをたかが刺客ごときに仕組めるとは思いません」
 ラトゥースはかぶりを振った。
「何者かが背後にいるのよ。聖堂で供された食事に混入した毒物は”竜薬”だった。我が国には”存在しない”はずの毒物よ。どこかに本当の首謀者がいる。黒薔薇を影で操り、レグラムやカスマドーレを手玉にとって事を運ばせようとした首魁が」
 時に挑発的な笑みさえ浮かべながら、ラトゥースは彼方の海を振り返った。やにわにすべてが動き始める。ラトゥースはシェイルに書類を突っ返すなり厳しい表情で命じた。
「エウロラ号の船長を捜して身柄を拘束して。容疑は別件で良いわ。暴行でも執行妨害でも何でも、因縁付けて引っ張ってきて。とにかく出航を遅らせることができればそれでいい」
「はっ」
「私は港を調べてくる。明け方までには必ず戻るわ」
「単独行動だけはなりませんと、あれほど申し上げたのに……何度言えば!」
 シェイルが険しい表情でラトゥースの腕を取ろうとした。ラトゥースはさらっと笑って機敏に身をかわす。
「大丈夫、ちょっと見てくるだけよ。何もしないわ。何かあったらすぐ連絡するから」
 焦るシェイルを差し置いてラトゥースは腰につるしたホルスターに手をやり、ぐいと引き起こして位置を整えた。古めかしい傷だらけのベルトの下から、飴色の木地を金銀と白の紋章でいろどる銃床がのぞく。
「これがあるから大丈夫」
 ラトゥースは身をひるがえすと、一直線に雨の中へと飛び込んでいった。
10
 ラトゥースは暗い倉庫街を伝い歩いていた。帽子を目深にかぶり、降りしきる雨に鴉色のマントを暗く光らせながら壁際を選んで進んでゆく。ときおりブーツが水たまりを踏んで、不自然なほど高い水音を飛び散らせた。雨のにじんだ灯りは遠く、足下も暗い。修理もされず斜めに傾いでいるせいで遠近感が狂って見える建物ばかりが次々と恐ろしげに迫ってくる。ひとり孤独に陋巷を歩いていると、不意を打って木戸を閉じ伏せる音にさえ足をすくませずにはいられないような、そんな気ばかりがした。ハダシュの目には、このような世界しか映っていなかったのだろうか。ラトゥースは身震いしてマントの襟をかきあわせた。首を振り、つば広の帽子にたまった雨のしずくをざっと振り払う。黒い羽根飾りが惨めに貼り付いていた。
 倉庫街を抜け、大小の商船で埋め尽くされた広い船積み場に出る。無数に林立するマストやだらりと垂れ下がって風に揺れる何本もの帆綱。手前には乱雑に重ねられた空の木箱、黒く黴びた樽、破れた麻袋などが無造作に放り出され雨に打たれている。聞こえてくるのは陰鬱な材木の軋みばかりだ。係留された貿易船の胴に打ち寄せる波が、巨大な船体をゆったりと傾がせているのだった。濡れそぼった船標がわびしく吹き流れている。
 何隻もの帆船、洋梨形のフリュート船が係留されている埠頭を、ラトゥースは護岸に沿って歩きながらゆっくりと見てまわった。行く手に小さな灯台が見える。人工的な色をした光が海面を横切るたび、吹き降りの白い線と荒れた波が斜めに浮かび上がった。どの明かりも冷たい雨にさらされ、今にも立ち消えてしまいそうだ。ポケットに手を入れ、どっぷりと暗い夜を見上げて、濡れるのも厭わずぼんやりと立ち止まる。以前訪れたときは――
 ラトゥースは記憶をたぐった。辟易するほどの賑わしさにあふれていた気がする。
 荷を降ろす間も惜しんで売り買いする声。出来の悪い乗組員しか集まらぬことに苦悩する船長たちの立ち話。船縁からふいにのぞく、目をぎょろつかせた異国の顔。
 色とりどりの絹や紗々や毛織物。きらびやかな宝石、香辛料。南国の巨大な獣を連れた外国人もいれば鳥籠に飼われたしゃべる鳥もいる。そこかしこで丁々発止の交渉がなされ、時には剣で、時には銀貨で片を付ける。かごから逃げ出した豚や鵞鳥を必死の形相で追い回す子供がいたかと思えば、下船を禁じられた雇われ水夫を目当てに出入りする娼婦たちの胸も露わな衣装の食い込みに目のやり場をなくし、あまりのかしましさに目を奪われよそ見した挙げ句ぶつかった相手には怒鳴られ脅しつけられあわや掠われそうになったところを逃げまどう――それらに比べれば、人気ない夜闇の波間に揺れる船は、まるで死の海にただよう墓標のようだった。
 ようやく、書類にあったエウロラ号の係留場所にたどりつく。船標には
「冒険商人組合」の紋章が染め抜かれていた。満載喫水線の水没具合から、船倉にたっぷりと荷を積み込んだ出港間際の状態であることも解る。かなり大きな船だ。
「いったい何だって言うんだ、あの野郎」
 バクラント語。ラトゥースはとっさに身を伏せた。一瞬、どこから声が聞こえてくるのか分からなくなり、すばやく四方を見回す。少し離れたところに、直径が一抱え以上もあるような巨大な丸太が樹皮もはがされないまま野積みにされているのが見えた。身を隠すには十分すぎる陰だ。すぐさま暗がりに飛び込んで息をひそめる。
「おい、滅多なことを……じゃねえ」
「あの黒い刺青の……に……されるぞ」
 ふいに灯りが揺れた。複数の姿声がどやどやと船上に現れる。肩にロープを掛けた男が船縁にうずくまり、何やらほどく仕草をしたかと思うと立ち上がって手を振った。舟板をかついだ数人が板を送り出し始める。
「せっかくのお目こぼしだ……楽し……とな」
「……無しの……が何言ってやがる」
「ちっ、……の分際で……ってんじゃねえよ」
 男達が喋っている内容は、外国語訛りがきつすぎてほとんどが聞き取れない。ラトゥースは舌打ちした。純粋なバクラント語というわけではなさそうだ。明らかに北方系の方言が混じっている。
(彼らの造船航海技術が沿岸航行に限られ、遠洋航海による貿易が主流の現状に適応しきれなかったのは、我が国にとっても彼らにとっても幸いでございました。さもなくば両国は制海権を巡って終わりない争いを繰り返し、疲弊し続けたでありましょう)
 王国経済の発展を語るとき、学習院の年老いた教師は折に触れてバクラントを引き合いに出し、比較して論じた。だがそれゆえに、と釘を差すことも老師は忘れなかった。
(伝統と格式を重んじる鎖国国家バクラントが、既存の権威、宗教体制を破壊しつつ交易および産業立国によって急速に地盤を固めてきた新興の隣国たる我が国に脅威を感じるようになったとしても、それは何ら不思議ではございません――もし、バクラントが諸外国との通商貿易による交流と隆盛ではなく、行き過ぎた敵愾心をもとに国威宣揚を狙おうとするならば)
「このまま脱船しちまうか」
「殺されるぞ」
 下卑た笑いがはじける。降りてきた水夫たちの姿はほぼ一様だった。
 袖のない革と毛皮の胴着にたぶだぶの半ズボン、首にバンダナを巻き、紐のついた鼠色の毛糸帽子をかぶっている。髭だらけの顔に毛むくじゃらの腕と脛、やたら目立つ黄色や緑の靴下を穿き、靴は汚れたキャンバス。そろいもそろって恐ろしいほどの巨躯を揺らしている。間違いない。北方人だ。ラトゥースは去ってゆく水夫とエウロラ号の双方に目を走らせた。舟板はかけられたままだ。忍び込むなら今しかないと思いつつ、遠ざかってゆく水夫たちの気配にも焦りを覚える。どうしようか迷ったとき、エウロラ号の甲板に青い吊りランプの光が浮かび、視界を横切りながら奥に消えた。乗員が残っている。
 ラトゥースは意を決した。息をひそめ、ゆっくりと水夫たちの跡をつけ始める。彼らの喋る内容を聞くことで何か新しい情報が手に入るかもしれない。もし気付かれたらと思わないでもなかったが、その不安は雨が打ち消してくれた。もとより水夫たちはまったくといっていいほど身辺に注意を払っていない。相変わらず声高にしゃべり、時に笑いをあげながら入り組んだ倉庫街の路地へ入っていく。ふと――
 さほど遠くないところで犬が何かに吠えついた。獰猛な呼吸が鈍い音をたてて走り抜けてゆく。続けざまにバケツか何かが壁にぶちあたって跳ね返り、二転三転したような音が響き渡った。鳴き声が裏返る。甲高い悲鳴が唐突に途絶えた。残酷な静寂が戻ってくる。ラトゥースはぞくりと身を震わせた。唇を白くなるほど噛みしめ、なぜかしらこみあげてくる恐ろしさを押し殺して、周りを見渡す。振り返っても他の気配はない。雨音だけが耳元を流れ落ちている。
「考えすぎね」
 苦笑いして再び進み始める。
 その足元を、かすめるような黒い影が横切った。
 男たちの濡れた足音がひびく。孤独だった。時間の感覚もない。ここがどの辺りなのかも分からなくなりつつある。潮っぽい藻やフジツボがびっしりと貼り付いた石橋の袂をくぐり、ぬかるみを蹴散らし、手すりもない急な九十九折りの階段を登り、下り、まさに街の底辺と言っていいような泥道を水夫たちは歩いてゆく。
 ラトゥースは感情を押し殺し、水夫たちのあとをつけ続けた。シェイルとの連絡手段がないことに気付いてはいた。孤立無援状態での深追いは禁物だということも。だがいくら頭では理解していても、心は闇を歩くよりはるかに杞憂な焦燥に追いつめられ急き立てられるばかり。どうしても追跡を止めることができない。他のことなど何一つ考えられないほど悔やみ、恐れているというのに。やり場のない苦衷だけが堆積し、胸の奥底で無闇に出口を探しては声にならない軋みをあげている。先の見えない無謀な行動を取っていると分かっていてなぜ続けるのか、自分でも分からなかった。感情を抑圧し麻痺させた今の状態で冷静な状況判断を下せるとも思えなかった。できるわけがない。何をどうしたらいいのか、まったく分からない。分からぬままに、ただ、誰かの影を探して追いすがっている。
 ラトゥースは雨を仰いだ。ため息が落ちる。
「どこにいるの、ハダシュ」
 思うまい、考えるまいと耐えてきた名が無意識にこぼれる。あわてて口をつぐむが間に合わなかった。限界まで張りつめていた心の糸が緊張に耐えきれずふつりとちぎれる。
 任務に没頭さえしていればこみあげてくる感傷を圧殺できるはずだった。しかしひとたび恋々たる思いにとらわれてしまえばもうハダシュの暗い面影と垣間見せた笑顔ばかりがやたら目の前にちらついて、どうしても消し去ることができない。ラトゥースは自らの愚かしさにきつくくちびるを噛んだ。自分が今何をしているのかようやく自覚する。水夫のあとを付けあわよくば情報を手に入れようと企図したつもりでいながら、その実、杳として行方の知れぬハダシュをただあてどなく探し、求め、彷徨っているだけだ。
 胸がつまって、ひどく苦しい。初めて逢ったときのハダシュはまさに手負いのけものだった。身に染みついた血のにおい、虐待じみた背の刺青、総毛立つ眼の色。何もかもが異様で、追われる者特有の自暴自棄な態度をあらわにしていて。話を聞く耳すら持とうとしていなかった。
 ラトゥースは震えだしそうな思いを噛み殺した。次に黒薔薇と会えばハダシュは――
「そんなこと、絶対にさせない」
 決意のかたちに唇を強く結び、帽子を目深に引き下げる。どこかでぴしゃりと水が跳ねた。身をこわばらせ振り返る。にわかに雨足が強くなった。横殴りの吹き降りにあおられ、濡れて重くなったマントが激しく空をはたきつける。ラトゥースは帽子を斜に押さえ身を低くして闇を凝視した。誰かいるのか、それとも。息を呑む。後ずさり、手を腰の銃近くへ置いて、いつでも抜き撃ちできるよう堅く握り込む。心臓の乱れ打つ音が身体の中でさらに高鳴った。耳を限界までそばだて、鋼鉄の弦のように意識を研ぎ澄まし、雨音にまぎれているかもしれない別の音を、息を殺し、探る。
「一体いつまで歩かせる気だ」
 水夫たちが不平そうに言い交わすだみ声が聞こえた。思ったよりかなり遠ざかっている。ラトゥースは焦って声のする方向へと目を泳がせた。
「返事しろよ」
「何黙り込んでる」
「まさか周旋屋に行く気じゃねえだろうな」
 水夫たちの態度がおかしい。見慣れぬ装いの男を全員で取り囲み口汚く罵っている。
 中央の男は悠揚と立ち止まった。
「そう急くな。結構な上物が掛かっている」
 ぞっとする低い声。
 まさか。ラトゥースは息をすすり込んだ。気が付かなかった。いつの間に紛れ込んでいたのだろう。雨に濡れた銀狐色の髪。足下まである漆黒のコートをまとい、反り返った凶悪な刀剣を手に下げた恐ろしく背の高い男が、こちらに背を向け、立ちつくしている。ひどく見覚えのある後ろ姿――
「まさに一国の首都と引き替えるにふさわしい獲物だ」
 男はゆっくりと振り返った。
 白く光る眼鏡のかたち。嗜虐のかたちにつり上がった唇が、まぎれもなく端正なバクラント語を発する。ラトゥースは絶句した。傲然と石油のごとく燃える眼がラトゥースを見下ろしている。この声。この顔。記憶が一気に巻き戻されていく。だがそんなことは絶対にあり得ない。あるはずが――
 ラトゥースは混乱する思考に圧倒されながらも銃を持つ手を突っ走らせた。とたん、闇がごうっと渦を巻いて襲いかかった。凄まじい太刀風が雨を断ち切る。男は一瞬でラトゥースの眼前に降り迫った。信じがたい手練れの所作に愕然とする。
「残念です、姫」
 口の端を陰惨な笑みに染め――
 銀の髪から雨の水しぶきが奔りつく。剣に断ち割られた銃が悲鳴のように宙を舞った。一撃で打ち砕かれたラトゥースの身体が無惨に跳ね上がった。もんどり打って後頭部から地面に激突する。真っ二つに切り裂かれた帽子が、風に煽られて点々と転がった。
「お、おい」
 目の前でうち倒され意識もないラトゥースの姿に、さすがの水夫たちも及び腰になって後ずさる。
「だれだその女」
「貴様らの知ったことではない」
 銀髪の男は、半ば水たまりに沈んだラトゥースの頬を容赦なくブーツで踏みにじった。苦痛に歪む青白い顔がみるみる泥にまみれ、汚れていく。濡れそぼった髪の下、こめかみ辺りから血があふれるように流れていた。胸元に下げた王直下の証である巡察使の紋章が、銀の光を放ってこぼれ出る。紋章に目を止めた男は、無表情にペンダントを引きちぎり、排水溝の闇へと投げ棄てた。ラトゥースは動かない。気を失ったままだった。
「裸にして縛り上げろ。顔と身体には決して傷を付けるな。それ以外は好きに嬲っていい」
 背後から獣のような唸りがあがる。我先にと群がる荒々しい喘ぎに戦慄のうめきが呑み込まれた。
「船に積み込んでおけ」
 男は、うすく笑って眼をほそめた。

11
 頭上に舞う黒衣の天使。罪を犯した者を残酷に指さしてはひそひそと笑っている。降りしきる嘲笑はまるで星くずのよう。お前はいつか死ぬ。お前も。お前たちも。まだ笑っている。鈴を振るような優しい笑い声がさんざめいている。天使たちが自分を見た。笑っている。やわらかな指先がつめたく罪を指し示す。意識が戻れば、きっと、自分も。
 ラトゥースは、かっと眼を押し開いた。視界が渦を巻いてゆがんでいる。全身を、ぐったりと汚泥のような熱が取り巻いていた。口の中に残るおぞましい泥の味。衣服はすべて奪われている。ただ、両手首につけられた枷だけが鉄錆混じりに鳴った。壁に吊り下げられている。
 途端、記憶が絶叫のようになだれかかってきた。こみ上げてくる嘔吐感に身を折りかける。下卑た笑い声。毛むくじゃらの手。闇。悲鳴、突き刺さる恐怖――必死でそれを意識から振り払う。状況の把握が先だ。麻痺した感覚が辛うじて理性を保てと告げている。幸いなことにまだ生きていて、絶望以外の痛みはない。それさえ分かれば十分だった。泣くのも、死ぬのも、その後でいい。
 狭い部屋だった。異様に低い天井がまず目に付く。じりじりと苦い煙を沸き立たせる鯨油ランプ。どぶねずみ色の背もたれと座面をもった四角い椅子。木の腐ったような不潔な臭いが充満していた。どことなく眩暈が残るような気がするのは不安定に揺れているせいだろうか。
 奥の壁には作りつけらしき雑木の机。机の閉まりきらない引き出しからは革ベルトと銃が垂れ下がっている。窓もない薄暗い一室全体が、ぐらぐらと上下左右に傾いている。どうやら船の内部らしい。おそらくエウロラ号ではないだろう。岸壁に係留されたままの商船、更に言えばいつ臨検が入るかもしれない船内に巡察使を拉致するほど黒薔薇もあの男も愚かではあるまい。と、すれば随船のほうだ。
 蠅の大群が唸るのにも似た笑い声が聞こえた。扉が開いた。一瞬、外の様子がかいま見える。
 男たちの笑い声がどっとわき起こる。ラトゥースは思わず身をすくませた。だがすぐにそれが自分に向けられたものではないと気付く。扉一枚を隔てた向こう側は下甲板らしかった。
 身の毛もよだつ光景が展開されている。何ヶ月もわたって不衛生きわまりない環境下で外洋航行を行う貿易船や軍船においては、その劣悪な労働条件ゆえ、たとえ船が港内にあったとしても脱走防止のため乗員の下船が許されないと聞く。その代わり、陸から娼婦や男娼を――
 うごめく肉と肉がそこかしこで重なり合っている。濡れそぼり、こすれあい、恥部を剥き出しにして貪りあう餓えきった獣そのものの姿にラトゥースはくぐもったうめきをもらし、目を背けた。あまりのおぞましさに正視すらできない。
「貴女も似たようなものよ、ラトゥース・ド・クレヴォー」
 しなやかにすべり込んできた黒衣の女は唐突に言い放つなり後ろ手で戸を閉めた。
 ラトゥースは燃える視線を持ち上げた。逃げられないことは分かっていた。両腕を頭上で組まされ、壁の吊り具に固定されている。腰にも足首にもロープがからまり、動けない。半ば磔の状態だった。それでも、汚れた唇を余裕の形にひきつらせて言い返す。
「縛られてなおもがくのは騎士としても一国の姫としても潔い姿とは言えないと思ってね」
「死ぬと分かってもまだそんなことを言えるのかしら」
 女は口元を黒い布で覆い、腕を組んで斜に立ち構えている。
 ラトゥースは相手の眼を見つめ、不屈の笑みを浮かべた。
「殺せるものなら殺してみたらどう、黒薔薇のヴェンデッタ」
「あら」
 女は顔を隠す頭巾を取り払った。身体全体にまとった凍り付くような佇まいさえなければ、美しすぎると評してもいい顔のつくりだった。あまりに完璧すぎて、少しでも傷がつけば全てを損ねてしまいかねないような、そんなあやうい印象さえ与える面差しがラトゥースをほの暗く見つめている。
「見た目によらず骨があるのね」
 黒薔薇は、肘上まで届く黒い革手袋の先を神経質な仕草できっちりとはめ直した。手首のボタンを止め、細い三連の鎖を揺らして優雅に響かせる。手袋の上からはめた古い指輪が黒く光っていた。つづいて掌に収まるほどの小さなナイフを銀の鞘からゆっくりと抜く。身をよじる鳥の形をした銀覆輪に細めの鎖が通っていた。鎖が指に絡まって繊細な音を立てる。
「壊してしまえば脆いと思ったけれど」
 ラトゥースはしれっとした薄笑いを浮かべるだけして相手を見返す。黒薔薇はダーツの矢で遊ぶかのようにナイフを右、左と指先であやつり、ふいに手をひらめかせた。軽い音をたててナイフが壁に突き立つ。鎖が跳ね返ってラトゥースの頬を打った。ラトゥースは動かない。
「私をどうする気」
「もちろん、ゆっくり嬲り殺してあげるわ」
「随分と安く見られたものね」
「下手な強がりは命を縮めるもとよ」
 黒薔薇はおもむろに歩み寄ってきて右手を伸ばし、ナイフを引き抜いた。手袋の下に包帯が巻かれているのを、視界の隅ですばやく確認する。
「怨みを抱いて死ねることがどれほど幸せか、知りもしないで」
 突っ張った手を耳近くの壁に置き、わざと目線をさげる嘲笑の仕草で、黒薔薇はラトゥースの眼をのぞき込む。
 ラトゥースはその顔めがけて唾を吐きかけた。黒薔薇は狐のように含み笑った。
「気の強い子」
 手の甲で頬についた汚れをゆっくりと拭い取る。ふいに眼がどす黒い怒りを含んでぎらりと燃え、ラトゥースの頬を張り飛ばした。指にはめた指輪が目元をかすめる。皮膚が裂けて血の小粒が飛んだ。
 ラトゥースはうめきを噛み殺した。かろうじて踏みとどまり、皮肉にかぶりを振る。
「殺すなら今すぐにでも殺せるはずよね。どうして殺さないの?」
 濡れて乱れた髪の下から見上げる。
 黒薔薇の暗くかげった眼差しに、揺らめく炎が映り込んだ。
「残念ね。下らない時間稼ぎに付き合う気はないの」
 案の定、黒薔薇は眼の奥の光をするどくさせたが、すぐに刺をかき消し、籠絡の笑みに取って代えた。
「すぐに貴女は死ぬ。でも安心してくれていいのよ。死ぬのは貴女ひとりじゃない。貴女もよく知っている男が、いざなえるヌルヴァーナの宵闇をともに歩いてくれるわ」
 ラトゥースは思わず相手に眼を走らせた。皮肉な視線にぶつかる。胸の奥底がざらりと毛羽だった。反射的に目を伏せる。触れられたくない部分を無理やり暴かれ探られている気がした。
 黒薔薇は嫣然と笑った。
「あら、誰のことだと思ったのかしら」
「ふざけないで」
 からかうような物言いに、つい声を荒立てる。
 黒薔薇は眼を優しくなごませた。
「ハダシュならすぐに戻ってくるわ。貴女がここにいるのがその理由よ。彼は絶対に戻ってくる。そうせずにはいられないのよ、彼は」
 背後から見えない氷の刃を突きつけられたような、そんな恐怖にかられてラトゥースは口をつぐんだ。隠さなければならない感情を見破られてしまったことに、今さらながら痛烈なほぞを噛む。だが、知られてしまったのなら逆に隠す必要もない。圧倒的優位を敵が確信しているのならまだ付け入る隙はある。ラトゥースは賭に出た。
「いい加減にして。これ以上ハダシュを利用しないで」
 黒薔薇は小馬鹿にしたような短い息をついた。くちびるがつり上がる。身体の奥深いところから流れ出す血のこごりにも似た、深紅のためいき。
「利用――それはまたつまらない誤解をしたものね。私たちは利用しあっているだけ。互いにね。男と女ですもの」
 黒薔薇は、慈愛に満ちた眼の奥底に陰惨な本性をにじませ、ラトゥースの頬に手を添わせた。
「一度抱かれてみたら分かるわ。分からないなら、それはあなたがハダシュの本性を知らないだけ。彼はね、そういう男なの。抱いた女をめちゃくちゃに潰して殺すか、女にぼろぼろに踏みにじられるか、どちらかでしか充足を得られない。互いに殺したいほど憎んで、憎み合ってからじゃないと女を抱けないのよ、彼は」
 ほっそりとした指先が、ラトゥースの頬に落ちる血をぬぐう。
「触るな、陋劣な」
 ラトゥースはからみつく黒薔薇の指から逃れようとした。
 血の付いた指がぞわぞわとラトゥースの唇を弄ぶ。捕まえた鼠をなぶるに似た、柔らかく、それでいて残忍な仕草だった。ぐいと頬を鷲掴みにされ、乱暴に振り向かせられる。ぞっとする眼が間近にあった。ラトゥースは歯を食いしばり、まとわりつく視線を振り払った。目を合わせば何もかも見透かされてしまう気がした。
 ラトゥースは眉根をひきしぼって黒薔薇を睨み付けた。
「今さら何を画策しても無駄よ。私が戻らないときにはすぐに部下が港を調査にやってくる手はずになっている。無駄な足掻きなんかせずにおとなしく観念なさい」
 黒薔薇はナイフを手にあそばせながら微笑んだ。ラトゥースの頬に手を沿わせ、冷然と顔を寄せる。
「まだ、信じてるの。可哀想な子」
 切っ先がいたずらに耳朶を突いた。
「誰も助けになんて来ないのに」
 ラトゥースは身体の芯が凍りつくのを感じた。耳元で鎖がむなしく空鳴り続けている。
「そんなものは虚しい幻想よ。どんなに助けを求めすがっても、救いの手は差し伸べられない。誰も、来ない。誰も助けてはくれないの。貴女にも教えてあげるわ――見捨てられる恐怖を」
 動けなかった。耳の後ろをつたい流れる生ぬるい血の感触に全身が総毛立つ。あまりの痛々しさになぜか身体がひどく震えて止まらなかった。嘲笑と憎悪の切っ先で自分を脅迫しているはずの黒薔薇が、おそろしく空虚な存在でしかないように思える。もし迂闊に触れればたちどころに崩れて消え失せてしまいそうな、そんな張りつめた堪え難い脆さ。
「私たちは王都ハージュへ向かう。もちろん貴女にも同行してもらうわ」
 黒薔薇は何事もなかったかのように言葉を継いだ。凍える微笑みが吐息とともに耳へ吹き入れられる。
「あの美しい湖に”竜薬”を流して、都を滅ぼすの」
「そんなこと絶対にさせない、させるものですか!」
 ラトゥースは恐怖の眼を黒薔薇へと突き刺した。エルシリアの都ハージュは湖のほとりに築かれた森と湖の街だ。汚染された湖の水が街に行き渡ったらどうなるかは火を見るよりも明らかだった。
「勘違いしないで」
 黒薔薇は水笛のように喉を震わせて笑った。
「大逆を犯すのは私じゃない、貴女よ。貴女には格別な味を教えてあげる。自虐にまみれた絶望、死に逝く者たちの呪わしい悲鳴をたっぷりとね」
「なぜそんなことをする」
 問いつめたつもりの声が不様に震える。聖堂を死の帳で包み込んだ恐怖の記憶が甦った。すすり泣く声。痙攣し地面を打つ手足。積み上げられた死体からは鼻を突き刺す異様な臭いが漂い、次々と運び込まれてくる被害者は次第に手がつけられないほどの数となってベッドを床を地面さえ埋め尽くして横たわり、呻き――ラトゥースは憤りの涙を結んで歯を食いしばった。
「あの人たちに何の罪があったというの。そんなに殺したければ私を殺せばいいでしょう。私一人の命で済むなら好きなだけくれてやる。何人殺せば気が済むの」
 それを聞いた黒薔薇は口元にうっすらと笑みを掃いた。
「さあね。貴女一人で十分なのかもしれないし、もしかしたら世界中の人間を殺してもまだ飽き足りないのかもしれない。この耐えがたい血の渇きを癒すには」
 言いながら指先をゆたかな胸元に差し入れる。まとわりつく死の気配にも似た薔薇の刺青が青白い肩口にちらりとのぞいた。細い煙草いれを取り出して甘い香りの漂う一本を抜く。思わせぶりな視線がラトゥースを見下ろしていた。
「逆に尋ねるけれど、ハダシュと私は何が違うのかしら。あの男は私の目の前でジェルドリンを殺し、ローエンを殺した。麻薬におぼれ酒色に呑まれ、ほんの一時の快楽を買うために何十という命を容赦なく奪ってきた。そんな血まみれの殺し屋と私と、いったい何が違うというの」
「違う」
 ラトゥースは何度も頭を振った。
「違うわ、もう違う。ハダシュは」
「ずいぶん純情なのね」
 黒薔薇は煙草の端をナイフでちぎった。火が点けられる。眩暈のする紫煙が漂った。匂いが天井まで立ちのぼる。深い闇の瞳がふいにラトゥースの視界を覆い尽くすほどに近づいた。ラトゥースは驚いて顔を背けた。
「好きな相手ならたとえその男が人殺しでもいいの。本当に、許せるのかしら」
 火の点いた煙草を挟んだ妖艶な手が下腹部に触れた。潜り込んでくる。ラトゥースは恐怖の声をあげ身体をよじった。鎖の音が悲鳴のように響き渡る。突然、くちびるに何か固いびんのようなものが押し当てられた。ぞっとするほど甘く熱い味がどろりと流れ込み、喉にからみつく。そのまま、くちびるを塞がれ、煙を吹き込まれる。ラトゥースは咳き込んだ。飲んではいけない――吐き出さなければ、いくらそう思っても刺激に初心な身体を弄ばれる恐ろしさに抗えなかった。口の端からあまやかな毒がこぼれ、したたり落ちる。
「……な、なに……したの……」
 身体の奥底が、ぞくりとうごめいた。ふるふると乱れ髪を揺らがす。膝が震える。力が入らない。心臓がやにわに熱く悶え打ちはじめるのが分かった。
「あ、あ……」
「貴女に邪魔されさえしなければ、ハダシュは生まれ変われるはずだった」
 ひそやかに高ぶるあやうい声で黒薔薇はささやいた。
「貴女さえいなければ。今頃はもう血の快楽を糧に生きる闇の世界の住人になっているはずだった。私とともに生と死の極限に到達しているはずだった」
「そんなこと」
 許さない。そう叫んだつもりだった。だがろれつが回らない。ラトゥースは焦点の定まらない眼で必死に相手を睨もうとし、眩暈にぐらぐらとする頭を懸命に揺り起こした。だが支えきれない。がくりと頭が落ちる。耐えがたい息がもれる。
 黒薔薇は指先でラトゥースの顎をつい、と上げた。
「罪の味はどうだったかしら」
 悩ましげな笑みが濡れた唇の端を吊り上げていた。ラトゥースはその表情に眼を奪われた。吸い寄せられそうになる。のぞき込んだ眼の奥に記憶のかけらが映っていた。ハダシュの、あの――姿が、今の自分と重なってゆく。また目が眩んだ。意識が遠くなる。ヴェンデッタの指が、地獄のように甘狂おしい胎内の悲鳴を引きずり出す。
 ラトゥースは悲鳴に近いあえぎを放って汗みずくの身体をのけぞらせた。こんな馬鹿なことなどあるはずがない。心のどこか片隅に残った理性が拒絶の叫びをあげる。声が、漏らした息が、熱を帯びて泣いている。誰の声かも分からない、乱れた息が。信じたくない。あり得ない。罪深い感覚にもてあそばれ抗うこともできず涙する声。うちひしがれたようによがり泣いているその声が、まさか、自分のものだ、などということは。
 喉の奥が苦しげな声を絞り出した。長い絶望の吐息が泡のようにこぼれる。ラトゥースはあえぎ果て、ぐらりと力を失って鎖に身を任せた。身体の奥底が無様に痙攣している。静かになった手つきが肌をまさぐった。その動きに茫然と身を預けながら、ラトゥースはうつろな目で黒薔薇の指に伝う欲情のゆくえを見つめた。薄紙を剥ぐように思考能力が戻ってくる。
「……貴女を人形にしてあげる。ハダシュと一緒にね。そのくちびるに少しずつ狂気を流し込んで、自分のこともエルシリアのことも何も分からない身体に――絶望と快楽、苦痛、憎悪、自嘲、狂気、渇望、欲情――すべてを味わわせてあげる……」
 黒薔薇が残酷に嘯こうとしたとき、ノックがひびいた。戸板を釘で打ち抜いてぶら下げた白と赤の馬蹄型の飾りがぐらぐらと左右に揺れる。黒薔薇は視線を肩越しに走らせた。口の端がいっそう妖艶につり上がる。
「やっと来たわね」
 薔薇の香りを残して離れ、扉を開ける。入ってきたのはレグラムだった。濡れた茶色の帽子を取り、逆さまに返してつばの縁にたまった水を流し捨てる。
「何という不潔きわまりない船だ。デュゼナウ、いったい儂に何の」
 言いかけて、レグラムは囚われのラトゥースと黒薔薇に気づき、貧相な驚きの声を上げた。
「何と」
 状況の異様さにもかかわらず、好色な眼がラトゥースの裸身に吸い付いた。無駄のない腰高な身体つきからのびやかな足が投げ出されている姿に、舐めるような視線を這い回らせる。その背後で、何者かが低い含み笑いを残し、扉を閉めた。かすかな鉄の軋みが回る。
 レグラムは背後の異変に気付いた様子もなく、下劣な何かを期待するうわずった表情でラトゥースの身体をじろじろと値踏みしながら黒薔薇に声を向けた。
「黒薔薇というのはお前か」
「ええ、お初にお目に掛かります。総督閣下」
 黒薔薇は陶然と頭を下げた。髪が流れ落ちてラトゥースの顔にあたった。ラトゥースはそれを振り払った。
「レグラム……」
 ふいに強烈な怒りがこみあげてきた。自分の置かれた状況も忘れて声を荒らげる。
「恥を知りなさい……! それでも……シャノアの総督か……!」
「何だと」
 喘ぐラトゥースの顔を見て、初めてレグラムは悲鳴混じりの呻き声をあげた。
「貴様は巡察――」
 口走ってからその愚かさに気付いたらしく、レグラムは手で無様に顔を隠しながらうろたえた。
「なぜこの女がここにいる。儂はただデュゼナウに呼ばれて――」
「さあ、私は存じませんわ、総督閣下」
 黒薔薇は素知らぬ顔で従容と微笑んだ。手がラトゥースの腰骨をそろそろと辱める。
「いちいち呼ぶな、わ、儂は違うぞ……」
「重要な官職にありながら犯罪組織と結託し外患誘致せんと企むとは……絶対に……!」
 ラトゥースは背筋に走った悪寒に思わず身体を引きつらせた。縛めの鎖がするどく鳴る。
 レグラムは手を突きだし、かぶりをふった。
「儂は知らん。知らんぞ」
 黒薔薇の眼が何かを含んでひそみ笑った。
「構いませんわ、どうせ殺すのです。その前に、存分に可愛がってやればよろしゅうございましょう」
 執拗な指が乳房に触れ、下から包むように揉み揺らす。
「ほら、こんなふうに」
「や……やめて」
 乳首をいじる残忍な指から逃げようとしてラトゥースは身をよじらせた。過敏すぎるほどに浅ましい反応を呼び起こされた身体がびくんと張りつめる。
「あ……ぁ……!」
 また鎖がいじましく鳴った。吐く息もじっとりと嫌な汗に濡れている。声がふるえた。生白く火照った肌が火のように熱くなってゆく。
「嫌……ひぁ……」
 レグラムに見られていると分かっていても、声が止まらなかった。縛られた身体がぐらぐらと揺れ、のけぞる。
 レグラムは野卑な笑みに貧相な顔を引きつらせた。
「まさか、薬を盛ったのか」
「ええ」
 黒薔薇は臈長けた笑みを口の端に含ませ、ラトゥースの裸身を敢えて晒すかのように身を引いた。レグラムが不格好な前屈みの姿勢を取りながら狼狽える。
「何と、大胆な。こ、これは、どうしたものか」
「お気になさいますな。どうせ明日の朝になれば何ひとつ分からぬ木偶になり果てております」
「……う、うむ、ならば」
「嫌……ぁ……やだ……触らないで……!」
 もがくラトゥースを冷然と見捨て、黒薔薇は壁際の机に歩み寄った。総毛立つ冷笑をたたえて引き出しを開ける。
「嫌、嫌……ああ……!」
「とはいえ巡察使配下の騎士どもも馬鹿ではないし、いずれ供与のからくりに気付くでしょう。そうなれば簡単には言い逃れできますまい。貴方さまやカスマドーレ殿にも通謀の罪が科せられるやもしれませぬ」
「それはまずい。何とかしてもらわねばならんな」
 口ごもるレグラムに対し黒薔薇は革製の帯に差し込まれた銃をたぐり寄せながら何気なくつぶやいた。
「簡単ですわ。我らに関与したという証拠もろとも海の藻屑と消えていただけばよろしいだけのこと」
 銃口が黒く光る。
「何だと」
 レグラムはそのまま唖然と立ちつくした。一瞬、何を言われたのか分からなかったのだろう。
「それはどういう意味だ」
 やにわに血相を変え蒼白な顔で詰め寄ろうとする。
「便宜を図ってやった恩を忘れたか。儂がいなければ貴様らなどシャノアに入街することも出来なかったのだぞ。この船の許可も、ラウールのことも儂が目をつぶってやらねば何一つ」
 凍り付いた微笑がレグラムを射抜く。レグラムは息を呑んだ。
「恩、ね。そうかもしれない。何もかも貴方のおかげよ。今の私があるのは」
 黒薔薇は煮えたぎる悪意のこもった視線を流しくれた。その眼に、レグラムは初めて何かを感じたようだった。
「どういうことだ」
「貴方には地獄の蛆虫にも劣る死に方をさせてやるわ。どんな罪人が受ける罰よりも恐ろしく、苦しく、絶望に満ちた最期を」
 黒薔薇の低くかすれた声が、まるで響きわたる雷鳴のように部屋の全てを圧して通り抜ける。
「待て。なぜだ。儂が何をしたというんだ」
 レグラムの声がわなないた。暑くもないのに禿げ上がった額からみるみるねばつく汗が噴き出す。
「まだ分からないの、レグラム。私が何者なのか。お前が何をしたのか」
 黒薔薇は、血まみれのさいころを投げ上げる気まぐれな死天使のごとく言葉の端々に淫靡な余韻を含ませ微笑んだ。
「何のことだ」
 シャノアの総督は身体をこわばらせた。死んだ犬のように眼を引き剥く。
 黒薔薇は壊れたけたたましい笑い声を放った。
 ラトゥースは喉を咳き入らせながら顔を上げた。涙の浮かんだ目で黒薔薇をよわよわしく睨みつける。
「間違ってる」
 それだけ言うのにも息が切れる。
「何ですって」
 ぴたりと哄笑を止めて黒薔薇はラトゥースを見すえた。ラトゥースは呻いた。
「復讐に名を借りた人殺しなんて、間違ってる」
 突然、黒薔薇の手が後頭部を打ち付けるほど強くラトゥースの首へ伸びた。渾身の力で爪をぎりぎりと深く食い込ませ、憎しみのままに絞め上げる。もがくこともできなかった。
 黒薔薇はどす黒く顔をゆがめた。嘲笑まじりに吐き捨てる。
「分かったような口をきかないで。貴女に何が分かるというの、今までのうのうと生きてきた貴女なんかに何が」
 その隙を狙ったか、レグラムは足をもつれさせながら扉へ駆け寄った。我を忘れた裏声をあげる。
「開けろ、誰か」
 扉の取っ手に手をかけ、全体重を掛けて押し回す。だが、扉は開かなかった。どれほど揺すっても耳障りに軋むばかりでびくともしない。反応すらなかった。
「逃げようとしても無駄よ、レグラム。それとも、やっと思い出してくれたのかしら」
 黒薔薇が青ざめた笑みを伝い走らせる。
 レグラムは醜い冷や汗をうかべて振り返った。壁にぶつかりながら後ずさる。
「何を思い出せと言うのだ」
 血色の悪い顔をいっそう土気色に変え、唸った。
「儂がお前に何をした」
 黒薔薇は手にしたフリントロックをゆっくりと撫でた。しばし愛でるがごとく黒金の輝きに見とれる。
「覚えてもいないのね、己が罪すらも」
 心無く呟く。まるで情感が欠け落ちたあとに吹き込む冷たく乾いた隙間風のようだった。火石を指先で確かめつつ、火薬袋の蓋を弾き上げて軽く中身をゆすり、弾を込める。その仕草にレグラムは顔をこわばらせた。哀れなほど顔を引きつらせ、てらてらと冷や汗を垂らしている。
黒薔薇は膝を笑わせるレグラムを氷の眼差しで眺めた。
「ならば教えてあげるわ。貴方が私に刻み込んだ憎悪の傷を。それこそが貴方の命を奪う致命傷となる。我が字《あざな》は黒薔薇のヴェンデッタ」
 黒薔薇は引き金に指をかけ、構えた銃を天井へ向けた。おもむろに下ろしてゆきながら狙いを定め、黒光りのする銃口をぴたりとレグラムへと向ける。
「真の名は」
 ふいにドアが外から蹴り破られた。レグラムの身体が土まみれの折れかかしのように弾き飛ばされる。黒衣の男が倒れ込んできた。怪鳥のように泣き叫びながら裂けた腹を抱えてのたうち回っている。汚れた床に鮮血が飛び散り、男のはいずり回った跡を赤黒く残した。
「誰」
 黒薔薇は鋭い声を放って振り返った。
 唇に紅を引き、半裸に近いみだらな装いをして、船の水夫どもに酔いどれの春をひさいで歩く、かりそめの男娼。それが今は顔にも体にも点々と返り血を浴びた凄絶な本性もあらわに、ゆっくりと部屋に歩み入ってくる。冷ややかな激情が口元をゆがめていた。
 黒薔薇は息を大きく啜り込んで一歩後ずさった。
「ハダシュ」
 暗い眼をした赤毛の殺し屋。ハダシュは部屋内を一瞥し、ナイフを握った拳の背でぐいと紅をぬぐい去った。頬に恐ろしい隈取りが走る。
「おお、助けに来てくれたのか」
「失せろ」
 ハダシュは駆け寄ってきたレグラムを力任せに蹴倒した。背後から声もなく襲いかかってきた黒衣の賊を、ぞっとする無気力さでかわしざま真っ二つに喉を掻き裂く。返り血が天井にまで奔りついた。天井を伝う血が淋漓とこぼれ落ちる。常軌を逸した殺戮を眼にした娼婦たちはとたんに黄色い悲鳴を上げ、我先にと蜘蛛の子を散らすように逃げ出していった。あわてた水夫たちもまた訳も分からないまま逃げてゆく。それらの騒ぎを顧みもせず、ハダシュはただラトゥースのみを睨み付けてつぶやいた。
「ヴェンデッタ」
 低く押し殺した怒り。
「クレヴォーに何しやがった」
「ハダシュ」
 ラトゥースはかすむ眼で声を探しながら、よわよわしく首を振った。意図せぬ涙が流れる。
「来ちゃだめ……あぶな……」
 それ以上は言葉にならない。がくりと首を折る。
「クレヴォー」
 ハダシュは思わず一歩踏み込んだ。声が聞こえているのかいないのか、ラトゥースは虚脱した身体を枷にあずけたまま、喘ぎ続けるばかりだ。
 黒薔薇は、ふいに肩の力を抜き、妬ましく笑い出した。
「惜しかったわね、ハダシュ。ナイト気取りで現れるにはいささか遅すぎたわ」
 銃口をラトゥースのこめかみに押しつけた。ほっそりと妖美な指先を引き金に掛ける。
「貴方の負けよ。それ以上一歩でも近づいたら引き金を引く」
 安全装置が外されている。ハダシュは無言で黒薔薇を見据えた。次いでラトゥースを横目に探り見る。ラトゥースは動かない。危険に気付いてすらいないようだった。熱っぽく赤みの差したまなじりはあまりにもなまめかしく、あり得ない色に染まっており、半開きになった唇からは理性と快楽の苦悶に引き裂かれたあえぎ声が洩れている。
 思わず口元をゆがめる。だが黒薔薇の仕草や声の端々にも同様に余裕のなさが感じとれた。ためらっている暇はない。ハダシュはナイフを持つ手を左に変えた。内心の狼狽を押し隠し、侮蔑の薄笑いにつくり替える。
「見ろ」
 ポケットからギュスタのペンタグラムを引きずり出し、何げなく放り投げる。それは砕けたガラスの音を立てて跳ね転がり、黒薔薇の足下でからからと回転して、止まった。
「それが誰のものだったか分かるか」
「何よ、それ」
 黒薔薇はあざ笑うような視線を床に落としたが、ペンタグラムの形を確認したとたん苦しげにうめき、右手の指輪を隠すようにして押さえた。
「知っているはずだ、ヴェンデッタ、お前なら」
 ハダシュは激変したヴェンデッタの表情に苦い確信を抱きながら、するどくたたみかけた。
「それはある男の形見だ。かつてエルシリアの騎士だった男で、レグラムとかいう役人と積怨の仲だった――死んだ母と行方不明になった妹の敵を討とうとして果たせずシャノアに逃げ、犯した罪をカスマドーレに暴かれ、付け込まれ、さんざんに利用され貪り尽くされて命を奪われた男の。教えてやろうか。俺の目の前でローエンが殺した男の名を」
 言葉をいったん切って、黒薔薇を見返す。
 黒薔薇は蒼白な顔でハダシュを見つめ返していた。名状しがたい恐怖に見開かれた眼は哀れにも血走り、今にも悲鳴となって飛び出しそうだった。
 ハダシュは残酷に言い捨てた。
「ギュスタ・サヴィスだ」
 黒薔薇の視線は古いペンタグラムに釘付けになったままだった。ラトゥースに突きつけていた銃をさらにいっそう強く捻り込むようにして押しつけながら、肩で息をし、激しく惑乱した自嘲の笑いをあげる。
「嘘よ、そんな嘘には騙されないわ。兄上は、ギュスタは、この女の父親であるクレヴォー侯の追っ手に討たれて十年前に死んだのよ……」
「違う」
 かろうじて意識を保っていたのか、ラトゥースの肩が悲痛に震えた。囚われの鎖が涙のように鳴る。
「ギュスタ・サヴィスは……行方不明になった妹を探してシャノアに……罪を……償いながら……十年間も……ずっと、ずっと……」
 ラトゥースは泣いていた。黒薔薇は蒼然とした眼でラトゥースを見やった。
「ずっと、探していたのに……!」
「黙れ」
 黒薔薇は突然右手の指輪を無理矢理引き抜いて投げ捨てた。それは一瞬黒曜石の光跡を放って跳ね、部屋の隅から机の下に転がって消え失せた。壊れた甲高い嘲笑がその口から漏れる。冷涼な仮面はあわれなほど剥がれ落ちていた。
「騙されるものか。馬鹿にしないで。私は黒薔薇だ。この身体に刻まれた復讐と憎しみの黒い炎は二度と消せない」
 美しい顔が涙と激情でゆがんでいる。黒薔薇はラトゥースに向かってなすすべもない悲鳴を上げた。
「何もできなかった。絶望した母の身体が雪と氷に覆われたあの美しい死の湖へ泣き、笑い、そして沈んでゆくのを、あのときの私は生きることも死ぬこともできずただ怯えて見ているしかできなかった。でも私は死ねたのよ。レグラムが罪の露見を恐れ差し向けた者の手に掛かってではなく」
 そこまで一気に言って口をつぐむ。死人のようだった黒薔薇の頬に不自然な赤みが戻ってきた。低く笑い出す。押さえた肩が震えていた。ざくりと切り裂かれた古傷が隠しきれずに指の間からかすかに見える。
「母の死が、私に果たすべき使命を教えてくれた。ジゼラ・サヴィスなどという名の腰抜けはもうこの世にいない、母を死なせ、兄を罪に走らせた愚かな無力な娘の存在など自らの手で絞め殺して、生まれ変わって、果たせなかった血讐《ヴェンデッタ》を代わりに成し遂げてやる――母を死なせたレグラムも、レグラムを見逃し兄を罪へと追いやったクレヴォーも、貴族どもの頂点に立つ国王と宰相も全員、バクラントの力を借りて戦争へと追いやり皆殺しにしてやると誓った!」
 ふいに黒薔薇は息を深くついてレグラムを見下ろした。手にした銃を引きずり上げる。銃口が明白な殺意を宿らせてぎらりと重く光った。
「まずはレグラム、お前を」
 凍り付いていたレグラムは、絞め殺される寸前のような悲鳴をあげ、空を掻き床を這いずって船室から逃げだそうとした。
「殺す」
 引き金にかけた黒薔薇の指にみるみる憎悪がこもってゆく。
「やめて」
 ラトゥースは鎖を鳴らし、身体をいっぱいに引き延ばして悲痛に叫んだ。涙を振り払う。
「これ以上罪を犯さないで。ギュスタがそんなこと望んでいたとでも思ってるの。お願い、分かって……!」
 白と黒のみの世界がその場を支配していた。全ての時間、全ての音が止まって感じられた。絶望へと突き進む者、罪を転嫁しようとする者、過去に立ち向かう者。ラトゥースの葛藤に満ちた叫びを聞いた者は、それぞれに分かたれた己が運命の理由とその行方を否応なしに知った。
 レグラムが悲鳴を上げて這いずり逃げようとする。黒薔薇――かつてジゼラ・サヴィスと名乗っていた娘、身も心も闇に抛つことによって己の過去もろとも全てを滅ぼさんと目論んだ女は、不様な男の後ろ姿を射程にとらえ、失った平穏の代償として憎い仇の命を奪う最大の機会を得て、耳障りな嘲笑を解き放っていた。そしてハダシュは、ラトゥースの言葉を信じた。その願いに己が身をゆだね、全身の筋肉を最大に引きしぼりたわめて、黒薔薇が今にも引き金を引かんとする眼前に躊躇無く躍り込んでゆく。
 叩きつけたナイフが白く尾を引く閃光となって空をつらぬいた。黒薔薇が眼を押し開く。いっぱいに伸ばした手の先から確かに引き金の引き絞られる音が聞こえた。同時にハダシュの叩きつけたナイフが黒薔薇の腕をつらぬく。悲鳴と轟音、交差する銃火が何かを撃ち抜いた。
 血しぶきとともに銃とハダシュそれぞれが弾き飛ばされる。黒薔薇は言葉にならない恨みの叫びを放って手首を押さえ仰け反った。血にまみれ、こぼれおちた銃が金属質の重たい音を立て床に跳ね転がる。ハダシュの背後で吊りランプが粉々にくだけた。燃えるガラスとブリキが飛び散る。こぼれた油に火が飛んだ。瞬時に火の波が走る。油で濡れた床が一気に燃え広がってゆく。焦げ臭い黒煙が噴き出した。
 ハダシュは、呆然と片膝を折った。床を這う火をうつろに見つめる。左腕が動かない。心臓に近い肩の部分を押さえた手の下から、焼けこげた臭いとともに、血の滲みが耐え難く広がり始める。突如、身体の奥底から鉄の味がこみ上げた。その傍らを、ただ一人難を逃れたレグラムが、恐怖に足をもつれさせ、恥も外聞もない悲鳴をまき散らしながら四つん這いで逃げていった。黒薔薇が一瞬張り裂けそうな眼差しをハダシュに走らせる。だがそれだけだった。黒薔薇は自分自身をも打ち棄てて身をひるがえした。腕に突き立ったナイフを抜き、血が振りまかれるのにも構わずにレグラムを追って姿を消す。
「ハダシュ、ハダシュ」
 ラトゥースのうわずった悲鳴が何度も頭上を通り抜けていった。
「死んじゃ嫌……!」
 ハダシュはようやく現実に引き戻され、ぐらつく頭をもたげた。荒い息を振り散らして笑う。火と煙が立ち込め始めていた。
「何とか間に合ったな」
「人の心配してる場合じゃ……!」
 涙まじりに鎖を鳴らして叫ぶラトゥースをかすむ片目で斜にすがめ見る。
「動けもしないくせに偉そうな口を利くな」
たとえどれほどの苦痛であっても、ハダシュが今まで人を殺めるのに使ってきた毒の刃で刺されるよりはずっと痛くないはずだった。くすぶる煙に咳き込み、そのたび噴き出す血に顔をゆがめながら逆手に持ったナイフの柄でラトゥースの手首を捕らえる鎖の金具を抉り抜く。ようやく解き放たれ、よろめいて倒れ込んできたラトゥースを、ハダシュは全身で受け止め、抱き支えた。
「火が回りだしてる。お前は先に逃げろ、クレヴォー」
「待って」
 ラトゥースは悲痛な声を上げてハダシュに取りすがった。
「一緒に逃げて」
「だめだ」
 ハダシュはかぶりを振った。
「あいつを止めに行く」
「無理よ、そんなこと」
「お前、自分が何て言ったのかも忘れたのか」
 赤く黒く渦巻く炎と煙が、美しい裸身を汚す影となってラトゥースの身体のかたちを浮かび上がらせている。
「いいから来い」
 燃え上がる火に追い立てられ、最後まで言い切れないままハダシュはラトゥースと互いに支え合って通路へとまろび出た。火は床を伝い、壁を伝い、竜の舌のように周辺を舐め這い回りながら天井にまで達している。煙に追われ逃げまどう娼婦たちが昇降口を探し、詰めかけ、他人を追い落としながら我先に上ってゆこうとするのが見えた。
「上甲板に上がれ。昇降口はそっちだ。逃げ道はそこしかない。俺はヴェンデッタを追う」
 ハダシュは落ちていた女物のガウンを拾い上げた。逃げた娼婦が取り忘れたものだろうか。火をはたき落とし、ラトゥースの裸身を見ないようにしながら押しつける。
「これを着て逃げろ」
 ラトゥースは雷に打たれたように立ちつくした。渡された服さえ受け止めかねて取り落とす。
「馬鹿、着ろ」
 身をかがめようとして痛みに顔を引きつらせ、よろめく。ラトゥースはハダシュの腕を迷子のようにつかんだ。
「嫌よ」
 切羽詰まった涙声が追いすがってくる。
「貴方が行くなら私も行く。一緒に行かせて」
「だめだ」
 だがどんなに押しやろうとしてもラトゥースはハダシュから離れようとしなかった。
「嘘つき。そうやってまた私を置いていくつもりなんでしょ」
 ハダシュの腕にすがったラトゥースは、今にも消え入りそうな声でうめいた。
「行っちゃだめ。行かないで。無理よ。逃げなきゃ死んじゃう……貴方にまで死なれたら、私……!」
 ハダシュはラトゥースの思いに胸を衝かれ振り向いた。揺れ動く瞳に射すくめられ声もなく立ちつくす。本当は手を伸ばし、その涙にむせんだ頬に触れ、引き寄せたかった。いっそ猛る思いのままに受け止め、抱きしめてしまいたかった。だが。
 できない。できるはずもなかった。ラトゥースを取り戻すためにローエンを殺した。ラトゥースを守るためにヴェンデッタを殺すと誓った。そんな血に濡れた手で、そんな罪にまみれた手で恩着せがましくも抱いたところで何になるだろう。人殺しに人が救えるはずもない。思い上がるにも程がある。そんなことなど、できるはずがなかった。
「勘違いするな。誰が死にに行くと言った」
 ついにハダシュはラトゥースを乱暴に振り払った。悲鳴を上げてよろめく姿に顔をこわばらせる。
「俺はどこにも行かない。必ず戻ってくる。お前の言う
「黄金の橋」を渡って」
 炎に彩られた死の幻想があまりにも間近に踊り狂っていたせいか、遠くに見えかけていたはずのかすかな希望の光さえ今は見いだせそうもない。それでもハダシュは悲壮な笑みを浮かべてラトゥースに応えた。
「だから先に脱出して、俺を待っていてくれ。必ず、戻る」
12
 逃げ場を失った炎と煙が船の中で巨大に渦巻いている。何者かがわざと放火しているとしか思えなかった。次々と新しい火の手が上がってゆく。視界は殆どない。油の燃える苦い臭いが充満している。沈没は時間の問題だった。どこもかしこもが燃えている。それでもなおハダシュはヴェンデッタを追って通路を辿った。床に点々と散る黒い血の跡が、踏み荒らされながらも途切れることなく船首側の闇へと続いている。貨物室を区切るハッチをこじ開け、急な梯子階段をよろよろとつたい降りる。なけなしの砲甲板を過ぎ船底あたりに近くなると、さすがに積み上げられた荷物や樽に行く手を阻まれ、思うように進めなくなった。真っ暗だった船倉に、いつの間にか身をかがめて歩くハダシュの影が煙に映し出され、踊り始めていた。火が燃え広がりつつある。逃げ遅れることは生きながら船と運命を共にすることと同義だ。
 突然、闇に揺らぐ火と煙の彼方から、助命を請うレグラムの涙声が聞こえた。
「ゆるしてくれ、命だけは頼む、命だけは」
 そのさけびを耳にしたとたん、ハダシュはかすれ声を振り絞って怒鳴った。
「ヴェンデッタ、殺すな。そいつを殺したらお前はもう」
 真紅の幻影を見たような気がして、ハダシュは身をこわばらせた。何かをひどく押し倒す物音がした。身の毛もよだつ悲鳴があがる。振り返った天井と壁一面に、死の瞬間を映す残酷な深紅の影絵がありありと描き出された。一回。さらにもう一回。返る血がほとばしり出る。
 唐突に断末魔の呻きが途切れた。一瞬、視界が闇に覆われる。
 船全体が悲鳴を上げた。大きく斜めに傾ぐ。燃える支柱が崩れ落ちてきて天井を突き破り、流星をまき散らすのにも似た火の粉を降りしきらせた。めらめらと燃え上がる熱気が全身に突き刺さる。ハダシュはくすぶり散らばる樽や木箱を濡れた布で叩きつぶしながら這いずるようにして進んだ。毒々しい空気に侵された喉と肺の両方が、鉛を流し込んだような鈍痛を身体の裡から耐え難く膨れ上がらせる。もはやまともな呼吸すらできる状態ではなかった。
 咳き込むと同時に肩に激痛が突き立つ。ハダシュは足をもつれさせ、つんのめった。水しぶきがあがる。おそらくどこかの外壁が破れでもしたのだろう。大量の浸水が始まっていた。足下には消し炭と汚物を練り混ぜたような泥まじりの水。どうしようもない量の熱と海水と煙が入り混じり、天井から怖ろしい熱水のシャワーとなって降り注いでいた。蒸気が立ち込める。
「どこだ、ヴェンデッタ。返事をしろ」
 ハダシュは側にあった何かに掴まりつつ、前に進もうとした。がらりと音を立てて支えがくずれる。膝が砕け、倒れ込んだ。胸が破裂しそうだった。
「返事をしてくれ」
 声が声にならない。突如、強い力がハダシュの襟元をつかんだ。振り回されるようにして闇に引きずり込まれる。そこは奇跡的に煙が遮られた場所だった。濡れた隔壁に阻まれでもして、かろうじて類焼を免れたに違いない。だが浸水だけはもう防ぎようがなかった。くるぶし以下がみるみる水に沈んでいく。流れ込むにまかせた暗い水面をぼんやりと青く光る渦巻き模様がいろどっている。夜光虫が放つ、はかなく、怖ろしく、美しすぎる色。
「馬鹿ね」
 黒薔薇の綺麗な顔は返り血と煤に汚れていた。それを拭うでもなく、声や表情に感情を混じらせるでもなく、ぽつりとつぶやく。
「わざわざ死にに来たの」
「ヴェンデッタ」
 ハダシュは顔をゆがめた。身体が壁に沿って崩れ落ちる。痛みと熱と悪寒が同時に身を絞り上げるように襲いかかってきた。呻き声も出なかった。ただ、壁にもたれかかって瀕死の喘ぎをもらす。
 黒薔薇はハダシュの肩に目をやった。表情の失せていた眼に毒の色が混じる。さらに傷をえぐり抜かれるかと思ってハダシュは歯を食いしばった。火を宿した目で睨み返す。
 だが黒薔薇は自身のてのひらを見下ろし、苦しげな息をひとつもらすにとどめた。襟を掴んでいた左手をやや力つきた風情で突き放す。指の先がかじかんだように震えていた。頭にかかる水しぶきが全身を幻想的な蛍光色に染め上げている。
「貴方のほかに私を殺せる男はいない――そう思っていたのに」
 黒薔薇を名乗り、女の身体を武器にありとあらゆる酷い殺しを請け負ってきた美貌の暗殺者は、疲れ果てた顔で笑ってみせながらも冷涼に吐き捨てた。
「貴方には失望させられたわ」
 暗闇に光る青い涙。ハダシュは声を振り絞った。
「ヴェンデッタ、俺と一緒に来い」
 それは奇しくもかつての黒薔薇と同じ言葉だった。
「クレヴォーに伝えてやる。あいつなら分かってくれる。お前のことも俺のことも、あいつなら全部分かってくれる。クレヴォーは他の役人どもとは違う。本当のことを話せば、きっと」
 痛みが凄まじい熱を帯び始めている。ハダシュは手を伸ばして黒薔薇の腕をつかんだ。立っていられなかった。眩暈がひどい。ちぎれそうな痛みをこらえて喘ぐ。
「くだらない」
 黒薔薇は降りかかった水煙をまともに浴びてむせた。ざっと周囲を見渡し、跳ね上げ式の梯子を見つけ、片腕で綱を引き下ろし始める。
「まだ信じてるの。いいわ、好きになさい。人は変わるわ。おそろしいほどに変わる。貴方の思いも寄らぬ姿にね。何もかも失うその時まで、二人でなまぬるい夢にでも浸っているがいいわ。知らなければよかった、信じなければ良かった、愛さなければよかった――そう思う日が来る。必ず」
 黒薔薇は冷ややかな予言を突きつける。だがその眼の奥にこらえ切れぬ悔恨が揺れ動くのをハダシュは見逃さなかった。
「どういう意味だ。何がいいたい」
「離して」
 黒薔薇はいらだたしく震える声で言い、ハダシュを押しのけて梯子を登り始めた。
「戻る気はない。私は全ての血讐を為し終えた。残るは兄を手に掛けたこの私だけ」
 ハダシュは這いずるように身を起こしてヴェンデッタの後を追った。
「待て、俺の話も聞け。お前はいつも」
 叫ぼうとして梯子の途中で足を踏み外し、叩きつけられるようにして最下層に転がり落ちる。青い水しぶきが上がった。狭い空間でしたたかに全身を打ち、一瞬、意識を失いかける。ごぼ、と青白い息が泡になって昇った。身体が思いも寄らぬほど深く沈む。激痛に身を起こすこともできない。黒薔薇が戻ってきた。ハダシュの手を取り、水から引きずり上げて梯子を掴ませる。驚くほど優しい、しかしあきらめたような表情の顔が近づく。
「すまない」
 ハダシュが言うと黒薔薇は虚無に満ちた笑いをもらした。
「貴方は私を裏切った」
 否定する気力はすでに萎えていた。光に向かって前進するには二人ともあまりに傷付き過ぎている。船全体が断末魔の軋みを上げて揺れ動いていた。たとえ階段を上りきったとしても甲板や船首楼はおそらく火の海だ。生きるためではなく焼き殺されに昇ってゆくようなものかもしれなかった。それでも黒薔薇は上を目指して昇った。
 青白く泡立つ海水が狭い空間に渦を巻いて流れ込んでくる。唸りを上げる濁流が扉に打ちかかり、ちょうつがいごと引きちぎってどこかへ押し流していった。一気に水位が上がる。先ほどまでハダシュの倒れていた場所が、黒こげの支柱やら積み荷らしき樽、木箱、その他一斉になだれ込んできたものに埋め尽くされてゆく。梯子が今にも外れそうなほどぐらぐらと揺れた。
 突然黒薔薇の踏みしめた梯子の段が砕けた。悲鳴が宙に浮く。ハダシュはとっさに降ってくるその身体を全身で受け止めた。引きちぎられそうな痛みがつんざく。黒薔薇は恐怖につめた息をもらし、かすかに震える手で梯子を握り直した。血が降ってくる。ハダシュは眩む目をかすませながら声を嗄らして笑った。
「俺を捨ててゆけばお前は助かるんじゃないのか」
「逆よ」
 黒薔薇は寂れた笑いで答える。ハダシュの胸に頬を寄せかけ、黒薔薇は妖艶にうそぶいた。
「私は死ぬべき人間だった。いいえ、本当ならとうの昔に死んでいるはずだったのに。なぜ生き長らえようなんて思ってしまったのかしら。そんなことしたって何にもならないのに」
 ハダシュは薄れゆく意識のなか無意識に頭を振った。濡れそぼった髪が頬に貼りつく。滅びゆくもの特有の、引きずり込まれるような死の匂いがした。
「違う」
「違わないわ」
 夜光虫の淡い青の照り返しに染め上げられた黒薔薇の表情は、波に翻弄され揺れ動く木の葉のようだった。
「お願い、ハダシュ」
 冷たい吐息。くちびるが氷の色に光っている。
「ねえ、一緒に死んでくれない。このまま、私と」
「ヴェンデッタ」
 呆然と抗って息をもらす。抗わなければ全てが崩れ去る。そう思ってはいても梯子を掴む手がぶざまに震えた。意識が深淵へとなだれ落ちてゆく。
「貴方と二人で死にたいの。貴方と……一緒に」
 熱に浮かされた眼がハダシュだけを食い入るように見つめている。同じ言葉だけを執拗に何度も繰り返しながら、死を誘うくちびるが近づいてくる。何という蒼白の色か。だが、もはやそれを受け入れるわけにはいかなかった。
「やめろ、ヴェンデッタ」
 ハダシュはうめき、辛うじて動揺を押さえ込んだ。痛みに顔をゆがめながら黒薔薇を見つめる。
「俺は生きる」
 黒薔薇を押しのけ、吐きしぼるように言う。
「生きて、悔いて、償う。そう約束したんだ。クレヴォーと」
「そう」
 ため息のような声が降った。
「嫌な男」
 黒薔薇は誰に語りかけるでもなくつぶやいて再び梯子を登り始めた。ハダシュも同じ方向を見上げる。行く手は暗く、赤く、どこまでも続いているようでいてその実どこにも繋がっていないかのようだった。
 戸板を跳ね上げて出た場所は船首側の上甲板だった。ハダシュは最後の力を振り絞って身体を持ち上げ、痛みと悪寒で化石のようになった両肢を投げ出して周囲を見渡した。雨と風が吹き荒れている。手入れの悪い甲板はぬるぬるとして滑りやすく歩きづらかった。悲鳴にも似た風音が聞こえてくる。船内部に端を発した火は未だ消えることなく、容赦なく吹き付ける雨風に煽られて熾烈な火煙を吹き流していた。爬虫類の舌のごとき炎が船全体を這いずり舐め回し、次々とマストや帆布、艤装を呑み込んではさらに高くのた打ち回る。その様は死船の火葬という以外、表現しようがなかった。
 見渡す限りの海面が深紅の溶岩さながらに沸き立っている。風に吹き飛んだ火が周辺の船にまで類焼しているのだった。燃えさかる船同士が衝突しては千々に火を噴き、崩れてゆくのが見えた。果たして何隻が海の藻屑と化すのか、もはや数えることすら出来ない。
 下甲板から火が噴き上がってきた。ハダシュは顔をゆがめ四方を見渡した。火の勢いはもはやとどまることを知らない。火の粉が降り、雨が降り、風が吹き荒れる。黒薔薇は立ちつくしたままだった。逃げ道を探すでもなく、ずぶぬれの姿でただ立ちつくしている。
「遅かったな」
 影にひそんでいた闇が、ゆらり、と動いた。銀の刃にも似た光が伝い走る。ハダシュは息を呑んだ。身をこわばらせる。めまぐるしく明滅する火と雨と闇の狭間に、血の色を熔かし込んだ刃が殺意をまざまざとほのめかして抜き放たれてゆく。
 襟を立てた黒いコートの男が斜に立っていた。銀の髪。足元は闇と影に溶け混じっていて見えない。半身だけが一瞬、赤く染まって浮かび上がった。コートに打ち込まれた鉄鋲が血しぶきのような光を放つ。赤く照り映える眼鏡越しに、酷薄な笑みを浮かべた貴族的な顔立ちが垣間見えた。
「これだけ沈めれば、沈没船の残骸自体でしばらくはシャノアの港そのものが使い物にならなくなるだろうな。撤去には一月、いや、数ヶ月かかるか」
 流暢なバクラント語をあやつる男は、業火に包まれた惨状を見渡しつつ、己の仕組んだからくりがこの街の経済にどれほどの痛撃を与えたか皮算用して傲岸な笑みを浮かべた。ゆっくりと眼鏡をはずし、軽すぎる乾いた音をさせて投げ棄てる。
「そう思わないか、ハダシュ君」
 おだやかな殺気を宿した微笑みがハダシュを見下ろす。
「レイス……先生」
 ハダシュは、声を押し殺した。
「あんたも、なのか」
 銀の色の髪が、風に吹きあおられてひどく不気味にはためく。だがレイスはもはや乱れ散る髪を押さえようともしなかった。
「否定はしない。だが」
 ほの暗く笑う。
「私も、などと、犯罪者と同列に扱われる筋合いはないね。さすがに巡察使に捕まったときは、随分と背筋の凍る思いをさせてもらったが」
「外国の間諜……?」
 ハダシュは身構えた。
「肯定はしない、とだけ言っておこう」
 波に揺すぶられ、葬列の火影に泣きさけぶ船の末路を眺めるレイスの横顔を、燃えさかる業火が血の色に染め上げてゆく。
「君に来てもらったのは他でもない」
 冗談めかして話すレイスの表情が、火に炙られて暗く変わった。
「この国を裏切る気はないか」
「国を、裏切る……?」
 残酷な気休めにも似た微笑みが、いつもと同じ偽りの笑顔となって語りかけてくる。いつもと同じ、レイスの笑顔。
「そうだ。君が欲しい。君の腕、殺しの腕、血にまみれたその腕が、欲しい」
「断る」
 ハダシュはゆっくりとレイスを見返した。
「そうか」
 親しげな笑みが剥がれてゆく。傍目には分からぬほど少しずつ酷薄の冷気を増してゆく表情。隙一つない、鋭利な刃そのものの身のこなし。
「残念だよ」
 剣が赤く濡れて光る。全身が総毛立った。甲高い音を立てて空気が掻き裂かれる。刹那、レイスの姿がかき消える。疾駆する殺意。ハダシュは息を呑んだ。目の前にいる。速い。轟音が聞こえた。雨を斬る切っ先が銀の炎となって燃えあがる。とっさに身を仰け反らせる。喉元を光したたる巨大な曲刃が薙ぎ払った。残忍な嘲笑が耳を打つ。辛うじて避けはしたもののハダシュは肩に走った激痛に声をつまらせ、もんどり打った。武器があろうが無かろうが同じだ。体勢を維持することすらできない。苦悶の声が洩れる。
 頭上でレイスが仁王立ちしていた。剣を逆手に持ち、一気に突き立てる。衝撃で甲板が突き崩された。串刺しになる寸前、横に転がって逃れる。木っ端が散らばる。レイスは皮肉な笑みを浮かべた。甲板に深々と突き刺さった剣を、抜く。
 ゆらりと切っ先を向け直す。
「相変わらず逃げ足だけは速いな」
 息一つ乱さず、笑いながら確実に距離を狭めてくる。ハダシュは呻いた。皮相な笑みが浮かぶ。まるで別人だ。
 否――どうやら現実を直視したほうがよさそうだった。目の前にいる男はもはや爪を隠したかつてのレイスではない。凄まじい手練れだった。おそらくは正統な剣術を修めたうえであえて邪剣の太刀筋を使っているのだろう。まともに戦って勝ち目がある相手では、ない。
 死期が、足音を高め迫ってくる。突然、目の前の甲板に細長いナイフが突き立った。はじかれたような金属のするどい音が響き渡る。ハダシュは緊迫の目線を走らせた。
「その男は私の獲物よ」
 黒薔薇は水を打ったかのような気配の中、低く言い放った。レイスは冷ややかに口の端を吊り上げた。
「戯言を」
「でも、その前にひとつだけ、貴方に聞いておきたいことがあるの」
 黒薔薇のヴェンデッタは、レイスの言葉を遮って睨み付けた。
「どうして嘘をついたの」
 突風がふいに巻き起こった。
「なぜ母だけでなく、兄まで死んだなどという嘘を」
 炎を巻き込んだ風が竜巻となり、黒こげの帆布をちりぢりに吹き飛ばしながら船首へと迫って来る。今にも砕けそうなほど足元が揺れ、船全体が軋んだ。海嘯にも似た炎が手すりを乗り越え吹き寄せてくる。吹き付ける火の粉と蒸気の凄まじさにハダシュは思わず腕で顔を覆った。
 レイスは白々しい素振りで眉を動かした。悲痛な問いかけをあっさりと遮って答える。
「事実だ。今となってはな」
「嘘つき。お前のせいで、私は」
 黒薔薇は涙混じりの声を押し殺し、呻いた。
「兄を……!」
「殺させたのはお前だ」
 レイスは慰めるでもなく言い放った。冷淡な微笑がのぼる。
 黒薔薇はよろめいた。
「違う……」
「私ではない。他でもない、お前自身だ」
「違う……違う!」
 声は次第に張り裂けるような叫びへ、そして悲鳴へと変わっていった。
「私は母を愛していた。兄を愛していた。エルシリアの美しい森を、ハージュの美しい湖を、遙かに望む白銀の雪を、張りつめた氷を、沈まぬ太陽を、萌えいずる緑の息吹を、それらすべてを愛していた。信じていた。だからこそ許せなかった。醜いものの存在が、弱い者の存在が許せなかった……なのになぜ!」
「愚かだからだ」
 欺瞞に満ちた冷たい声が響く。視界が奪われるなか、凄まじい火勢の音だけが耳を圧する。悲鳴が聞こえたような気がした。ハダシュは眼を凝らそうとして咳き込み、肩を押さえた。意識から血の気が引いてゆく。再び風向きが変わった。唐突に煙が流されてゆく。視界が熱雨に洗われ、火の色に埋めつくされた。頬が焼けるように熱い。ハダシュは痛みに眩んだ目を押し開いた。黒薔薇の姿を探す。
 総毛立つ悪寒がハダシュをとらえた。レイスの姿がない。黒薔薇だけが、微動だにせずその場に凍りついている。いや違う、そうではない。わずかにのけぞった黒薔薇の背から、巨大な半月刀の切っ先だけが生えかけの翼のように白く突き出している。
 蛇蝎のごとく剣先がひねられる。黒薔薇の身体が一瞬宙に浮き、痙攣した。空気を押しつぶす呻きがその肺から漏れる。伝い落ちる間もなく――それは酒舟の底を踏み抜くかのようにこぼれ出していった。人間の身体のいったい何処に、これほどの量を湛えられているのかと目を疑うほどの、膨大な血潮。それが、取り返しのつかない勢いを伴ってみるみるあふれ、噴き出し、濡れた甲板に淋漓たる流れを飛び散らせて、広がり。
 大きく船が傾いだ。何か致命的な構造材が砕け散ったような、そんな沈み込む衝撃が船全体を突き上げる。火の粉が一段と激しく降りしきる。帆柱の一本が凄まじい火の尾を引いて倒れ込んだ。また揺れる。今にも振り飛ばされそうだった。
「所詮は女か」
 レイスはつぶやいた。黒薔薇の身体が壊れたガラスのように崩れかかる。
「つまらぬ最期だったな」
「レイス……てめえ!」
 ハダシュは絶叫し、レイスへと矢のような当て身を食らわせた。だがレイスはふらつきもしなかった。返り血を浴びた氷の表情がハダシュを見下ろす。ハダシュはつんのめって不様に転倒した。目の前に黒薔薇の残した銀のナイフが見えた。掴んだ手が血まみれになるのも構わずに握りしめる。黒薔薇の、だらりと垂れ下がった腕がびくりと動いた。深紅に濡れた爪がレイスの腕に巻き付く。
「逃げて」
 黒薔薇の手が、レイスの剣を掴んだ。
「今のうちに」
「貴様、何を」
 レイスが顔色を変えた。黒薔薇はレイスの顔に爪を立てた。視界を塞がれたレイスが怒りのうめき声をあげる。爪が顔に、眼に食い込む。執拗に絡みつく黒薔薇の手を、レイスは何とかして振り払おうともがき、なおいっそう剣を深々と突き立てて抉った。血が、塊になって落ちる。
「ハダシュ」
 血が、別れの涙となって黒薔薇の眼からこぼれ落ちた。
「……愛してたわ……」
 死の笑み。ハダシュは声にならない叫びを上げた。ナイフを腰だめに構えて血を吐き、濡れそぼる髪を振り乱し、最後の力を振り絞ってレイスへと突進する。レイスは黒薔薇の身体を盾にしようとして後退った。だが剣を押さえられ、避けようにも避けきれない。ハダシュは絶叫した。闇雲に切っ先を向け、突き立てる。レイスは血だるまになって顔を押さえ、仰け反った。
 剣が血脂の音を立てて引き抜かれる。黒薔薇の身体がぐらりと傾いた。棒のように倒れ込んでゆく。ハダシュは黒薔薇の身体が甲板に打ち付けられる寸前に抱きとめた。
「まさか、この私が傷を負わされるとは」
 レイスは狂気じみた嘆息をもらし、喘ぎ笑った。貴族的で端整な面立ちに、今は凄まじい傷がいくつも走っている。潰れた右目から血が流れ出ていた。それでも笑っている。
「油断していたよ」
「なぜ、こんなことをする……!」
「言ったはずだ」
 レイスは血まみれの唇を吊り上げて笑った。
「我が国では、貴族と犯罪者ごときを同列に扱う習慣はない、とね」
 ハダシュは黒薔薇を抱いたままよろめくように後ずさった。腕を伝うなまぬるい感覚が、見る間にすべてを赤く、焼けつくようなつめたさで染め抜いていく。まるで破裂した水袋を抱いているかのようだった。命そのものが血の重みとなって無惨にこぼれ落ちてゆく。
 レイスは血を吐いた。自らの血にぬめる剣を持ち替え、掌の汚れをぬぐう。
「手負いの賊と思って甘く見たのが失敗だったな」
 残る隻眼で火のようにハダシュを睨み付ける。
「早々に片を付けてやろう。知り合いのよしみだ」
「その言葉、そっくりそのままてめえに返してやる」
 ハダシュはじりじりと後ずさりながら歯を食いしばった。恐怖を押し殺し、余裕の嘲弄を浮かべてみせようとする。だがどうあがいても苦悶の表情しか捻り出せそうになかった。鋼の如き灰色の瞳。傷を負ってなお冷徹な声。漆黒に身を包んだ、隙一つ無い物腰。瀕死の黒薔薇を抱えた今の状態で戦っては、この男には絶対に勝てない。ハダシュは荒々しく息をついた。男の動き、太刀筋、それらすべてを血に流し込んだ熱鉛のごとく記憶に深く焼きつける。おそらくレイスもハダシュが取るであろう次の一手を推し量っているのだろう。唇を冷酷に吊り上げたまま、動かない。
 背中に船首上甲板の手すりが当たった。船全体が今にも引きちぎられそうな軋みをあげている。また炎が一段と高く上がった。足元にまで火が伝い走り始めている。ハダシュはよろめき、背後へと目を走らせた。眼下は激しく打ち寄せる波と炎の坩堝。空は赤黒く染まった血の暗雲。轟音を放って崩れ落ちる火柱以外は、立ちのぼる煙と劫火に遮られ、何一つとして見えない。
 炎の渦が船を包み込んだ。振り飛ばされそうなほど前後左右に大きく揺れる。身体がつんのめった。おもわず掴んだ手すりが、もろくも根本から折れた。砕ける。黒薔薇の身体が、手から離れてゆく。
 ハダシュは手を差し伸べようとした。離れてゆく――消えてゆく――喉を嗄らして叫ぶ声が、耳を聾する轟音に呑み込まれる。レイスが背後から斬り込んで来た。ハダシュは絶叫した。反射的に太刀筋をかいくぐって身をかわす。逆手にナイフを持ち替え、懐深く一気に飛び込むなり脚を軸に身体をねじり、渾身の力で背後から背を蹴り砕く。もんどり打って倒れるレイスの手から半月刀が飛んだ。どこかが砕ける音がした。銀の髪が飛沫を散らして仰け反る。
「消えろ! もう、二度と俺の目の前に現れるな」
 ハダシュは、倒れたレイスめがけて叩きつけるようにしてナイフを捨てた。走り出す。そのまま手すりを蹴り、沸騰する紅の闇に向かって身を躍らせる。叫びを上げる間もなく、火が煮こぼれる炎の海へと、石のように落ちて行く。
 凄まじい水柱が上がった。身も裂けんばかりの痛みにハダシュは半ば気を失い、そのまま沈んだ。血が水を汚してゆく。息が尽きる寸前、ハダシュはようやく自分を取り戻した。動かない片腕を引きずるようにし、もう一方の腕で必死で水をかき海面へと浮かび上がる。
「ヴェンデッタ」
 濡れた髪をふりみだし、声を限りに叫ぶ。喉に水が流れ込んだ。息が詰まる。
 次の瞬間、おそらく積み込んでいた砲弾か何かに引火したのだろう、船を真っ二つに断ち割るほどの水蒸気爆発が右舷を突き破り、水煙と炎の洪水となって夜の海上に噴出した。炎の尾を引く木っ端が、さながら悪夢のごとく飛び散る瀝火となって周囲一帯に炎の流星雨を降りしきらせる。悲鳴と怒号の入り乱れた夜空が、まるで血を流したかのように明るく赤く、焼けただれて見えた。荒れ狂う雨もまた、血の色だった。
 ハダシュは絶望に浸されていく意識をふるい立たせようとした。だが抗いようもない激痛が身体を石のようにこわばらせる。そのとき、燃える木切れと煙火の混じる波間に、小さなボートが見えた。漁り火にも似た青い光が舳先に揺れている。浮かび上がる女軍人の影、そして。
「ハダシュ」
 身を乗り出して叫ぶ必死の声が聞こえた。
「どこ、返事して、ハダシュ!」
「ここだ」
 ハダシュは喘いだ。炎に切り取られた華奢な影が、突然海へと飛び込んだ。白い抜き手を切って近づいてくる。ラトゥースだった。泳ぎ着くなり、そのまま溺れるようにしてハダシュの身体へとすがりつく。
「怪我、ねえ、怪我はどうなっ……!」
「大丈夫だ」
 ハダシュは痛みに顔をゆがめながらも、ラトゥースが肩に通して持ってきたロープと浮きを、その身体の両脇へと差し入れた。
「馬鹿っ……これは私が使うんじゃなくて……!」
 弾け飛ぶ水しぶきを浴びながら、ハダシュはラトゥースの身体を引き寄せる。
「分かってる」
 半ば沈み、半ば泳ぎながら、ラトゥースの身体を抱いて荒々しく唇を重ねた。ばしゃばしゃともがくラトゥースの身体から、驚きの力が抜ける。
「助かった。お前のおかげだ」
 浮きにしがみついたラトゥースは、ぽかんと唇を半開きにしていた。呆然と浮かんでいる。
「……う、うん……」
 青い火のボートが近づいてくる。ハダシュは燃える帆船を振り返った。海上に漂いつつ燃える無数の藻くずとともに、波にもまれ、見上げる。難破したまま、完全に沈むこともできず滅びの火に身を焼き尽くす帆船の末路。黒薔薇の終焉は、その流した血の色にふさわしく残酷に、壮麗に立ちのぼった炎と煙に包まれて、もはや誰の手にも負えるものではなかった。


「部屋を代えてくれ。こんな縁起の悪い部屋には二度とこもりたくない」
「無理」
 鴎が鳴いていた。夕刻の鐘の音が遠ざかる。透き通る夕日がいつもの病室を照らし出していた。ラトゥースは立ち上がり、窓を閉めながら笑った。
「ここが病室なわけじゃなくて、あなたの部屋がいつも病室になってるってだけでしょ」
「だから、怪我するたびに毎度毎度この部屋に担ぎ込むのはやめてくれと言ってる」
 ハダシュは動くこともままならぬ包帯姿への諦めも兼ねて、子供じみた不平を口にした。撃ち抜かれた肩の銃創は不幸中の幸いか関節を傷つけることもなく貫通していたとのことだった。傷はまだ痛むが、今はもう快方に向かっている。それより何より、あの怖ろしい麻薬の飢餓感が嘘のように引いていることのほうがはるかに信じられなかった。
「仕方がないでしょ。貴方が馬鹿な事ばっかりしてしてくるからこういうことになるのよ。もう少し考えて行動したらどうなの。いつもいつも顔突きあわすたびにこの様じゃない。最初も然り、二度目も然り。もういい加減にしてよね。今度こそ助からないかと思ったわ」
「誰が馬鹿だ、誰が」
「貴方よ」
 ラトゥースは窓辺にもたれ、ため息まじりに噛みついた。
「ほかに誰がいるっていうの」
 そのままふさぎ込んで黙りこくる。
 ハダシュは内心あわてふためいた。何とか場を取り持とうと、気の利いた言葉をいくつも探し出してきてはそのどれもがふさわしくないと思い返し、結局しぶしぶといった様子を無理につくって、顔を窓の外の夕日にねじ向けて言う。
「悪かった」
 ラトゥースはかぶりを振った。華奢すぎる影が透き通る紅の残照をゆるやかに横切っている。
 薄闇の迫る静かな部屋。二人きりだった。シェイルはカスマドーレの取り調べや沈んだ帆船の現場検証などで忙しくしている。おそらく今夜も戻ってこないだろう。沈黙が気まずい。
 ラトゥースは振り返ると歩み戻ってきて、ハダシュの額に手を寄せた。汗に湿った前髪を指の先でかき上げる。
「熱が引かないね。汗拭くわ。ちょっと待ってて」
 そう言って部屋の隅に行くと、真鍮色をした手水盆の縁にかけてあった白いタオルをいったん冷や水に浸してからきゅっと絞って広げ、冷たさを確かめつつ持ってくる。
 ハダシュはぼんやりとラトゥースの動作を眼で追いかけながら、ふと思いついてたずねた。
「お前こそもう大丈夫なのか」
 手が止まる。だがラトゥースは何事もなかったかのように肩をすくめた。取り繕った優しい微笑みをうかべる。
 ハダシュは拭いてくれようとしたラトゥースの手からタオルを取り上げ、自分で額の汗を拭った。そのまま眼の上にタオルを伏せ、長い息をつく。ラトゥースの表情を見てしまうことに気鬱めいた後ろめたさがあった。
「本国に詳細な報告書を送らなくちゃいけないんだけど」
 ベッドの縁に腰を下ろす気配が伝わる。何でもない素振りを保つだけで息が苦しくなった。
「何て書けばいいのか迷ってる。私たちがいたのはたぶん随船のほうだったと思うけど、あの騒ぎに乗じたか類焼したかでエウロラ号は燃えてしまったし、沖にいた戦列艦も行方をくらませている。拿捕すべく追っ手を向かわせてはいるけど果たして見つかるかどうか」
 説明の必要すらないことだ。ラトゥースもおそらく今後を相談するつもりでしゃべっているわけではないだろう。残された問題はひとつだけだ。
 レイス。生きているのか、死んでいるのか。懐かしい、遠い笑顔が、今はもうどこにもない。それがかりそめの安息、偽りの絆でしかなかったと分かっていても、奇妙に虚しかった。
「レイスブルック、デュゼナウ、どちらが本当の名か分からないけど、彼の素性を一度調べてみる必要があるわね。でも、レグラムと黒薔薇が死んだ今となっては真相を明らかにするのも難しい」
 声が沈んでいる。ため息が聞こえた。
「結局、誰一人助けられなかった。みんな死んでしまって。本当に、次に死ぬのは私かもね」
 自虐的に言葉だけを投げ棄てる。
「馬鹿なことを言うな」
 ハダシュは首を振って眼の上のタオルを払い落とした。思わず肘をついて起きあがる。怒りにも似た感情がこみ上げた。つい語調が荒くなる。
 ラトゥースは萎縮した視線をハダシュへ向けた。両手を組み合わせ、うつむいて、居たたまれぬ様子で顔を覆う。
「ごめんなさい」
 気を紛らわすように力なく笑う。斜めに傾いたハダシュの肩をベッドへと押し返そうとする。ハダシュは苦痛に唇をゆがめた。
「痛かった? ごめんなさい」
「馬鹿野郎」
 反射的に唸ってから、ハダシュは自分の馬鹿さ加減に後悔した。どうしようもなく頭が混乱している。こんな時に限って、かけるべき優しい言葉がまるで思い浮かばない。
 ラトゥースはうつろにハダシュを見た。
「黒薔薇は、貴方が止めに来てくれるのを待っていたんだと思うの」
 長い沈黙の後、あきらめたような微笑を口元に昇らせながらラトゥースはぽつりと言った。後ろ手をついて天井をぼんやりとながめる。
「レグラムに見せたあの顔を思えば、私なんか殺そうと思えば簡単に殺せたはずなのに……殺さなかった」
 ラトゥースは、心かき乱された暗い眼をハダシュに向けた。
「もっと早く気付いていたら良かった。あのひとが、ギュスタ神官の妹だったって――義父を狙ったのも、レグラムを狙ったのも、全部、復讐のためだったって――なのに、私ときたら最後まで気付かなかった。もし、気付いてあげられたら、もっと早く、あのひとのことを分かっていたら、止められたかもしれないのに。苦しませずに済んだかも知れなかったのに」
 喘ぎにも似た声だった。声をつまらせ、悲しげに顔をゆがめている。
「私なんかとは……比べものにならないぐらい……傷ついてた」
「違う」
 ハダシュはその手を掴んだ。いろいろな思いが錯綜しては消え、水泡のように脆くはじけてゆく。言いたいことはたくさんあった。言わなければいけない言葉も、言ってはいけない言葉も。だがまともな台詞が口を衝いて出る前に身体が勝手にラトゥースを求めていた。振り払おうとする手を、かばうようにして上から包み込む。
「ハダシュ」
 ラトゥースは泣きそうな声で弱々しく突っぱねた。
「誰にも、言えない……もう……どうしたらいいのか分からないの……」
 啜り込む息のつめたさがかすかに流れ込む。ふるえる唇にハダシュはそっと口づけた。
「違う」
 息を継ぎ、触れがたい心に、唇を、思いを重ねる。ラトゥースに出会っただけで人生のすべてが変わってしまった。もしどこかで道を違えていたら今頃どうなっていただろう。ローエンや黒薔薇と同じ最期を迎えたかもしれない。冷たい雨にうたれ、どこかの路地裏に打ち棄てられて。だからこそ分かる。黒薔薇は最初から生きてゆくことを諦めていた。誇りを糧に生きてゆく道を捨て、破滅に身をゆだね死にゆく道を探していた。本当は間違っていると分かっていても、なお。
 ラトゥースは茫然と唇を奪われながら、わずかに腕の中でもがいた。涙のこぼれる眼を大きく見開き、息をとめる。
「ハダシュ」
「クレヴォー」
 唇を放し、吐息とともにラトゥースの頬に手を押し当てる。違う。呼びたいのはその呼び方ではない。ハダシュはラトゥースの名を唇に乗せようとして、そんな簡単なこともできないことに気づいた。
「ありがとう。慰めてくれて。大丈夫よ」
 ラトゥースは涙まじりのためいきをもらし苦々しく笑った。ちらりとハダシュを流し見て、耐え難い様子で顔をそむける。赤くうるんだ眼があまりにも痛々しかった。
「でも、いいの。気にしないことにするわ。大丈夫。ぜんぜん大丈夫よ。あ、そうだわ。ついでに思い出したから言っておくけど一応、貴方のことは嘆願書を書いて出しておいたからきっと恩赦が出ると思う。情状酌量はないでしょうけどでも何て言うの、超法規的措置っていうか」
「ラトゥース」
 ハダシュは饒舌を遮った。ラトゥースがはっと息を呑む。
「ラトゥース」
 また、名を呼ぶ。ずっとその名で呼びたかった。だが呼べなかった。呼んでしまえばきっと――
「安心しろ」
 ハダシュはためいきをついた。吊り上げた口元にわずかな自嘲の影をおとし、笑う。
「お前は、俺とは違う。お前はお前のままだ」
 ラトゥースは困惑の表情で目を瞬かせた。
「どういう意味」
「俺は血に汚れすぎてる」
「嫌。そんなこと言わないで」
 ラトゥースは子どものようにいやいやとかぶりを振ってハダシュにすがりついた。それはまるで貴族の義務や誇り、巡察使の矜持といった仮面を投げ捨てたあとにあらわれた、一人の少女の素顔であるかのようだった。
「謝るから。おねがいだから」
「馬鹿。落ち着いて聞け」
 その声が今は何よりも胸に痛く、愛おしい。
「俺は人殺しだ。どんなに取りつくろっても、その事実は永劫に変わらないし変えられもしない」
「でも……!」
 抗おうとするラトゥースをゆるやかに抱いて、もう一度キスする。最後のキス。
「だから、俺は、お前の国の法に基づいた刑に服する。たとえそれがどんな罰であっても、何年かかろうとも法の処断に従う。罪を、償ってくるつもりだ」
 声がふるえる。こんな図々しいことが言えるのは、きっと今夜が最初で最後だ。犯した罪を償い終わる日が来るまで、二度と口にすることはない。二度と。ハダシュは万感の思いを込め、ささやいた。
「だから、もし、それでもいいと思うなら、待っていてくれ。必ず、戻る」
 ラトゥースの肩がふるえ出した。頬にぽつりと涙が落ちて、流れる。
「うん……待ってる。戻ってきてね」
 その一言はやわらかく、穏やかなきらめきを放ってハダシュを溶かした。

「何やってるの、さっさと乗らなきゃ遅れちゃう」
 ラトゥースは純白の羽根飾りもうるわしい大きな青い帽子を振り回して、船着き場目指し一直線に駆けだした。周囲の船客たちが驚いた目で振り返る。銅鑼がせわしなく鳴り渡っている。出港を告げる合図だ。
「船が出ちゃうじゃない。ほら」
 接岸した船の乗降口にはマイアトール信者であることを示す黄色い布を腰に巻いた巡礼の一行が詰めかけていた。巡礼といっても要は豪華船を用いた周遊気分たっぷりの優雅な旅行であるらしく、添乗員らしき伝道師が黄色い三角旗を振るって巡礼の群れを必死で呼び集めている。何も考えずその列へと飛び込んだラトゥースは、思わぬ人の流れに引き込まれてよろめいた。
「うわあ、流される。助けて」
 青い帽子が、みるみる違う方向へと流されていく。
 係留されているのはエルシリアの都ハージュへと向かう純白の帆船だった。朝日を受け優美な影をきらめかせる真っ直ぐな姿が、さざ波ひとつない河面にとろりと映し出されている。予定では、途中の街に寄港しながら数日をかけてトワーズ河を遡上してゆく旅になるはずだ。
 日が出たばかりの街並みには、いつも通りのきらびやかさと賑やかさ、猥雑さの混じった活気がよみがえっていた。集まっているのは乗客ばかりではない。首から下げた籠に干し果を山積みして売り歩く子ども、長い棒の先にガラガラと鳴る妙な道具をくくりつけ人寄せに振り回す者、冷たいはちみつ水を売る者。少し離れたところでは本格的な屋台まで出ていて、串に刺して焼いた魚の香ばしい匂いが、朝食にありつき損ねた乗客たちの垂涎の眼差しを誘っている。
「おい、アレ」
 ハダシュは肩に抱えた荷物を斜にしょい上げ、わざと重そうに揺すって見せながらシェイルに向かって言った。
「何とかしてやったらどうだ」
 ラトゥースはといえば、何とも情けない声を上げ、必死で人混みを泳ぎ戻ろうとしてじたばたあがいている。
「助けてってば」
「子守はそっちの役目だろうが」
「黙れ重罪人。保護観察処分の分際で」
 シェイルは咳払いし、つかつかと巡礼の列へ割り込んでゆくと、人混みにおぼれかけたラトゥースの腕を掴んで苦もなく戻ってきた。
「少しは落ち着いて下さいませ、姫。遊びに帰るわけではないのですよ」
 シェイルは仏頂面をさらに渋らせて言うと、船に向かって歩き出した。
 ラトゥースは照れくさそうに笑いながら頭を掻く。
「分かってるわ。囚人の護送でしょ。それにしても片時も目を離さず厳重に見張ってなくっちゃいけないなんて、何て重大な任務なの」
「いいから眼を離せ」
「嫌よ。これからはずっと一緒にいちゃうんだから」
 一人でくすくすと笑うラトゥースだったが、いつの間にかシェイルが先に行ってしまったことに気付いて、あわてて飛び上がった。
「いけない、ほらハダシュ、早く行きましょ。シェイルにまた怒られちゃう」
 ラトゥースは転がるようにシェイルの後を追っていった。ハダシュは疲れたため息をつき、肩をすくめる。向かうはエルシリアのハージュ。太陽神マイアトールを主として信仰する総本山として知られた、歴史あるたたずまいの残る街にして、この国の政教を一点に集約した王国最大の都。一瞬、ためらいと不安がハダシュの眼に宿る。だがすぐにその険しさもやがて穏やかな表情にまぎれてゆく。帆船にかかった昇降板の中途から、何やら嬉々として叫びつつ手を振るラトゥースの姿が見えたからだった。
「やれやれだ」
 眩しすぎる朝日にハダシュは手をかざした。遠くの空で海鳥が鳴いている。彼らの空は自由だ。手を伸ばせば届きそうなほどに。
 柔らかい鳴声に導かれ、歩き出す。その先は、ハダシュが知らなかった外の世界――心の底から渇望し、憧れて止まなかった陽の当たる世界だった。

             【終わり】


もくじTOP
<前のページ