血と薔薇のシャノア

6 絶望の輪舞曲

 濃い灰色に垂れ込めた曇天は、今にもちぎれて泣き出しそうに見えた。
 シャノア総督府は海に切り立った城壁を幾重にも巡らせる、古風かつ堅牢な作りであった。総督府内外に擁する水路はさながら毛細血管のように入り組んでおり、各所に設けられた水門橋によって分断され、迷路と化している。それはかつてこの街が、交通、通商の要所として各地方から羨望の眼差しあるいは嫉視を集めていた時代、海からの侵入者を防ぐために作られた城であったことを如実にあらわしていた。
 割れた銅鑼の音が、海鳥を追い立てるかのようにやかましく打ち鳴らされる。常日頃であれば、周辺は税関の手続きに訪れる商人や、歓楽街を探し、徒党を組んでくだをまく酔いどれ船員、しどけなく肌をあらわにした客引きの女たちで雑然とごった返しているはずだった。それが今は多数の衛視が歩哨に立ち、税関の手続きに来る長い列に対し、あからさまな敵意を向けては行く手を遮り、何かと言いがかりを付けて身元を改めようとしている。
「ずいぶん滞ってるようね。あれじゃ業務にならない。よほど何か後ろめたいことがあるとみえるわ」
 ラトゥースが薄暗がりの中でつぶやく。
 ハダシュはおもむろに首をもたげ、用心深く周辺の気配を探った。
「行くぞ」
 合図を送り、影を伝って走り抜ける。市街地に面する運河には防波堤をかねた低い城壁があり、随所に見張りのやぐらが設けられている。二人は木戸番のいないやぐらを選んで戸をこじ開け、内部に忍び込んだ。暗闇に小忙しい足音が反響する。
 ほの暗く狭い階段を上っていく。途中、ところどころに鉄格子の入った矢狭間が切られていて、死角なく運河を監視することができるようになっていた。
「待ってよ。そんなに急がないで」
 ラトゥースはもう苦しげに息をはずませている。
「さっさと上がってこい」
 ハダシュはラトゥースを待つために立ち止まった。物見櫓を登り切ったところでちょうど鐘が鳴り始める。
「四、五、六、と。終わりの鐘だね。橋が閉まる」
 ラトゥースはやれやれとへたり込み、ほっそりとした指を折って数えた。運河をまたぐ大橋の両端に、木枠に鉄を嵌め込んだ巨大な格子戸が落とされる。長時間待たされたあげく市場取引の許可すら取れず解散を余儀なくされた商人たちが、不満の声を上げて門扉に寄り集まる。だがそれも長くは続かない。銃剣を手にした衛士が何ごとかを怒鳴ると、異国の行商人たちは蜘蛛の子を散らすようにいなくなった。
「さて、と」
 ラトゥースは埃をはたいて立ち上がった。強くあおってくる潮風に飛ばされまいと帽子をおさえ、顔を上げる。
「行動開始ね」
 海から直接引き入れた運河に、ひたひたと潮が満ちてゆく。波止場に揺れるいくつもの燈火。
 照らし出された大河の水面を、上流へ向かう帆船が音もなくすべるように進んでゆく。一方の港側では荷揚げ用のクレーンが軋みをあげ、荷役の労務者を罵倒するいくつもの怒声、物の壊れる音、銅鑼、鋭い笛の音がぶつかり合い、混然一体の騒音となって入り交じる。
 その動的な賑やかさとは正反対に――
 閉ざされた陸側は陰鬱な土色に塗りつぶされ、明かりひとつなくどこまでも静まり返っている。どちらも同じシャノアのはずなのに、灯がともり、富が行き交うこの一角だけが、文明という名の享楽を突出して甘受できる別天地のようだった。
 ラトゥースは口元を強く引き結び、躍動感まぶしい港から眼をそらした。望遠鏡を取り出し、遠い海の方角を見つめる。
「沖にずいぶん大きな船があるわね。暗くてよく見えないけど」
 ラトゥースは望遠鏡を目から離し、眼をほそくして指さした。商船用の錨地に、灯りを伏せた黒い船影が浮かんでいる。闇色の空に溶け込む三本マスト。貨物船にしては妙に乾舷が高く、直線的で一段と高い後甲板を持ち、そこに並ぶ窓だけから黄色い明かりがかすかに洩れている。
「何かしら、あの船。フリュートにもクリッパーにも見えないけれど。どう思う?」
 ラトゥースは胸壁に肘をかけてもたれ、眉をひそめてハダシュを見やった。ハダシュはわずかに身体をふるわせた。ラトゥースの言う単語の意味が分からないのもあったが、とにかく寒かった。石積みの壁に直接触れたところから冷気が伝いのぼってくる。ラトゥースの声がやたら遠い。耳鳴り。悪寒。指先をつぶされるようなしびれ。この感覚は――嫌な脂汗がにじむ。
「ハダシュ、聞いてるの」
 問いただされ、ハダシュは我に返った。ラトゥースの真摯な顔が驚くほど近い。
「ほら。見て」
 望遠鏡をひょいと投げ寄越してくる。とっさの反応ができず、掌の上で望遠鏡がはねた。かろうじて紐が指にからまる。
「あ、ああ」
 手に力が入らない。
(――刻みつけてあげる――)二重になった声が頭上を通り抜けていく。眼の奥が重苦しい。
 身裡の奥が、ぞわりと騒いだ。飢餓感。ハダシュは歯を食いしばった。いつもこうだ。肝心なときに手がふるえ出す。思い出すだけで恐ろしかった。禁断症状のすさまじさは筆舌に尽くしがたい。眼球に針を突き立てられる寸前のような、身もだえする予感が来たかと思うと、それは見る間に絶叫と失神の繰り返しへとすり変わっていく。
「ハダシュ」
 抑えられてはいたが鋭い声だった。
 ハダシュははっとして身をこわばらせ、ラトゥースを見返した。
「どこか痛むの」
 青い瞳が大きく見開かれ、不安そうに揺れている。ハダシュはとっさに短く荒い息をつき、投げやりな笑みを作った。
「なんでもない」
 わななく手を握り込んで唇をゆがめる。やにわに自身の愚かしい弱みを全てむしり取って投げ捨てたい衝動がこみあげた。身体の苦痛も心の弱さも、自分が犯してきた罪への罰だ。過去を乗り越えなければ、悔いることも、償うことも許されない。
 ラトゥースは困惑した様子で眼のやり場を探し、とりあえずシャノアの夜景を見つめた。港の喧噪だけが、潮の匂いに乗って運ばれてくる。
「……綺麗な街ね」
 ふいにハダシュは身体が震え出すのを感じた。釘を打ち込まれたかのような尖痛が脊髄に走る。うめき声がもれた。 
「何、どうしたの」
 ラトゥースが顔を上げ、とっさにハダシュを支えようと手をのばす。
「来るな」
 乱暴に払いのける。ラトゥースは弾かれた手をおさえ、声を詰まらせた。
「まさか」
 剥き出しの上腕に、ぞっとする鳥肌が浮き上がっている。ハダシュはそれを隠して腕を抱き、血が出るほど唇を噛んで、呻きを抑え込んだ。血走った目でラトゥースを睨む。
「ハダシュ、あなた、やっぱり」
 ラトゥースが、せっぱ詰まった表情で詰め寄ってくる。
「うるせえ」
 荒げたはずの声が震える。痛みを伴う痙攣が突き抜けた。
 何度も落とされた、禁断症状という名の拷問。犬のように鎖でつながれ、理性のカケラもない狂気にたたき落とされて、自分は、クスリのためなら殺しでも何でもやる人間のクズなのだと、思い知らされ続けてきた。この姿だけは、あの、おぞましい姿だけは絶対に、見られたくない――
 膝ががくりと折れる。気を失ったのだ、と思った。血の気が引いて暗かったはずの視界が、なぜか眩しい金色に変わっている。異国を思わせる珍しい、それでいて強く、柔らかく、陽の光に似た、ぬくもりのある香り。刹那の幻影が消え去る。
「ハダシュ」
 青い天鵞絨の帽子が、風に吹き飛ばされ闇の底へ舞い落ちていくのが見えた。
 消えてゆくそのはかなさに、思わず手を伸ばしそうになる。羽根飾りの純白がひらり、ひるがえって、小さく消える。
「苦しいなら、無理しないで」
 耳元に聞こえたのは、蚊が泣くよりも小さな声だった。
 声が聞こえてはじめて、華奢なはずのラトゥースに抱きとめられていると気づいた。がくがくと膝が笑い、我知らずうめき声がこぼれ、痛みと自嘲に噛みしめた奥歯が軋る。唾棄したいほどの所在なさでありながら、そうと気づかないほど自失していた。うすら寒く汗が流れ落ちる。それでも、動けない。
「禁断症状ね……?」
 ハダシュは答えず、あえて乱暴にラトゥースを突き飛ばした。手を背壁につき、乱れた前髪越しに半ば憎々しいほどの眼でラトゥースを睨みすえる。
「無理しないで、一度、お医者様に診てもらったほうがいいわ。レイス先生に相談しましょ」
 ラトゥースが動転した口振りで言いかけるのを、灼熱の一瞥で黙らせる。ハダシュはわななきの治まらない唇を、血が滲み出るほどぎりりと強く噛んだ。痛みで理性を引き戻し、餓えた獣のように四方へと目を走らせる。
「何でもない」
 かすれた息を肩で吸い込む。喉の奥が、ひりひりと剥がれそうに痛んだ。拳でくちびるをぬぐい、叩きのめすかのような声で吐き捨てる。
「黙ってろ」
 ハダシュは眼の奥でずきずきと赤黒く回り始めた眩暈の渦を押さえ込んだ。
「これぐらいどうってことはねえ」
 突然、背後が騒がしくなった。運河の水面が赤々と照らし出されていく。ハダシュは歪んだ笑いを投げ捨て、何ごとかと運河を睨んだ。朱金色に染まるさざ波が闇と溶け合って騒然とざわめき、沸き立っている。ラトゥースは壁の向こう側に視線を走らせ、驚きの眼を押し開いて身を乗り出した。息をとめて対岸の城壁を指さす。
「あそこよ。誰かいるわ」
 総督府側の対岸にせり出した跳ね出し歩廊からいくつものまぶしい光が放射状に漏れ、水路全体を薄赤く染め上げている。やにわに水音が激しくなった。火の粉を散らして燃えるたいまつをかかげた艀が何艘も放たれる。銃を持って駆け集まってくる衛兵たちもまた大声で怒鳴り交わし、水面を指さしていた。
「あの神官かもしれねえ」
 ハダシュは身をひるがえした。飛ぶようにして階段を駆けくだり、水路に面した木戸を蹴破った。砕ける扉を跳ね越え、さらに一段低くなった水路脇の通路へ飛び降りるや、足場の悪い石積みの防波堤を流れに沿って風のように走る。
「ハダシュ、待って」
 ラトゥースが後を追ってくる。たいまつをかざし追いすがる幾艘もの船。水面を叩く棹の水しぶき。運河は血の色をすり流しながらあかあかと揺れ、追いたてられてゆく侵入者の起こす波紋をくっきりと描き出していた。照り返しを受けた暗い曇天が、さながら内臓のような恐ろしい形に割れ、押し潰すかのように迫ってくる。
「ギュスタ・サヴィス」
 ハダシュは声を押し殺して叫んだ。振り返った侵入者の驚いた顔までもがはっきりと見分けられた。
「分かるか。俺だ。こっちに来い」
 侵入者は大きな泡一つを残して水の中に消えた。ようやく追いついてきたラトゥースが息をつまらせる。
「しまった、逃げる気よ」
「くそっ」
 ハダシュは拳で壁を殴りつけた。先ほどの禁断症状の走りがまだ影響しているのか、息が続かない。壁に手をついて大きく喘ぐ。とっさにラトゥースがハダシュの身体に走り寄り、肩で支えた。ハダシュは驚いてラトゥースの横顔を見下ろした。凛とした青い眼差しが、今は高まる緊張に揺れ、かたくこわばって、ただ水面だけをまっすぐに見つめている。
 二人の存在に気づいた衛兵が甲高い笛を吹き鳴らし、周りに知らせた。夜空を切り裂く鋭い音がひびきわたる。強盗《がんどう》の光がぐらぐらと揺れながらもいっせいにこちらを向いた。光が交差する。
「”東の犬”だ。追え」
「まずい、今度はこっちに気付かれた」
「わわ、それは大変」
 ラトゥースが泡を食って後ずさりかける。
「奴を連れ戻す」
 ハダシュは水面に走る波紋を睨みつけて怒鳴った。
「俺が奴らの注意を引きつけてる間に逆方向へ逃げて城壁に隠れろ。奴らに尻尾を掴ませるな。お前みたいな国の役人がうろうろしてたら総督府の連中はいい気がしないだろう。あの神官をひっ捕まえたらすぐに後を追いかける」
 ハダシュはラトゥースの腕を強く掴み、ぐっと力を入れて、その瞳を見つめた。
「下手打つんじゃねえぞ。いいな」
「わ、分かったわ」
 ラトゥースが眼を押し開く。
「気をつけて」
 追いすがる光、怒号、金具のぎらつき。緊迫の渦中を駆け抜けざま、ハダシュは一気に運河へと身を躍らせた。水しぶきが高くあがる。差しつけられる松明から火の粉が熔け出して降りかかった。ハダシュはわざと目立つよう大きな抜き手を切ってから、息をするどく吸い、身体を反転させて水底深くに潜った。暗黒を掻く別の水音が聞こえる。強く水を蹴った。みるみる影に近づいていく。
 ハダシュは逃げる人影の腰を掴んで水底に引きずり込んだ。激しく抵抗される。必死の眼がハダシュを睨んでいた。立ちのぼる無数の泡に取り巻かれ、掴み合い、もつれ合ううちに、息がもれた。黒衣の男が喉をかきむしる。なかば意識を失った相手の脇を支え、ハダシュはようやく水面に浮かび上がった。半分水に浸かったまま濡れた頭巾をはぎ取る。思った通り、あらわれたのはギュスタ・サヴィスの顔だった。
 振り返ると、追っ手の舟は見当違いの場所に集まったまま、居もしない侵入者を捜して怒鳴り散らしていた。それを確認してから、片腕にギュスタを抱え、ゆっくりと泳ぎ出す。運河の縁へつかまり、ずしりと重いギュスタを押し上げようとしたとき、頭上から心許なげな声が聞こえた。
「無事でよかった」
 ハダシュは顔も上げずに答えた。
「当然だ。こいつを持ち上げる。手伝え」
「うん」
 伸びてきた手が渾身の力をこめてギュスタを引き揚げる。何とか押し上げ終えた後、ハダシュもまた運河の縁へと上がった。濡れた服から滝のような水がしたたり落ちる。
「こっちに来て」
 ラトゥースは城壁に格好の隠れ場所となりそうな崩れた裂け目を見つけていた。二人がかりでギュスタを内部へ引きずり入れ、寝かせる。中は真っ暗で埃っぽく、じめじめと土臭いにおいが充満していた。足下には端石が転がっていて、まともに歩くこともできそうにない。
「火を起こすわ」
 かちりと火打石を叩く音がして、切り火が散った。こぼした油薬に引火し、ぱっと燃えあがる。乾いた海藻に燃え移った火が、ラトゥースのうら寂しい表情を落ち着かぬ様子で照らし出していた。火はすぐに木切れへと移され、大きくなった。
「助かる」
 ハダシュは手を火にかざして暖を取りながら、濡れた服を脱ぎ、火を消さないよう横を向いてしぼった。
「落ち着いたら早く安全な場所にこいつを運んだ方がいい」
「”東”か。レグラムは何を恐れてるのかしら」
 ラトゥースが苦々しげにつぶやく。上半身脱ぎ払ったハダシュが、近くの岩に脱いだ服をひっかけようと背中を向けたとき、息をすすり止める声が聞こえた。
「怪我してるの」
 ハダシュは心外に思って振り返った。
「いや。どうしてだ」
「あ、ああ。そうか、ごめんなさい」
 青い顔でラトゥースは口元を覆った。
「血かと思って」
 ハダシュはくちびるをゆがめた。背中の刺青を見間違えたに違いない。無言でシャツだけを取ると、まとわりつく冷たさにもかまわず袖を通し、肌を隠す。火が狂おしく燃えていた。無言でギュスタの傍らへと向かう。
 横たえた身体をいきなり踏みつける。ギュスタは苦痛に身を折り、むせ返って水を吐いた。まぶたを引き剥がすような仕草で片眼を開け、ハダシュを認めると弱々しく呻いて肘をつき、上半身を起こす。
「なぜ、私を」
 うつむいて、うつろにつぶやく。
 その背後にラトゥースが近づいた。
「これ以上、貴方に、罪を犯してもらいたくなかったからです。騎士ギュスタ」
 押し殺した声がひくく響いた。
 ギュスタは首をねじって眼を押し開いた。
「ラトゥース姫」
 言いかけて、力なく肩を落とす。
「罰を受ける覚悟はできております」
「全部話してください」
 ラトゥースはかぶりをふり、静かに命じた。
「誰に何をするよう言われたのか――全部、正直に、告白してください」
 しん、と静まり返った闇に、遠い波の音が絶え間なく打ち寄せる。自制を持って抗わなければ、そのまま暗い海に流されてしまいそうだった。うずくまるギュスタの足下に揺らぐ影を、ラトゥースとハダシュは沈痛な面もちで見つめ続ける。
「市井の庇護なく暮らす者、あるいは日々の生活を施物にのみ頼るほかない子供たち」
 ギュスタは眼を上げ、苦悩に満ちたため息をもらした。
「彼らが自由な市民であり、犯罪者や奴隷身分などではないと証明するためには莫大な金が必要でした。他にどうすることもできず、金を借り、魂を売り、それでも足りず、手を着けてはならない金を――使い込みました。それをローエンとカスマドーレに知られて」
 長い沈黙の後、絞り出すような声でギュスタは続けた。
「己が罪の露呈を恐れたばかりに、見て見ぬふりを……せよ、と」
 囲んだ火が湿り気を帯びた音を立ててたなびいた。みるみる火勢が弱まってくる。ラトゥースは用心深く枯れ草を選び、火にくべた。
「まさか、あなたがあの毒を」
「いいえ、とんでもない。私ではありません」
 ギュスタは一瞬声をこわばらせたが、すぐに力なく首を垂れ、かぶりを振った。
「でも、同じことです。私は見ようとしなかった。何者かが故意に列を乱し毒を混ぜ込んだのを、私は見ようともしなかった。罪に汚れた手、偽りの笑顔であの子たちを抱きしめようとした罰です。私の偽善が子供たちの自由を、未来を、命を奪ってしまった。あの子たちを裏切ってまで守るべきものなど、何もなかったのに」
 両手で顔を覆う。声が、ふと遠くなった。
「死んで詫びるしかないと思いました。でも、私一人が罰を受けて何が変わるだろうと思うと――この街を腐らせてなおのうのうとしている元凶を思うと、いてもたってもいられなくなりました。死んでしまった人たちや罪もない子供たち、それに私自身がずっと抱き続けてきた呪わしい思い、母や妹が受けたであろう塗炭の苦しみ。それを奴に、レグラムに思い知らせるには」
 淡々とかすれた声で、ギュスタはつぶやく。
「――殺すしかないと思いました」
「あなたは卑怯です。ギュスタ・サヴィス」
 ラトゥースはふいに遮った。思いつめた瞳に火が映り込んでいる。海に沈む寸前の夕日のようだった。
「怒りと憎しみの劫火に身を任せ、許されぬ血に手を染めて、それであの子たちが喜ぶとでもお思いですか」
「では教えてください」
 ギュスタは胸のペンタグラムを握り、言葉を詰まらせた。
「私に何ができたというのです。犯した罪に打ちのめされ死を選べば良かったのですか。罪を悔い、刑に服せばそれでこの街が変わるのですか。そんなことはあり得ない。何一つ変えられはしない。何一つ」
 血を吐くようにうめく。
「罪なくして傷つく者だけが苦しみ続ける世のどこに正義があるというのです。どんなに祈ってもどんなに訴えても。変えられなかった。言葉は無力です。良心もまた同様に。何一つ、変える力を持たない。ならば……どうせ変えられないのなら、いっそ言葉ではなく暴力を。良心ではなく憎悪を、と。そう思うしかない現実を前にして、あくまでも理想だけを追えと、そう仰るのですか、姫……!」
 そのとき、壁の向こうで叫び交わすざわめきが聞こえた。ラトゥースはわずかに腰を浮かせた。腰の後ろに吊ったサーベルへ手を走らせる。
「火を消せ」
 ハダシュはすばやく砂を蹴って火にかぶせた。
「話はあとにしろ。一度、詰め所に戻ったほうがよさそうだ」
「待って、蝋燭に火を移すわ」
 消えそうな灯を手にしたラトゥースの表情に、なぜかハダシュは声をなくした。凛と輝いていたはずの瞳が、今にもくずおれそうに揺らいでいる。
「行くぞ。ぐずぐずするな」
 ハダシュはわざときつく言い置いてきびすを返した。
 これほどまでに暗く深い闇を、小さな手燭ひとつで照らし出すのは、所詮、無理だったのかも知れない。まるで帰る道を忘れたにもかかわらず、それを認めようともしないで泣きながら歩き続ける迷子のようだった。一時間ほど足音を忍ばせ歩くうちに、ようやく外の気配が静かになりはじめた。崩れた壁の隙間から青白い狭霧が差し込んでいる。
 ハダシュは裂け目に近づき、慎重に外をのぞいた。運河の縁から霧が這いのぼって、色街から洩れ出す赤い光に冷たい氷の色をまとわせている。ぎっしりと両舷をこすれあわせ係留されている艀もまた、漆黒の細小波に溶け込むかのようだった。磯の匂いがする。人の声はない。
 ハダシュは煉瓦に手をかけた。脆くなったモルタルが不様に割れて、くずれる。誤って手の甲に尖った角をひっかける。反射的に腕を引くと、肘がギュスタに当たった。
「どうかなさったのですか」
 ギュスタがのぞき込む。黒いペンタグラムが胸元に傾いて、針のような光を放った。
「いや、何でもない」
 血が滲む手首を押さえ、倦んだように言いかけて。ハダシュは首筋を吹き抜けるすきま風のような悪寒に思わず身構えた。ギュスタをまじまじと見返す。
 ギュスタはわずかに顔をこわばらせた。
「何か」
「いや」
 ハダシュはとっさに気をそらした。自分でも分からなかった。なぜ、そんなことを考えてしまったのだろう。
 あの女に――似ている、などと。
 裂け目を何とか人一人通れる隙間にしようと、うつむいたまま無心に作業へ没頭するラトゥースの姿が目に入る。
「クレヴォー」
 焦った声を掛ける。ラトゥースの手が止まった。
「何?」
「いや……何でもない」
 ハダシュはごまかし、肝心なことを何一つ言えないまま、逃げるように作業を手伝った。崩した壁の穴はすぐに大きくなった。煉瓦の隙間から垣間見える外の世界へ、望郷の思いにも似た視線を向ける。
「クレヴォー」
 ハダシュはどこかしら緊張した声音でつぶやいた。ラトゥースが顔を上げる。
「何?」
 同じ問いかけに、同じ言葉で返してくる。
「その、何だ……」
 息をついて、外を睨みながら、思い切って言う。
「俺は、お前の言う理想ってやつを信じたいと思ってる。お前のこともだ」
 ラトゥースは大きく目を瞠った。若干あわてたふうに、またおどおどとうつむく。答えが返ってくる様子はない。だがそれで十分だった。
 耳をそばだて、気配を探ってから城壁の外へと忍び出る。少し離れた右前方に運河をまたぐ石積みのアーチ、その橋梁部に水門とつながる鋼鉄の柵が見えた。じっとりと重い空気が生々しくまとわりついてくる。星一つない、今にも降り出しそうな空模様だった。ひとしきり降って来るのかもしれない。漆黒の闇の中、ラトゥースの持つ蝋燭だけを頼りに、運河と城壁に挟まれた細い足場を伝って歩く。濡れた靴音が響く。ハダシュは夜霧の立ちこめる空を見上げた。
「ここを抜けたら市街地だ」
「よかった」
 ラトゥースも一安心したのか、吐露するかのようなためいきを長くついている。
「もう二度とこんな狭い暗いところを歩くのはお断りよ」
 ラトゥースは水門を守る鉄柵に手をかけ、揺すった。だが自らの重みによって守られた戸はびくともしない。
「鍵がかかってるわ」
「登ればいい」
 ハダシュはすこし深呼吸して、手をこすりあわせた。濡れてかじかんだ手を柔らかくほぐしてから、絡みついた鎖に足をかけ、勢いをつけて伝い登る。ひらりと飛び降りると、わずかに足下がふらついた。眩暈を隠して振り向く。
「やってみろ」
「私を誰だと思ってるの? そんな猿みたいな真似できるわけがないでしょ」
「じゃあ置いていく」
「薄情者ー!」
 ぽんぽんと交わす他愛のない軽口が、今はぬるま湯のように心地よかった。すべてが解決したわけではなくとも、脱出の糸口を見いだせた安堵が、先行きの見えない不安を一枚ずつ薄皮のように剥がしてゆく。明るみを増したラトゥースの表情もまた、同じことを物語っていた。
「つまらない文句を言ってる暇があったらさっさとやれ」
 ハダシュは挑発する眼に笑みを混じらせ、顎をしゃくった。
「ハダシュの意地悪。覚えておきなさいよ」
 ラトゥースは燈火を置き、目も当てられない鈍重さでのろのろと柵を登った。ギュスタにお尻を押し上げてもらい、ようやく上端にたどりつく。
「はあ、何とか」
 ほっとため息をつき、濡れた鉄柵を乗り越えようとした刹那、ラトゥースは支えていた手をすべらせた。真っ逆さまにハダシュの腕の中へと落下する。
「姫、お怪我は」
 声を高くしてギュスタが柵越しに駆け寄った。
 ラトゥースは、ぎゅっと閉じていた目をおそるおそる、といった様子で開けた。とたん、どぎまぎとしてハダシュの腕から飛び離れる。
「さ、触ってないでしょうね」
「触ったが特にどうも思わなかった」
 ハダシュはにやりと笑う。ラトゥースは見る間に満面朱をそそぐとハダシュの触れた部分を手ではたいて回った。
「し、失敬ね、仮にもエルシリアの侯姫たる私を何だと思って」
 子供じみた愚にも付かない抗議を無視し、ハダシュは鉄柵の向こう、元いた側を振り返った。ギュスタが当惑した笑みをうかべている。
「よし、来い。次はあんただ」
 気安く声をかけようとした、その瞬間。ハダシュの目に信じ難い光景が写った。ギュスタの体が激しいきしみを立てて水門の鉄柵に叩きつけられる。苦悶の形相が浮かび上がった。絶叫が夜闇に響きわたる。ラトゥースが言葉にならない悲鳴をあげた。
 血が、足元に広がる。
「ひ、め……お逃げ……くださ……」
 柵の隙間から震える手が差し伸べられる。その指先から、銀の鎖を通した黒いペンタグラムがこぼれ落ちた。涙にも似たきらめきが一瞬、闇に散る。
 ラトゥースはペンタグラムに飛びついた。跳ね転がって運河に落ちる寸前、手をいっぱいに伸ばしてすくい取る。
 ギュスタの背後から、黒い服を着た男がゆっくりと立ち上がった。喉から白い包帯が垂れ下がっている。男は、柵にもたれ死んだギュスタの身体を残酷にも踏み台にして鉄柵を登り始めた。転げ落ちるようにして飛び降りてくる。
 ラトゥースは返す鞭のように跳ね起きて腰のサーベルを抜き払った。
「何者だ」
 細身の刃が青ざめた硬質の光をほとばしらせる。ハダシュはとっさにラトゥースの腕を掴んで後ろへと引き戻した。虚を突かれたラトゥースがわずかによろめく。
「来ると思ってたぜ、ハダシュ」
 蝋燭の火がちぎれそうなほどに揺れ動く。着地した姿勢のまま、男はぞっとする緩慢さで顔を上げた。おそろしくしゃがれた声が聞こえる。虚々実々に踊る、影。峻烈な光の乱舞が照らし出す、その、顔。
 執拗なまでにまがまがしい闇を宿す青い瞳に、ハダシュは狂ってしまいたいとさえ、思った。

 雨を含んだ風が吹きすぎる。頬に生ぬるい一粒が当たった。
「どうしてお前が」
 それだけしか言えない。
「確かに殺したはずなのに、か」
 襲撃者のもらす、煤煙にも似た吐息が、血の色に染まり毒々しくたなびいている。それは、なつかしくも恐ろしい――あの日ハダシュが手に掛けてしまったと信じ込んでいた男の、醜く変わり果てた声だった。偽者などではない。見れば分かる。他の誰でもない、かつての友、ローエン。生きていてくれたという安堵があっていいはずだった。だが、そんな偽善めいた感傷を容赦なく否定する憎悪の視線がハダシュを打ちのめす。
「残念だったな。そう簡単に殺られてたまるかよ。馬鹿にしやがって」
 ローエンは気味の悪い笑いでハダシュの思いを遮った。
「黒薔薇の頭領から、てめえに伝言だ。今頃、おめおめと逃げ出して何になる――何十人と殺してきたケダモノの分際で」
 言葉の棘が、心臓を鷲掴む。
「てめえに殺された人間が生き返るとでも思ってんのか。そいつらの家族が笑って許してくれるとでも。つけあがるな。人殺しが」
 言い放った声に引きずられローエンは咳き込んだ。顔がひきゆがんでいる。
「ローエン」
 胸のちぎれるような後悔に、だが今、無為にとらわれるわけにはいかなかった。ハダシュは息詰まる思いを振り捨て、おそろしくゆっくりと訊ねた。
「なぜ、黒薔薇に荷担してまで俺を狙う」
「あの人のためだ」
 ローエンの口元が手負い特有の凄惨なかたちに笑みくずれた。額に汗が滲み出している。ハダシュはこわばった眼でローエンの喉を見やった。血まみれになった包帯の端が、ぶざまにたるんで揺れている。
「あんなひと、見たことねえよ。俺のことなんか鼻にも引っかけねえ、てめえの思ってることしか頭にねえ……なのに、目的のためなら俺みたいな下らないチンピラにまで、かなわねえ夢を見せてくれる……そんな震い上がるぐれえ恐ろしい女が」
 ローエンは血脂の付いたナイフをかなぐり捨てるように振り払った。
「好きで好きでたまらねえ、と言った。俺のことなんかこれっぽちも見てねえくせに、手に入れられないぐらいならいっそ殺してやりたいとか抜かしやがった。死にかけてる俺の目の前でくすくす笑いやがって、あの女」
 ハダシュは固唾を呑んだ。
「ハダシュ、てめえをだ」
 ローエンの眼に青黒い炎が上がる。
「絶対に許さねえからな」
 獣の咆吼をあげ、ナイフを腰だめにして飛びかかってくる。ハダシュはラトゥースを背後に引き払いざま、ローエンの手首をかいくぐって切っ先をかわした。肘の関節を逆にひしぎ上げはねのける。もぎ取られたナイフが石壁にぶつかって火花を散らした。尖った音がきらめく。
「やめろ、ローエン」
 腕を押さえ、荒い息を漏らすローエンにハダシュは凄味ある殺気を突きつけた。誰に聞かれるとまでは意識しなくとも、それ以上ローエンに戯言を言わせたくなかった。
「俺には関係ない」
「ふざけるな。何も終わっちゃいねえ」
 鼻にしわを寄せ、歯をむき出し、狂気めいた情炎にぎらぎらと顔を染め上げながらローエンは拳を振り上げた。
「殺すか、殺されるかだ」
 拳が叩きつけられる。ハダシュは油断して避け損ねた。こめかみに拳をくらい、壁に跳ね飛ばされる。意識が砂嵐のように大きくゆがんだ。血色に濁った視界の縁を、ラトゥースのかまえるサーベルの輝きがするどくかすめる。
「撃つな」
 ハダシュはローエンの気をそらすためわざと視線を虚空へずらし怒鳴った。
 ローエンはつんのめった。舌打ちして後ずさる。ハダシュは壁にまた倒れかかった。後ろ手にざらざらとした煉瓦の突起を掴み、どうにか上体を支える。ぬるい血が耳の後ろを蛇の舌のように這いつたった。なぜかひやりと総毛立つ。
 割れた煉瓦のかけらがくずれて足下に散る。強打した頭の奥が割れそうに痛んだ。足がふらつく。視界は半ば暗転したままだ。平衡感覚も取り戻せない。ハダシュは濡れたこめかみを手の甲で拭った。肌にざらりとした血と砂の感触が擦りつけられる。
 と、握り込んだ煉瓦屑を力任せに投げつける。ローエンは目つぶしに視界を奪われてのけぞった。矢継ぎ早に低い蹴りを入れ、たまらず膝をつくローエンの後頭部に結んだ両の拳を容赦なく叩き込む。ローエンはつぶれた呻きをあげて水路に転落した。黒い水飛沫が上がる。
「その程度で俺を殺れるとでも思ったのか」
 ハダシュは傍らに唾を吐いた。青ざめた声で斜に見下す。ようやく上がってきたローエンの恨みがましいびしょぬれの髪から、ぼたぼたと水のしずくが落ちていた。ローエンはうつ伏せに這いつくばり、喉を枯らして吐くように咳き込んだ。赤子の腕をひねるようなものだった。喉をつかんだ手がどす黒く汚れている。
 奴隷の焼き印だった。ローエンはふいに粗暴な笑みを浮かべ、見せつけるかのように拳の背を撫でた。
「その顔、知ってる顔だな」
 刹那、ハダシュはローエンを蹴倒した。その足にローエンがむしゃぶりつく。油断していたわけではない。だが、命を半ば捨てたローエンの動きについて行けなかった。力任せに引きずり倒され、馬乗りに殴りつけられる。
「どこだ。言え」
 髪を鷲掴みにされ、地面に何度も後頭部を叩きつけられる。目が眩み、脳内にまで鈍い音がひびき渡った。
「どこに刻まれた。剥ぎ取ってやる」
 一発。二発。骨に響く拳が意識を砕いてゆく。ハダシュは呻きながらもただ無力に殴られ続けた。
「ハダシュ……!」
 ラトゥースのするどい呼び声に、ローエンはようやくその存在に思い当たった様子で飛びすさった。水しぶきに濡れるサーベルを手に、ラトゥースが駆け寄ってくる。
「来るんじゃねえ」
 ハダシュは殺伐とした声でラトゥースを突っぱねた。
「邪魔だ」
 よろめき、口の端をぬぐって起きあがる。泥と鉄錆と生臭い磯の味が入り混じった。
「馬鹿言わないで。どうして」
 悲鳴にも似たかぶりをラトゥースは振る。
 ハダシュとラトゥースのサーベルに挟み撃ちされたローエンは、だが、怖れた様子もなく毒したたる視線をラトゥースへと向けた。上から下まで舐めるように見回し、下衆っぽく唇を舐める。
「足手まといを連れ歩くとはな。らしくもねえ」
 あざ笑おうとして、逆に血を吐く。
 ぽつり、またぽつりと、暗い雨が落ちてくる。それは次第に強さを増し、見る間に車軸を流すような激しい雨に変わった。打ち付けられた水面から水煙がふきこぼれて白い繁吹に覆われていく。血と唾の混じった雨が口元をつたい落ちる。
 二つの眼が凄絶にぶつかりあった。途端、凶悪な笑いを放ってローエンは身をひるがえし、ラトゥースへと襲いかかった。ラトゥースの姿がローエンにかき消される。悲鳴が豪雨に呑み込まれた。サーベルが手から飛んだ。甲高い音を立てて跳ね返り、水路へと沈む。もがくラトゥースにむしゃぶりつくローエンの影。太い指がラトゥースの細い首に深く食い込んでいる。
 ハダシュは水辺に反射するわずかな光に浮かび上がった一瞬の地獄に我を忘れ、ローエンに飛びかかろうとした。
 ローエンはハダシュの反応を見計らったかのようにラトゥースのみぞおちを蹴り、力任せに殴りつけて意識を失わせた。細い身体が声もなくのけぞってくずおれる。そのまま水路へ倒れ込んでゆこうとするのを、ローエンは残酷に笑って抱え込んだ。
「一歩でも近づいてみろ。この女の命はないぞ」
 意識のないラトゥースの身体を盾にしながらじりじりと後ずさり始める。
「やめろ、ローエン」
 ハダシュは固唾を呑んで呻いた。ぎごちなく手を伸ばす。
「そいつは関係ないだろう……馬鹿な真似はよせ」
「はっ、お笑いぐさだな。蛇蝎のごとく忌み嫌われた殺し屋のお前が女の命乞いとは」
 ローエンは野獣のようにあえぎ笑った。
「動くな。動いたら殺す」
 ローエンの姿が闇に消えた。笑い声が豪雨の向こうに消える。ハダシュは吠え、絶叫しながら後を追った。けぶる雨の中、黒い姿が転がるように先を駆けてゆく。ローエンはさびれた櫓台の前でつと立ち止まり振り返った。半ば朽ちて破れた木戸を蹴破り飛び込む。ハダシュは雨を蹴散らし猛然と後を追った。ふたつの足音と乱れた呼吸がそれぞれにもつれ合って、今にも踏み抜きそうな狭い螺旋階段を上へ、上へと駆けめぐってゆく。逃げるローエンの足音だけが頼りだった。どこかで乱暴に扉が閉じ切られる。とたん、周囲が闇に落ちた。
 ハダシュはつんのめり、我に返った。今まではどこかに誘蛾のごとき灯があったのだ、と初めて理解する。静かに息をつく。これは罠だ。
 階段を上りきった突き当たりに木の扉があった。気配を探り、息をとめるなり、渾身の力を込めて肩でぶち当たる。ちょうつがいが弾け飛んだ。中に転がり込み、身構える。
 思った通り、内部はほのかに明るかった。壁掛けの錆びたランプが脂臭い煙をくすぶらせ、燃えている。正面には割れたまま暗黒へと通じる窓。降り込んだ雨に床が濡れて黒く滲み出している。誰もいない。やや肩すかしを食らって唖然とする。
 床に目を移すと、足の踏み場もないほど乱雑に抛たれた古い漁網にうずもれたぐるぐる巻きのロープ、壊れたブイ、鈍く光る割れランプのかさが転がり、踏みつぶされた青緑と茶色入り交じるペンキのバケツには汚れるにまかされた逆刷毛が突っ込まれている。ほか、赤茶けて錆びた銛、鉛の錘、折れた櫂、つぶれてねじ曲がった鋤簾《じょれん》など、ありとあらゆるがらくたもまた雑然と部屋の隅に積み上げられて。それらは一見、長い間誰も出入りがなかったと見せかけてでもいるかのようだったが――
 先ほど無我夢中で駆け上ってきた石造りの螺旋階段を、上ってくる足音が聞こえた。一歩、また、一歩。残酷な靴音が響く。ハダシュはゆっくりと振り返った。
 なぜか、穴蔵のような酒場が懐かしく思い出された。こんな雨の日はしけた”客”ばかりで稼ぎが悪いと文句を言っていた、どこにでもいる、そして、今はどこにもいなくなってしまった青臭い二人組。階段を上がってきたローエンは壊れた扉の横で立ち止まり、腕でかろうじて身体を支えながら壁にもたれかかった。血の気の失せた顔でハダシュを見ている。
「クレヴォーはどうした」
「……まだ殺しちゃいねえよ」
 ハダシュはローエンと正面から向き合った。にじみ出した血が黒々とおそろしいかたちに包帯を染め抜いている。うなされるような喘ぎばかりが聞こえた。もしかしたらまともに立っていられないのかもしれなかった。
「大丈夫か」
「殺しといてそれはねえだろう」
 すかさず当然の嘲笑が打ち返されてくる。ハダシュは口をつぐんだ。ローエンが笑い出した。おかしくてたまらないといったふうに身を折り、腹を抱え、ときおり痛みにはげしく顔をゆがめながら、それでも笑っている。
「ローエン」
 ハダシュはローエンの胸ぐらを猛禽のようにつかんだ。
「クレヴォーはどこだ」
 ローエンは答えない。脂汗の浮いた苦痛の顔で、まだ笑っている。
「答えろ」
 声を荒げゆすぶろうとして。
 何の予兆もなかった。突然背後から降ってきた投げ縄に首を狩られ、ハダシュは大きくのけぞった。払いのける間もない。体勢を崩したところに足払いを掛けられ、蹴られて、一気に引き絞られる。
「本当に馬鹿なのね、あなたって」
 上気しきった女の声が鼓膜に突き刺さった。黒のヴェールに顔を隠した女の姿が一瞬視界の隅をかすめ、そして消える。
「吊り上げなさい」
 冷酷な声が容赦ない命令を下す。ローエンはのろのろと手渡された縄の端を天井の梁に向けて投げ渡した。息継ぐ間もなく、首を吊った状態にまで引き上げられる。
 ハダシュは苦悶の呻きを上げた。綱をはずそうと喉を掻きむしる。女が言った。
「あのとき言っておいたはずよ」
 その響きはハダシュだけに向けられたものだった。存在を拒否され、ローエンは顔をゆがめる。それでも余りの縄を使い、後ろ手と首にかかったロープとを結わえ、口にロープを噛ませて、完全にハダシュの自由を奪う。つま先だけがかろうじて床に触れていた。身体が揺れるたび、全体重のかかった喉が、ぎりぎりとつぶれた音を立てる。
「もういいわ。あっち行って」
 用が済んだと見るや女はローエンを払いのけた。
 信じがたいものを見る眼でローエンが女を見返す。みるみる頬が紅潮し、病的にさえ見える痙攣を起こす。
「お、俺、俺は、あんたの、ために」
「早く退きなさい。ぐずね」
 女は唾棄の口調で吐き捨てた。
「ああ、ハダシュ」
 喉の奥にもつれかかるような声だった。もう、ローエンのことなど眼中にすらない。
「逢いたかった」
 眼をほそめ、濃艶なしぐさでハダシュによりそう。ハダシュは咽せながら逃れようとした。だが、もがけばもがくほど吊られた首にかかる力がいっそう喉を絞め上げた。頭の奥が破裂しそうに痛み始める。銀の鎖にいろどられた黒絹の手袋が、毒蜘蛛のようにそろそろと頬をつたい降りてくる。嫣然と笑うひそやかな刺。狂った情念さながらにねっとりとまとわりついてくる、甘く、甘く、暗い薔薇の香り――
「言ったでしょ。次に逢ったときは」
 冷たい鉄がひたとハダシュの喉に押し当てられた。
「容赦しないって」
 ナイフがひらめいた。ヴェンデッタは柄を逆手に持ち替え、身につけたシャツを切り裂いた。前がはだけた。その狭間から、さらに切っ先がシャツの中へ潜り込む。
 見る間にシャツは原型を留めぬ細切れと化してゆく。引きちぎられた袖だけがだらりと裏返しにぶら下がった。
「ねえ、ハダシュ」
 ヴェンデッタは黒の手袋を淫靡にひらめかせ、背後へと回った。血膿のような刺青に掌を押し当て、腰のかたちを確かめつつ、ゆっくりとたどる。
「火傷のぐあいはどう。この辺り、だったかしら」
 背後から差し入れた指をちろちろとそれにあそばせながら、なまめいた吐息をつく。部屋の隅で、ローエンが豚のような呻きを漏らした。
「ひどくなってなければいいけど」
 ヴェンデッタは意味ありげにローエンを流し見、鈴を振るような声で優しくあざ笑った。
「ハダシュ……!」
 そのとき、驚くほどすぐ近くで女のせっぱ詰まったさけびが聞こえた。どこかの戸の向こうから、くぐもった悲鳴と何かの転がり落ちる音が続けざまに響いて。
 唐突に、残酷に、途絶える。ハダシュは身をよじらせた。呻き以外の声が出せない。
 ふと、ヴェンデッタの手が止まった。
「あれが貴方の新しい飼い主というわけね」
 ぎし、ぎし、と綱が揺れる。ハダシュは歯を食いしばった。
「まだ分からないの。あなたはあの娘の何がまぶしかったの。優しさ? 信頼? それとも恩赦かしら。馬鹿ね――分からないなら何度でも言ってあげる。そんなものは甘ったれの子供じみた幻想でしかない。あなたは何も手に入れられないわ。何もかも無くすの。あなたに残されるのは絶望という名の真実だけ」
 ぞっとする冷たさが声に混じった。
「ちょうどいいわ。貴方の頭がまだまともなうちに教えておいてあげる。明日の夜、ルイネード侯ガストンとシャノア総督レグラム連名の特許状を持った銀ギルドの商船隊――と名は付くものの実際は”窮民法に基づく強制労働員”を大量に確保した奴隷移民船と、護衛の戦列艦船団が出航する。行き先はバクラント北諸島。銀鉱床のある火山島よ。話によると溶岩跡やガレ場ばかりで、ろくに人の住めない、ひどいところらしいわ……馬鹿な偽善者たちが囲っていた浮浪者どもが我先に神殿から逃げ出してくれたおかげで、わずかな賃金を求める奴隷どもを集めるのには全然苦労しなかったから、その船が”議会によって認められた正式な奴隷船”であることを疑う者は誰もいない。でも、真実は違う。シャノアとバクラント双方の割り符を所持し、一見正式な鉱夫輸送船団を擬装してはいるけど、その実、送られる荷物は奴隷みたいな安物じゃない。船そのものよ。新造の二層七四門戦列艦三隻――でも、その戦列艦船は嵐で”沈没”し、二度と戻ってこない。砲火を交えに来るとき以外にはね。分かるかしら」
 ヴェンデッタは壁の棚に隠してあった香油の瓶をとり、蓋を開けた。目も眩む薔薇の芳香が放たれる。ゆがんだ含み笑いがこぼれた。
「エルシリアの犬に、この情報を教えてやるがいいわ。そうすれば分かる。あの娘が貴方の何を欲したのか」
 生ぬるいオイルが、指先とともに背中をつたってゆく。ぬめる光を帯びたナイフが喉に突きつけられる。皮一枚を裂く浅い痛みが走り抜けた。
「間違っても貴方自身じゃないってことが」
 慰撫と、加虐。凄絶に入り交じった倒錯の不協和音にハダシュは軋む悲鳴を上げた。のけぞるたび、身体を引きつらせるたび、ナイフの切っ先が背の刺青を削ぎ、切り裂き、突き刺して、無惨に傷つけてゆく。頸に巻き付いた綱が、なおいっそう病的な拘束を強めてぎりぎりと絞めつける。血と薔薇の甘い香りが耐え難く鼻腔を満たした。熱班のように広がっていく感覚。
 身体中に疵痕を刻みつけられる、その一突き一突きのすくみ上がるような痛みが、耐えきれない陶酔の痺れとなって背筋を襲う。頭と身体の神経がばらばらに繋ぎ変えられてしまったかのようだった。
「ちがう」
 混乱する意識をかき集め、ようやくハダシュはそれだけをうめく。謎めく微笑をもらして、ヴェンデッタはナイフを捨てた。両腕を背後からつかむ。熱いくちびるが、背に押し当てられた。傷のひとつひとつを、半開きのくちびるがねっとりと責め立てる。ハダシュはひりつく痛みに腰を仰け反らせて喘いだ。血をすするかのように、魂までえぐるかのように、舌の先が傷に這い入ってくる。
「忘れたのなら思い出させてあげる。あなたが殺した人の名を、その数を、思い出させてあげる。もう戻れないことを。戻れるはずもないということを」
 おそろしいささやきにハダシュはかぶりを振る。たちこめる血と薔薇の香り。苦悦の狂気が呼び覚まされる。
「なぜ、殺したの……?」
 なぜ――?
 自分を、守るため。殺されないため。では、ない。後悔から逃げるために。暴力的な衝動を、鬱憤を晴らすために。壊れ果てた自分自身の姿を直視しないですむように。だから、殺した。
 殺せば殺すほど、自分が、壊れていく。血に酔い、力に溺れ、命も金も手水のようにこぼれて、ぼろぼろと消えていった。思考を奪わせるため、身体を弄ばせるためなら、たとえ相手が誰でまたそれがどれほど屈辱的な行為でもかまわなかった。女を買い男に買われクスリに身体を蝕ませ――たとえ一瞬でも、心と身体を引き剥がしてくれればそれでよかった。だが、無駄だった。何一つ、変えられない。情交の火照りが冷めるたび、それを思い知らされる。
 生きて行くには、壊れたこころを悲鳴と狂気と笑い声でつなぎ合わせるしかなかった。心で傷つく代わりに血肉を痛めつけることでしか、悪夢とも現実ともつかぬ虚無と命のつなぎ目を感じ取ることができなかった。
 だから、他人を殺し続けた。薄暗い部屋で。
 だから、自分を、騙し続けた。薄汚い部屋で。
 すがることができたのは女の狂気だけだった。ヴェンデッタだけが抱いてくれた。希求して止まない飢餓感を癒し解放してくれた。貴方のせいじゃない、貴方は何も考えなくていい、愚かでいい、私が赦してあげる、貴方が欲しいものを全部あげる――どこまでも一緒に堕ちていってあげる――
 ヴェンデッタの眼が。前から回り込んできた手が。後ろから差し入れられた指が。闇の薔薇にも似た凄艶な唇が。潜り込んでくる。妖美にささやく。かすれつく紅の色でわざと肌を汚す。
 ハダシュはもはや意味を為さない喘ぎだけをもらし、震えた。半開きにした唇からだらしなくも艶冶な声がもれる。誇りも自我もない、曇りきった、御しきれない喘ぎ。
 互いのもらす獣のような呼吸ばかりが部屋に満ち満ちてゆく。放心状態に陥ったハダシュは、抵抗もできずヴェンデッタの情火を受け入れた。泥のような愛撫がハダシュを包み込む。さながら、ぬかづいて愛しい男の首をいだき、その血にまみれて微笑む女のような、そんな狂乱の色香が濃密に匂い立っていた。全身が燃えるように熱く、ねっとりと濡れて欲情を放っていた。
 淫らな声が涎のように滴っては吐息まじりにこぼれる。欲望したたる枝に、黒い蛇がからみついて、くねって。ちろり、と、触れる濡れた感触にハダシュはたまらず獣のような呻きを上げ、身をよじらせた。
「だめよ」
 女が身体の重みすべてをかけてくる。首が絞まり、喉がつぶれた。
 その状態で揺すぶられ続ける。頭が破裂しそうだった。息もできず、半分意識を無くしながら、身体は女に蹂躙されている。赤い爪を立てられ、力任せに血の滲んだ爪跡をつけられる。
 女の唇にかき乱され、声を上げさせられるたびに、狂気に恋い焦がれた自身の姿を脳髄の芯にえぐりつけられる。苦悶と悦楽の間をさまよいながらも、憎悪が深まれば深まるほど、身体がその残酷な支配を乞うて狂おしくゆがみ、悶え、高ぶってゆく。
 人間らしい、あまやかな感情のゆらぎを感じたことのない者同士であるが故に、他のどんな想いにも置き換えのきかない唯一無二の激情でその身を切り苛むしか魂を凄まじく結びつけるすべを知らない――もしそれが愛などというものの変わり果てた、狂い果てた姿なのだとしたら。すべてがあまりにも悲惨で虚ろ、そして、破滅的だった。
 視野の隅でかすかにローエンが動いた。
「ヴェンデッタ」
 聞き取れないほど弱々しい声だった。ヴェンデッタは返事もしない。見向きすらしなかった。ローエンはがたがたと震えながら引きつる声で繰り返した。
「頼む、やめてくれ」
「何、まだいたの」
 ヴェンデッタは残酷に遮った。その口元から、血とまざりあった白い笑みが淫猥な糸を引いて伝い落ちてゆく。
「もう貴方に用はないと言ったでしょ」
 ローエンは雷に打たれたかのようによろめいた。
「俺はあんたのために」
 慄然と立ちつくす。
 ヴェンデッタはハダシュに頬を寄せたまま、嘲笑を含んだ視線を走らせた。髪を乱暴にかきあげ、身体を引き起こさせて、わざと口元に残った行為の残滓を晒す。ハダシュは弱々しく喘いだ。頭の中で、ローエンの声がひどい叫びとなって鳴り渡っている。なのに、身体がいうことを聞かない。
「あら、誰がいつそんなことを頼んだのかしら」
 ヴェンデッタはゆらりと立ち上がった。ローエンの激昂をわざとハダシュの耳元で揶揄してみせながら、ハダシュの胸のピアスを指先で転がしあそぶ。ローエンはぶるぶると痙攣する手にナイフを握りしめていた。一方的な情事をまともに見ることもできず、俯いたまま、全身をこわばらせている。断続的な吐息ばかりが執念深く立ちのぼっていた。
「どうする気かしら」
 危険なまなざしをローエンへと擦り流す。ナイフが眼に止まったらしく、ヴェンデッタはさらに低く嘲ってハダシュの身体をわずかにゆすった。隠されていた烙印があらわになる。まだ治りきってもいない、隷奴の売値をあらわす醜い火傷――ハダシュの身体中に刻まれた無数の傷、血のこごり、あるいは刺青、ヴェンデッタの妄執そのものの証が。
「やめろ」
 ローエンは伏せていた顔をあげた。じりじり揺れる蝋燭の火を溶かし込んだ眼は、まるで毒を帯びて燃える鉛のようだった。
 ヴェンデッタがためいきをつく。
「嫉妬? 哀れなものね」
「言うな」
 ローエンが怒鳴った。
「言わないでくれ。それ以上」
 押し開かれた眼に、焼けるような火と暴力が宿った。
「言うな」
 ローエンは壊れた雄叫びを上げ、ハダシュに駆け寄ってナイフを振りかざした。血濡れの刃に残った赤い飛沫が天井にまで奔りつく。ハダシュは棒のように突き飛ばされ、次いで振り子のように引き戻された。
 足がもつれる。支えを失った縄が全体重もろとも首を締め上げる。白い閃光が脳裏に散乱した。意識が吹き飛ぶ。あとはまるで水の中での出来事のようだった。乱れる足音。ローエンの叫び声。ヴェンデッタのくぐもった呻きが遠く交錯し、もつれて。
 視界が戻ってくる。ハダシュは喉に食い込んだ縄を掴んだ。ゆるめようとして激しくむせる。
 突いた手の感触が床に這いつくばっていることを教えていた。縄が切られている。血を吸った切れ端がとぐろを巻いて床に落ちていた。
「どうして」
 ローエンが後ずさった。背後にあった棚にぶつかる。勢いで横板がはずれた。乱雑に積み重なっていたがらくたごと転がり落ちてゆく。次々と床に跳ね、倒れ、凄まじい物音を上げながら砕けてゆくさまは、まるでローエン自身が壊れてゆくかのようだった。
「そんな奴のために」
 床に、ぼとり、と、赤い液体が滴り落ちた。また一つ。さらに二つ。みるみる飛沫が大きくなる。ハダシュは呆然とヴェンデッタを見上げた。袖が裂けてちぎれている。手袋も同じように裂けていた。血まみれの切っ先が手の甲を深々とつらぬいている。
 ヴェンデッタはくちびるをゆがめナイフを引き抜いた。血が法外にあふれて、降り初めた大粒の雨のようにハダシュへと降りかかる。大粒の血滴がぼたぼた音を立てて床に飛び散った。
 ヴェンデッタは痛みに青ざめた顔を石像のようにこわばらせた。
「言ったはずよ。私にはハダシュが必要だと」
 低い声に、ハダシュもローエンも息を呑む。ヴェンデッタは掌から流れくだる血の色に目を落とした。
「かつての貴方からは、血の臭いがした。拭っても拭っても取れない殺戮の匂い。血を吸ったナイフにだけ映るうつろな眼の光。満たされぬ世界にあって、どれほど憎んでも愛しても決して飽きたらぬ闇の輝き。やっと見つけた――そう思った」
 ゆっくりと語るその語尾に、しずかな、だがつんざくような恐ろしい響きがこもった。
「でも今は、貴方の弱さが余りにも憎い」
 ヴェンデッタは足を上げ、ハダシュの顔を力任せに踏みにじった。
「こんなものが貴方のすべてだったなんて」
 激情の海に引きずり込まれ、ハダシュは辛苦の呻きを上げた。
「全てを奪い尽くしてやりたくても、貴方は何ひとつ持っていない。踏みにじってもずたずたに傷つけても、貴方は何も無くさない。自我の意味さえ分かりもしないくせに、自分を棄てたつもりになって酔いしれている。だからそんなにも弱いのよ。私が失ってきたものを貴方にも教えてあげる。そうすれば分かる」
 ヴェンデッタは一瞬のきらめきを凄まじく眼に宿らせてから、ローエンの足下へナイフをなげうった。とてつもなく無機質な軽い音が響きわたる。
 ローエンは震えた。全てを失った眼が、つい今しがたまでの彼自身に似たナイフの切っ先を呆然と見つめる。
「始末しなさい」
 残酷な微笑みを最後に、ヴェンデッタはきびすを返した。
「私が欲しいのなら、ね」
 ローエンの顔色が変わった。ヴェンデッタは去る。黒い薔薇の香りが消えた。詰めていた気息からようやく解き放たれ、ローエンはよろめいた。がくりと両膝をつき、床のナイフに震える手を伸ばす。まるで糸の切れた人形のようだった。ナイフ一本握ることができず、拾っては落とし、落としてはまた手を伸ばして、そのたびに呻く。
「目を覚ませ、ローエン」
 ハダシュは息を乱し、ぬめる床に手を突いて喘いだ。腰から下がおそろしくだるく、動かせない。生きながら埋められた古い墓地から、世を怨んで這いずり出ようとする死人にでもなったようだった。
「あの女はお前を利用してるだけだ」
 刹那、ぎらりと走った追撃の目にハダシュは気を呑まれる。声が続かない。
 包み込むようにして持ったナイフをだらりと両手にさげ、ローエンは扉へ倒れかかった。
「あのひとの考えることぐらい、もとより分かってる」
 倦んだ様子でつぶやく。声が熱を帯びて震えていた。窓の外の雨が、ふいに音を高くして降りしきった。その合間から途切れ途切れにラトゥースの声が伝わってくる。おそらく、この櫓のどこかに閉じこめられているのだろう。虚しく壁を蹴る音、涙混じりのかすれたさけび。ハダシュを探し、呼ぶ、声。
「悪くねえダチだったよな、俺たち」
 ローエンもまた、少女の声に気付いたようだった。視線を遠くへ走らせ、あきらめたようにつぶやく。
「クズはクズ同士、うまくやれると思ってた。でも、そう思ってたのは俺だけだった。うだつの上がらねえチンピラが身の程もわきまえずに女に泣きつかれて組織を裏切ったつもりが」
 ローエンはナイフを手にしたまま、呆然と泣き笑った。
「お前をおびき寄せる餌でしかなかったなんて」
 ハダシュはローエンを見つめた。何も言えない。何も言うことはない。分かっているのは、もう二度とあのころには戻れないということだけだった。ハダシュがどんな選択をしようと、それはローエンの自負を傷つける。
「それでも、俺にはもうあのひとのところ以外戻る場所がねえんだ。お前を殺せば、あのひとは俺を道具じゃなく人間として見てくれるようになるかもしれねえ。いつか男として必要に思ってくれるようになるかもしれねえ。そうしたら、こんな、悔しくて、歯がゆくて、どうしようもなく卑屈に喚き散らしたい気持ちにならずにすむ。あのひとが俺じゃなくてお前を選んだなんて認めずにすむ。俺なんか元より選ばれるはずがないのに、もしかしたら、なんて、思わずに済む……!」
 声がみるみるつり上がって裏返る。切り裂かれたような叫びだった。
「そうだろハダシュ。そうだって言え」
 ローエンは体中から危険な熱気を放ち、ハダシュにつかみかかった。よろめいて飛び退くハダシュの足に、積み上げてあった古網がもつれた。たまらず平衡を崩して倒れ込む。
「死ねよ」
 ローエンはのしかかってハダシュの肩を手で押さえ、頭上に高くナイフを振り上げた。とっさに腰身を跳ね上げる。はじき飛ばされてローエンは顔から古網につんのめった。その隙に手首をひしいでナイフを奪い、横に打ち転がりざまなぎ払う。だが脱力しきった身体には荷の重すぎる動きだった。ローエンの腕をかすめただけでナイフはもろくも弾き飛ばされ、すっぽ抜ける。蹴り飛ばしたがらくたが馬鹿げた音をたて、転がった。
 ローエンは吐くように呻いてまろび逃れ、壁に無惨な血の跡をすりつけながら立ち上がった。
 震える腕を伝い、血が床に黒くこぼれおちる。したたる音ばかりが雨音を圧して異様に大きく聞こえた。
「返してくれ。あのひとを、俺に、返してくれ」
 ローエンは悲鳴を張り上げながら体ごとハダシュに突進した。二人もつれ合って壁にぶち当たる。勢いで、朽ちかけた窓枠が外れた。ばらばらに砕け、木くずが墜ちてゆく。互いに押し、押され、もみ合って、上体が窓の外に大きく迫り出す。今にも真っ逆さまに墜落しそうだった。
「死んでくれハダシュ。頼むから、殺されてくれ」
 埋み火のようなぎらぎらとした眼が、脂汗の滲む浅黒い顔の中心で光っていた。煮こぼれる憎悪のこもった拳が振り上げられる。泣き叫ぶ子どものような殴り方だった。心のどこかが、このまま抵抗するのをやめてローエンの望みどおり落ちてしまえ、とささやいていた。
「死ねよ、ハダシュ、死ね、死ね、死ね死ね死ね死んでくれ俺のために……!」
「ハダシュ」
 そのとき、今度こそ水を打ったかのようなラトゥースの声が飛び込んできた。
「どこにいるの。いるんでしょ。返事して、ハダシュ」
 すがりつくような声。ハダシュは我に返った。窓枠の壁をつかむ。ローエンは獣のように唸ってハダシュの喉を掴んだ。爪を立て、力任せに首を絞めながら外へと押し出そうとする。捻り付けられた背骨が砕けそうに痛んだ。足が宙に浮く。ハダシュは歯を食いしばった。こんなところで落ちるわけには――死ぬわけにはいかない。壁から引き剥がした掌底で、ローエンのあごを突き上げる。真正面から入った一撃が喉の傷を叩きつぶした。一瞬、真っ二つに裂けた赤黒い喉の傷が見えた。軟膏を塗った油紙で強引に綴じ合わせただけの――
 ローエンの身体に痙攣が走る。一瞬、体の重みが薄らいだ。破裂したかのような血がしぶきとなって顔に降りかかる。ハダシュはローエンを引きつけざま、首を脇に抱え込んだ。絶望的な確信を込め、上下の体勢を入れ替えながら身体をひねり込む。ローエンの首が、へし折れたような音をたててねじれた。絶叫の手がハダシュの顔を、櫓の壁を、窓枠を掻きむしる。ハダシュもまた叫んでいた。ローエンの身体が前のめってゆく。時間が壊れてしまったかのようだった。限りなく、のろのろと、ローエンの、身体が、滑り落ちて。

 音がかき消える。
 土砂降りの雨でさえもが無数の水泡のように一瞬、空中で凍りついて。
 どこか遠くで鈍い落下音がした。雨は変わらず降りしきっている。ハダシュは酷く痛む頭を振った。ローエンの姿はもう部屋の中のどこにもない。ただ、遠い雨音だけが底光る闇に吸い込まれていく。ハダシュはずるずると窓際に腰を落とした。こみ上げてきた寒気を押さえ込むかのように、頬についた生ぬるい水を無意識に拳の背でぬぐう――血まみれだった。
「ハダシュ、どこ、お願い、ここを開けて」
 悲鳴のような声が階段の下から聞こえてくる。ハダシュは吐き気をこらえて立ち上がった。よろめき、転がり落ちるようにして螺旋階段を降りてゆく。上がるときには気付かなかった木戸が見えた。声はその隙間から聞こえてくる。
「クレヴォー、無事か」
 ハダシュは閂を引き抜き、木戸をこじ開けた。
「ハダシュ……!」
 転がるようにして飛び出してきたラトゥースは、途端に絶句した。異様な気配に気付き、身をこわばらせる。
「ど、どうなったの……あの男は……」
 ハダシュは唇を拳でぬぐった。ぼんやりと目の前の拳に残った血掠れを見つめる。
「死んだ」
 掌をのろのろと裏返す。どこもかしこも血の色だ。もはや誰のものだったのかも分からないほど混じり合った嫌悪の色。絞り出すようにつぶやく。
「俺が、殺した」
 圧倒的な雨の音が、他の音すべてを塗り隠した。
 ラトゥースはおびえたように下唇をわななかせた。呆然とハダシュを見つめ、その身体に刻まれた傷を見つめる。ふいに恐怖の色が目に浮かんだ。ここから出ましょ」
 ラトゥースはハダシュに駆け寄った。支えるようにして傍らにすがり、手を引く。
「早く」
「触るな」
 ハダシュは目の前の壁をやにわに殴りつけた。血が飛び散る。
「殺したんだ」
 ラトゥースは出かかった悲鳴を反射的に呑み込んだ。握りしめた手を口に押し当てる。
「でも」
「うるさい。黙れ。お前には関係ない」
 叩きつけるように言葉を切る。ハダシュは目を頑なにそむけた。どうでもいい、と――いつものように思考停止させれば、考えることを止めてしまえば、全て閉め出せるはずだった。ラトゥースに感じたまぶしすぎる光も手の届かない疚しさも胸を焦がしてやまないかすかな希望も、目さえ背けてしまえば失わずにすむ。無くしたことにさえ気付かないでいられるはずだった。だが、叶わない。握りしめた拳が死蝋のように白い。
「ハダシュ」
 ラトゥースは涙ぐむ声を詰まらせた。
「あなたのせいじゃない」
 ラトゥースは手袋を捨て、ふるえる素の指でハダシュの髪に触れた。頬を切なくつつみ込む。
「私が、油断して……捕まったりしたから……」
 ハダシュはゆっくりと息を吐いた。首を振って、憐憫の手を振りほどく。
「俺に触るな。お前まで汚れる」
「そんなことない」
 いっそうすがりついてくるラトゥースの眼に白く涙が浮かんでいる。胸の奥がつぶれそうに痛んだ。たまらずに眼をそらす。ハダシュは壁に手をつき、ぐらつく身体を支えた。血に濡れた髪を顔に貼りつかせ、糸が切れた人形のようにぎごちなく歩き出す。
「待って。ハダシュ、どこへ行く気……」
 おののく声でラトゥースが遮る。
 ハダシュは乾ききった眼でラトゥースを見やった。目の前の一点をうつろに見つめ、答える。
「あの女を殺す」
 抑揚のない声が口を衝いて出る。
「あの女って」
 ラトゥースは呆然とし、うろたえた。動転のまなざしが、ハダシュと、その切り刻まれた身体と、乱れた着衣、足元の血溜まりの間を彷徨う。ラトゥースははっと息を呑んだ。かぶりを振る。
「何を言い出すの、急に……待ってよ、いいから落ち着いて」
「うるさい、どけ」
 ハダシュはラトゥースを乱暴に払いのけて怒鳴った。
「俺は俺のやりたいようにやる」
 ラトゥースは壁にぶつかって悲鳴を上げた。はずみでよろめき、足元を挫きかける。
「どけよ、クレヴォー。邪魔だ」
 ハダシュは酷薄に吐き捨てる。
 青白い頬に、恐怖の色が差す。ラトゥースは身体をこわばらせた。詰めていた白い息を吐き出し、手を腰のホルスターへと走らせる。
「嫌。行かせない」
 震える手が、銃を引き抜く。ぶるぶると揺れる銃口が持ち上げられハダシュへと向けられた。
「止まりなさい、止まらないと、う、撃つから」
 銀色のハンマーを引き起こすことも、安全装置を外すことすら忘れて、ただ見せ掛けだけのために引き金に指をかけている。飴色の銃床を握り込んだ両手が、傍目から見ても哀れなほどに震えていた。
 ハダシュは血色の眼を凄惨に光らせた。
「邪魔するな」
 底ごもる声で手を差し伸べ、銃口に直接掌を押し当てて、向きをそらしながら脅しつける。
「殺すぞ」
「ハダシュ」
 ラトゥースは絞め上げられたようなうめきをあげ、後ずさった。背中が壁にぶつかる。足元に砂がこぼれ落ちて、耳障りに踏みにじられた。
「そ、そんなこと、私が許すとでも思ってるの」
 白い息が立ちのぼった。青ざめた顔、震えるくちびる。必死の思いに揺れる瞳がハダシュをにらみつけて、心底まで突き通すかのように輝いていた。
「行っちゃだめ。私は、怖いから、憎いから、許せないから……黒薔薇を追ってるんじゃない。あの夜、あなたと会って分かったの。あなたのことを知れば知るほど、あなたの気持ちを思えば思うほどそれが私の使命なんじゃないかと思うようになった。私がここにいるのは、国とか、正義とか、法律とか、そんな目に見えないもののためじゃない」
 胸を焦がす青白い炎。ハダシュはその色にふと心を奪われた。銃口がぶるぶると震えている。狙いすら定まっていない。閉じきった空間の中、逃げるすべもなく、何十人もの命を平気で奪ってきた殺し屋を目の前にして。それでも泣きそうな顔を必死に押し殺して、今にもちぎれて飛び散りかねない何かのために、立ちふさがっている。何がラトゥースをそんなにも追い立てているのか。分からなかった。何のために、そんな――
 また寒気が襲いかかってくる。ハダシュは幽鬼のようにゆっくりと手を伸ばし、直接、銃身を掴んだ。ラトゥースの表情が変わる。ハダシュは暗い笑いをうかべた。
「そんな顔するなよ」
 一気に間合いをつめ、銃を奪い取って投げ棄てる。及び腰のラトゥースに足払いをかけると、華奢な身体はあっけなくもんどり打った。手首を掴み、悲鳴ごと獰猛に組み伏せる。
「やめて」
 ラトゥースは苦しげにもがいた。押さえ込まれた身体がのけぞった。金の髪がみだれ、まとわりつく。ハダシュはゆらりと顔を寄せた。ぞっとする息づかいで見下ろす。
「お前が正義や使命にうつつを抜かすのは勝手だ。だがそんなもの――」
「やめて。お願い」
 ラトゥースは懇願に近い呻きをもらした。ハダシュは手首を掴む手にさらに強い力を込めた。ラトゥースの顔が苦痛にゆがむ。
「痛い。離して……お願い……!」
「何になるというんだ」
 ハダシュは獣の唸りをあげてラトゥースにのしかかった。膝を強引に割り、悲鳴を上げる身体を押し潰して、荒ぶる息を吐きかける。
「お前に何が分かる。誇りを汚され、自分の無力さをどうしようもなく思い知らされて、何もできない、何も果たせない悔しさに苛まれたまま死んでいく人間の気持ちが、お前に分かるのか」
「分からない。分からないわ」
 ラトゥースは激しく身体をよじって抗おうとした。その胸元に、ハダシュは手を掛けた。力任せに引きちぎる。ラトゥースは悲鳴を上げた。
「いや、嫌……いやあっ……!」
 おそらくは、太陽の光にすら晒されたこともないのだろう――白く、なめらかな、汚れ一つない、透き通りそうなほどきめ細やかな素肌がこぼれ出た。色の薄い、触れがたい乳房の先端が、恐怖にぶるぶる震え、喘ぎ、必死に息づいている。
「俺が、今、お前を汚せば」
 ハダシュは低い声をラトゥースへと突きつけた。ラトゥースが身体の下で虚しくもがく。
「お前はどう思う。あの女軍人は。お前の家族は。笑って俺を許すのか。許すわけがないだろう。めちゃくちゃに犯されて、どこの馬とも知れぬ気の狂ったクズの子を孕まされても、それでもお前はお高くとまった博愛主義の貴族でいられるのか」
「ちがう、違う、違う……イヤ……あぁ……!」
 ハダシュは迸る悲鳴のようにラトゥースの胸を鷲掴んだ。美しい、やわらかな不可侵の形を、みにくく歪むほどに絞り上げる。ラトゥースは身体を仰け反らせた。
「痛……怖い……止め……おねがい……!」
「何もかも壊されたら、そんな馬鹿げた寝言なんて言えるわけがないんだ」
 言うなり、こめかみ近くの床に砕け散るような拳の一撃を叩きつける。悲鳴を上げかけたラトゥースの身体が、恐怖と衝撃に硬直した。
「ギュスタも死んだ。ラウールも、ローエンも死んだ。聖堂で死んだ奴の数を数えてみろ。あの女はバクラントと通じてこの国に戦乱を起こすと言った。この国を壊すと言った。だとしたら次に死ぬのは誰だ。俺か。あの女か。違うだろう」
 ハダシュは爆発する感情をラトゥースに突きつけた。胸から手を放し、絶望そのものの呻きを吐き出す。
「巡察使のお前だ」
 ラトゥースは愕然と息をすすり込んだ。声もなく涙がぽろぽろと頬を伝って落ちてゆく。
「これ以上、何もかも奪われて、何もかもなくして、それでも平気でいろっていうのか」
「ハダシュ」
 もがく声が、ふいに途切れる。抵抗を無くした身体を、ハダシュは殴りかかりたい衝動に駆られながら必死にもぎはなした。そのままでいれば激昂のあまり別の衝動へ変わってしまいそうだった。
「少しは抵抗しろ。本気で犯すぞ、この」
 罵倒しかけて、絶句する。涙でゆらめく恐怖の色が、悲痛に揺れ動いている。光と涙の入り交じった眼がハダシュを見上げていた。
「……馬鹿」
 組み敷かれ、震えながら、それでもラトゥースは血を吐くような声で喘ぎ、呻く。熱を帯びた呼吸だけが耳にこびりついた。
「もう……二度と、罪を犯して欲しくないの……」
 一途すぎる正当さに、ハダシュは凍りついた。ラトゥースの涙が突き刺さる。後頭部を殴られたような衝撃だった。そのまま、喘いで。慄然と後ずさる。耐えきれずハダシュは逃げ出した。部屋を飛び出す。
「待って。行かないで」
 ラトゥースが跳ね起きて追いかけてくる。階段を駆け下りる足音が甲高く響いた。肘を掴まれる。もつれ合うように壁へぶつかり、転がり落ちかけて、互いに揉みあいながら夜の雨の中へ逃れ出る。
「話を聞いて」
 思いあまった必死の声がハダシュを引きとめる。ハダシュは惨めな気持ちを押し殺して立ち止まった。絶望にさいなまれつつ、かぶりを振る。
「俺にはできない」
「いいから聞いて」
 ラトゥースは胸元をかき合わせた。ちぎれたボタンで何とかして胸元を留め直そうと無駄な努力を重ねる。白のブラウスがすぐに雨に濡れ、透けて、痛々しい肌の色を透き通らせてゆく。濡れた前髪から大きな雨の滴がしたたった。
「前に言ったかもしれないけど」
 雨は、いつ止むともなく降り続けている。
「私がシャノアに来たのは、国王陛下のお命を狙った刺客が主犯だと名を騙った義父クレヴォーの疑いを晴らすためなの」
 頼りなげにラトゥースは言葉をかさねた。矢継ぎ早に話していなければ、ハダシュを見失ってしまうと恐れてでもいるかのようだった。
「黒薔薇が本当のところ何者で、何を目論んでいるのか、私たちには分からない。たかだか地方の一都市を牛耳るに過ぎない犯罪組織が、どうして身の程も弁えず陛下のお命を狙おうとしたのか、なぜ、義父の名で真意を偽ろうとしたのか」
 寒さのせいか、語尾が心なしか震えている。ハダシュはヴェンデッタの言葉をうつろに思い返した。ラトゥースが何を欲したのか――間違っても自分では、ない――
 海から上がってくる潮に水路の表面が黒々とさざ波立っている。護岸に波打つ音が泡混じりにくぐもって聞こえた。死が横たわっている。門の鉄柵から、ぶらさがってはみ出すギュスタの腕だけがのぞいていた。その手は虚空を掻きむしったかたちのまま、微動だにしない。
「連れて帰るのか」
 陰鬱に口を差し挟む。ラトゥースは思いつめた様子でうなずいた。
「陛下は義父を信じて猶予を下さった。義父の無実を私の手で証明してみせろと仰有って下さった。だから、私も、陛下と同じように相手を信じればきっと救えるって思ってた」
 ポケットを探り、ギュスタの遺品である黒曜石のペンタグラムを取り出す。声もなく強く握りしめる。指の間から涙のような鎖が滑り落ち、こぼれた。ハダシュは無言で柵を越え、反対側へ戻った。動かないギュスタの身体を引きずりあげようとしてみる。ぞっとする重さだった。石のように固い。暗闇から逃げ出そうともがき、叶わず、空しく飲み込まれる妄想が脳裏をよぎる。どうにもならない重量がローエンの重みそのものと同じようにのしかかった。
「無理だ。一人じゃ持ち上げようがない」
「手伝うわ」
 ラトゥースが柵をよじ登ろうと手を掛ける。
「いや、待て」
 ハダシュは近づくラトゥースを手で制し、押しとどめた。
「詰め所に戻ってあの女軍人を連れてこい。ローエンの死体を調べれば何か事件の手がかりが掴めるかもしれねえ」
 言ってから、それは早計だったかと悔やむ。シェイルならば総督府周辺の過敏すぎる警護に不穏な気配を感じ取るにちがいない。ラトゥースでさえ、沖に浮かぶ船影を見ただけで異変に気付いた。民間商船の護衛と偽り停泊する船団が実は不当に供与される戦列艦の擬装と知ればどうなるか。カスマドーレの裏稼業とレグラムの癒着、ちらつくバクラントの影。だが、その臭い自体がラトゥースを罠に掛けるヴェンデッタの策略だとしたら。
「あなたはどうするの」
 ラトゥースは雨にうたれ貼り付く邪魔な前髪をかきあげ、不安そうにハダシュを見た。ハダシュはほぞを固めた。まだ追っ手がうろついているかもしれないこの区域にラトゥース一人をゆかせるのは危険だ。だが、かと言って置いておくわけにも、同行するわけにもゆかなかった。
「ギュスタをこのままにはしておけない」
「分かったわ。お願い。じゃ、私、行ってくる」
「気をつけて行けよ」
 雨の中駆け出してゆこうとしたラトゥースはふと肩を震わせた。何気ない言葉にさえ過敏に反応する、すがるようなまなざしが、水門の格子越しにハダシュの表情を追いかけてなかなか離れない。
「ねえ、絶対ここにいてよ。一人でどこか行ったりしないで」
 ラトゥースは立ち去りがたい表情で戻ってきて柵を掴んだ。黒のペンタグラムが孤独な金属音をかき立てる。ハダシュはラトゥースの手からギュスタのペンタグラムを取り上げた。ギュスタの胸元に置き、死んだ指先に鎖をからめる。
「ああ、分かってる」
「約束よ」
「馬鹿か」
 ハダシュは肩をすくめて遮り、手で追い払う仕草をしてみせた。
「さっさと行け」
 ラトゥースは打ちのめされた顔でうつむいた。
「ごめんなさい」
 言うなり身をひるがえし駆け去ってゆく。若駒のような後ろ姿が雨に溶けて消えた。
 ハダシュはギュスタを見下ろした。手足が硬直を起こしている。苦悶にじむ非業の死顔だった。握りしめた手に黒い石を中央にあしらったペンタグラムが光る。傷だらけの古い黒い石。
(当時、サヴィス家には有力な後見人もおらず、若くして家を継いだギュスタの他には病弱な母とまだ幼い妹がいただけと聞き及びます)
(サヴィス家の女たちは、当主ギュスタへの恩義につけ込んだレグラムによって自ら死を選ぶほかないほどの屈辱を味わされたと)
 シェイルの言葉と重なって、もう一つの声が脳裏によみがえる。ハダシュは記憶の底を突かれ、短く息を吸い込んだ。
(私と手を組みましょ)
(もうすぐあれも手に入る。そうすればこの手でこの下らない国のすべてを破壊できるわ)
 黒い眼。黒い髪。絡めた指にあやしく光る、黒い指輪――

「引き返すべき黄金の橋」か」
 暗くかげり出していたハダシュの顔が、さらに酷薄な気配を滲ませてゆく。ハダシュは形見のペンタグラムを掴んだ。握りしめる。狂気にも似た毒が心臓から全身へ回り、指の先まで冷たい死の色に染みつかせていく。闇が、戻ってくる。
 ハダシュは膝を立て手を突いて、ゆっくりと立ち上がった。
「戻れそうにもないな」
 眼を上げる。その瞳が放つ光は、かつてと同じ血の色だった。

次のページ▶

もくじTOP
<前のページ