4 きっと、もう。この言葉は――届かない

 身体は全く言うことを聞かない。堅く引きつけながら、のけぞる。手足が躍り、幾度となくばたついて、切羽詰まった水しぶきを散らした。
「あ……あっ……!」
 砕け散りそうな悲鳴が漏れた。とっさに背後の固い岩のくぼみに全身を強く押し込まれ、抱きすくめられる。
「ラウ。動かないで。どうか落ち着いてください……ラウ……ラウ!」
 悲痛に叫ぶ声が耳に突き刺さる。
 意味が分からなかった。うわずった声の調子そのものが恐ろしかった。暴れ、もがき、吠える。噛みつく。爪を立て、掻きむしる。引き裂く。
 ラウは嫌悪に身をよじった。茹だるような灼熱の痙攣が襲いかかってくる。
 喉がささくれ立ったかのように痛い。
 吠えれば吠えるほど血の味がこみ上げてくる。魔力の入り混じった銀の吐息が近すぎるほどに迫っていた。人間に支配される恐怖に耐えきれず、反射的に相手の唇を噛み切る。
 血の味があふれた。
「……っ!」
 銀の軋む味と血の甘みとが入り混じって流れ込んでくる。毒に犯された血が喉につまり、ふきこぼれそうなほど膨れ上がった。
 足りない。何もかもが足りなかった。
 血も、妖気も。制御できない魔力が全身をがつがつと食い荒らし、蝕んでいる。今にも破裂しそうだった。
 もう、聖銀の封印程度では、のた打ち回る獣の本能を抑えきれない。
 自分の身体でも、何でも良い、ばらばらに食いちぎってしまいたかった。
 壊してしまいたかった。何もかも引き裂いて――
「ラウ!」
 切迫の声が響き渡った。
 冷たく、昏い、氷の刃のような声。だが、その声はすぐにくじけ、力なく心折れて消えてゆく。
 また、ぎゅっと抱かれる。
 人間の臭い。
 男の臭い。
 憎い、憎い、あの銀の炎と同じ臭いだった。
 消えろ。
 ラウは憎悪のこもった唸り声をあげて腕を振り払おうとした。
 何度傷つけても罠のように執拗に押さえ込んでくる腕に牙を立て、首を振って噛みちぎる。
「ラウ……!」
 苦悶の呻きが狂気を呼び覚ました。
 ラウは流れる血を舐めすすって笑った。
 抱き支えてくれる人間の背中を爪でめちゃくちゃに掻きむしり、傷つけ、けたたましく泣き、呻き、絶叫をあげては壊れ果てた妖気に呑まれて血に狂う。
「眼を……覚ましてください、ラウ……!」
 嫌……!
 ラウは半狂乱で吠えた。
 アリス……!
 ずっと押さえ込まれていたせいで、自身では何一つ制御できない妖気がほとばしり、のたうちまわり、誰かの身体を傷つけてゆく。
 血の味にラウの中の魔物がまた笑った。
 死ねばいい。何もかも、食い尽くしてやればいい。自分さえも。
 狂った衝動に突き動かされ、もがき続けて。やがてついには精も根も尽き果てて動けなくなる。
 もう、これ以上、狂いたくない。
 次、また飢餓感に襲われてしまえば、今度こそアリストラムの生気を喰らい尽くしてしまう。魔力が潰えれば一蓮托生だ。
 そんなことになったら、二人とも眠りの中で永遠に死に続ける。
 そうまでして、なぜ――
 なぜ、生きなくてはならないのか。
 こんなことをして、何になるのだろう。
 いっそ殺してくれればいいのに。
 殺して。
 殺して。
 殺して――あたしを、殺して。アリス!
 ラウは、気を失いながら声を殺して泣いた。
 泣きながらアリストラムの血を浴び、その甘美な死の味にまみれ、牙を軋らせて、身もだえる。
 愛する人の血を、食らう。
 また闇がすべてを塗り込めた。

 血の臭いを漂わせるしずくが、くぼみにたまったぬるい水に跳ね返る。
 ぽたり、ぽたりと。
 心に波紋を広げながら闇に吸い取られていく水琴の音。

 アリストラムは組み敷いた下に横たわる、かつてラウだった魔妖の身体を茫然と見つめていた。
 もう、どちらが狂っているのかも分からない。
「ラウ」
 封印の首輪によって押さえ込まれていた、ラウの本当の姿。それは、昨日までのラウではなかった。
 どんなに眼をそらしても、魂が薄暗い陰に呑み込まれてゆく。
 肌に貼り付いた銀緑の髪。力なく垂れた三角の耳。
 輝きを失ったしっぽの毛並みが、べったりと濡れて、地面に貼り付いている。
 陽の光に当たれば、きっと誰よりも笑い、弾み、まぶしいほどに光って見えただろうその顔は、だが今はひどくやつれはてて生気が無く、深海魚の眼のように濁って見えた。
 聖銀の魔力で犯し続けた、ぬめるような肌の感触。くろぐろと引き延ばされた肉感的な女の影が、ラウの肌を妖艶に光らせている。
 今は、眠っている。
 だが穏やかな眠りではない。
 何もかも失った眠りだった。
 放置すれば死ぬまで眠り続けるだろうその命を繋ぐには、魔力をつなぎ、生気を吹き入れてやるしかない。
 だがほんの少しでも魔力を移せば、その魔力がラウの体力を逆に奪ってゆく。
 絶叫とともに身悶え、七転八倒しながら自らを傷つけ、暴れ、全ての力を使い果たして再び泥のような昏睡状態に陥る。
 その繰り返し。
 あれからどれほどの時間が過ぎたのかも分からない。
 いつまで続くのかも分からない。
 終わりのない絶望の行為にアリストラムは力なく笑った。
 何度も、抱いた。
 何度も――
 じっとりと濡れた、柔らかすぎる無力な身体を抱きしめる。
 もう、ラウではない。
 以前の、ちいさな可愛いラウ、ころころと表情を変える幼いラウ、アリストラムだけのラウでは――なくなっているのに。
 狂おしいほどにまだラウでいて欲しい、いてくれればいいと願い続けて、叶わずにまた、抱く。
 ここにいるのは。
 死にかけの――
 雌の魔狼だ。
 ラウがびくりと身体を震わせた。
 全身がおそろしいほどの熱を帯びはじめている。
「ラウ、戻ってきてください……私の、ラウ、ラウ……!」
 狂ったように熱が上昇してゆくラウの身体を、アリストラムは自らの肌で冷やし抱いた。
 いくら冷たく濡らした布を置こうとしても、発作が起きればラウはすべてを引き裂いてしまう。他に方法はなかった。
 アリストラムは手を、身体を洞窟の氷水に浸し、その冷え切った手で暴れるラウの頬を、首を、全身を押さえ込みながら冷やし続けた。
 もう、自分のことはどうでもよかった。次に発作が起きたら、今度こそ耐えきれないかも知れない。意識さえ取り戻してくれたら……だが、同じ事を繰り返すだけではもう、きっと、二度とラウは目覚めない。
 残る手段は、ひとつ。
 噛みきられた唇を押さえ、アリストラムはラウを見下ろした。
 いつか、こうなることは分かっていた。犯した罪からは決して逃れられない。
 ラウと出会った、あの日――
 街の肉屋をさんざん荒らしまわったという小憎らしい魔妖のこどもを追いつめ、それでも必死にソーセージと骨付き肉を両手にひっつかんで何とか逃げようとする首ったまを引っ掴んで、ぶらんとぶらさげて。
 じたばたする尻尾を、ぎゅっと引っ張ると、その小さな狼は逃げられないと分かっていてもまだ諦めず、がぶりと噛みついてこようとした。
(おやおや、元気の良いことですね。でも、泥棒は悪いことです。悪いことをする子はお仕置きですよ。いいですね?)
(う、う、うるせえッ! なれなれしく触るんじゃないっ! ニンゲンのくせにっ!)
 振り向いた瞬間、翡翠の瞳が子供っぽい怒りの涙でいっぱいになっているのを見た。
 ゾーイと同じ翡翠の眼をしていた。
 ゾーイと同じ銀碧の毛並みを持っていた。
 ゾーイとそっくりな顔立ちをした、ちいさな、狼。

「貴女から奪ったすべてを」
 アリストラムは眼を閉じた。ラウに引き裂かれた傷だらけの胸に手を当てる。
 ぽつん、と、翡翠色の光が滲み出た。
「今、貴女に返せば」
 アリストラムは苦痛に顔をゆがめた。
 光はますます強まり、隠しきれぬ奔流となってこぼれ出てゆく。
 押さえた指と指の間から、まるで血のように光があふれ、したたりおちる。
「眼を覚まして……くれますか……?」


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