" お月様
お月様にお願い! 

2 私、狼になります!

「え、えっと、違います……シルヴィさんは、その、慰めに……」
 シェリーはおずおずと首を振った。口ごもりながら、聞こえるか聞こえないかぐらいの小さな声で言う。だが、その声はあまりに小さすぎて、上の空のルロイには聞こえなかった。
「俺と一緒にいるの……やっぱり、イヤか?」
「え」
 シェリーはどきりとした顔を上げた。
「そんなこと……言ってません」
「でも、今言ったのはそういうことだろ」
 ルロイは苦笑いして床を睨んだ。
 人間は、人間。
 バルバロは、バルバロ。
 どこまで行っても平行線。どんなに思っても、決して交わることはない。
「……シルヴィのところに行きたいんなら、そうしたらいい」
「ルロイさん!」
「俺みたいな、毎日毎日発情しまくってうっとうしいオスと一緒にいるより、ずっと、そうだな……落ち着くよな。分かった。そういうことなら、俺、今からちょっとシルヴィのところに行ってくるよ。シェリーが落ち着くまで、しばらく一緒に住んでやってくれって頼んでくるから」
「あ、あの、そうじゃなくて……わたしが言いたかったのは……あの……!」
「いいんだよ、無理しなくても」
 ルロイは手持ちぶさたに天井を見上げた。
「俺さ、シェリーが……人間に追っかけられてるところ、無理矢理さらってきただろ?」
「無理矢理じゃありません」
「ほとんど無理矢理みたいなものだよ」
 ルロイは頭を掻いた。
「なのに俺、シェリーの気持ち、ぜんぜん考えずに発情しまくってさ……人間は、バルバロとは、違うんだよな。なのに俺、シェリーがどんな気持ちか聞きもしないで、好き放題に……襲いまくって」
 思い返せば、思い返すほど――
 シェリーにとって胸の悪くなるようなことばかりをしてきたような気がした。
「人間に追われてるような状況でさ、かくまってやるのと引き替えにさ、身の安全を……図ってやるみたいなこと……したんだよな、俺……? ひどい奴だな、俺……って。言い返すコトなんてできるわけなかったのにさ。俺的には、発情してようとしてまいとおかまいなしにシェリーのこと好きだし、何があっても守るって決めてたつもりだったけど、でも、シェリーからしてみたら人間がバルバロを檻に閉じこめて働かせるのと同じ――」

 記憶の奥底にあった過去の光景が蘇った。暗黒の日々。鞭打たれて働かされ、首に鎖を付けられ、食事すら与えられず檻に閉じこめられ、折檻され……

 一瞬の光が脳裏を横切る。
 あのとき。
 人間にとらわれていた時期に味わった恐ろしい仕打ちのほとんどは、痛みと傷で占められていた。そのなかで、たった一条の光が、一瞬だけ雲の切れ目から差し込んできたように思えたことを覚えている。

 あれは、何歳ぐらいの少女だっただろうか。当時の自分と、それほど変わらないようにも見えたし、遙かに幼くも見えた。
 次から次へと魔法のように差し出される、あまい菓子の数々。宝石のように透き通ったキャンディ。真っ白なパン。少女の笑顔と同じく光り輝いていた。何日も食べ物を口にしていなかったせいで、それらを見るだけで次から次へと唾が沸いて出た。腹が鳴った。欲しかった。
 マシュマロみたいに、ちいさくて、やわらかくて、真っ白な手を差し伸べ。
 ふわふわの金の髪を太陽みたいになびかせて。
 その人間の少女は、無垢に笑いかけてきた。
 ねえ……どうしてそんなところにすわっているの? せまくない? だいじょうぶ?
 何の屈託もなく、檻の中で膝を抱えているルロイに近づいて。少女は舌足らずに自分の名前を言った。
 あたし、シェリーっていうの……あなたは?

 幼かったルロイは、天使みたいに可愛らしい少女の顔を睨み付けた。手からこぼれ出る甘い香り。喉から手が出るほど食べたいと思ったお菓子。
 すべてが、憎悪にまみれた汚物に見えた。
 少女が名乗ったその名──
 それは、バルバロの森を荒らし、何百人ものバルバロを殺した人間の国の王女。ルロイの親を殺し、村を焼き討ちし、狩り集めた子供を奴隷として働かせていた人間の国の──憎い、憎い、憎い、殺したいほど憎いと思っていた王女の名だった。

 ルロイは反射的に口をつぐんだ。シェリーの表情に、愕然として息を呑む。
 シェリーは、ふるえるまなざしでルロイを見つめ返していた。唇が青い。
「ごめん」
 なぜ、シェリーの前で、そんなことを言ったりしたのだろう。堰を切ったように自己嫌悪の空嘔がこみあげた。
「……俺、ちょっと外で頭冷やしてくる」
 逃げるように言い置いて、立ち上がる。
「あ、あの、ルロイさん……あのっ……」
 ルロイはきびすを返し、部屋から出ていこうとした。シェリーの声が追い掛けてくる。
「ルロイさん、わたしの話を聞いてください」
 立ち止まって、振り返る。
 目の前にいるシェリーは。
 半分、泣きかけの顔をして、立ちつくしている。言いたいこともなかなか言えず、声を詰まらせ、息をあえがせて。
「わたし」
 何度も手を伸ばそうとしては、ためらって。
「ルロイさんのこと……!」
 何を、期待していたのだろう。
 ルロイは、息をついた。
 シェリーは、動かなかった。結局、ルロイの前に立ちつくしたまま、何も言わない。
 ルロイは、身じろぎした。
 答えは分かっている。”人間”のシェリーを、強引にバルバロの――野蛮な獣の群れへ連れ込んだのは事実だ。世間知らずなシェリーが抗わないのをいいことに、勝手に抱いて、自分のものにして。勝手に好きになって。勝手に、ずっと、傍にいてくれたらいい、だなどと思った。
 本当に、自分勝手だ。
 どうしてもっと早く気づかなかったのだろう。
 鈍感で。
 我が儘で。
 独りよがりで。

 バカだ。

 突きつけられた事実は、さすがに自分でも胸が痛すぎた。白々しく背伸びをし、首を左右に振って骨を鳴らす。
「あー、そうだなー……」
 額を叩く。その仕草で自分自身の気持ちに蓋をした。何気なさを装って笑ってみせる。
「俺が、無神経にシェリーのこと好きになってまとわりついてただけなんだな。だから、そんなふうに遠慮されると逆にこっちが困るっていうか」
 ただ、この場から逃げたかった。ふいときびすを返す。シェリーの視線が居たたまれない。
「まったくシルヴィのやつ、どうせ言うなら、直接こっちに言えばいいのにな。いやあ、マジ、ごめん。俺ってマジ無神経だよなー? ホント、ごめんごめん、謝るよ。もう少し気を遣えたらよかったんだなー……このさい、”人間”の国に帰った方がいいかもな……なんて思ったりもしてさ? そうだよな、きっと、そのほうがいいに決まってる。じゃ、俺、ちょっと、行ってくる。あー、服もう乾いたかなー? さすがに素っ裸じゃちょっとなー……」
「ルロイさん」
 シェリーが追いかけてくる。ルロイは声を振り払うようにして部屋を出た。後ろ手に戸を閉める。
 それきり、シェリーの声は聞こえなくなった。

「で」
 シルヴィの顔はこの上もなく渋い。
「こっちは忙しいの。あんたたちの面倒なんか見てらんないの」
「だから、説明しただろ……」
「うるさいよ」
 シルヴィはいらいらと怒鳴ってルロイに背中を向けた。
「いまから罠の見回りに行くんだよ。邪魔しないで。ほら、どいたどいた」
 膝まである分厚い皮のブーツを履いた足を、どん、と椅子の上に投げ出して靴ひもをきつく絞り上げる。
「あんたなんか酒呑んで食い物食ってシェリーとバコバコやってりゃ満足なんだろ。あたしは忙しいんだ」
 つけつけと言い放って、かごを背負う。シルヴィはふん、と肩をそびやかせたかと思うと、ルロイを睨んだ。続けて何か言うかと思ったら、そのままぷいときびすを返して出て行ってしまう。
「だから話聞いてくれって言ってるだろ」
 ルロイは情けない声で哀願した。とりつく島もない背中を追いかけ回す。
「シェリーが、その、お前に言われたとか言って困ってんだよ。シルヴィ、いったい、お前、何言ったんだ。シェリー、泣きそうだったんだぞ」
「あたしのせいじゃないし」
 シルヴィは鼻であしらった。
「ついてこないで。邪魔。うっとーしい」
「待てよ、シルヴィ。どうせお前がシェリーに何か吹き込んだんだろう。人間はバルバロとは一緒になれない、とか何とか」
 シルヴィは振り向きもせずにその場でぴたりと立ち止まった。黙り込んでいる。ルロイはシルヴィが背負ったかごに手を置こうとした。
「重い。触んじゃねーよ! 馬鹿ルロイ!」
 とたんにシルヴィは振り返って足を蹴り上げた。見事にルロイの股間へ命中する。
「ぐあああ!?」
「ばーか。あの子があんたに何を言ったかなんてあたしの知った事じゃないし。だいたい文句有るなら、あの子が直接あたしに言いにくればいいでしょ?」
 シルヴィは憎々しげに笑った。
「それとも何? 勝手に乳繰りあって勝手にけんかして勝手にあたしのせいにすんの? 冗談じゃない。けんかだって勝手にすればいいでしょ? なんであたしのところに話を持ってこようとすんの?」
「いいい、痛ってェ……! 何しやがんだテメエッ!!!」
 ルロイは真っ赤な顔で股間を押さえた。
「た、た、たまが……!」
「いいこと、エロチン野郎」
 シルヴィは腰に手を当て、つん、と形の良い胸を反らした。
「以前、あたしがあんたに発情してたとき、あんた、見向きもしてくんなかったよね。いつだって、バルバロの女にはこれっぽちも興味ない、みたいな顔して、月のものが終わるまでずっと逃げ回ってた」
 シルヴィは半分、涙ぐんだような声で冷ややかに笑った。
「あんた、もしかして、人間の女にしか発情できないんじゃない? ガキんときからずっと人間に飼われすぎて、まともなバルバロの女見ても、ぜんぜん発情できなくなってんでしょ。オスとしても失格、バルバロとしても失格。そんなオス、群れにいらないわ。村に迷惑かけるような人間をわざわざ拾ってきて、何がしたいの?」
「だ、だって、お前は、その……」
 そういう性格だから発情しようったってその気にならないんだ、と言い返そうとしてルロイは口ごもった。いくらなんでもそれを面と向かって言うことはためらわれた。
「あの子、人形みたいだから発情するの?」
 シルヴィの黒い目が押し殺した光を放つ。
「何を言っても、おどおどして、笑ってばっかりで。全然言い返してこないよね……あんた、ああいうのが良いんだ? バルバロの女みたいに気が強いのはだめなんだ? 噛んだり、ひっかいたり、腰振りまくって食らいついてくるメスは嫌なんだ? あの子みたいに」
 シルヴィは口をつぐんだ。短く息をつく。
「やめた。人形マニアのルロイなんかに何言っても無駄、無駄」
「シェリーは人形なんかじゃない」
「どこが? あの子に何ができるの? 森に入って木の実を取ってくることもできない。鳥を捕まえる罠を仕掛けることもできない。食物倉庫に鼠が出た、って逃げ出してくるような子よ? 洗濯物のかごも重くて一人じゃ担げない。あの子だけよ? 力なくて、重くて持って帰れないものだから、毎日馬鹿みたいに何往復もして一日中洗濯してるのは。水だって、バケツ一個も運べなくて。おもちゃみたいな手桶もって、何回も何回も水くみに行ったりして。一回で済ませられるように力つければ済む事じゃない。馬鹿じゃないの?」
 シルヴィは唇を噛んだ。背中に背負ったかごを下ろし、手にかかえ直して、きっ、とルロイを睨み付ける。
「あんたは、毎日よだれたらして発情してあの子に突っ込んでいればそれで気持ちいいんでしょうけどね。とろくさいあの子を見せられてるこっちは、マジでいらいらすんの。あの子の何がいいの? 何の取り柄があるの? どこがいいのよ、あんな子の」
「シェリーを馬鹿にするな」
 ルロイは声を低くした。
「誰にだって、できることと、できないことがある。シェリーは頑張ってる」
「あんた」
 シルヴィは、表情をふっと冷ややかに変えた。低めに声を落とす。
「村の三役連中から、あの子のことであんたが何て言われてるか知ってる?」
 どきり、とする。バルバロの村にも階級はある。長老である村長を中心に、力のあるオスと、力のあるメスとが協力して村の秩序を守っている。最初にシェリーをつれてきたときも、村で受け入れてもらうために挨拶へ行った。村で暮らしても良い、という許可も取り付けた。それでもまだ問題があるというのだろうか。ルロイは耳を伏せた。用心深く眼をほそめる。
「狩りもうまいし、人望もある、力もある。ずっとあんたのこと眼をかけてたって」
「何だ、そんなことか」
 何を言われるかと身構えていたルロイは拍子抜けした。思わず胸をなで下ろす。
「てっきりシェリーのことで何か……」
「なのに、あの人間のメスが来てからすっかりおかしくなった。村に悪い影響を与えなければいいが、って」
 シルヴィの眼が暗く光っていた。ルロイは身体の奥を冷たい手でぐっと握りつぶされたような気がした。息が詰まる。
「シェリーは悪くない……」
 全身が、怒りと憤りで火照った。声を荒らげて反論しようとする。シルヴィは、ふん、と顎をそらした。腰に手を当て、肩をそびやかせる。
「あんたがどう思ってるかなんてみんなには関係ない。みんな、自分の意見がある。自分の暮らしがある。あんたのせいで、また、村が人間に襲われたらどうしてくれる、って……年寄りはみんな怖がってる。あんたが、村のために今までホントに良く頑張ってるの知ってるから、誰もまだ、何も言えないだけ。もし、何かあったら……あの子が、人間の兵士を連れてきたら、今度こそ、村は滅びる」
「そんなことにはならない!」
「あんたに何でそんなことが分かるの」
 ぞっとする声だった。
「もしかして、あてがあるの? 人間どもと密約でもしたとか」
 ルロイは、愕然として顔を上げた。シルヴィを見つめる。
 背筋に氷を押し当てたような寒気が襲ってきた。血の気が引く。
「みんな、疑ってる。あの子のこと」