" お月様
お月様にお願い! 

2 私、狼になります!

 枝を折り砕き、何度も引っかかりながら跳ね転がって、最後に深い森の川へと着水する。信じられないぐらいの水しぶきが上がった。ルロイがしっかりとシェリーの身体を抱きしめている。
「ルロイさん……」
 シェリーは身体をよじった。強い水流にみるみる押し流されてゆく。
 ルロイは気を失っていた。シェリーは必死に足をばたつかせ、ルロイの腕から泳ぎ出た。ルロイの身体が水に呑まれ、沈んでゆく。
 思わず恐怖の声を上げてしまう。口から空気の泡がどっと吐き出された。
 必死に足をばたつかせ、ルロイを引っ張って、水面を目指す。ルロイの身体は石のように重かった。どんなに引っ張っても持ち上げられない。
 呼吸ができない。肺がやけつくように熱い。苦しい。
 仕方なくシェリーはいったんルロイをはなして、水面へと上がった。大きく息を吸い、また水面を蹴立てて水中へと潜る。うつぶせ状態のまま、青い水底に沈んでゆくルロイが見えた。
 息をしていない……!
 シェリーは沈んでゆくルロイの下側に回り込んで、唇と唇をしっかり合わせた。肺にためた空気のすべてを吹き込む。ほとんどの空気は、むなしい水泡となって上っていった。それでも、少しは空気を送り込めたに違いない。意識のないルロイの身体を引っ張って必死に泳ぐ。
 止めたままの息が苦しい。眼がくらんだ。からっぽの肺が、空気を求めて悲鳴を上げている。破裂しそうだった。
 ようやく岸に泳ぎ着く。シェリーは、ルロイの身体を必死に河原へと引きずり上げた。だが、水から上がったとたん、重すぎて動かせなくなる。
 びくともしない。水につかったままでは身体が冷え切ってしまう。せめて首から上だけでも乾いた地面に置かなければ。
 血が、河原の石を赤く染めてゆく。
 絶望のあまり、泣き出しそうになるのを必死にこらえる。今は、泣いている暇はない。とにかく、助けなければ。
 かがみ込み、耳を口元へと近づける。やはり息をしていなかった。
 とにかく仰向けにして横たえるしかない。シェリーは河原にはびこった葦を引きちぎって集め、少しでも痛みが和らぐようにルロイの頭の下に敷いた。
 次は気道の確保。頭をそらさせてやることで、喉を広げ、空気を通りやすくする。
 奴隷の印である首輪の鎖が、じゃらりと冷たい音を立てて手にからまった。
 重く、冷たい鉄の鎖。シェリーは震える手でルロイの首輪をはずした。その下に焼き付けられていた模様は、思った通りの形をしていた。
 嗚咽があふれた。堪えきれない。 
 シェリーはルロイの濡れた髪をかき分け、つめたく冷え切った頬に手を触れた。鼻をつまみ、唇をかさねて、短く息を吹き込む。肺がかすかに持ち上がった。でも一回だけではとてもじゃないけれど足りない。もう一度。さらに空気を吹き込む。
 次に、傷だらけのルロイの胸の中心に手を重ねて置き、体重を掛けながら強く押し込んだ。三十まで数を数える。まだ息を吹き返さない。
「ルロイさん、目を覚まして」
 すすり泣きながら、何度も、何度も、悲痛な祈りを込めて息を吹き入れ、心臓を圧迫する。
「おねがい……!」
 無我夢中で人工呼吸を続ける。それでも反応はない。
 過ぎてゆく時間が永遠にも思えた。どれぐらいの時間、同じ行為を繰り返していただろう──
 ふいに、ルロイが咳き込んだ。
「ルロイさん!」
 ルロイは薄く目を開けた。
「……さっきまで死んでたよな、俺?」
「そんな縁起の悪いこと言わないでください」
 呑気に軽口を叩くルロイの顔を見た瞬間、涙と一緒に疲れ切った笑いがどっと吹きだした。ルロイも笑った。手を伸ばして、シェリーの頬に触れる。
「シェリーは怪我してない?」
「わたしは大丈夫です。ルロイさんが、ずっと、守っていてくださったから……!」
「そっか。よかった」
 言いながらルロイは起きあがろうとする。シェリーはあわてて押しとどめた。
「いけません、どこか骨が折れているといけない」
「大丈夫」
 苦笑いしながらルロイは起きあがった。
「あちこち痛いけど、どこも折れてない。すっげえ頑丈。さすが俺の石頭。川に落ちたのが良かったんだな」
「はい」
「ずっと、俺に人工呼吸しててくれてたんだ……?」
 ルロイはにやりと笑って、自分の唇に指先を当てた。
「は、はい……」
 思わず、顔をあからめる。
「ありがとう。シェリー。助かった」
 息が詰まりそうだった。ルロイは手を伸ばしてシェリーを胸に抱き寄せた。心臓が高鳴る。身体が、緊張して石みたいに固くなってゆく。
「はい、ご無事で何よりで……」
 そこで、はっ、と気が付く。シェリーはルロイを見上げた。
 今、何と呼ばれた……?
「シェリーの、本当の名前なんだろ? シェリーっての」
 シェリーは息を呑んだ。
 声をなくす。
 涙が、ほろほろとこぼれ落ちた。シェリーはそれ以上目を合わせることができず、うつむいた。
「……ごめんなさい……」
「何で謝るんだ?」
「わたしのせいで……あんな……ひどい人を……バルバロの森に引き寄せてしまって……!」
「シェリーのせいじゃないよ」
 ルロイは立ち上がろうとした。さすがにそれは無理だったらしく、ふらふらよろめいて地面に手をつく。
「あいたた……あいつ、めちゃくちゃぶんなぐりやがった……痛ってぇ……!」
「ご無理なさらないでください……」
「大丈夫。俺の頭は岩よりも硬い! これぐらい平気。ぜんぜん大丈夫だ」
 ルロイは頭を押さえながら、強がってへらへらと笑った。
「そんなことより」
 ルロイは、心許ない首筋をまさぐった。
 奴隷の証である首輪は、もう、そこにはなかった。人工呼吸の妨げになると思ったシェリーがはずしたからだ。首輪の下には、奴隷の焼き印が押してあった。
 奴隷の所有者を表す紋章と、番号。
「見た?」
 シェリーは、また涙があふれてくるのを感じた。
「見ました」
「これ、王女の紋章だよな?」
「はい……そうです……わたしの……!」
 シェリーはルロイの胸にすがりついた。顔をうずめる。おそろしさに顔も上げられなかった。すすり泣く。
「シェリーは悪くないよ」
 相変わらず優しいルロイの声。シェリーは首を横に振った。
「いえ、わたしが悪いんです……私が」
 声がとぎれる。
 ルロイがキスをしたからだった。あまりにも優しすぎて、つらくて、涙の味しかしない。
「何も言っちゃだめだ。俺は、シェリーのこと、全然悪いだなんて思ってない」
「でも……!」
「いいから。ほら、泣くな。お互い、もう子供じゃねーんだからさ。面倒くさいことはさっさと忘れよう」
 傷だらけの頬を寄せ、強い力で抱き寄せられる。ルロイは、ずっとシェリーを抱きしめ続けていた。涙に濡れたシェリーの頬を何度もキスでぬぐっては、笑いかけてくる。
「……はい……ごめんなさい、ルロイさん……ごめんなさい……」
 涙も、後悔も、とめどなくこみあげて、とまらなかった。
 シェリーは、ルロイの優しさに抱かれ、顔をうずめ、いつまでもむせび泣いた。

 バルバロたちは、人間たちの報復を恐れ、遙か高い山へと移り住むことになった。少しでも早く避難しなければならない。執拗なルトベルクがあきらめるとは思えなかった。今度は兵を率いて襲ってくるかもしれない。
 腰の悪いロギ婆をおぶって、ルロイは新しい村へと移動した。身寄りのない婆さんのために、狭いなりにしっかりした家を建ててやり、ありったけの荷物と食料を運び上げた。シェリーも必死に手伝った。だが、もう、村のバルバロたちがシェリーを見る眼は、今までとまったく違ってしまっていた。冷たく、白く、針のむしろの上に座らされているかのようだった。
 婆さんの引っ越しが終わると、ルロイはシェリーをつれて前の自分の家へと戻った。
 村は無人だった。子ネズミ一匹いない。しん、として。風の音しかしなかった。広場に組まれたやぐら跡も、黒い炭だけが転がっている。
「他の連中も、引っ越し作業、全部終わったかな」
「……」
 戸口に立ちつくしていたシェリーは、おずおずとルロイを見上げた。
「ルロイさんは、まだ新しい家を建てていません」
「俺はいいんだ」
 ルロイは肩をすくめた。
「この村に残って一人で暮らすよ。そのほうが気楽だ。ああ、ロギおばあのことはまかせといて。毎日、狩りの帰りに”あたらし村”に寄って要るもの聞いてくるから」
「……」
 シェリーは顔を伏せた。
「わたしは……どうしたら……?」
「それだけは俺一人で決められる事じゃないしな」
 ルロイは軽く笑う。ふっきれたような笑顔だった。
 シェリーはうつむいた。
「わたしが……王女だったってこと、ご存じだったんですね」
 蚊の鳴くような声で続ける。
「いいや、全然。偶然だよ」
 ルロイはどっかりとダイニングの椅子に腰を下ろした。笑いかけてくる。
「シェリーが”シェリー”だなんて分かるわけないよ。だって、俺、その、何て言えばいいか……人間の女の子の名前っぽいのってシェリー以外知らないから」
 シェリーは眼を瞠った。
「どういうことですか」
「シェリーは覚えてないだろうけど」
 ルロイは可笑しくなってくすくす笑った。
「俺、ガキんころ、”バルバロ狩り”にあってさ、人間に捕まってたんだ。見ただろ、首の焼き印」
「……」
「しょっちゅう脱走しようとしては捕まってさ、しまいには檻に入れられて、飯も食わせてもらえなくてさ、死ぬところだった」
 シェリーは口を手に当てた。大きく息を吸い込む。
「まさか」
「あー、もー死ぬー、とか思ってさ。腹減って、目もろくに見えなくて、もし外に出られたら人間なんかみなごろしにしてやるー、とか思ってたらさ」
 ルロイはひょい、と立ち上がった。キッチンにおいてあったキャンディをひとつかみ、握って戻ってくる。
「ほら、これ」
 シェリーの手を開かせて、キャンディを握らせる。
「こんなふうに、お菓子くれた人間の女の子がいてさ」
「……!」
 甘い色。優しい香り。
「その子が、自分のことを、こういったんだ。『あたしシェリー。あなたは?』って」

 シェリーの手のひらに、キラキラと甘く宝石みたいに輝くキャンティがいくつも載せられては、テーブルに転がって落ちる。
 見つめているだけで、声が詰まった。叫びだしたい気持ちが喉の奥からこみ上げる。目頭が熱くなった。
 形も、色も、香りも。とりどりのキャンディが、ひとつの瓶におさまって。
 視界がにじんだ。ホタルが波に揺れているみたいだった。
 ルロイは椅子に腰を下ろした。
「それまではさ、人間って……卑怯で、きたなくて、憎らしい奴なんだって、ずっと思ってた。でも、そのちっちゃな女の子が、すべてを変えてくれた。俺に、憎しみ以外の感情を与えてくれた。きらきらしてた。笑顔がかわいくて、金色の髪がまるで太陽みたいで、眼は、空みたいに青くて、肌は雪みたいに白くて、何もかもが──シェリー……きみみたいだった。君と逢って、一目で恋に落ちた理由がわかっただろ……?」
 ぽんと口にキャンディを放り込む。
「おいしいよな、キャンディ。これ何味だろうな? はちみつ味? 肉味? いや肉味はちょっとないか。あのとき、何で食わなかったんだろう。食えば良かったな。おいしかっただろうなあ……」
「ルロイさん……!」
「だからさ、」
 ルロイは穏やかに笑った。
「俺は、村のみんなに迷惑を掛けないよう、ここで一人で暮らす。俺一人なら、人間が来たって逃げるのは簡単だからな。そうしながら、いつか、こんなことをしなくても人間とバルバロが平和に暮らせるときがくるのを待つよ。……俺が、シェリーに、人間の優しさを教えてもらったのと同じように、いつか、俺も、人間にバルバロの良さを分かってもらえたらいいなって思ってる。そういうときが、きっと来る……分かり合えるって信じてるからさ。でも、シェリーは」
 そこで、口をつぐむ。
 ルロイの黒い瞳が、じっとシェリーを見つめていた。
「好きなようにしてくれていいんだ」

 シェリーは、まっすぐにルロイを見返した。
 ルロイは、人間の世界に帰れ、と言っているのかもしれない。
 ルトベルクのような悪い人間が、バルバロを苦しめてきた。シェリー自身も、ルロイが一生背負い続けている奴隷の焼き印を押させた責任がある。決して無実ではいられない。
「わたし……」
 言いかけて、口ごもった。
「自分のこと、何も覚えていないふりをして。ずっと嘘ついて、逃げてました。ルロイさんが、シェリーって名前をつけてくれたとき、心臓が止まりそうなほどびっくりしたけれど……でも、きっと、何かの偶然だとばかり思ってました」
 まさか。
 ルロイが、あの──
 檻の中に閉じこめられていた、やせっぽちの、傷ついた眼をしたバルバロだったなんて。
「……思い出したくなかったんです。あのとき……突然、檻の中から、いなくなったのは……きっとわたしが何も考えずにお菓子あげたりしちゃったから……そのせいで、もっと、もっと、ひどい目に遭わされたんじゃないかって……殺されちゃったんじゃないかって……こわくて……! だから、もう、何も考えなければいい……こわいことも、いやなことも……何も見ずにいればいいって……知らずにいればいいって。全部、忘れてしまえば良いんだって……思いました」
 ルロイはだまってシェリーの告白を聞いていた。
 シェリーは、声を震わせた。息を呑み込む。でも、言わなければならなかった。
 うつむいて、一言、一言。思いを胸の内から押し出すようにして、つむぐ。
「シルヴィさんがおっしゃったとおりでした……わたし、流されるまま、言われるがままに、ずっと生きてました……ここに来てからも、ルロイさんに頼ってばかりで」
「そんなことないよ」
 ルロイは首を横に振った。シェリーは唇を引き締めた。
「いいえ。分かってました。わたしがいたら、いつか、本当に、村のみなさんにまで迷惑を掛けてしまうって。さっきの人みたいに、私を国へ連れ帰って、戦争の理由にして、王位を奪おうとする人がいるにちがいないって」
「それはシェリーのせいじゃない」
「いいえ、わたしのせいです。わたしが、自分で、自分のことを、考えようとしなかったから。いつも、すぐ、あきらめてばかり──逃げてばかりいたから。でも、もう……それじゃダメなんだって分かりました。わたしは、わたしが成すべきことをしなければならない。それがわたしの義務だと思うからです」
 ふいに、シェリーは声を揺らがせた。自分の周りに張りめぐらせていたガラスのカーテンが、いっせいに切り落とされ、崩れ落ちたかのように思えた。
 息を大きく吸い込む。ルロイが眼を上げた。
「でも」
 涙をいっぱいにためた眼で、ルロイを一心に見つめる。
「それでも、やっぱり……ルロイさんのそばにいたいです」
 シェリーは、両手を結び合わせた。一歩、前に進み出る。
「ルロイさんと、ずっと、ずっとこうやって過ごしたいです。帰りたくないです。人間なんかでいたくないです。バルバロさんたちを閉じこめて、働かせて、鞭で打って、ひどいことをするような人間だと、思われたくありません!」
 眼を何度も瞬かせ、ぽろぽろこぼれる涙を指の背でぬぐって。
 シェリーは、ぐすんとしゃくりあげて、笑った。
「だから、言わせてください」
「シェリー……」
「わたし、ルロイさんのことが、大好きです」
 シェリーは、きらめく笑みを浮かべ、顔を上げた。涙のこぼれた筋が白く頬を濡らしている。
 ルロイは、あれほどおずおずと気弱だった少女が、はっきりと心の裡を口にするのを聞いた。
 泣いてくれる。
 すがってくれる。
 思いを、言葉にしてくれる。
 いつもの、気弱なシェリーにとっては、それがどんなに勇気の要る一言だったことか、と思うと、いとおしさに情けなくも感極まって、胸が詰まりそうになった。
「シェリー……」
 と、出し抜けにシェリーは、椅子に座ったルロイの手を取った。
 引っ張りながら小走りに走りだす。
「な、何」
「いいから、こっちに来てください、ルロイさん」