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「おっはよーーーございます♪」
たたんっ、と軽やかな靴音がタップを踏む。
シェリーは薄暗い部屋のカーテンをさっと引き払った。朝日が光のシャワーとなって降り注ぐ。
「うわあ、まぶしい」
めげずに勢いよく窓を押し開ける。
ひんやりと冷たい森の風が吹き込んできた。朝露のきらめきが眼を射る。
「寒ーーーっ! でも今朝も良い天気。絶好のお洗濯びよりなのです」
きん、と氷のように澄み切った空気を胸いっぱいに大きく吸い込む。
腰まで伸びた、ふわふわの金髪。子羊みたいな、ちょっとくせのあるやわらかな毛先が、ぴょこりと肩で跳ねて、風に踊っている。
微笑みをいっぱいにたたえた青い瞳。
いちごミルクのような、ぷっくりと甘い唇。
くるりとつま先立ちで回ると、真っ白なエプロンを重ねたワンピースドレスのすそがふわり。いとけなくめくれあがる。
「女の子は♪ うっふん♪ 毎日が特別♪ ふふふん♪ でも明日は♪ いちねんで一番がんばっちゃう♪ 特別な日なの♪」
シェリーは鼻歌を歌いながら、いそいそと壁に近づいた。
「忘れないよう、カレンダーにしっかり印を付けておいたのです。ここが今日で、こっちが明日……」
薄く削ったへぎ板に格子の枠を組み合わせた、手作りのカレンダー。数字をあらわす木やきらきらする小石、貝殻が並べられている。
明日の日付が入った枠には、ちいさな赤いハートの花輪がピンで留めてあった。
「うん、間違いなく明日ですね」
一歩下がって、小首をかしげ、後ろ手に手を組んで、にこにこと眼をほそめる。
と、花の中から小さなありんこが一匹頭を出した。
「あら、まあ? どうしてこんなところにありんこさんが?」
花と鼻の先がくっつきそうなほど、近くに寄って見つめる。
「踏んづけちゃうといけません」
シェリーは指の先にそっとありんこを移そうとした。
「シェリー!」
どどどどどどどどど……! 石が転がってくるような足音が響いた。腕まくりしたルロイが部屋へ飛び込んでくる。ルロイはシェリーの顔を見るなり、ぱっと表情を輝かせた。一、二の三で猛然とシェリーに駆け寄る。
「おはよーー! 俺のシェリー!」
大声で笑ってシェリーに飛びつくや、かるがると持ち上げて放り投げる。
「きゃぁあぁ……っああんっ!」
ふわりとスカートが宙に舞う。シェリーは、すとんとルロイの腕の中に落ちた。
「ナイスキャッチ、俺!」
お姫様のように抱きかかえて、くるくる、ふわふわと踊るように回る。シェリーは子どものようにはしゃいでルロイに抱きついた。腕を伸ばして、ぎゅっとルロイの首にかじりつく。
「おはようございます、ルロイさん。朝からそんなにぐるんぐるんされては目が回ってしまいます……」
「俺も一緒に目が回ってるから大丈夫だ!」
くるくるとこまのように回転しながらルロイは吠えるように笑う。
「どうしたんですか、ルロイさん、そんなにはしゃいじゃったりして?」
「そりゃあ、もちろん、シェリーが好き好き好きすぎて! 俺は……俺はもう我慢できなぁぁぁぁぁ……!」
言葉を交わすのももどかしく、ルロイはぐいと頬を寄せ、荒々しくシェリーにキスしようとした。ちくちくする狼の毛が頬に触れる。森と太陽の匂いをふんだんに含んだ野生の匂い、大好きなルロイの匂いだ。突飛ながらも愛情にあふれた行動のひとつひとつがルロイらしい息づかいにあふれている。
「ああん、もう、ルロイさんったら」
くすくす笑いながらも眼を閉じて、幸せな瞬間を待ち受ける。
だが、唇が触れる寸前。
ルロイは突然、うろたえた表情を浮かべた。くるくると表情豊かに動く三角の耳をしょんぼりと垂らし、心もとなげに視線をあちらこちらへと泳がせる。
「う、いや、えっと、だな……」
「……キスをしてはくださらないのですか?」
シェリーは不安にかられ、おずおずとまつげの長い目をしばたたかせた。
「いや、そのう……」
おぼつかない口調で口ごもる。頼りないまなざしが壁のカレンダーに止まった。ルロイはあわてたように目をそらした。
「いやあの何というか、えっと、その、騎士道精神? 姫を守る騎士として、野蛮な振る舞いやみだらな発言などは慎まねばならないからな……」
あっちこっち落ち着きのない視線を走らせて、おどおどと言う。どうやらカレンダーに付けてあった赤いハートの飾りに気が付いたらしい。
「ルロイさんったら」
シェリーは手を口に添え、くすっと笑った。
(白々しくカレンダーから目をそらしたりして……)
きっと、気が付いていないふりをしてくれているのだろう。ううん、気付かないわけがないのだ。一週間も前から、カレンダーに印を付けてあるのだから。
明日は楽しみにしててくださいね、と言おうとして、シェリーは思い直した。せっかく頑張って気付かないふりをしてくれているというのに、わざわざ恩着せがましく教えたりしたら、きっと気を悪くするに違いない。
そうそう、ルロイさんが気が付かないふりをしているなら、わたしもそれに合わせなくっちゃ、です。
シェリーはうっとりとルロイを見上げた。ルロイは本当に嘘が下手だ。思ったことがまっすぐに顔に出る。今もそうだ。何だか妙におろおろして。
きっと、赤いマークにどきどきしているに違いない。
だって明日は二人で迎える初めての──
(……バレンタインデーですもの)
シェリーは、きゅんっと胸が締めつけられるような気持ちになって、もじもじとはにかんだ。頬を赤らめる。
いいつたえによると、バレンタインデーとは、結婚が許されなかった二人を永遠の愛で結びつけた聖人を祝福する日だという。まさに、自分たちにぴったりの日だ。
きっとルロイも喜んでくれるだろう……
ふとルロイの首にかかったペンダントに目を留める。
不思議な輝きだ。金色の牙の形をしている。
ルロイがぴかぴか光るアクセサリを身につけているところなんて、初めて見たかもしれない。少々いぶかしく思いながらも、シェリーはその輝きに見入った。
そっと手を伸ばす。指先が髪に触れた。
「何?」
ルロイはわずかに身をちぢめるような素振りをした。
くしゃくしゃと伸び放題になった黒髪の下には、ルロイが幼い頃に受けた心の傷が隠されている。”人間に虐待された傷跡”──奴隷の紋章だ。その傷はルロイの傷であると同時に、バルバロという半獣半人の一族が苛烈にも背負わされてきた苦渋の運命そのものだった。
シェリーはびくりと手を止めた。ルロイを驚かせてしまったかもしれない。
「ごめんなさい。びっくりさせてしまって」
「ああ、いいよ」
ルロイは表情をやわらげた。
ずっと両腕に抱いていたシェリーを、床にやさしくおろしてくれる。そうするともう背が高いルロイの首にはうまく手が届かなくなった。
「何?」
「綺麗なペンダントだなあって思って。きらきらしてて……すごく格好いいです。ルロイさんにぴったり。そんなの持ってました?」
「いや、この間、貰ったばかり……」
「誰に?」
ルロイはふいにどぎまぎとした。
「あ、い、いや、違う」
焦った表情で顔を引きつらせる。
「その、あの、たまたま発見して……ええと……」
純朴な表情にあたふたした焦燥を浮かべて、必死に言い訳する。
「どこにありました? 部屋の引き出しにそんなものありましたっけ?」
シェリーは微笑んで口添えしようとした。ルロイはペンダントを手で握って隠すようにしながらうなずいた。
「あ、ああ、そう。奥の部屋の謎の引き出し! たまたま昨日、奥の方に突っ込んであるの見つけてさ。シェリーに見せようって思ってたんだよ!」
その”謎”の引き出しは、ルロイさんが一人暮らししていたときに中身が”ぐちゃぐちゃ”になってしまって何がどこにあるのかさっぱり分からなくなってたから、この間、二人で一緒に整理整頓したばかりではないですか……?
胸の中をちくりと針でつつかれたような不安がこみ上げた。あわてて息を吸い込み、痛みをごまかす。
あわてふためいたルロイの表情はまるでプリズムのようだ。あたふたと焦った声色にうろたえた仕草。白々しいぐらいごまかそうとしている。
困っているのはありありと分かる。でも、どうして嘘なんてつく必要があるのだろう? 別に誰にもらおうと構わないのに。
まさか、嘘をついている……?
つん、と鼻の奥が痛くなる。
それを言ってくれないのは、もしかしたら……言えない理由があるから、なのだろうか?
言えない理由って……何?
ちくり、と。胸が痛くなった。痛みは少しずつ大きくなる。疑いと一緒に。
シェリーは手で胸を押さえ込んだ。ううん、そんなことはない。ルロイさんに限って、そんなことは。
ルロイは何度も目をぱちくりとさせた。忙しなく壁のカレンダーへと目をやる。
「と、と、ところでさ、この赤い印ってさ……シェリーがつけたんだよな? まさか、ええと、どこかに出かける用事でもあるとか?」
「えっ……?」
シェリーはきょとんとして眼を上げた。話をそらされたことも忘れそうになる。
「このしるしですか?」
「うん」
ルロイはうなずく。シェリーは眼をぱちくりとさせた。
ルロイはどことなく困ったような顔で首をかしげている。そこで、はっと気が付いた。
もしかして、ルロイは、本当に明日が何の日なのか知らない……とか?
シェリーは思わず頬を赤くした。
「あ、あの、フーヴェルおばさんのお店に買い出しに行くのを忘れないようにしようと思って。いろいろ先週お願いしたので」
「人間の村か。この間行ったばかりじゃなかったっけ? 大丈夫?」
ルロイは疑り深そうに眉をひそめた。
「あの、はい、すごく、その……」
本当のことを言うべきか否か、ちょっと悩んで、すぐに思い直す。
「この間、わたしの作ったジャムを持って行ったらすごく喜んでくれて。あるならもっと持ってきてってお願いされちゃったんです。すぐに売れちゃうんですって。代わりに”いいもの”を仕入れておくからって」
「いいもの? いいものって何?」
シェリーはちいさく肩をすくめた。
「さあ、何でしょう?」
他愛のない秘密をころんとひとつ。紅茶に入れる角砂糖みたいに甘い嘘だ。
シェリーは急にルロイを困らせてやりたくなって、くすくす笑った。
「えっと……どうしましょう……?」
これでおあいこだ。別に嘘をついているわけじゃないし。ちょっとぐらいの間なら、秘密にしたっていいだろう。楽しいことはケーキに乗ったお砂糖みたいに、後のお楽しみとして取っておくべきだ。
「教えろよ。ずるいぞ?」
ルロイもつられてくすくすと笑っている。
「いいえ、教えません」
「えー、何で? 知りたい。何だよ、いいものって? 食い物か?」
ルロイが頬を寄せてくる。ぎゅっと抱きしめてくれて、それからほっぺたにかるくキス。ルロイの髪は毛皮みたいにふわふわしていて、ちょっとちくちくするけどやっぱり一番暖かい。
小春日和のぬくもりに、ためらいの薄氷が溶けていく。安堵のため息が、ほうっとこぼれる。
たぶん、ルロイはバレンタインの習慣を知らないのだ。明日が何日で、何をする日なのかも。
だったら、びっくりさせてみるのも悪くはないかもしれない。すなわち、そう……サプライズパーティ! 何て素晴らしい思いつきでしょう!
シェリーは微笑んだ。
ぴょこんと後ろに飛び下がって、ウィンクする。
「うふふ、ないしょです!」