お月様にお願い! 番外編 恋の赤ずきんちゃん

狼の夜は終わらない

「命だけは、か」
 グリーズリーはやれやれと肩をすくめた。
「銃を持ってるにも関わらず、こっちが到着するまでじっと静かに待っててくれて、部屋に入っても奇襲すらしない、そのうえ投降すれば身の安全を保障してくれるなんて、ずいぶんと優しい敵もあったもんだね」
 言いながらエマを押しやる。
「君は彼の言うとおりにしてくれ」
 エマは本を胸に抱きしめたまま、青い顔でかぶりを振った。
「だめですわ、そんなことできません……」
「いいから行ってあげなよ」
 グリーズリーはエマを押しやった。
「早く座らせてやらないと、青い顔をしたお友達が今にも倒れそうだ」
 エマは困惑の表情でニーノの様子をうかがい、何度か目を瞬かせたあと、口を叫び出しそうな形に大きく開けて息を呑み込んだ。
「ひどい怪我。どうしたの、ニーノ」
「手当はすませてある。僕のことはいい。それより早くこっちへ来るんだ、エマ」
「それだけ傷の臭いをさせておいて平気なはずがないだろう」
 グリーズリーはわずかに目をほそめた。
「嫌な臭いがする。ちゃんと治療できてないんだ。片手じゃろくに包帯も巻けないだろうしな」
「下から傷薬を取ってくるからちょっと待ってて。じっとしててよ、二人とも!」
 エマは手にした本をグリーズリーに押しつけ、ぱっと身を翻した。
「エマ、待て、勝手に動くな」
 あわててニーノが叫ぶ。だが呼び止めようとして持ち上げた手はむなしくだらりと下がった。エマの足音が遠ざかるのを確かめてから、ニーノは壁にもたれ込んだ。表情が苦痛にゆがんでいる。
「どこで気付いた」
 諦めたようにニーノは病んだ息を吐いた。
「バルバロの嗅覚を見損なってはいけない」
 グリーズリーは鼻をこすった。
「この部屋に入ったときから、あんたの臭いと、さっきのオウムの臭いと、血の臭いが一緒くたにしてた」
「軍属ともあろうものがよりによって、身だしなみを整えられずに悪臭で居場所を見抜かれるとは。クレイドさまに知られたら一生ものの恥だ」
「何で彼女をここへ呼んだ? 脱走者として逮捕するためか」
 グリーズリーはニーノのために椅子を運んでやった。座るよう態度で示す。ニーノは椅子に近づこうともしなかった。
「貴様らにさらわれたエマを取り戻すためだ」
 答えるニーノの額に冷や汗が滲む。
「無理せず座れよ。無事なのは最初から分かってただろ。彼女を処刑しようとしていたのはあんたたち人間のほうだったんだから」
 部屋の奥から、鳥かごの戸をつついてはぎゃあぎゃあと騒ぐオウムの鳴き声がした。
「扉ヲ開ケロ、にーの」
「今スグオレヲココカラ出セ、にーの」
「赦免ダ、にーの」
「オレハコンナチッポケナ鳥籠デ満足スル男デハナイゾ、にーの」
「うるさい鳥だな」
 グリーズリーはニーノの横を平然と通ってくぐり戸を抜けた。
 先ほどの書庫とは違って、奥側の部屋は思ったより整然としている。ベッドの傍らには大きな姿見の鏡がある。ひんやりとした空気の臭いがした。ただの鏡ではなさそうだ。
 壁際には壊れた机がそのままで放置されている。エマが言っていた文机だ。鳥かごは散乱した手紙の上に乗せられている。
 引き出しはすべて”鍵”を壊され、乱暴にこじ開けられていた。侵入者が持ち主に無断で机の内部を漁ったに違いない。
 城主クレイドは、エマにわざわざこの部屋を見せ、犯人の目星を尋ねたという。
 犯人は部屋に入る鍵だけを持っていて、なおかつ文机の鍵を持たない者。
 部屋の鍵を持つのは家の管理人か所有者と相場が決まっている。よって部屋を荒らした鼠が何者なのか、城主クレイドには見当が付いていたということだ。
 ならば、どうして、そんなまわりくどいやり方でエマに犯人を教えるような真似をしたのか。
 その名を口にしないことによって、別の何かを仄めかそうとした。
 あるいは、犯人が同席していた──
 そこまで考えて、グリーズリーは手にした本を見下ろした。
 エマはこの本を見つけるなり無意識に拾い上げていた。
 よほど印象深い出来事があったのか、それとも……
 考え込みながら、黒いおおい布がかけられた鳥かごを持って部屋に戻る。
 布を取って籠の戸を開けてやる。籠の中のオウムは片足を上げて止まり木にとまったまま、目をつむって眠っていた。
 ニーノはやつれきった瞼を閉じた。目の下にできた隈が病的な色を濃くする。
「『机の鍵を渡せ。そうすればエマはこの部屋での出来事を思い出す』。僕が命じられたのはそれだけだ。でも、考えれば考えるほどクレイドさまが何をお考えなのか分からなくなった。誰がクレイドさまの敵で、誰が王女殿下の味方で、誰が、誰に、何を命じたのか」
 グリーズリーは不快に眉を寄せ、低く唸った。
「シェリーちゃんをおびき出そうとしてエマを囮にしたのは、そのクレイドって貴族だろう。何の罪もないあの人たちを罪人扱いして」
「その通りだ。それでも僕は、僕に課せられた最後の役目を果たさなければならない」
 ニーノは戻ってきたエマの足音に気付いて、疲れた微笑みを浮かべた。エマが息せき切って書庫へと駆け戻ってくる。手に救急箱を持っていた。
「ニーノ、椅子に座って服を脱いで」
 救急箱を開け、手早く準備を始める。ニーノはおとなしく椅子に腰を下ろした。
「脱ぐの恥ずかしいんだけど」
「だったら袖を切るわ。手を出して」
「やめてくれ。穴開いてるけどこれでも一張羅なんだよ」
「怒るわよ、ニーノ。ふざけてないでおとなしくなさい」
 エマは開いたはさみを手にして、きっとニーノを睨んだ。ニーノは素直にうなだれた。
「ごめん。お願いします」
 エマに治療を任せている間、グリーズリーは接着された本を開こうと無駄な努力を続けた。
「本当にぴったりくっついてるな、この本。何なんだ?」
「……痛い、痛、痛いよエマ」
 ニーノは消毒のアルコールをたっぷり含ませたコットンで傷を拭われ、思わず足をばたつかせた。エマが叱る。
「じっとしてなさい。おとなしくして」
「うう、はい……すみません」
 今のニーノはエマに頭が上がらない。エマは手際よく傷に血止めの紙薬を貼り、きつく布をあてがって圧迫した。
「どうしてちゃんと治療してもらわなかったの? みんないなくなってるのにあなた一人だけ居残りさせられてるなんて、ひどいじゃない。どうしてなの? みんなどこへ行ったの? あれからどうなったの?」
「家令のヨアンがミ・ロードを裏切った」
 ニーノは苦痛に顔をゆがめながら言った。エマの手が止まる。
「どうして」
「分からない。でも、僕らがヨアンに殺されかけたとき、カイルが来て助けてくれた」
「あの子は今どこにいるの」
「分からない。逃げたと思う」
 ニーノはエマを傷つけることがないよう、注意深く言葉を選んで付け加えた。カイルが本当は何をしたのかは言わないままだった。
 言外を察したエマは視線を落として唇を噛んだ。包帯を結ぶ指先がふるえている。
 会話が途切れたのをつなぎ合わせるようにグリーズリーは間に割って入った。
「で、シェリーちゃんとルロイはどうなった。捕まってるのか」
 ニーノは目尻を吊り上げてグリーズリーを睨んだ。
「殿下とお呼びしろ、獣人め」
「あれー? 格好つけて出てきたくせに一人だけ血だらけとかいうヘタレなんかに偉そうな顔して言われたくないなあ」
「うるさい! あの状態で避けられるわけないだろう。こっちは殿下をお守りするのに精一杯だったんだ」
「で、シェリーちゃん殿下は無事なのか」
「……」
「おい、無事なんだろうな、本当に」
 グリーズリーが畳み掛けるとニーノは苦々しい表情でうつむいた。
「返事しろ。シェリーちゃんをどこに連れて行った」
 グリーズリーはぐいと身を乗り出した。ニーノは自嘲気味に答えた。
「クレイドさまが都へお連れになった。裏切り者のヨアンが差配していた屋敷に信用できる者はいないとおっしゃってね。たぶん僕も含めてのことだろうね。残念だけど」
「都か。遠いな」
 グリーズリーは息をつき、舌打ちした。エマを振り返る。
「君はそいつを連れて自分の家に帰っててくれ。誰かが看病してやらないといけない。ここじゃ無理だ」
「えっ……でも」
 エマが口ごもる。グリーズリーはエマの背中を押した。
「大丈夫。君のママは俺が必ず家に送り届ける。ついでにルロイの馬鹿も助けてやらないといけないし」
「彼がどこにいるのか聞かなくてもいいのか」
 ニーノが尋ねる。グリーズリーは耳をくるりと回して本心からの笑顔を浮かべた。
「いいよ別に」
 エマが開くのに苦労していた本の表紙をぽんと叩く。よく響く軽い音がした。
「俺たちとあんたが、”生きて共にここにいる”こと自体が答えだ。きっとクレイドとかいう奴も同じ答えを出すことを期待したんだろうね。そうでもなければ、大怪我をしたあんたをわざわざ標《しるべ》代わりに残していくはずがない」
 ニーノはしばし黙っていた。やがて顔を上げる。
「だったら、これを持っていくと良い。”特赦”を願うマール大公妃からの手紙だ」
 グリーズリーはニーノから手紙を受け取った。手紙の文面とエマを見比べる。エマは胸の前で両手を結び合わせ、おびえたまなざしでグリーズリーに渡った手紙を見つめていた。
「エスター女伯爵、ボドウィッシュ侯爵夫人、ロズワルド男爵夫人、イヴリン子爵夫人、ダレンコート準伯爵夫人、マール大公妃ユヴァンジェリン・クレイドの庇護下にあるこの者の身の安全が確保され、そして、どんな罪にも問われることなく解放されるよう希望する」
 声に出して読み上げる。ニーノは口を差し挟まない。どうやら答え合わせは不要のようだった。
 グリーズリーは手紙をポケットにねじ込んだ。エマに微笑みかける。
「必ず君の弟を見つけ出して、これを渡すと約束しよう。俺をここまで連れてきてくれた君の勇気に対する、それがせめてもの礼だ」
 エマは手で顔を覆い、むせび泣き始めた。