クロイツェル

5 帝国図書館 最深部マサク・マヴディル

 いったい、誰と──
 喉にまで出かかった言葉を飲み込む。
「アルトーニ枢機卿へは報告したのか」
 ロゼルが誰と会っていようが、それをどうこう言う権利は自分にはない。内心の狼狽を押し殺して、話を続ける。
「セラヴィルにいた経緯は不問、何より処置を急ぐことを第一義とせよ、だ。事件の詳細を知っているのは、父と、俺と、該当教区の大主教トルツィオーネ座下、彼の腹心である参事官のネロ。あとはカートスに付き従っていた随行一名。カートスの跡継ぎにも真実は告げなかった」
 リヒトはむっとした。忌々しい男だ。まるで”気付いていない”。それどころか、まだ、ごまかそうとしている。
 わざとしらばっくれて聞き糾す。
「随行は数名、と言ったはずだぞ。数名、と聞いて一人、二人とは思うまい。残る”数名”は、どこに行った」
 ロゼルは探るような目つきでリヒトを見やった。リヒトの表情を勘違いしたのか、冷笑まじりに口元をゆがめる。
 親指を立て、喉を一文字に掻き切る素振りをする。
「行方不明だ」
 冷淡なその仕草は、祈りの作法とはまるで似ても似つかなかった。

「鼠が、一匹」
 黒衣をまとった青白い手が、ゆっくりとレバーを掴んだ。
 力を込め、引き下ろしてゆく。
 鉄臭い臭いが充満していた。鋼鉄と銅で作られた器械の塊が部屋全体を埋め尽くしている。振動が足元を揺らした。
 すさまじい金属の軋みを上げ、鋼鉄の歯車が回り始める。
 火花が振り散らされる。轟音がぶつかり合う。
 直角にかみ合わされた歯車どうしがねじれ、錆びた匂いを漂わせながら、無数の柄がついた巨大な心棒を回す。そのたびに、亡者の呻くような耳障りな残響が響き渡った。
「鼠が、二匹」
 ときおり、切り欠けに引っかかるのか、バネの弾ける音が空気を振動させる。
 遠くから、底ごもる重苦しい音が伝わった。石臼を回すような音だ。床が不気味に振動する。
 フラター・ネイアスと名乗っていた少年学道士は、淡い銀のぬめりをおびた唇をひそやかに吊り上げた。フードを取り払い、きつくゆわえて留めていた髪を解放する。ゆたかな銀髪がなだれ落ちた。
 ロレイア人特有の青白い肌が、闇にうっすらと光っている。ほっそりした指の先は、女の手のようでもあり、骨張った男の手のようでもあった。よく見れば、爪のひとつひとつに、宝石をちりばめた聖刻字の単子モナスが刻まれている。
「クロイツェル」
 男とも女ともつかぬ中性的な声がつめたく名を呼ばわる。
「”狂おしき乾きザリチェ”をうるおす、暗黒の聖杯。我らの帝国、残照の国、滅びゆく王国に君臨する”闇の王”リドウェルより分かたれし”罪の光”。全にして一、門にして鍵なるものよ。必ず、手に入れてみせる。”双頭の魔女”は、決して裏切りをゆるさない」
 なまめかしい含み笑いが喉を鳴らす。冷ややかな光が黒い瞳に舞い降りた。
「”奇蹟よ、汝の翼の蔭の下でスブ・ウムブラ・アラールム・トゥアールム・マグノリア”」
 謎めいた闇の結句とともに、フラター・ネイアスはレバーを引き下ろした。甲高い残響の余韻が響き渡った。

 リヒトは険しい視線をロゼルへと走らせた。おそらくは口封じのために殺されたのだろう。誰が殺したのかはあえて問わぬことにした。以前、”狼の免罪符”をロゼルに見せたとき、何ら不思議そうな顔をしなかったことが思い出された。
「……真実は土の下か。どうせ残る一人もろくな死に方はしないんだろう」
「”彼女”は別だ。そんなことしたら、母に何をされるか」
「まさか、御母堂が関係しているのか?」
 ふいにリヒトは、ロゼルが以前、口にしたことを思い出した。”母は、セラヴィルの修道院にいる”。
「……聞かなかったことにしろ」
 ロゼルは、おしゃべりが過ぎたことに気づいて肩をすくめた。
「真相はこうだ。フラター・カートスはバラバラにされたんじゃない。娼婦の身体を、”移植された”。娼婦は首と乳房と性器を切り取られ、子宮を取り出されて、残りは行方不明。一方、フラター・カートスの死体は、腹を裂かれ、娼婦の性器と子宮を腹に埋め込まれた状態で見つかった。死体には男女二人分の首と、娼婦から切り取られた乳房が縫いつけられていたらしい。そして、周辺は一面、血の海。賊の足跡はない。ロレイアの事件とまったく同じ、というわけだ」
 リヒトは胃が裏返りそうな吐き気をこらえた。切り刻まれた老人の身体に血まみれの女の内臓と乳房を、まるで、人形か何かのように……? 想像するだけで吐き気がした。
「これで分かっただろう? ロレイアの事件と、フラター・カートスの事件がもし同一犯、同一組織による犯行によるものだとしたら、貴様が唯一、二つの事件を結びつける”鍵”だということになる」
「……”両性具有”か」
 アルトーニ枢機卿は、フラター・カートスの死体損壊を、かつてのロレイア及び両性具有者への悪魔的賛美行為と見なしたに違いなかった。すなわち、ロレイア王族のたった一人の生き残りであり、現在確認できる唯一の両性具有者であるリヒトを、教団が引き起こす事件あるいはその企みを阻止するための鍵と見なしている、と。
 リヒトは視線を記録簿へと落とした。
「だが、……たとえもし十四年前の事件が教団によるものだったとしても」
 疲れ果てたように首を振る。
「本当に、何の記憶もないんだ」
「リヒト、貴様」
 ロゼルは荒波に翻弄される小舟のような表情でリヒトを見やった。
「もしかして本当は、”何かを見た”んじゃないのか」
 リヒトは目をそらした。唇を噛む。
 誰が王女を拉致したのか。なぜ乳母をバラバラにして殺したのか。
 その目的はいったい、何だったのか──
 事件があったらしき日以前のことは、何一つ思い出せない。
 ある日突然、今の自分につながる記憶が始まっている。そのほとんどは、おぞましい狂気だった。両親に愛された記憶もない。生きていることが絶望でしかない日々。血の臭い。うごめく陰惨な死の影。地の底から響き渡る絶叫。
 ロレイアが崩壊していったのは、間違いなく王女がさらわれたこの日からだ。この事件の二年後、悪政により崩壊したロレイアは帝国の属国となった。リドウェルはわずか十二歳で傀儡の王となり、やがて、死んだ。そう聞かされた。いつ、どこで、どのように死んだのかすら定かではなかった。すべては、その日から始まったのだ。永遠の別離を告げられたあの日に。
「……帝国軍がロレイアへ攻め込んできた十二年前、王宮内で生きていたのは、父と、兄と、私だけだった。すぐに見つかって、三人とも処刑台に引きずってゆかれたよ」
 ふっ、と、凄惨な記憶がよみがえった。
 両手を後ろに縛られ、亡国の王子として断頭台へと連行されたときの記憶だ。
 階段を上りきると、断頭台は、つい今し方こぼされたばかりとおぼしき生ぬるさの残る鮮血の色にまみれていた。
 帝国軍の兵士が、台から何か重たそうなものを二人がかりで引きずって下ろしていた。そのたびに新たな血が飛び散り、死刑台の階段縁からもとろとろと流れ、したたり落ちる。立ちつくす首切り役人のひっさげた剣からも、同じ音が──水滴の跳ねるような、気が狂いそうな音が聞こえていた。
 いったい、何を斬ったのか。
 ぽたり。
 ぽたり。
 単調な音が繰り返される。
 死ぬのは怖くなかった。
 後ろから突き飛ばされ、血の臭いのする台に首を据え付けられた。手に枷を嵌められ、身動きできないよう、身体を大人に押さえつけられる。
(目隠しが必要かね、リヒト王子)
 背後から、帝国軍の指揮官が近づいてくる。
 処刑台に手足を縛り付けられているせいで、近づいてきた指揮官の顔も、背後の様子も、うかがい知ることができなかった。
 そのとき──見えたものがあった。
「……斬首台の下に」
 リヒトはつぶやいた。
「落ちていた父の首が見えたよ。笑ってた。ごろりと転がって、上を向いて、洞穴みたいな眼だけで私を見たんだ──」
「もういい。思い出す必要はない。忘れろ」
 頭をぐいと胸に引き寄せられる。ロゼルは片腕でリヒトを抱擁した。
「……ああ。幸い、まだ子供だから殺すには及ばないと言って、帝国軍の指揮官が止めてくれたんだ。私も、兄も、それで生き長らえた」
 どこかに触れていないと、指先が震えだしそうで、落ち着かなかった。
 そうやって押さえつけられていると、記憶の中から這いずり出てくる凄惨な光景が次第に薄らいでゆく気がした。ゆっくりと息をつく。ロゼルの匂いがした。血と恐怖の汚泥に凝り固まって動かなくなった冷たい手足が、少しずつもみほぐされてゆく。
 おぼろげにロゼルの体温のことを思った。荒々しく、乱暴に押しつけられた唇。身体の奥にしぶいた欲望の熱さ。あのときは途方もない痛みだけが次々に襲ってきて、快楽どころではなかった。我知らず、身体が熱くなった。あの痛みがもし快楽に変わったら、と思うと、居ても立ってもいられなくなる。
 胸の奥で何かが蠢いていた。思い出さないように、厳重に蓋をし、鍵を掛け、封印の鎖を巻き付けた宝物箱。宝物箱は生きているかのようにがたがたと不穏に揺れ動いている。瀕死の獣めいた哀れげな呻き声を上げ、闇雲に蓋を開けさせようとたくらんでいる。憐憫を誘い、だまし、叶わぬと知るや憎悪にまみれた呪いをかけ、唾を吐き、口汚くののしる。もし禁忌を破って箱を開けたらどうなるのだろう。中に、何が潜んでいるのか。リヒトはとりとめもなく夢想した。答えは開けるまでもなく分かっていた。
 おぞましい真実。
「思い出せないのなら、それはそれでいい。だが、ひとつだけ確かめたいことがある」
 ほのかな逆光を受けたロゼルの顔は、暗がりに紛れてはっきりとは見えない。
「何だ」
 はりつめた思いを知られぬよう、そっけなく言い放つ。
 リヒトは夜の海のようなロゼルの瞳を見つめた。ランプの明かりが、ひっそりと揺れ動いている。
「なぜ、父が貴様の身体のことを知っていたのか、ということだ」
 氷水に浸されたような緊張が走る。握りしめた手に、ぐっと力が入った。掌が、じっとりと汗ばむ。
「フラター・カートスの事件で、俺は、まず一番にロレイアの事件、としての王女拉致事件を連想した。だから貴様が呼ばれたのだ、と思った。だが、この記録簿に、ロレイアの王子が両性具有であることは一言も触れられていない。父が事件の記録まで抹消させるよう命令したのは、ロレイアそのものを連想したからじゃなかった。”両性具有”である”貴様”自身を思い浮かべたからだ。だからこそ、”教団”が直接関わってくる前に、貴様を手中に収めようとして、わざわざ呼び寄せた。今となっては別段不思議でも何でもない」
 まるで、傷ついた子供のようだった。眼の奥に、思い詰めた光が揺らいでいた。
「十年以上も同期でいたこの俺が知らなかったのに、初めて会ったはずの父が、なぜ、貴様が両性具有であることを知っている?」
 リヒトはうすく笑った。ロゼルの手に触れた。柔らかく指をからめる。
「私が猊下の愛人だったとでも?」
 身体の奥に、したたかな熱がぶりかえす。腰の奥が、邪な期待にぞくりとうずいた。
「そんなわけがあるか。その……女としては処女だったくせに」
 いらだたしげにロゼルがかがみ込んで来た。ロザリンドの残り香がかすかに鼻腔をくすぐった。汗に混じったロゼルの香り。
「気になると言っているだけだ。別に、その、貴様が、過去に誰と寝ていようと俺は全然気になどして」
 言いかけて、ロゼルは苛立ったふうに眼を眇めた。
「鎌を掛けるな。俺をからかうのは良いが、自分を卑下する嘘だけは止せ」
 故意にゆがめられた笑いが、ロゼルの表情を巧妙に覆い隠す。
「別に」
 リヒトは机にもたれた。
「そんなつもりはない。猊下には独自の情報網があるんだろう。もともと軍人だと言ったな。ならば、ロレイア戦役にも何らかの形で関わっていた可能性が高い。ロレイア人の特徴を前もって聞き知っていたとしたらどうだ」
「何だよ。分かってるなら分かってると最初から素直にそう言えよ。いちいち口答えせずに」
「何で私がお前にいちいち従わなきゃならない?」
「従うとか従わないとかの問題じゃない。まどろっこしいことはせず、正直に言うべき事は言えって言ってるんだ」
 ロゼルは眉を吊り上げた。眼の奥の憎々しい笑みが、挑むような色あいに変わる。リヒトは苛立ちを込めてロゼルを見上げた。
 わずかに背筋をそらし、身体の線をわざと扇情的に晒す。
「そんなに無理矢理に白状させたければ、また、身体に直接聞けばいいだろう。さっきみたいに。二人がかりで強引に私を辱めるような真似をして」
「それについては謝罪したはずだ」
 ロゼルは苛立ちの表情を浮かべて身を退こうとした。
「いちいち俺を怒らせようとするな。貴様と喧嘩をしたいわけじゃない」
 リヒトは逃げる耳朶をきつくつねった。唇を寄せる。
「いいや、もっと真摯に謝ってもらわないと気が済まない」
「この野郎、ふざけやがって。そんな場合じゃないってさんざん自分で言っていたくせに」
「よく言う。お前が悪いんだろう。何度も言ったはずだ。枢機卿だろうが誰だろうが、お前以外の男に抱かれたことはないし、抱かれるつもりもないって。なのに、お前が、わざわざ猊下の話を持ち出して疑ったりするから!」
「俺のせいか?」
「お前のせいだ」
「そうなのか?」
 ロゼルは一瞬、きょとんとし、そのあと笑い出した。
「何だ、貴様、すねたのか?」
「……別に!」
「拗ねたんだ?」
 ロゼルはにやにやとしてリヒトに近づいた。
「謝って欲しいのか?」
「そんなことは言ってない……!」
「本当にそうか? じゃ、もう詫びは入れなくていいんだな?」
「んっ……!」
 腰を抱いて引き寄せられる。
「……ぅ、んっ……」
 意地悪な唇が耳朶を噛む。舌先で転がされる。
「そういうひねりのない誘い方をして、後で後悔するなよ」
「ぁ……女らしい誘い方を知ってるなら……とっくに実践してる……」
「よく言う。さんざん、任務で女に化けていたから男を落とすのぐらいわけないだのなんだのと偉そうに自慢してたくせに」
 そのとき、がたり、と。
 どこかで音がした。音は上から聞こえてくる。
「鼠か?」
 がたがたと揺れ動く音が強くなってくる。リヒトは覆い被さってきたロゼルの下半身へ手を這わせた状態で、息を潜めた。
「随分大きなねずみだな」

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