クロイツェル2 石造りの奇蹟と薔薇のソロール

1 憎しみを導く者

「私は、偉大なるモルフォス主教座下のもと、日夜修練に励み、敬虔に祈りを捧げて……」
「決定は覆されない」
「しかし……!」
 羞恥心を振り絞り、死んだモルフォスの甥、ギウロスは抗議した。抗議する他に戻る術はない。声が消え入らんばかりに小さくなる。彼は今、断崖絶壁の縁に立たされていた。ここで引いては後がない。
 伯父の死は、ギウロスが何一つ持っていないことを思い知らせるだけだった。彼に与えられていたすべての権力は、伯父であるモルフォス主教の威光に過ぎなかった。神学校で成績が悪くとも、不品行で注意を受けることがあっても、モルフォス主教の名を出しさえすれば教父すら黙り込んだ。何と小さな世界であったことだろう。
 主教の甥であることをかさに着るばかりで、真実を見抜く目をまるで育ててこなかったがゆえに彼は無知であり続け、愚かであり続けた。伯父が死んでもまだ、愚かであることを改めなかった。それどころか、本心では、その死を喝采し、嘉《よ》みさえしたのだ。伯父が死ねば、自動的にその主教の座を世襲できると思い込んで。
 だというのに。
 すべてが壊れた。無に帰した。特権も。享受した権力も。輝かしい未来も。
 それに比べて、ロゼル・デ・アルトーニは。
 すべてを壊しておきながら、のうのうと逃げおおせた。思い出すたび、火が噴き出すような敵愾心がこみ上げる。何もかもあの男のせいだ。嫉ましい。どこの馬の骨ともしれぬ軍人上がりの分際で、俺を袖にした──!
 あの陰気なロレイア人を引き連れていることも許し難かった。遠目から見れば女のような顔をしていたくせに、目を合わせれば刃のような光で威圧する。奴隷同然の属国出身のくせに、ロゼルの傍にはべっている。何もかもが気にくわない。
 本来なら、アルトーニ家のロゼルと釣り合うのは同じく高貴な血筋である自分であるはずだった。あのロレイア人を裸にして上下からかわいがったらさぞやえげつない声で泣くだろう。妄想を現実にするために、ギウロスは一度ならず二度ほどもロレイア人に声を掛けた。俺たちの輪に入らないか──輪というのはもちろん、押さえつけて取り巻き全員で辱めいたぶり回すことだ──奴隷にふさわしい待遇を思い知らせるべく入会を勧めたというのに。
 ロレイア人は、まるで肥え太った猫が、塀の下を歩く野犬を見下ろすような一瞥をくれ、無言で立ち去った。他人の気持ちなど思い知ることもないギウロスには、その眼の意味が分からなかった。
 だが、今、彼を見る者は皆、あの日のロレイア人と同じ眼をしている。
 今のギウロスは、行く当てもなく、明日着る服にも、一杯の水割りワインにもたちまち事欠く身だった。主を亡くした主教館は、明らかに軍人としか思えない、眼つきの鋭い一団によって収奪されていた。彼がどれほど訴えても無関心以外の感情は持ってもらえなかった。誰が差し向けた管財人かは一目瞭然だ。アルトーニ家の紋章をつけていたからである。
 彼には何もなかった。何をどうすればいいのかも自分の頭で考えることはできなかった。懇願とも恫喝ともとれる無様な質問をすると、ようやく答えが得られた。
「修道院へ行きなさい。一介の修道士として」
 冷酷な言葉とともにギウロスは自らの屋敷と信じ込んでいた門から突き出された。目の前で重厚な扉が閉じられてゆく。閉め出された、という現実を前にしても、ギウロスはまだ受け入れられずにいた。
「私は、ギウロスだぞ。モルフォス主教の甥の」
 その名に何の意味があるだろうか。
 ギウロスは扉を拳で叩いた。返事はなかった。拳が破れて血が流れるまで叩いても、変わらなかった。やがてギウロスは疲れて扉を殴るのをやめた。歯を食いしばり、屈辱が身体の中を蠢き回る感覚に身をゆだねる。目の前がどす黒くなるような怒りがこみあげた。
 辱めを受けた──
 ないまぜになったどろどろの塊が、煮えたぎって溶け落ちながら底に溜まっている。
 ギウロスは生まれて初めて、腹の底で沸騰する熱の在処を知った。
 ふいに、理解した。自分は何も持っていない。他に何も持たぬがゆえに際限なく膨れあがる憎しみのほかには、何も。
 笑いがこみ上げる。憎悪の空はおぞましいほど広かった。広大な負の空のすべてが、自分のものとなるのを感じた。魂が震える。彼はさまざまなものを思い描いた。あのどす黒い空へ果てしなく伸び上がる復讐の塔を建てよう。漆黒の豪雨となって降り注ぐ毒を淋漓と降り注がせよう。大地の果てまで復讐の鐘を響き渡らせてやろう。死の鐘を。
 ふと、うずくまるギウロスの目の前に、暗い影がさしかかった。甘い香りがふわりと鼻をくすぐる。死乙女ロザリンドの香り──ロゼルの匂いだ。
「ロゼル」
 来てくれたのか。
 ギウロスは愛おしさとも屈辱とも付かぬ感情に突き動かされ、涙に汚れた顔を上げた。
 だが、目の前に佇んでいたのは白い法衣姿のロゼルではなかった。ぬか喜びさせられたことに、さらなる憎しみが取って代わる。
「貴様は……」
 青い衣の修道士が佇んでいた。金色に光る切れ長の瞳がちらちらと瞬いている。襟巻きを引き下げると、青白い肌色とともに妖艶な銀の唇が見えた。
 口の端が、ゆるりと吊り上がる。来い、と誘っているようにも見えた。
 修道士は何も言わず、身をひるがえす。影は音もなく建物の向こうに吸い込まれて消えた。
「待て。話がある」
 ギウロスは魅入られた声をあげ──軋む膝を押して立ち上がった。

 二人分の体重を支えるには脆弱すぎる鎖だった。周囲は暗黒に包まれている。ぎぃ、ぎぃ、と、今にも引きちぎれそうな音を立てて身体が揺れた。
「思った通りだったな」
 汚物を流す下水道へと通じる縦坑には、鉄の梯子がつけられていた。吐き気を催す腐敗臭がたちこめている。ロゼルは鼻をゆがめた。手を滑らせないよう、用心して降りてゆく。
「ああ」
 リヒトは苦々しくうなずいた。
「……飾りとして並べられていた偽物の中に、”本物の拷問用”が一つだけ紛れ込んでいた──つまり、串刺しにした死体と血をわざわざ運び出して始末せずにすむよう、人知れず廃棄するための穴が必ず汚水槽につながっているはずだ、とな。ロゼル、そこの下二つほど錆びてもろくなっている。気をつけろ」
「分かった。助かる」
「しかし、なぜ、帝国図書館に”拷問具”があるんだろうな」
「なぜもクソもあるか。言い伝え通りだ」
 ロゼルは闇の中で眼を細めた。
「あの図書館が、遙かな過去から”知の牢獄”だったからだ」
「……伝説の錬金術師か」
「あれはただの作り話だ。だが、時に真実は故意に虚構をまとって自らをまやかし、存在を秘すことがある。歴史書ですらそうだ。必ずしも、正しいことだけが残されているわけではない」
万有知の書パンソフィアも然り、だな」
 リヒトが冷ややかに付け足すと、ロゼルは大げさに身を震わせた。闇に総毛立つ笑い声が響く。
「昨日までの俺なら、今の一言で貴様を口がきけなくなるまでぶん殴っただろうな。二度と余計なことを喋らぬように」
「見てはならぬ書を見た者を、人知れず処分するための部屋だった、というわけか」
「だから何度も言っているだろ、”言って良いことと悪いことがある”って。本も同じだ。存在しても良い書と、そうじゃない書がある」
 縦坑を降りきると、下水道に出た。石造りの広い隧道がうねうねと曲がりくねりながら続いている。汚物に混じり、明らかに人骨とおぼしき古い骨のカケラがいくつもゴミ避けの柵に引っかかっていた。
 人一人、普通に歩けるほどの側道が作りつけられている。
 黄昏の光が差し込んで、黒く汚れた煉瓦の壁を照らし出した。巨大な足を持った昆虫が大量に貼り付いて、うじゃうじゃと蠢いている。怖気を震う光景だった。背筋に不快な寒気が忍び寄る。
「さて、どうやって外に出たものか……」
「静かにしろ」
 ロゼルがリヒトの肘を掴んだ。指を立てて唇に押し当てる。人の声が反響していた。靴音が五月雨のように響く。
「もう追いかけてきやがった」
 ロゼルがにやりと笑った。息を潜め、敵の気配を探りながら前へ進む。
 突然、前方の角を曲がった向こう側から明かりがさしかかった。
「畜生っ、放せ、何だってんだよ! 俺が何したってん……!」
 声はまだ幼い少年のものだった。リヒトは息を殺し、後をつけた。首を伸ばして、角から向こう側を窺い見る。
 前方に他の下水道と合流する分岐が見えた。水の流れる音が強まる。
 騒然と水しぶきの散る音が聞こえ、兵士たちの怒鳴り声がそれに重なった。帽子を目深にかぶり、よごれた襟巻きを巻いた少年の顔がちらりと見えた。追われている。どこかで見た顔だと思った──だがどこで?
 兵士が少年につかみかかる。少年は悲鳴を上げて飛び退った。山猫のように身をよじる。うまく逃れられたのか、と手に汗握ったのもつかの間、すぐさま何本もの手が伸びて少年を引きずり倒した。鈍い殴打音が何度も響く。そのたびに少年の悲鳴がくぐもり、やがて小さくなった。
「番所に連れて行け。あの軍馬をどこで手に入れたのか吐かせるんだ」
 揺れ動く明かりが、不穏な影を映し出している。槍を携えた異形の巨人がのし歩いているようにも見えた。軍靴の音が遠ざかる。武具の鳴る金属音が小さくなった。
「聞いたか、今の」
 ロゼルがひそひそと耳打ちした。
「軍馬って、まさか俺の馬のことじゃないだろうな?」
「普通の聖職者は軍馬にも狩猟馬にも乗らん」
「じゃあやっぱり俺のじゃないか! 畜生、手に入れたってどういうことだ? あのガキが人の馬を勝手にどこかへ持って行ったってことか?」
「盗まれたとも言うな」
「あああ! 何だと!? もっと余計なことをしやがって」
 ロゼルは今にも暴れ出しそうな勢いで声を荒らげる。声が反響した。
「静かにしろ」
 リヒトはあわててロゼルの口を手で塞いだ。
「でかい声を出すな。どっちにしろ馬では都から出られない。処分する手間が省けてちょうど良かったじゃないか」
「それはそうだが。じゃあ、どうする気だ?」
 ロゼルが畳み掛ける。リヒトは思案顔で腕を組んだ。
「そうだな……やるか?」
 顔を上げ、挑みかかる笑みを走らせる。ロゼルはためいきをついた。やれやれと頭を掻く。
「ああ? 一体、何をする気だ?」
 気の進まない面持ちながらも、うんざりと拳の骨を鳴らしている。
「分かってるなら聞くな」
 荒野を這いずる者に仕事を選ぶ権利はない。リヒトは冷酷に唇をゆがめて笑った。

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