クロイツェル2 石造りの奇蹟と薔薇のソロール

1 憎しみを導く者

「さてと、この後どうするかだが」
 リヒトはちらりとラルフを見やった。
「我々のことを知っているこの少年を、このまま放置しておくわけにはゆかないぞ」
 少々、残酷な笑みを混じらせて問いかける。言外の意味を悟ったラルフは真っ青になった。
「お、俺なんか食っても全然旨くねえよ……!」
「食えるか! お前を食うぐらいだったらそのへんの便所虫を食ったほうがましだ」
 ロゼルは嫌悪の表情で吐き捨てた。リヒトはロゼルの口元を見つめた。取るに足らない質問を投げかけてみる。
「では、何か他に役に立つ使い道があるとでも?」
「お、俺っ、得意です! どこにでも忍び込めます! とっ、時計職人の弟子ですから、指先が超器用です! 何でも作れます! どんな鍵も開けられます!」
「そんな盗人まがいの技能が何の役に立つというんだ」
「ええっ!」
 あわてふためいてどんどん墓穴を掘り始めたラルフに、ロゼルは冷ややかな一瞥をくれた。それから意味ありげにリヒトと目配せする。
「俺は盗人なんかじゃありませんっ! 神様に誓います! 生まれてこの方、盗みなんかしたことは一回も……!」
「俺の馬を盗んだだろう」
「そっそれは!」
「嘘つきの才能もある、ということだな」
「放置しておくと余計に危険だな」
「ひぃぃっ!?」
 ラルフは両方から責められ、ハンチングをかぶった頭を抱えて縮こまった。
「お許しを! もう、二度と、嘘はつかねえ。悪いこともやんねえ!」
「信用できるわけないだろう」
「神に誓います!」
「誓っても無駄だ。俺は神など信じない」
 ロゼルは冷たく凄んだ。
「この世で信じられるのは自分自身と、どんなときでも行動を共にしてくれる友だけだ。お前のような子供がいくら神に帰依を望んだところで誰も信用しない。口先だけで神に誓う者は誓ったときと誓わなかったときの不利益とを天秤に掛けているだけのことだ」
「本当だってば……」
「本当か?」
 リヒトはうすく笑った。
「面倒だ」
 ナイフを抜き、ラルフの目の前でちらちらと閃かせる。
「こんな子供、さっさと片づけて都を出よう。時間の無駄だ」
「そうだな」
「……わあああっっどうかそれだけはお許しくださ……あ……っ?!」
 ラルフは哀れがましい泣き声を上げ、リヒトにすがりついた。手を揉み合わせ、必死に懇願する。
「ん?」
 ふと、神妙な表情になる。ラルフはリヒトの胸を指で押した。
「んん?」
 押すだけでは飽きたらず、不思議そうに首をかしげ、揉む。
「何だこりゃ?」
 リヒトは冷ややかにラルフを見下ろした。
「私の胸がどうかしたか?」
「……あ、すみませ……柔らかかったから、つい」
 ラルフは自身が口走った言葉の意味に気付いてぎくりとした。みるみる顔が白くなってゆく。
「あ、あ、いえ、何でもありません! その……全然、触り心地とかは全然、俺、その、分かりませんから、あ、あ、あのっ、ご心配なくっ……」
「そうか」
 ロゼルが前へと進み出た。凄むように拳を鳴らしながら。
「ついでに、俺の拳の触り心地も教えてやろう」
 ラルフは絶句した。聖職者の顔をした悪魔が目の前に立ちふさがっている。ロゼルは裂けるような笑みを浮かべた。
「ひいっ……! ま、ま、まさか、とんでもない……」
「死ぬ前に五秒くれてやる。心して祈れ」
 時計台が動き出した。歯車がにわかに生き生きと回り始める。ピエロのからくり人形が踊り出した。ぷう、と笛を吹く。
 かちり、と秒針が一番上を指した。地響きが足元を揺らした。鐘が前後に揺れ始める。
 晩刻を告げる鐘の音が朗々と鳴り渡った。美しいメロディが流れ出す。
「歯を食いしばれ!」
「ふんぎゃぁぁぁぁぁ……っ!」
 哀れラルフの悲鳴は鐘の音に飲み込まれた。

 薄暗がりの道に轍の跡が続いていた。黒塗りの四輪馬車が疾駆している。道の左右は闇に沈み、ひたすらに暗い。車輪に巻き込んだ泥を蹴立て、ぬかるみの黒い飛沫を跳ね上げ、後方から迫る恐怖を振り捨てるようにして走る。誰に追われているわけでもないのに、客車の窓のカーテンは堅く閉ざされたままだ。
 突然、閃光が前方で跳ね上がった。馬車を引いていた馬は火薬の臭いと轟音に怯え、激しくいなないた。竿立ちになってつんのめり、ぶつかり合う。馬車は制御を失って転倒した。
 くびきがへし折れる。遠心力で振り払われた客車は、道をはずれ、森へ転がり落ちた。御者の身体が放り出された。悲鳴は一瞬だった。
 激しい事故をあらわすかのように、裏返って大破した馬車の車輪が空転している。客車の中からは呻き声ひとつしない。たとえ中に誰が乗っていようと、足を折り、血まみれの腹を空に晒してもがく馬以上に無傷でいられるはずがなかった。
 闇から青ざめた顔のギウロスが現れ、馬車に近づいた。虫の息となった御者が地面にうつぶせ、もがいている。ギウロスは青ざめた眼で死にかけの男を見下ろした。
「殺しなさい」
 冷たい女の声が命じた。闇に金の瞳が光っている。
 ギウロスは短剣を手にした。唇が紫色になっている。死にかけの御者と同じ色だった。
「やめてくれ……頼む……」
 掠れ声が死にかけの唇から漏れる。ギウロスは生にすがりつく執念への恐怖に悲鳴を上げ、御者の口に剣を突き立てて黙らせた。亡者となって起きあがらないようめった刺しにして殺す。相手が死んだかどうかも見分けられなかった。短剣を投げ捨てる。血みどろだった。
 馬車に近づき、枝に貫かれて吹き飛んだ扉を引きちぎる。中には無惨な死体があった。修道士の衣をまとっている。血の臭いがした。
 暗闇の中、ハイエナのように息を喘がせる。ギウロスは死体を馬車から引きずり下ろした。重い身体が地面へ落ちる。血の飛び散る音がした。
「本当に、こんなことをして……大丈夫なのか」
「お前が殺したのよ」
 事も無げに笑われる。ギウロスは唇を噛んだ。返り血の味がした。吐きそうだった。
 明かりがゆらめいた。さっと光が横切る。
「さっさと死体を漁って」
「分かった」
 口ごもるギウロスを冷ややかな声が罵倒した。ギウロスは蒼白な顔を引きつらせた。血にぬるついた手が滑る。ぞっとする感触が背骨を伝って這い回った。不快な冷や汗が噴き出す。ギウロスは総毛立つ薄ら寒さの中、汗みずくの顔を泣きゆがめて、懐を探った。
「あったぞ、ヴァルガ」
「馴れ馴れしく呼ばないで」
 爪を黒く塗ったきゃしゃな手が、血まみれの手紙をひったくる。
「メゾネアからの手紙。こんなところにまで手を回すなんて、よほど焦っているのね」
 暗黒の光がまたたく。青い衣の色が照らし出された。くっくっと、喉を震わせて笑う。悪意したたる声だった。
 ざわざわと森が揺れる。ぽたり、ぽたり。血が落ちる。水琴窟のような音が、闇に吸い込まれる。
「無駄なあがき。望みは決して叶わない。だって、そこにもう、”奇蹟”は存在しないのだから」
 遠くから死肉を漁る獣の遠吠えが聞こえた。仲間同士呼び合って、呼応するかのようだった。

次のページ▶

もくじTOP
<前のページ