ロゼルはリヒトに半分身体を預けたまま、動かなくなった。揺すってみる。反応なし。完全に目を開けたまま寝ている。
「ロゼル?」
かくん、と首が折れた。後ろにのけぞる。
「いきなり寝るなよ、こんなところで。風邪を引くぞ」
リヒトはうろたえた。まさかうたたね状態のロゼルを放置して宿を探しに行くわけにもいかない。ともすればずり下がってくる重い身体を支え、何度も揺すぶる。
「しっかりしろ。寄りかかってくるんじゃない」
「うむ、起きた」
「全然起きてないじゃないか! 寝るな!」
ロゼルの身体がぐらりと傾いた。
「大丈夫だ、まだ寝てないから」
「寝る気まんまんじゃないか!」
押し返そうとするも間に合わない。ロゼルの頭がずるずる下がってくる。
「分かってる安心しろここでは寝ない……」
ロゼルは半分リヒトの肩に頭をもたせかけ、膝に手を置いた。揉むような、滑り込ませるような仕草で、そろりと内股を撫でる。
「こっちのほうが寝心地良さそうだな。寝る」
「ええええちょっと待っ……!」
ごろりと横になる。ロゼルはリヒトの膝を枕にして、眼を閉じた。
「どこで寝てるんだーーーっ!」
「貴様の膝」
「しれっと言うな。誰が寝て良いと言った!」
ロゼルは、寝入りばなのとろんと間延びした表情を口の端に浮かべた。猫みたいに鼻を鳴らす。
「だって貴様のココ、最高にいい寝心地だし……」
「変な言い方するなーーっ!」
リヒトは薄暗がりの中で顔を真っ赤にした。
「もう、くそっ……知るか! 五分だけだからな!」
つっけんどんに吐き捨てる。
「いいのか?」
嬉しそうに笑いかけられる。そんな顔をされたら抗えるわけもない。結局、にっちもさっちもいかなくなった。押し切られる。
「うるさい! いいな、五分だけだぞ。五分たったらすぐ起こすからな。分かったな!?」
ロゼルは目も開けず、にんまりと笑った。妙に意識のはっきりとした声で付け足す。
「ロゼル姫は百年の眠りにつきました……」
「誰が姫だ勝手に話を作るな気持ち悪い」
「そして、王子様のキスで目覚める日を待ちわびるのでした……」
「誰がするかあっ!」
ロゼルは聞いていなかった。すぐさま高いびきで眠り始める。
声を荒げようとして、リヒトはロゼルの寝顔を見下ろした。くしゃくしゃに伸びた金色の前髪が、目元にまで覆い被さっている。
「まったく」
苦笑いしてため息をつく。
リヒトはあきらめてロゼルの髪を撫でた。寝返りを打とうとしたロゼルの手が、ベンチからだらりと垂れ下がる。
完全に眠りこけているらしい。
「仕方ない奴だ」
いきなり眠気に襲われるとは。道中、よほど眠れなかったのだろうか? 他の商人たちの眼もあることはあったが、そんなに眠れないほど居心地のわるい宿でもなかったはずだが……
手がかりとなる点を結び合わせ、思いを巡らせてゆく。
睡眠不足のロゼル。夜な夜な増えてゆく謎の奇病。先ほどローロが見せた、ロゼルへの怯えた視線。
謎を解く手がかりは、連発する奇怪な現象だ。いったい、何が起きているのだろう。
一人、また一人と、眼や頬にまるで殴られたような青あざが広がって──
ベンチからはみ出したロゼルの手を身体の上へ戻してやったついでに、ふとロゼルの顔を見つめる。
帝国図書館の最深部で聞いたロゼルの言葉が、思い出された。
(とある高貴な……その、女性と一緒だった。その人を巻き込んではならぬと……)
「やむにやまれぬ事情、か」
──会うことを表沙汰に出来ない関係。
その女性とは、どこの、どんな女なのか。
胸の奥が、ちくりと痛んだ。無意識に胸を押さえ、息をつく。
「女々しいな」
リヒトは鼻先で忍び笑った。自分で自分を笑っておきながら、ささくれ立つような胸の痛みがなぜか消えない。
「……女じゃあるまいし」
女にすら、なれないくせに。
寝乱れたロゼルの前髪を指先でかき分ける。油断しきった寝顔が現れた。
ロゼルは眼を閉じ、気持ちよさそうに寝息を立てている。幸せそうな寝顔だ。
たとえセラヴィルに女を待たせているとしても。たとえ、性欲を発散させ合うだけの関係であったとしても。今の、この瞬間だけは、間違いなくロゼルのすべてが自分のものだ。
寝言をむにゃむにゃとつぶやく唇を見つめる。
ロゼル。
声に出さず、名を呼ぶ。膝枕で眠る友の無防備さが愛おしい。
ロゼルは気付かずに眠り呆けている。んごー、と、いびきをかく声が聞こえた。完全に熟睡している。鼻をつまんでも起きそうにない。安心しきった様が恋しく、切なく、そして苦しい。
「油断しすぎだろう。キスするぞ? いいのか?」
そっと指先をロゼルの頬に滑らせる。
「いいぞ」
ロゼルはごろりと寝返りを打った。身体を丸め、思い切り顔を腹にうずめる。まさか今のことばを聞かれたのか。思わず、どきりとした。頬が赤くなる。
「……お、おい、ロゼル……ばか……どこに顔を……」
リヒトは吹きかかる吐息の感覚にどぎまぎした。焦って、何とか元に押し戻そうとする。触れた手が熱い。
「やめろって……ちょっ……何で抱きついてるんだ……枕じゃないぞ私は!」
「えへへ良いではないか良いではないかもっと……近う寄れ……えへへむにゅう……」
腰ごとますます強く抱きすくめられる。完全に抱き枕状態だ。
「……は、離れろ、何して……もう……!」
なおいっそうリヒトの下腹部に顔をうずめてくる。身動きもできない。リヒトはおろおろとまるで初心な生娘のようにひっそり顔を赤らめた。
「はにゃ……」
ロゼルが他愛ないあくびをもらす。落ち着いたのか。寝息が静かになる。
「な、何だ、寝言か……」
極度の緊張が解ける。疲れが、どっとため息になって噴き出した。
「びっくりさせるな……ばか」
押し殺した息をつく。
そのまま寝かせてやりたいのはやまやまだが、こんなところで寝たら間違いなく風邪を引く。リヒトはロゼルの肩を揺すった。
「そろそろ起きろ。風邪引くぞ」
起こさなければならない。
でも、ロゼルを独占できるのは今だけだ。気後れして、肩にかけた手を浮かす。
目を覚ませばロゼルは、きっと、セラヴィルにいる女のことを思い出す。
少しでも長くこうしていたい。起こしたくない。触れていたい。だが、いつかは起こさなければならない。リヒトはたまらなくなって、さっさとロゼルを揺すった。
「起きろ!」
起きない。
「起きろ、ロゼル」
もう一度、今度は身をかがめ、髪に触れながら、わざと小さく耳元でつぶやく。
す、と息を吸い込む。聞こえているだろうか。
ロゼルは呑気にいびきをかいている。やはり起きない。
前後不覚にうずめられた頭の重みが心地よかった。
ロゼルは、今でこそ放逐された身とはいえ、もともと帝国有数の軍人家系に生まれ、枢機卿にまで出世した父を持つ生粋の貴族だ。
一方の自分は、滅びた国、名もなき一地方となったロレイア出身の軍属でしかない。市民権を持たない身ゆえ、正規軍に所属することも許されず、傭兵と属国人ばかりで構成される特務機関暗殺部隊の一員として、汚れ仕事に手を染め続けてきた──殺し屋という名の奴隷。
「ロゼル……」
ロゼルはまるで目を覚ます様子もない。
触れるか、触れないかの、ぎりぎりの距離まで唇を寄せる。
吐息が感じられた。
触れたい。闇雲にそう思った。
愛おしさとためらいが拮抗する。少し身じろぎすれば簡単に触れられる近さでありながら、そのわずかな距離感がどうしても乗り越えられない。
息を止める。胸が焦れて、苦しくなった。恥ずかしいことをしている。こんな気持ちは、おくびにも出してはいけない。気付かれてはいけない。完全な女になりきることもできないくせに女みたいな感情にさいなまれ、男には決して戻れないと分かっているくせに、未だ最大の武器であるはずの肉体を謀略の道具に使う覚悟ができていない。
何もかもが中途半端で、何もかもが余計で、何もかもが足りない。
もし、今、キスをしたら、ロゼルはどういう反応をするだろうか。目を覚ますだろうか。笑って許してくれるだろうか。それとも、男のくせに、そんなはしたない真似をするなと怒鳴られるだろうか。
自分から距離を縮めるのが怖い。やはり、起こさずに、そのままにしておいたほうがいい……
ふと、目の前に影が差した。
「あの、もし」
遠慮がちな声が差し挟まれる。
「お困りでしょうかしら?」
リヒトはぎくりとして顔を上げた。
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