クロイツェル2 石造りの奇蹟と薔薇のソロール

2 告白コンフェッシオ

 深紅の絹に白毛皮のクロークをまとった女性が会釈をする。甘い薔薇水の香りがただよった。リヒトは即座にロゼルの頬をぴしゃんと叩いた。
「レディだ。起きろ、ロゼル」
「いいえ、そのままで。お疲れでしょうから」
 ぴったりと身体に寄り添うドレスには、腰辺りまで深くスリットが入っている。イヤリングが揺れた。月下に微笑む夜の蝶。きらめきが眼を射る。
 ロゼルが、寝ぼけ眼で目をこすり起きあがる。
「レディ? 誰だ? 母上か?」
 言いかけて、ぎょっと目を剥く。
「立ち聞くつもりではありませんでしたが、先ほどのお話が耳に入りましたもので。失礼とは思いましたが、お声を掛けさせて頂きましたの」
 女性はゆらゆらと胸の谷間を揺らして微笑んだ。黒っぽいほくろのようなものが覗き見える。
「な、な、何の……?」
 ロゼルは吸い付くような眼で女の胸に見入っている。揺れるものを追いかけたい本能は分かるが、目の前であからさまにそれをやられると腹が立つ。リヒトはロゼルの尻をぎゅっと思いっ切りつねり上げた。
「いっ……!」
 ロゼルは飛び上がった。
「目が覚めたか、ロゼル?」
 にっこりと笑いかける。ロゼルはぎくりと青い顔で目をそらした。言うに言い返せず、涙目で尻をさする。
「あ、ああ……すっかり覚めたよ……」
 女性はリヒトの怒りに気付いたのか、蠱惑的に片眼をつぶった。
「もしあてがないようでしたら、わたくしのお店においでくださりませ。貞淑とも清貧とも縁遠い罪深い店ではございますが、お部屋でしたらいくらでもご用意できますわ」
「頼みもしない酒や過剰な給仕を提供する店ならばお断りだ」
 ロゼルは、ありったけの威厳らしきものをかき集めて女性の申し出を固辞した。そう言いつつ、まだ眼の隅で揺れる胸元を追いかけている。
 リヒトはぷっと笑い出しそうになるのをこらえた。まったく、この男と来たらとんでもないくわせ者だ。どこまで本気でどこからが演技なのかまったく分からない。
「せっかくのご厚意にそれはないだろう」
 役割分担に従ってリヒトが口添えすると、女性はさも分かっている、というふうに口に手を添えて笑った。
「愛なき夜に生きる娼妓の身で、お二人の愛を汚すような差し出がましい真似はいたしませんわ」
「どうする」
 ロゼルが振り返った。答えは分かっていると言いたげだ。
 リヒトは純粋に興味を持って女性を観察した。視線の意味に気付いたのか、女性は婉然と微笑み返す。
 男の視線を熟知した姿態だ。一挙手一投足に隙がない。女として値踏みされ慣れた者の余裕が見て取れた。こんなとき、自分はどっちの眼をしているのだろう、とふと思った。
「またとないお申し出だ」
「そうだな、有り難くお受けしよう」
 ロゼルは娼館の女主人に向き直った。
「お言葉に甘え、世話になろう。よしなに頼む。我が名は」
 そこまで言って、咳払いする。ロゼルは姿勢を正し、丁寧な口調に変えた。
「フラター・ロゼルと申します。エルフェヴァインの聴罪師です。連れの者とは……その……人目をはばかる旅をしております。見ての通り男に身をやつしておりますため、宿坊を使えずに困っておりました」
「クロイツェルと申します」
 リヒトは女の声でしとやかに頭を下げた。
「わたくしはレスタリスと申します。セラヴィルの女が行きずりの方に冷たいと思われては遺憾でございますから。どうぞ我が館へお越しくださいませ」
 娼婦館の女主人ミストレスは、陽が落ちるにつれ淡い金色を放ち始めたリヒトの瞳を見やって微笑んだ。

 夜なお明るい不夜城の一角。煌々とたかれ続ける白い炎。まばゆく反射する光を百倍にも明るくし、シャンデリアのごとくきらめかせる切り子の鏡。
 そこは光はぜる鏡の館だった。
 陽気な娼婦たちの笑い声が響く。
 でれでれと顔をたるませた男たちが次々に吸い込まれてゆく。
 光という光で作られた建物は、心に秘め隠した罪の意識すら平然と白日の下に照らし出し、正当化し、跡形もなく消し去ってしまうかのように見えた。
「お帰りなさいませ、ミストレス」
「特別なお客人よ。ご案内して」
 レスタリスは人目につかない裏通りを選んで進んだ。迎えに出てきた使用人に目配せの合図をする。使用人は心得た様子で頭を下げた。光のわずかに漏れる勝手口へ招き入れる。
「お二方、どうぞこちらへ。お見苦しいものをお見せしまして申し訳ございませんが」
「滅相もない。気を遣って頂いて申し訳ない」
 先を行くロゼルの後ろをリヒトは遠慮がちに忍び歩いた。娼館を裏側から見たのは初めてだ。そこかしこに女物の下着が干してある。一夜の夢をひさぐ娼館でありながら、生活感にあふれたすれっからしの雰囲気はどこかちぐはぐで、奇妙におかしい。
「お兄さんかっこいい~! 遊んでいかない~?」
「えへへへ、お姉ちゃん、そんなに俺っていけちゃってるぅ~?」
 リヒトは店の表をちらりと見やった。やけに聞き覚えのある声だ。
「きゅうううんすてき~! お兄さんお名前は~? ローロ? いやあん外国人みた~~い!」
「ハイラム人だよぅ~~?」
「ええっガイジンさんなのぉ~~? ロロっちって呼んでい~? ああん、腹筋すごぉい~! 細マッチョじゃあん~? ね、ね、触ってい~?」
「おいおいどこ触ってんだよぉ~えっへへへぇ~~!?」
「ねえねえ、ハイラムってどのあたり~? エルフェヴァインの近所~~?」
「何言ってんだよう! 全然違ぁう! 俺っちはなあ、エルフェヴァインのそのまた南、嵐の海をはるばる越えて帝国まで来ちゃってんだぜぇ~?」
「ええ~ロロっち、すっご~~い天才~~!」
「それもこれもセラヴィルのすげぇお宝ってやつをこの眼でしっかり拝まんとしてのことさ! あわよくば、かわいこちゃんのお宝も一緒に拝んじゃったりしてさ~~?」
「いやぁあんロロっちったら超野心家~! マリたん、ロロっちのお船に乗せられちゃったら、揺れすぎて酔っちゃってずぶ濡れになっちゃうかも~~!」
「そうかぁ~~? そうまで言われちゃあしょうがねえなあ~~? ご乗船しちゃおうっかなぁぁぁ~~?」
「はぁい、お一人様ご案内!」
 半裸の若い娼婦とほっぺたをこすり合わせたローロが、鼻の下をうんと伸ばしたでれでれの顔で引きずり込まれてくるのが見えた。飛んで火に入る夏の虫、あっさりと誘蛾灯にひっかかったらしい。連れの大男の姿はまだ見えない。
「どうぞ、こちらの部屋をお使いくださいませ」
 レスタリスが慇懃に背中を押しやった。
「お気遣いなく。納屋の隅にでも寝床をお借りできれば十分です」
「ご遠慮なさらず。部屋などいくらでも開いておりますわ。女にいろいろがございますように、部屋にもいろいろないわくがございます」
 レスタリスは指を一本立て、あざやかな紅を塗った唇におしつけた。
 暗に、誰にも口外せぬ、と約束する仕草だ。
「どうぞ、お心おきなくお休みになってくださいませ」
 きい、と音をさせて、部屋の扉を開ける。
 使用人が明かりを持って先に入った。鏡の前に取り付けられた燭台に火をともす。部屋全体に淡い光が広がった。
 豪奢な部屋だった。足元は真紅のカーペット。部屋の中央にはテーブルとソファがこぢんまりと置かれている。
 あまったるい香りのする果物が皿に盛られていた。砂糖菓子の入った銀のポットと、銀の杯、冷やされた水割りワインが用意されている。部屋の端にはタイル敷きになったバスルームがあり、さらにその奥は、光沢のあるシーツのかかった天蓋付きベッドに占領されていた。部屋にうっすらとたなびく麝香ムスクの香り。
 完全に戦闘態勢だ。
 リヒトはレスタリスに気付かれないよう、ひそかに舌を巻いた。
「こ、これは」
 ロゼルは表情を引きつらせた。さすがに気を呑まれたのか、その場で立ち止まる。
「ミストレス、申し訳ないが、これほど良い部屋をお借りするわけには……」
「今すぐメイドに熱い湯を運ばせますわ。よろしければお召し物の洗濯もお申し付けを。換えのシャツは棚に入れてございます。火を焚いて乾かしますので、明日の朝までにはお届けできますわ」
 油断した隙に、谷間の強調された胸元をぎゅっとロゼルの腕に押しつける。豪奢なイヤリングがきらめく。ロゼルは絶句し、揺れる谷間に眼を落とした。黒いアザミの刺青が見える。
 刺青に気付かれたと知ってか知らずか、レスタリスは気を引く仕草で胸元を隠し、妖艶に身をくねらせた。
「ご用がありましたらいつでもお申し付けくださいませね。では、ごゆっくり」
 甘い花の香りを残し、レスタリスは去った。
 取り残される。
「ごゆっくりって……一体、何を、どうしろと?」
 ロゼルが絶句して棒立ちになった。リヒトはその背中をとん、と押し、何食わぬ顔で中へと押しやった。
「喜んでご好意に甘えるんじゃなかったのか?」
「い、いや、しかし」
「何困った顔をしてる。寝るだけだろ?」
「いいや、いくらなんでも少しは用心すべきだろ? 俺たちみたいな、見るからに怪しい二人連れに事情も聞かずいきなり部屋を貸してくれたんだぞ? 油断してたら何されるか分かったものじゃない」
 ロゼルは焦った表情でひそひそと耳打ちした。リヒトは小首をかしげる。
「何されるかって、たとえば?」
「そりゃあ、寝込みを襲われたり、寝首を掻かれたり……」
 ロゼルはおたおたと口ごもった。見る影もなく狼狽えている。リヒトはロゼルの前に回って法衣のボタンをはずし、脱がせた。
「売春宿に入るのは初めてか? そんなに緊張するなよ。大丈夫だ、いきなり裸の女が大挙して寝込みを襲って来るようなことはない」
 やたら緊張して顔色まで悪くしている。普段は傍若無人なロゼルが、今はまるで初心な少年のように思えて、おかしかった。
「そういう意味じゃない! というか……何で貴様に脱がされてるんだ? 違う意味で寝込みを襲われるのか?」
「勘違いするな。洗濯してもらうんだよ。ずっと着たきりだったからな」
「そうか、ならいいが……」
 ロゼルはしぶしぶ肯く。
 隣の部屋から人の気配がした。耳を澄ます。桶から熱湯を移す、ざあっという音が聞こえた。数人がかりでバスタブに熱湯を張っているらしい。やわらかな石けんの香りが立ちこめる。
 メイドたちは風呂を立て終えると、慇懃にお辞儀をして去って行った。リヒトはタオルを手に、風呂に入る準備を始めた。
「ということだから、細かいことは忘れて、とっとと湯を使え。今夜は私が寝ずの番をしてやる。交代はいらない。たまにはゆっくり寝るといいさ。疲れてるんだろ。背中ぐらいは流してやる。ほら、行って」
 微笑んでロゼルを風呂へと押しやる。
「珍しく優しいな。そんな気を遣われるほどへこたれて見えるのか俺? ……ああ、これはひどい。まるでゾンビだ」
 ロゼルは鏡の前へ行き、眠さのあまりやつれた顔をこすった。あくびしながら、くしゃくしゃと髪をかき回す。
「仕方ない、ひとっ風呂浴びてくるか」
 湯気の立つバスルームをちらりと見て取る。
 視線の意味は即座に理解できた。二人分の余裕があるかどうかだ。リヒトはロゼルの脱いだ服を集め、そそくさとランドリーのかごへ放り込んだ。両手で持ち上げる。
「これの洗濯を頼んで来る。戻ってきたら背中を流してやるから、先に入っていろ」
「すぐ戻ってこいよ、リヒト。せっかくの湯が冷える」
 ロゼルが後ろから声を掛けた。リヒトは肩越しに振り返った。小さくうなずき返す。
「ああ、分かってる」
 ロゼルの口元がふっとほころんだ。いつまでも見つめていたくなる表情だった。時を忘れるぐらいに。
 どれぐらい長い間、夢中になってロゼルの青い瞳を見つめていたのだろう。
 リヒトは、はっとして眼を瞬かせた。自分でも頬に朱が差しているのが分かった。見つめすぎて、時間が過ぎているのに気付かないなんて。あわてて目をそらす。
「じゃ、ちょっと、その、行ってくる。すぐに戻ってくるから」
「ああ、そうしてくれ。すぐだぞ、すぐ」
「分かってる。そんなに何度も言わなくて良い。行くに行けないだけだ。早く行こうとしてるのにお前がそうやって声を掛けるから」
「それは悪いことをした。じゃあ、もう少し意地悪してみるかな」
「もういい。行くからな、私は。お前の戯れ言に付き合っていたら、時間がいくらあっても足りない」
「おいおい、ということは、洗濯に出したら逆に乾くまでの時間がたっぷりある、ってことだぞ? ついでに貴様の軍服も洗ってもらえばどうだ?」
「もう、早くしてくれ。洗濯に持って行かせたいのか、行かせたくないのか、いったいどっちなんだ?」
 リヒトは焦れて足踏みした。ロゼルはずる賢い笑みを浮かべ、手を伸ばした。
「行かせると思ってるのか?」
 結局、洗濯を頼みに行くことはできなかった。

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