クロイツェル2 石造りの奇蹟と薔薇のソロール

2 告白コンフェッシオ

「返事は? 俺の言うことを聞いてくれるんだろ?」
 リヒトは羞恥に潤んだ眼をうすく開けた。おずおずとロゼルを探す。眼が合った。微笑みに見下ろされている。
 思わず声を上げ、身をよじる。身体が熱くなる。
「したいんだろ?」
 からかうようにロゼルは笑う。熱を帯びた視線がまとわりつくようだった。
「……ひどいぞロゼル……」
 身体が恥ずかしさにじりじりと震える。
「分かってるくせに……!」
「いいや、分からないね。はっきり言ってくれない限り分からない。いくら俺が良いって言っても、そうやってぬらりくらり逃げ回って、ひねくれた返事ばっかりして。ちょっと気を緩めたらもう、身体だけの関係だけでいいんだとか何だとか、かたつむりみたいに頭引っ込めてうじうじと卑屈なことを抜かしやがる。俺が本当に他の女のところへ行ってもいいのか? 貴様がやらせてくれないからってホイホイと他の女を抱きに行くような男になってもいいのか?」
「……それは……いやだ……」
「だったら、素直に言えよ」
 耳をくすぐるようにささやかれる。
「身体だけの関係じゃない、って」
 リヒトはたまらなくなって、ロゼルに腕をからめた。肌が触れた。吐息が乱れる。
「ロゼル」
 からからに乾いた唇を舐めた。声を飲み込む。息が苦しい。
「本当に……言ってもいいのか……?」
 ちぐはぐな身体に、ちぐはぐな心。あふれ出しそうな思いの波が、うずたかく盛り上がって、つんのめって、心の防波堤にぶつかっては力なく砕ける。
「いいぞ、言え」
 ロゼルが笑った。目を片方瞑って、あごをしゃくって、全身でうながす。
「貴様が言ってくれるのをうずうずしながら待ってる。お預けされた犬みたいにな」
「笑わないか……?」
「なぜそこで笑う」
「中身は……男のままなんだぞ……」
「どこがだおいリヒト、貴様、乙女ぶるのもいい加減にしろ」
 ロゼルはついに噴き出した。
「ここまで俺を焦らして、悶えさせて、口説かせておいて、何が男だ。男なら男らしくすぱっと言え」
「で、でも、私は……!」
「ええい、くそ、良いからさっさと言え。どっちなんだ。俺はいやがる貴様を無理矢理組み敷いてる強姦魔なのか、それとも無我夢中で抱きしめながら、頭の向こうの方で、次はどうやったらもっと喜ばせられるんだ、ってひそかにあたふたおろおろしてるへたれ野郎なのか、どっちなんだ?」
 リヒトは真っ赤な顔で眼を閉じた。包まれるようなぬくもりを感じた。息が詰まりそうになる。口を開いては、声にならない喘ぎをあげ、また唇を舐めた。喉がからからだ。
 こんな状態になっても私はまだ、自分を偽ることができるのだろうか。リヒトはかすれた頭の中で思った。笑いがもれる。
 無理だ。
 もう、自分の心を偽ることはできない。
「ロゼル、私は」
 思いがこみ上げた。ずっと言いたかった一言が、喉の奥を詰まらせる。
「私は……」
 熱い思いの丈が膨れあがる。
 今なら言える。
 ロゼルならきっとすべてを受け入れてくれる。心の裡をさらけ出せる。
 男の心を持ち、男の生殖能力を持つ女。かつて男であったにもかかわらず、女の欲望に苛まれる異形。そんな罪深い身体を持つ身でありながら、十年来の友であった男に女として愛されたいと願っている。
 心の中のさけびが聞こえた。
 ロゼルに愛されたい。
 抱きしめられて、くすくすと耳元にささやかれたい。与えられる喜びに、眼で、唇で、肌で、熱い吐息で答えたい。はなやかな宮廷にあがり、あわよくば恋をし野心をかなえ、男を手玉に取る危険な女のようになりたい。自分に正直になりたい。ロゼルのすべてを受け入れたい。受け入れられたい。思うがままに生きたい。言葉にしたい。態度にあらわしたい。今ならできる。今なら言える──そう思って、口を開こうとしたとき。
 リドウェルの声が聞こえた。
 息を呑む。

 わたしのことは忘れろ。
 もう、二度と、この地へ戻ろうと思ってはならない。 

 冷たい水を頭から浴びせかけられたような心地がした。
 膨れあがった甘い期待が、一瞬で破れ紙のようにちぎれてすぼまり、消え去る。
 リヒトは眼を閉じた。
 決して存在してはならないものが、自分の身体にあることを、今の今まで忘れていた。
 ──身体の奥底には、もう一人の自分である兄の遺志が眠っている。
 身体が氷のように冷たく、頑なになってゆく。枯れた笑いがこみ上げた。残されたのは薄ら寒い隙間風だけだ。
 この背中に残された現実から、目を背けることはできない。
 背中の紋章は、ロレイアの禁忌だ。購いきれぬ罪を、拭いきれぬ血の臭いを、リドウェルと二人で分け合い、背負った。邪悪の蔓延する闇を生き延びる代わりに、罪を、刻みつけた。罪を、口にした──
 リヒトは目を上げた。
 そこには期待に満ちた表情のロゼルがいた。満面に輝く微笑をうかべ、リヒトをのぞき込んでいる。変わらぬ笑み。変わらぬ友情。心の奥底まで照らし出して光に染めてゆくかのようだった。
 すべてがいたたまれないほど恋しく、残酷にまぶしい。
 愛おしさに、身体が震えだしそうになる。
 この背中の闇を捨てられたら、どんなに心が軽くなるだろう。
 リドウェルと二人、ふるえながら血みどろの幼い手を繋ぎあった過去を、消すことができたら。
「私はロレイア人だ」
 黒いガラス玉のようになった眼で、リヒトはロゼルを見上げた。
「国に捨てられた王子。亡国の流浪民だ」
 心が冷たくなった。冷気に青白く変色したような声でつぶやく。
「私は、誰のものにもならない。私の身体に流れる異形の血は、ロレイアの王族である証だ。征服者のお前と心を通わせるわけにはゆかない。私がお前と行動を共にしたのは、お前が帝国貴族だったからだ。お前と寝たのは、お前に利用価値があったからだ。たとえ奴隷に身を落とそうが、帝国の犬となろうが、私は必ず生きてロレイアへ帰る。失ったすべてを取り戻す。お前たちに滅ぼされた私の国を、かならず、我が手に……!」
 最愛の兄を、歴史の闇に葬り去られたままにしておくことはできない。
 ロレイアの地の底に閉じこめられたままにしておくことはできない。
「リヒト」
 ロゼルの表情から笑みが消えた。太陽がかげるように、導きの光を取り落としたかのように、薄暗くなる。
「だから、いくら、お前が私を受け入れてくれたとしても」
 唐突に涙がこぼれ落ちそうになった。声が無様に震える。だが、声などいくら震えてもかまわない。ロゼルに怯えきった心の裡を見抜かれない限り。
「私はお前を受け入れることはできない」
 突き放すように言い切った。
「なるほど。それが、貴様に科せられた”禁忌”──というわけだな」
 ロゼルは構わず、強引にリヒトを抱き寄せた。身体を裏返らせる。
「遠いな、ロレイアは」
 背中が月明かりに照らされる。ベッドに影が落ちた。
 ほっそりとくびれた腰、挑発的に張り出した尻の線、揺れ動く乳房、銀と漆黒の魔印。
 ロゼルはリヒトの背に手を当てた。悪魔の紋章をたどる。
「この紋様、やはり、あの黒衣の修道士が額につけていた模様と同じだな」
「……!」
「”奇蹟よ、汝の翼の蔭の下で《スブ・ウムブラ・アラールム・トゥアールム・マグノリア》”」
 リヒトはたじろいだ。恐怖に全身が汗ばむ。
「口にするな。お前まで穢れる!」
 身体をよじり、喘いで、ロゼルの手から逃れようとする。
「動くな」
 ロゼルは紋章の毒を手に写し取ろうとするかのように、じっとりと湿った手を紋章の上に滑らせた。リヒトは身体を反らした。
「頼む、ロゼル……やめてくれ……!」

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