クロイツェル2 石造りの奇蹟と薔薇のソロール

3 ソロール・アンジェリカ

 アンジェリカはロゼルの胸ぐらを掴んだ状態で、ぴたりと口をつぐんだ。目を丸くしてリヒトを見下ろす。
「私がそのヴェルファーです」
 リヒトはそつのない仕草でアンジェリカの手を取った。華奢な指先に、うやうやしいキスを落とす。
「リヒト君本人? 妹さんじゃなくて?」
「はい。再びお目にかかれて光栄です、ソロール」
 アンジェリカはぱちぱちとまつげの長い眼をまたたかせた。きょとんとしてリヒトを見つめる。
「えっと、でも、貴女……女の子よね?」
「いえ、それは、その、実はそうではなくて」
「実は……って何? 貴女、本当にリヒト君なの?」
「も、もちろん……」
「ロゼルと口裏を合わせてるんじゃないの?」
「滅相もありません」
 アンジェリカは腰に拳の背を当てた。じろじろと無遠慮に四方八方からリヒトの顔をのぞき込む。
「……いくらなんでもあやしすぎる。ちょっと、ロゼル。こっち来なさい」
 指をくいと曲げ、高飛車に弟を呼びつける。ロゼルはぎくりと肩をすくめた。慌ただしく参上する。
「は、はい、何でしょうか……?」
「お前、もしかして、わたくしのこと馬鹿にしてない? わたくしがこんなことで騙されると思ってる?」
「ですからそれには理由が……」
「だからちゃんと説明してって言ってるじゃない」
「それにつきましては話せば長くなるというか、えっと、つまり……」
「何ですって? はっきり言ってくれないと分からないんだけど。それともまさか……お前……リヒト君を女装させて……露骨にいやらしいことをしよう、って考えてたんじゃないでしょうね?」
「うっ」
 当たらずといえども遠からず。ロゼルは青くなって口ごもった。思わずたじたじとなる。
 リヒトは口を挟むに挟めず、声を飲み込んだ。手に冷や汗を握り込む。非常にまずい。このままでは良心の呵責に耐えかね、すべてを白状してしまいかねない。
「まさか、とんでもな……」
 ロゼルはしどろもどろにうめいた。おろおろと宙に眼を泳がせている。
「あやしい。ロゼル、どこ見てるの。ちゃんとわたくしの目を見て答えなさい。まさか、お前、もしや……!?」
 問いつめる眼がますます鋭くなった。
「口にできないような背徳の罪を!」
「いや、その、とんでもな……そういう意味じゃなくてですね……」
「白状なさい!」
 強烈な追求が飛んでくる。否定も肯定もできず、きりきり舞いしているロゼルの姿を見て、リヒトは思わず胃が痛くなった。もし現実から目をそらせるものなら、喜んで悪魔に魂を売ったことだろう。矢も楯もたまらず、弁解に走る。
「ソロール、ロゼルのせいではありません。私が言い出したことです」
 気が付いたら、いつの間にか口が勝手に動いていた。頭の中が真っ白になる。
「我々二人が同行していると思われると何かと不都合かと思いましたので、素性がばれないように、その、女装しているだけで」
 ぺらぺらと嘘を連ねる。
 ロゼルが眼をひん剥いた。リヒトははっとした。よりにもよってソロールに堂々と嘘をついてしまった……が、一度口から出た言葉は取り消せない。
 しかしアンジェリカは、その一言で安堵した様子だった。
「ああ、何だ、そういうことなの。良かった。おほほほほごめんなさいね疑っちゃったりして。あーもー、いやだわ。びっくりしちゃった。変なこと聞いてごめんなさいね、リヒト君」
 ほうっと吐息をつき、胸をなで下ろしている。
「……」
「そうよねえ、まさか、そんな、いくら身の危険から逃れるためとはいえ、もし、ホントにリヒト君が女の子で、こんなに可愛かったら、自制心のないロゼルのことですもの、つい、ふらふらーってなっちゃうこともあったりするかもしれないものね?」
「えっ」
「えっ」
「何が”えっ”なの?」
 ロゼルはぎくりと顔色をかえた。
「いいえ滅相もございません!」
 ロゼルはうなだれた。気まずく目配せを交わし合う。まったく手も足も出ない。
 ロゼルはかすかに咎める視線をリヒトへと向けた。
「何で、あんなわけのわからないことを言ったんだ、馬鹿。その、見れば……ばれるような嘘を!」
「仕方ないだろ、成り行きだ!」
 アンジェリカに聞こえないよう、ひそひそと互いに肘で小競り合う。
「人には素行がどうのこうのと言っておいて、自分だってまったく頭が上がってないじゃないか」
 リヒトは鼻に剣呑なしわを寄せた。
「じゃあ、あの状況でどうやって言い抜けられるっていうんだ。やれるものならやってみろ」
「できるわけないから言ってるんだろうが!」
「できないことを私のせいにするな!」
「ああ、まったく、どうしてくれるんだ、姉上は身持ちも頭もガチガチに固いんだぞ。も、もし、貞節の誓いを破って貴様と付き合ってることがバレたら……!」
 ロゼルは蒼白の顔を引きつらせた。脂汗をにじませ、うめく。
「半殺しの刑どころじゃ済まない……うあああ!」
 一方のアンジェリカは、疑問を解消し、すっきりしたらしい。にこにこと口元をほころばせて、振り返る。
「ん? 何? どうかしたの?」
 リヒトとロゼルは、とりつくろった笑顔を瞬時に貼り付けた。
「いえっ、何でもありません」
「問題ありません」
 喧嘩も即刻中止。二人同時に、ぎごちない作り笑顔をひきつらせる。
 そんな緊張感など露知らず、アンジェリカは満面の笑みを浮かべた。
「だったらいいわ。んもう、二人とも、まぎらわしいんだから」
「は、はあ……」
 言うに言えない、宙ぶらりん状態である。何とも言えないもどかしさに、あちこちがむずがゆくなった。
「なあに? そのしょぼくれた顔。しゃんとなさいな、ロゼル」
「うう……ぐぬぬ……」
 げっそりと憔悴したロゼルとは対照的に、アンジェリカはこの上もなくご機嫌に微笑んだ。
「では、改めて再会を祝しましょ。お久しぶりね、リヒト君。元気だった?」

「とにかくお母様は無事よ。それだけは安心して」
 結局、来た道を引き返すことになった。水車小屋の前を通らないよう森を迂回する。
 セラヴィルの女子修道院は、十年前、アルトーニ家が廃墟と化していたフォルム・リピトゥルの古礼拝堂を修繕し、寄贈することによって新設されたものである。所属する修道女はソロール・アンジェリカとマテル・レイアの二人。つまりロゼルの姉と母二人だけのための修道院、ということであるらしかった。
「そもそもね、お前は昔っから”おバカ”なのよ」
「すみません……」
 ロゼルは勇ましく先頭を歩くアンジェリカに付き従っていた。返す言葉もなくうなだれる。
「……アルトーニ家の嫡子ともあろうものが、避暑にセラヴィルを訪れるたび飼ってたニワトリを追いかけ回し、太陽の高さを測り、星を読み、穴を掘り、川に溺れ、星座をしるし、月を数え、ウサギを飼い、小鳥を飼い、鳩を飼い、犬を飼い、豚を飼い、馬に蹴られ……」
「そんなことはしていません」
「おだまり」
 アンジェリカはますます調子づいた。嬉しそうに言いつのる。
「……飼ってた子ウサギのピピンが狐に盗まれたときも、お前ったら泣きながら棒を持って狐を追いかけていったでしょう。追いつくわけがないのに、狐の巣穴に頭から突っ込んで、引っかかって出られなくなって足だけバタバタさせてるところを、召使いが何十人がかりで探し回ってやっと見つけたと思ったら、今度はかわいそうなピピンを取り戻すまでは絶対に巣穴から出ないだの何だのと訳の分からないことを言い出して、何かと思ったら、実はぱんつにおもらししていて、恥ずかしくて出るに出られない状態だったのよね?」
「ちょっ……」
 容赦なくずけずけと過去の恥をあげつらわれる。完全にバカ呼ばわりだ。ロゼルは顔を引きつらせた。
「姉上、やめてください。リヒトの前でそんなこと」
「いいじゃない、友達なんでしょ」
「生き恥に事欠かないほのぼの人生で何よりだ」
 リヒトは笑い飛ばしてやった。ロゼルは頬の片方をひきつらせる。
「言うな。それは俺じゃない。ガキのころの俺だ!」
「……今の憎たらしいお前とは別人だったんだな。可愛いじゃないか」
「くそっ」
 ロゼルは声を殺し、口汚く毒づいた。
「だから姉上とは会わせたくなかったんだ。何言い出すか分からないから」
「そんなことはないぞ」
 リヒトは口元をほころばせた。周囲の景色を見渡す。
 青い草原を風のように駆け抜けていく姉弟のまぼろしが目に浮かぶようだった。華やかとはいえ息の詰まる宮廷暮らしから離れ、自由奔放な夏の日々を送るのは、闊達な少年少女たちにとってまさに夢のような体験だったに違いない。
 やわらかな金と銀の髪に草の実をいっぱいくっつけ、あちこちすりむいて、笑い合って、ポケットにたくさんの宝物を──小石や、ミミズやトカゲ、ダンゴムシ、それに真っ赤に色づいた木の実や枯れ葉を──いっぱいにつめこんで。
「……」
 羨望を込めて、心から、ぽつりとつぶやく。
「何だって?」
「……何でもない」
 そっけなく振り払う。
 自分には、幼かった頃の記憶すらない。祖国から遠く離れた図書館の奥深く、異端審問の書類に埋もれていた”凄惨な事件の記録”。それをひもとくまで、妹がいたらしきことさえ完全に失念していた。果たして、そんなことがあるのだろうか。姉弟の記憶までなくす、などということが。
 ロゼルは、黙りこくってうつむくリヒトの傍に寄ってきた。
「リヒト?」
「何だ」
 ロゼルは前方の様子をすばやくうかがった。アンジェリカは嬉しそうに鼻歌まで口ずさみながら、先を歩いている。ふわふわと弾むような足取りだった。
「姉上にはナイショだぞ」
「だから何を」
 ロゼルはかすかに笑ってリヒトの手を掴んだ。思いの在処を探すように指を絡め、それからぎゅっと力を入れて、手を繋ぐ。
「馬鹿、こっち見るな。見つかるとヤバい」
 リヒトは息を詰めた。心を全部持って行かれそうになって、あわててうつむく。だが、そのおかげで、さっと差した頬の赤みは見られずに済んだ。
「……どういうつもりだ……?」
「別に。大した意味はない。強いて言うなら、下向いてないでさっさと歩けってことさ」
 胸がさざ波のようにざわめく。ロゼルが握っているところから、じわりとぬくもりが伝わった。心臓がとくとくと音を立てて跳ねる。
 声も出なくなって、思わず顔を上げる。
「邪魔が入れば入るほど、燃えてこないか?」
 ロゼルはにやりとして、小声でささやく。いつもの笑顔に、こわばった心をくすぐられたような心地がした。その優しさが心地いい。気持ちがふっとほぐれる。
「……そんなのはお前だけだ、ばか」
「んん~? ほっぺた赤いぞ? 恥ずかしがってんのか、ああん?」
 にやにやとからかうように笑いかけられる。
「うるさい、いっぺん死んでこい!」
 だが、照れ隠しでいくら怒ってみせても結局はあっさりと見透かされるだけだ、と気付くのにそう時間はかからなかった。
 鈍いにもほどがある。リヒトはきまり悪く笑った。口では喧嘩しながら、臆さずに手を握りしめてくれる。友情とも恋愛ともつかぬ信頼の絆を、しっかりとつないでくれる。
 まったく、ロゼルには翻弄されっぱなしだ。ますます──
 無性に顔が赤くなる。
 また本心が表にまで洩れ出てしまうところだった。リヒトは首をすくめた。もし、好きだ、などと一言でも認めてしまえば身も心も完全にロゼルの言いなりになってしまう。それだけは、男としてのプライドが頑として許さない。たとえ、ベッドでは──なすがままにされるのを心待ちにしているとしても、だ。
「あ、そうそう。言わなくちゃいけないことがあったんだった」
 アンジェリカが、ぽんと手を鳴らして振り向く。
「はっ、はい?」
 今にも唇を寄せようとしていたロゼルは、あわてふためいて身を離す。
「ん? 何?」
「いえ別に!」
「ふうん……まあいいわ。一昨日ね、父上がお手紙をくださったの」
 アンジェリカは腰に下げた帯袋から何かを取り出す。
「十年ぶりの自筆。これだけでもびっくりよね。いつもは事務官に代筆させたそっけない事務連絡だけだっていうのに。誰だって余程のことが書かれてあるに違いない! って思うでしょ、普通は」
 うんざりした表情で、ひょいとそれを投げやってくる。
 ロゼルは飛んできたものを受け取った。ロザリンドの香り袋だった。
「その手紙、いったい、何て書いてあったと思う?」

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