クロイツェル2 石造りの奇蹟と薔薇のソロール

3 ソロール・アンジェリカ

 謎めいた甘い香りが漂う。香り袋自体は新品に取り替えられているが、吊り下げられるよう結んだ飾りのリボンは、ロゼルが使っていた紋章入りのものだ。間違いない。それは、図書館から脱出したときに出会った時計塔の少年ラルフに託した香り袋だった。
「どうやら、ラルフがうまくやってくれたらしいな。計画通りだ」
 ロゼルはわざとアンジェリカに聞こえるような大声でリヒトにささやいた。
 リヒトは用心深く眼をほそめた。
「そうらしいな」
 とりあえず言葉尻だけは合わせたものの、余計なことは何も言わないようにして、アンジェリカの反応を待つ。
「ということは、これ、やっぱりお前の香り袋なのね? 父上にお渡ししたのね? ご親切にもわざわざ何のひねりもない伝言ゲームのおまけまでくっつけて?」
「はい」
「嫌になるほどぷんぷん臭う。こんな悪臭爆弾を炸裂させて、大量のカメムシをうじゃうじゃと引き連れて歩いて、いったい何が楽しいの? いいえ、カメムシっていうより死出虫だわ」
「良い匂いだと思うんですが」
死乙女ロザリンドの臭いなんて大嫌い。オエッてなるわ」
 アンジェリカは鼻をつまんで舌を出した。嫌悪感に顔をゆがめる。
「……何でそんな軽はずみな真似をしたの? お手紙を頂いたとき、母上がどれほどお喜びだったか。なのに中身はお前が人殺しの疑いを掛けられて逃亡中だとか何とか。お前、馬鹿なの?」
「犯人は俺じゃありません」
「お黙り。しまいまで聞きなさい馬鹿。だからお前は馬鹿なの。明日かあさってには参事官のネロが──あのグズ助が、トルツィオーネ大主教様の使いでなければ尻を蹴り上げてるところだわ──やっとアルフレッドがセラヴィルの領主になることを許す書状を届けに来る手はずになっているというのに、”殺人犯”が町中にうろついてるなんて知れたら、いったいどうなるか」
 嵐のようにまくし立てる。
「やってもいない罪をかぶせられて、言い逃れも出来ずに逃亡中の身だっていうのに、わざわざ行き先を”教える”だなんて。まったく、お前の頭はカラッポのバケツなの? 人並みはずれたお人好しっぷりにはあきれ果ててものも言えないわ」
 けちょんけちょんにこき下ろされる。ロゼルはリヒトを目を見交わし、肩をすくめた。
「無実を主張するためです」
「バカを主張するための間違いでしょ」
 盛大なためいきをつかれる。アンジェリカは表情を改めた。
「もちろん、覚悟の上での行動だとは思うけれど。もし本当に分かってないなら、これだけはとりあえず、言っておくわ。”母上には二度と近づかないで”」
 ロゼルはわずかに表情を変えた。
「それはどういう意味ですか」
 アンジェリカをまっすぐに見つめる。
 アンジェリカは口をつぐみ、用心深く周囲を見回した。盗み聞きするものの姿はない。
「まだ分からないの? お人好しね」
 アルトーニ枢機卿ゆずりの鋼色をした瞳を、怜悧に光らせる。
「もし、お前がセラヴィルにいることを知らせでもしたら、母上は泣きながら父上に密告の手紙を書かなくちゃいけなくなる。そんな恐ろしいこと、母上にさせたくないでしょ」
 それは、死刑囚の面前で罪状を読み上げる裁判官の声にも似ていた。
「手紙には、こう書いてあったわ。”もし、お前がセラヴィルに現れたら、報告するように”って。父上だって、お立場上、そう言うほかないでしょう? まさか、お前を匿え、だなんて仰ってくださるとでも思ってたの? そんな馬鹿なことがあるとでも?」
 しんとして、誰も行き交う者のない森の道。ゆらゆらと緑に透けた木漏れ日が揺れている。
 イラクサを踏み分けて、道は続く。
 孤独の道。獣の道。
 親兄弟からも縁を切られ、無法の身、無縁の身、放逐の身となる──
 リヒトは沈痛なアンジェリカの言葉を噛みしめた。
 心へと深く刻みつける。
 ロゼル自身が身の潔白を証明せぬ限り、許されることはない。闇の中へ自ら足を踏み入れてゆくほか、真実を見いだす術はない。 
 人質として帝国へと差し出された自分と、今のロゼルの姿とを、リヒトは心の中で重ね合わせる。
 同じだ、と思った。何もかもなくし、敵に追われ、真実を追うロゼルと、過去をなくした自分。もう、平穏な世界には戻れない。
 リヒトはロゼルの横顔を見やった。ロゼルと目が合う。
 これからは、”教団”だけではなく、異端審問官および帝国聖教会の”狼”が、逃亡犯ロゼル・デ・アルトーニの命を狙ってくることになるだろう。
 暗い顔でうなずき交わす。
「では、母上は、ずっと館にいらっしゃるのですか?」
「一日中祈ってるわ。お前の無事を祈って。父上の手紙が来てから、ずっとお館ホールにこもりきり」
 ロゼルは眼を伏せた。
「本当に、ご心配ばかりおかけして」
「いいのよ、もう、そのことは。母上だって別に困ってはいらっしゃらないわ。余計なことを言ってくる奴らが来たら、アンナが屋根の上からポンプで水をまいてくれることになってるから」
「アンナ?」
「マーサの姪っ子。街でハンナに会ったでしょ。あの子たち双子なの。十四になったから行儀見習いに来てもらってるのよ」
「ああ、あの暴力メイドか……行儀どころか遊撃隊の訓練してるようにしか思えませんでしたけど」
「あの子がいてくれるおかげで、本当に助かってるのよ。母上の良い話し相手になってくれてるし、それに、あんな頼りになるメイドはそうそういなくてよ。その気になったら猟銃ライフルも使えるらしいわ」
「……末恐ろしいです」
「よかったわね、穴だらけにならずに済んで。さて、と。暗い話はこれでおしまい」
 アンジェリカは、ぱんと手を打った。小脇に弓矢を挟み、口に手を当て、あっけらかんと笑う。
「まずは、そのうんざりするカメムシの臭いをどうにかしてもらわなくちゃね」
 いたずらっぽくロゼルの胸を拳で突く。猫の目のように表情が変わった。
「帰ったら、今度はわたくしがポンプでじゃあじゃあと水をぶっかけてあげるわ」

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